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気づけば、“頑張ること”ばかり考えていた。

夜道には、まだ少し昼の熱が残っていた。街灯の光が、アスファルトを細く照らしている。凪と陽菜は、並んで歩いたまま、ゆっくり駅の方へ向かっていた。足音が、静かに重なる。その音を聞きながら、凪は、胸の奥で同じ言葉を繰り返していた。“凪がちゃんと呼吸できる場所”そんなこと、今まで考えたことがなかった。どうしたら嫌われないか。どうしたら安心されるか。どうしたら期待に応えられるか。気づけば、“頑張ること”ばかり考えていた。「……私さ」凪が、小さく口を開く。陽菜が、少しだけ顔を向ける。「頑張ってないと、落ち着かないのかも」夜風が吹く。髪が、少し揺れる。「ちゃんとしてないと」少し間。「ここにいていいって思えない感じ」その言葉は、凪の中にずっとあったのに、今までうまく言葉にならなかったものだった。陽菜は、しばらく黙って聞いていた。急がない。否定もしない。ただ、凪の言葉が出るのを待っている「だから」凪が、少し苦しそうに笑う。「気づくと、ずっと頑張ってる」街灯の下を通り過ぎる。光と影が、二人の足元をゆっくり流れていく。陽菜は、少しだけ空を見上げる。それから、静かに言った。「でもさ」やわらかい声。「今日の凪、ちゃんと頑張ってたじゃん」凪が、少しだけ目を開く。「来るの、怖かったでしょ」陽菜が、小さく笑う。「でも来た」凪は、言葉を返せない。胸の奥が、静かに熱くなる。「だから今日は」陽菜が、前を向いたまま言う。「もう十分なんじゃない?」その瞬間、凪の中で、何かが静かに止まる。“もっと頑張らなきゃ”。いつも頭のどこかで鳴っていた声。急かすみたいに。責めるみたいに。止まらなかった声。でも今、陽菜の言葉が、その音
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凪ってさ、ちゃんとしようとしすぎるよね。

公園の空気は、昨日より少しだけやわらかかった。街灯の光が、ブランコの鎖を細く照らしている。凪と陽菜は、近い距離で立ったまま、まだ触れない。でも、昨日みたいな“遠さ”は、もうなかった。「学校、ちゃんといたね」陽菜が、小さく笑う。凪は、少しだけ視線を逸らす。「……いたよ」「でも、なんか違った」その言葉に、凪の心が、静かに揺れる。陽菜は、ブランコに軽く触れる。鎖が、きい、と鳴る。「なんていうか」少し考えるみたいに空を見る。「無理してる感じ、してた」凪の指先が、わずかに動く。その言葉は、思ったより深い場所に落ちた。「別に」反射みたいに返す。でも、その声は少しだけ硬かった。陽菜は、すぐには何も言わない。ただ、静かに凪を見る。逃がさないみたいに。風が吹く。髪が揺れる。凪は、その視線から逃げるみたいに、少しだけ下を向いた。「凪ってさ」陽菜が、やわらかく言う。「ちゃんとしようとしすぎるよね」その瞬間、凪の胸の奥が、小さく痛んだ。“ちゃんと”。その言葉は、ずっと自分を守ってきたものだった。嫌われないように。困らせないように。空気を壊さないように。そうしていれば、安心できると思っていた。でも、陽菜の前にいると、その“ちゃんと”が、少しずつ苦しくなる。「……別に、普通だし」小さく言う。陽菜は、少しだけ笑った。「普通の人は、“普通”って何回も言わない」凪が、顔を上げる。目が合う。逃げられない。でも、不思議と、逃げたくない。陽菜が、一歩だけ近づく。ほんの少し。触れられそうで、触れない距離。「無理して笑ってる時、わかるよ」その声は、やさしかった。責める感じじゃない。見つけてしまった、みたいな声。凪の呼吸が
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もっと、自分のことを知ってほしかったのかな。

雨音が、少しだけ強くなる。傘を叩く音。紫陽花の葉を滑る雫。そして、陽菜の言葉。「まだ悠真のこと好きなの?」凪はすぐに答えられなかった。昔なら、迷わなかったと思う。「うん」たぶん、そう答えていた。でも今は違う。言葉が出てこない。雨の向こうで、信号が青に変わる。二人は歩き続ける。陽菜は急かさない。返事を待っている。その優しさが、今は少し苦しかった。「……わかんない」ようやく出た言葉。自分でも驚く。わかんない。そんな答え方をするなんて。陽菜が少しだけ目を丸くする。「そっか」でも、それ以上は何も聞かなかった。凪はほっとする。同時に、少しだけ寂しくなる。どうしてだろう。もっと聞いてほしかったのかな。もっと、自分のことを知ってほしかったのかな。その考えに、凪はまた戸惑う。雨はまだ降っている。歩道の水たまりが、街灯の光を映していた。「私さ」陽菜がぽつりと言う。「凪って、ずっと頑張ってるイメージあった」凪は顔を上げる。「え?」「なんていうか」陽菜は少し笑う。「人に嫌われないようにしてる感じ」心臓が止まりそうになる。図星だった。誰にも言ったことがない。でも、陽菜は気づいていた。「優しいんだと思う」陽菜は続ける。「でも、ちょっと無理してる時もあるよね」雨音が静かに響く。凪は何も言えない。言い返せない。本当だから。嫌われたくなかった。期待を裏切りたくなかった。誰かが困っていたら、助けなきゃと思っていた。だから、気づけばいつも。自分より、誰かを優先していた。「……かも」小さな声。陽菜は笑わなかった。ただ、静かに頷いた。「今の凪の方が好きだけどね」また。その言葉。"今の方が好き"胸の奥が熱くなる。どうし
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私は陽菜の隣にいたいのかな?

チャイムが鳴る。午後の授業が終わった。教室の空気が、一気にほどける。椅子を引く音。友達を呼ぶ声。部活動の話。いつもの放課後。でも、凪の心だけは少し落ち着かなかった。"安心と恋は何が違うんだろう"授業中から考えていた問いが、まだ胸の中に残っている。帰り支度をしながら、ぼんやり考える。その時だった。前の席で、誰かが陽菜に話しかける。「陽菜、これどう思う?」クラスの女子だった。どうやら悩み相談らしい。陽菜は手を止める。そして少し考えてから言った。「うーん」すぐには答えない。まず相手の話を聞いている。途中で遮らない。否定もしない。ただ聞いている。凪はその様子を見ていた。女子生徒は話し続ける。しばらくして、陽菜が笑う。「それ、私だったらこうするかも」アドバイスというより、自分の考えを伝えている感じだった。押しつけじゃない。答えを決めるのも相手。その空気が自然だった。女子生徒は少し笑う。「そっか」それだけだった。でも、さっきまで曇っていた表情が少し柔らかくなっていた。凪は思う。陽菜は不思議だ。人を変えようとしない。正そうとしない。それなのに、話した人が楽になっている。凪は昔のことを思い出す。誰かが悩んでいると、なんとかしてあげたくなる。励ましたくなる。助けたくなる。でも、うまくいかないこともあった。良かれと思って言った言葉が、相手を苦しめてしまったこともあった。その度に、自分を責めた。"もっと上手く言えたら""私の伝え方が悪かったのかな"そんなことばかり考えていた。でも陽菜は違う。答えを渡すんじゃなくて,相手が自分で見つけるのを、隣で待っているみたいだった。その姿を見て、凪はふと思う。もし
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待ってる。 陽菜からの何かを。

家の前で、足が止まる。夜風が、少しだけ冷たい。さっきまで隣にいた温度が、ゆっくり離れていく。「じゃあね」陽菜が、小さく手を振る。凪は、少し遅れて頷いた。「……うん」そのまま、陽菜が歩いていく。街灯の下。少し揺れる髪。遠ざかっていく背中。凪は、しばらく動けなかった。胸の奥が、静かにざわついている。苦しい。でも、嫌じゃない。むしろ、離れたあとに、急に静けさが戻ってくる。凪は、ゆっくり家のドアを開ける。暗い玄関。誰もいない空気。いつもの夜。なのに、今日は少し違った。部屋に入って、バッグを置く。そのまま、ベッドに座る。スマートフォンが、机の上で小さく光っている。凪は、少しだけ見る。通知はない。なのに、視線が離れない。「……何やってるんだろ」小さくつぶやく。さっき別れたばかりなのに。もう会えないわけじゃないのに。でも、胸の奥が落ち着かない。凪は、スマートフォンを伏せる。深呼吸する。目を閉じる。でも数秒後、また手が伸びる。画面を開く。通知欄を見る。何もない。閉じる。また開く。凪は、そこでようやく気づく。“待ってる”。陽菜からの何かを。言葉を。通知を。繋がる感じを。その瞬間、胸が少し苦しくなる。「……やだ」小さな声。こんなの、知らなかった。誰かを、こんなふうに待ってしまう感じ。頭の中に残り続ける感じ。気づくと、同じ言葉を思い出している感じ。“凪が楽なほうが、見てて安心する”胸の奥が、また静かに熱くなる。凪は、スマートフォンをぎゅっと握る。「ちゃんとしなきゃ」考えすぎないように。気にしすぎないように。変にならないように。でも、その言葉のあとに、別の声が浮かぶ。今日は、これで十分なんじゃない?陽
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孤独がほどけ始める

ブランコは、もうほとんど揺れていなかった。夜風だけが、静かに通り抜ける。街灯の光が、二人の制服をやわらかく照らしている。凪は、鎖を握ったまま、少しだけ空を見上げた。胸の奥が、不思議なくらい静かだった。今までなら、誰かと長くいると疲れていた。ちゃんとしなきゃ。空気を作らなきゃ。変な間を作らないようにしなきゃ。そんなことばかり考えていた。でも、陽菜の隣では、沈黙が苦しくない。それが、まだ少し怖い。でも、嫌じゃなかった。陽菜が、ゆっくり足を止める。ブランコが、小さく揺れて、きい、と鳴る。「……遅くなってきたね」小さな声。凪は、少しだけ頷く。「うん」帰らなきゃ。時計を見れば、ふつうにそう思う。でも、立ち上がったら、この空気が終わってしまう気がした。凪は、少しだけ指に力を入れる。鎖が冷たい。「凪」陽菜が、静かに名前を呼ぶ。凪が顔を向ける。「今日さ」陽菜が少し笑う。「来てくれて、よかった」その言葉に、凪の胸が、また静かに揺れる。“来てよかった”。そんなふうに、自分の存在をそのまま受け取られる感じ。今まで、あまり知らなかった気がする。凪は、少しだけ困ったみたいに笑う。「……私も」声は小さい。ちゃんと本音だった。陽菜が、その言葉を聞いて、少しだけ安心したみたいに目を細める。沈黙。でも、もう怖くない。凪は、ゆっくりブランコから降りる。スカートの裾が、夜風に揺れる。陽菜も、少し遅れて降りた。帰り道。いつもの道。でも、今日だけは、少し違って見える。二人は、公園の出口へ向かって歩き出す。肩が触れるほど近くはない。でも、離れすぎてもいない。歩幅が、自然と合っていた。凪は、歩きながら思う。今まで、ずっと問
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みんなといるのに、どこか遠い場所にいるみたいになる。

夜風が、少しだけ冷たくなっていた。街灯の光が、陽菜の髪をやわらかく照らしている。凪は、その横顔を見たまま、うまく言葉が出せなかった。“無理にちゃんとしなくていいよ”その言葉が、まだ胸の奥に残っている。凪は、ゆっくり息を吐いた。でも、胸の苦しさは消えない。むしろ、少しずつ広がっていく。「……変だよね」小さく、凪が言う。陽菜が視線を向ける。凪は、少し迷ってから続けた。「ちゃんと人いるのに」風が吹く。ブランコが、小さく揺れる。「別に、一人じゃないのに」声が、少しかすれる。凪は、自分の指先を見る。昔から、誰かと一緒にいるのは苦手じゃなかった。笑うこともできる。合わせることもできる。困られないように、空気を悪くしないように。ちゃんとやれていた。でも、時々、ふっと苦しくなる。みんなといるのに、どこか遠い場所にいるみたいになる。「……なんか」凪が、小さく笑う。苦しそうな笑い方。「ずっと、“ちゃんといる”だけだった気がする」その言葉のあと、夜が少し静かになる。陽菜は、何も急がなかった。ただ、凪の言葉を待っている。凪は、少しだけ目を閉じる。言葉にしてしまった。今まで、ちゃんと外に出したことのない感覚。凪が、ゆっくり目を開ける。陽菜を見る。街灯の光の中。「陽菜といると」胸の奥が、少し熱くなる。怖い。でも、止めたくない。「……一人じゃない感じ、する」小さな声。消えそうなくらい。でも、ちゃんと届く声。陽菜の目が、少しだけ揺れる。驚いたみたいに。でも、すぐにやわらかくなる。「そっか」それだけ。たったそれだけなのに、凪の胸の奥が、ゆっくりほどけていく。理解された。そんな大げさなものじゃない。でも、ずっと閉
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二人で並んで歩いていることが嬉しい。

放課後の教室を出て、昇降口へ向かう途中、窓の外が少し暗くなっていることに気づいた。さっきまで差していた夕陽は、厚い雲に隠れ始めている。「雨降りそうだね」陽菜が言う。凪も空を見る。確かに朝は晴れていたのに、いつの間にか雲が増えている。校門を出た頃だった。ぽつ。小さな雨粒。そして、もう一粒。「あ」陽菜が空を見上げる。次の瞬間、雨が少しずつ強くなり始めた。「急にきたね」陽菜が鞄から折りたたみ傘を取り出す。ぱっと開く。そして、何の迷いもなく言った。「入る?」凪の心臓が跳ねる。「え」「風邪ひくよ」陽菜は当たり前みたいに言う。凪は頷くしかなかった。傘に入る。距離が近い。近すぎる。肩が触れそうになる。雨の音が聞こえる。車の音も。人の話し声も。なのに、凪の耳には、自分の心臓の音ばかり響いていた。「狭くない?」陽菜が聞く。「だ、大丈夫」全然大丈夫じゃない。でも、そう言うしかない。陽菜は少し笑った。その横顔を見た瞬間、凪は慌てて前を見る。雨は少しずつ強くなっていく。道端には、紫陽花が咲いていた。青。紫。雨粒をまとって、静かに揺れている。凪は思い出す。紫陽花は、ひとつの色じゃない。青にも見える。紫にも見える。見る場所によって、少しずつ違う。今の気持ちも、少し似ている気がした。友情なのか。憧れなのか。安心なのか。恋なのか。まだ分からない。でも、ひとつだけ分かることがある。二人で並んで歩いていることが嬉しい。この時間が終わってほしくない。その気持ちだけは、昨日よりもはっきりしていた。雨音が少し強くなる。紫陽花が揺れる。その時だった。陽菜がふと前を向いたまま言う。「ねえ」凪の胸が跳ねる。「ん?」少しだけ沈
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陽菜は、人を変えようとしない。

放課後の教室には、夕暮れの光がゆっくり流れていた。凪は席に座ったまま、陽菜たちの方を見ている。陽菜はまだ、クラスメイトの話を聞いていた。時々笑う。時々うなずく。でも、不思議なくらい自分の話をしない。相手の言葉を、大事そうに受け取っている。凪はその姿を見ながら思う。私だったら、どうするだろう。きっと、もっと何か言ってしまう。大丈夫だよ。気にしなくていいよ。こうした方がいいよ。そんな言葉を、次々に並べてしまうかもしれない。でも陽菜は違う。聞いている。ただ、聞いている。それなのに、相手は少しずつ元気になっていく。その様子が、凪には不思議だった。しばらくして、相談していた女子生徒が立ち上がる。「ありがとう」少し照れたように笑う。陽菜も笑った。「うん」それだけ。それだけなのに、女子生徒の表情は来た時より柔らかい。凪は思う。陽菜は、人を変えようとしない。だからなのかな。みんな安心して、話せるのは。その時だった。陽菜がこちらを見る。目が合う。凪は慌てて視線を逸らそうとする。でも、間に合わなかった。陽菜が笑う。「凪」呼ばれる。胸が少しだけ跳ねる。「帰る?」ただそれだけの言葉。なのに、なぜか嬉しい。凪は小さく頷く。「うん」陽菜は鞄を持つ。夕陽が髪を照らす。その光景を見ながら、凪はまた考えていた。私は、陽菜みたいになりたいのかな。それとも、陽菜の隣にいたいのかな。まだ分からない。でも、ひとつだけ分かることがある。陽菜と一緒に帰ると聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。その気持ちは、もうごまかせなくなり始めていた。二人は教室を出る。廊下には、長く伸びる夕陽の影。凪は、その影を見ながら思う。今日も
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私は、陽菜みたいになりたいのかな。 それとも、陽菜の隣にいたいのかな。

放課後の教室は、昼間とは少し違う顔をしていた。窓から差し込む光が、少しだけオレンジ色になっている。凪は席に座ったまま、陽菜の方を見ていた。陽菜は、まだクラスメイトの話を聞いている。時々うなずく。時々笑う。でも、自分の意見を押しつけたりはしない。ただ、相手の話を受け止めている。凪は不思議に思う。どうして陽菜の周りには、人が集まるんだろう。どうしてみんな、あんなに安心した顔になるんだろう。私なら、きっと、何か言わなきゃと思う。元気づけなきゃ。助けなきゃ。正しいことを伝えなきゃ。そんなふうに考えてしまう。でも陽菜は違う。まるで、雨の日の紫陽花みたいだった。凪はふと、通学路で見た紫陽花を思い出す。青。紫。少しだけ桃色。どれが正しい色なのか、説明できない。でも、綺麗だった。見ているだけで、心が落ち着いた。陽菜も少し似ている。無理に答えを出さない。無理に誰かを変えようとしない。ただ、そこにいる。それだけなのに、なぜか安心する。その時、相談していた女子生徒が笑った。「ありがとう」陽菜も笑う。「うん」それだけだった。その短いやり取りを見ているだけで、胸が少し温かくなる。私は、陽菜みたいになりたいのかな。それとも、陽菜の隣にいたいのかな。どちらなのか、まだ分からない。でも、一つだけ分かることがあった。陽菜を見ていると、頑張らなきゃという気持ちが、少しだけ静かになる。肩の力が抜ける。呼吸が深くなる。まるで、雨上がりの紫陽花を見ている時みたいに。その感覚が、凪には心地よかった。そしてまた、新しい問いが生まれる。「私は、陽菜といる時の自分が好きなのかな」窓の外では、夕暮れの光が校庭を照らしていた。その
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安心と恋は、何が違うんだろう。

午後の授業が始まった。教室には、チョークの音だけが響いている。先生が何かを説明している。でも、凪の頭にはほとんど入ってこなかった。窓から差し込む午後の日差し。机の上に落ちる光。教室の静けさ。凪はふと、数列前の席を見る。陽菜がいる。普通にノートを取っている。さっきまで一緒にいたのに。ほんの数分前まで、隣で話していたのに。それなのに、なぜか少し遠く感じる。その感覚に、凪は戸惑った。離れたくない。その言葉が、まだ胸の奥に残っている。どうしてなんだろう。悠真といる時には、感じたことがなかった。悠真を見ていると、胸が高鳴ることはあった。でも、陽菜を見ている時は違う。胸が落ち着く。安心する。まるで、ずっと力を入れていた肩が、少しだけ軽くなるみたいに。その時、先生の声が聞こえた。「休むことも大事だぞ」授業とは関係ない雑談だった。教室に小さな笑いが起こる。でも、その言葉だけが凪の耳に残った。休むことも大事。凪はふと思う。私は、いつからこんなに頑張っていたんだろう。嫌われないように。迷惑をかけないように。期待に応えられるように。ちゃんとして見えるように。気づけば、ずっと緊張していた。でも、陽菜といる時だけは違う。無理に笑わなくてもいい。頑張らなくてもいい。ちゃんとしていなくても、そこにいていい気がする。凪は窓の外を見る。白い雲が、ゆっくり流れている。ふと、思う。もしかしたら、私が陽菜に惹かれているのは、優しいからでも、可愛いからでも、話しやすいからでもなくて、陽菜といる時の私は、安心できるからなのかもしれない。その考えが浮かんだ瞬間、胸が少し熱くなる。でも同時に、新しい問いも生まれる。安心と恋は
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なのに、凪だけが妙に落ち着かない。

風が、ふたりのあいだを通り抜ける。「今のほうが好きかも」陽菜の言葉は、もうとっくに終わったはずなのに、凪の胸の中ではまだ続いていた。今のほうが好き。それは、どういう意味なんだろう。陽菜は特別な顔をしていない。卵焼きを食べて、いつもみたいに笑っている。なのに、凪だけが妙に落ち着かない。"私は、陽菜に好きだと思われたいのかな"さっき浮かんだ問いが、まだ胸の奥に残っている。その時だった。「おーい」遠くから声がした。振り向く。悠真だった。中庭を横切りながら、誰かに手を振っている。クラスの男子たちも笑っている。いつもの光景。少し前までなら、凪は自然に目で追っていた。でも今日は違った。悠真を見たあと、凪は無意識に陽菜を見る。陽菜は気づいていない。普通にお茶を飲んでいる。その横顔を見た瞬間、胸の奥がまた揺れる。凪は思う。悠真を見た時と、陽菜を見た時。何が違うんだろう。悠真を見ていると、"素敵だな"と思う。でも、陽菜を見ていると。"離れたくないな"と思う。その違いに気づいた瞬間、心臓が大きく鳴った。離れたくない。その言葉は、凪自身が思っていたより重かった。慌てて否定する。違う。ただ、一緒にいて楽だから。話しやすいから。安心するから。それだけ。でも、心のどこかでわかっていた。それだけじゃないことを。陽菜がふとこちらを見る。「どうしたの?」凪は慌てて首を振る。「なんでもない」陽菜は少し笑う。「最近、なんか変だよね」その言葉に、凪の心臓が止まりそうになる。まさか。気づかれた。そう思った瞬間、陽菜は続けた。「なんか考えごとしてる」凪は小さく息を吐く。違った。でも、少し残念な気もした。その感情に気づいて
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私は、陽菜に好きだと思われたいのかな

陽菜の言葉が、凪の胸の奥に残っていた。「最近、前より笑うよね」その一言。たぶん、何気なく言っただけ。でも、凪にとっては違った。今まで、いろんな人に言われてきた。優しいね。真面目だね。しっかりしてるね。でも、"笑うようになった"と言われたことは、あまりなかった。それはつまり、陽菜が見ていたのは、"頑張っている私"じゃなくて、もっと別の私だったのかもしれない。風が吹く。木々が揺れる。陽菜は、お弁当箱を閉じながら言った。「ねえ」凪が顔を上げる。「凪ってさ」また心臓が少し跳ねる。陽菜は少し考える。「昔からそうだったの?」「え?」「なんか」陽菜が笑う。「人のことばっかり気にするの」凪は言葉に詰まる。図星だった。気づけば、いつもそうだった。誰かが怒っていないか。誰かが傷ついていないか。誰かが困っていないか。そればかり見ていた。そして、自分のことは後回しだった。「……たぶん」小さく答える。陽菜は頷く。否定しない。笑わない。ただ聞いている。昔なら、ここで何か説明していたかもしれない。大丈夫だよ。そんなことないよ。そう言われるのを待っていたかもしれない。陽菜は、凪を変えようとしない。ただ、見ている。その静けさが、なぜか心地いい。しばらく沈黙。でも、もう苦しくない。陽菜が空を見上げる。「私ね」ぽつりと言う。「凪が無理してる時、なんとなくわかる」凪の胸が揺れる。「だから」少しだけ笑う。「今のほうが好きかも」風が止まる。世界の音が、少し遠くなる。凪は返事ができなかった。"今のほうが好き"その言葉が、胸の奥で何度も繰り返される。嬉しい。なぜだろう。陽菜にそう言われることが、こんなに嬉しい理由をまだ説明で
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気づくと、隣にいてほしいと思っている。

陽菜が卵焼きを口に運ぶ。「おいしい」小さく笑う。凪は少し肩の力が抜ける。「ほんと?」「うん」陽菜はもう一口食べる。それだけなのに、凪は少し嬉しくなる。なんでだろう。自分でもわからない。ただ、胸の奥が少し温かい。陽菜は気づいていない。普通にお弁当を食べている。それなのに、凪の視線は何度も陽菜へ向いてしまう。横顔。髪が風で揺れる。時々笑う。本当に、ただそれだけ。なのに。凪は思う。悠真の時は、こんな感じじゃなかった。好きだった。それは確か。でも、もっとわかりやすかった。会えると嬉しい。話せると嬉しい。そんな感じだった。でも今は違う。気づくと見ている。気づくと考えている。気づくと、隣にいてほしいと思っている。陽菜がふと顔を上げる。目が合う。凪は慌てて視線を逸らした。「なに?」陽菜が少し笑う。「えっ」凪の顔が熱くなる。「な、なんでもない」陽菜は不思議そうに首を傾げる。それから少し考えて、ぽつりと言った。「凪ってさ」凪の心臓が跳ねる。「最近、前より笑うよね」風が吹く。木々が揺れる。凪は返事ができなかった。陽菜は続ける。「前はもっと」少し考える。「頑張ってる感じだった」胸が揺れる。図星だった。でも、その言葉が嫌じゃない。むしろ、見つけてもらえた気がした。凪は陽菜を見る。陽菜は普通に笑っている。その笑顔を見ながら、凪はまた思う。私は、陽菜の何に惹かれているんだろう。そして初めて、別の問いが浮かんだ。私は、陽菜にどう見られたいんだろう。その問いに、自分自身が少し驚いていた。
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私は、陽菜といる時の自分が好きなのかもしれない

昼休みのチャイムが鳴った。教室の空気が、一気にほどける。椅子の音。笑い声。購買へ向かう足音。いつもの昼休み。凪は、ぼんやり窓の外を見ていた。"私は、陽菜といる時の自分が好きなのかもしれない"さっき浮かんだ言葉が、まだ胸の奥に残っている。その時だった。「凪」聞き慣れた声。顔を上げる。陽菜だった。「お昼、一緒に食べない?」ただそれだけ。ただそれだけなのに、胸が少しだけ跳ねる。凪は慌てて立ち上がる。「う、うん」陽菜が笑う。その笑顔を見ると、なぜだか少し安心する。二人は中庭へ向かった。春の風。柔らかな日差し。木陰のベンチに並んで座る。しばらく、特別な話はしなかった。授業のこと。先生のこと。クラスメイトのこと。どこにでもある会話。なのに、凪は不思議だった。こんな普通の時間なのに、どうしてこんなに心地いいんだろう。陽菜が、お弁当の卵焼きを見ながら言う。「それ美味しそう」「交換する?」「する」小さな笑い声。その瞬間、凪は思い出す。人生の意味は、遠くにあるものじゃない。そんな言葉を、どこかで聞いたことがある。大きな夢。大きな成功。特別な何か。そういうものじゃなくて、誰かがかけてくれた言葉。誰かがくれた安心。誰かが隣で笑ってくれた時間。そういうものの中に、静かにあるのかもしれない。凪は陽菜を見る。陽菜は気づかない。普通に卵焼きを食べている。でも、凪の胸の奥では、何かが少しずつ形になり始めていた。昨日、陽菜が言った言葉。"凪が楽なほうが、見てて安心する"あの言葉は、ただ優しかっただけじゃない。あの言葉があったから、凪は昨日、少しだけ自分を許せた。"今日はこれで十分"そう思えた。そのことに気づいた瞬
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私は陽菜の何に惹かれているんだろう

朝のホームルームが始まる。先生の声が教室に響く。でも、凪の頭にはほとんど入ってこなかった。"私は陽菜の何に惹かれているんだろう"その問いが、ずっと胸の奥に残っている。窓の外では、春の風が木の葉を揺らしていた。陽菜は数列前の席で、普通にノートを開いている。本当に普通だった。昨日の夜、あんな話をした人とは思えないくらい。それなのに私は・・・。凪は気づく。気づくと、陽菜を探している自分に。視線が勝手に向いてしまう。笑っているかな。今、何を考えているんだろう。そんなことばかり。「……おかしい」小さくつぶやく。悠真の時は違った。悠真を好きだった時、こんなふうに一日中考えていたわけじゃない。会えたら嬉しい。話せたら嬉しい。それはあった。でも今は違う。陽菜のことを考えるたび、胸の奥のどこかが揺れる。そして、少し安心する。それが余計にわからない。恋って、こんな感じだっただろうか。先生が黒板に問題を書く。「じゃあ、この問題」教室が少しざわつく。凪は慌てて教科書を開いた。でも、ページをめくった瞬間、ふと昨日の夜を思い出す。"今日はもう十分なんじゃない?"陽菜の声。胸が少しだけ温かくなる。その時、凪はあることに気づく。陽菜を思い出すと、安心する。でもそれだけじゃない。頑張らなくていい気がする。ちゃんとしていなくても、大丈夫な気がする。それは今まで、誰かに感じたことのない感覚だった。悠真といる時は、もっと素敵な自分でいたかった。でも陽菜といる時は、逆だった。頑張らない自分でも、そこにいていい気がする。凪は、その違いに気づいた瞬間、胸が静かに鳴る。"私は……"言葉にならない。まだ早い気がする。でも、何か
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さっきまで、頭の中で考えていた相手が、目の前にいる。

教室のざわめきが、少し遠く聞こえる。「何その顔」陽菜が笑う。朝の光が、窓から差し込んでいる。凪は、何も言えなかった。言えるわけがなかった。さっきまで、頭の中で考えていた相手が、目の前にいる。しかも、昨日までとは違う。昨日の夜、公園で話した。並んで歩いた。本音を言った。そして今、陽菜を見るだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。「寝不足?」陽菜が聞く。凪は慌てて首を振る。「ち、違う」陽菜が少し笑う。その笑顔を見た瞬間、また胸が鳴る。凪は視線を逸らす。なんなんだろう。昨日から、ずっと同じことを考えている。悠真のことを考える時とは違う。悠真は、好きだと思えた。優しい。かっこいい。一緒にいると嬉しい。ちゃんと説明できる。でも陽菜は違う。説明しようとすると、わからなくなる。安心する。それは確か。でも、安心だけなら、こんなに何度も思い出さない気がする。"凪が楽なほうが、見てて安心する"また思い出す。凪は小さくため息をつく。その様子を見て、陽菜が首をかしげる。「なんか悩んでる?」ドキッとする。図星だった。でも、まさか言えない。"あなたのことです"なんて。凪は机の上の教科書を見る。その時、教室の後ろから声がした。「おはよう」悠真だった。クラスメイトたちが反応する。いつもの朝。凪も反射的に顔を上げる。悠真が笑う。今までなら、それだけで少し嬉しかった。でも今日、凪は気づいてしまう。その直後、自分が何をしたか。凪の視線は、無意識に陽菜へ向いていた。陽菜は、何も気づいていない。窓際で、普通に笑っている。その横顔を見た瞬間、胸がまた揺れる。凪は慌てて前を向く。おかしい。本当におかしい。"私は陽菜に恋してる
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前より、ちゃんと話してくれた

夜道は、思っていたより静かだった。公園を出ても、二人の歩幅は自然と揃ったまま。街灯が、一定の間隔で道を照らしている。その光の中を、凪と陽菜は、ゆっくり歩いていた。言葉は少ない。でも、沈黙が重くない。凪は、それがまだ少し不思議だった。誰かといる時は、いつも頭のどこかで考えていた。何を話そう。変な空気になってないかな。ちゃんと笑えてるかな。でも今日は、その“考える音”が、少し静かだった。「……凪」陽菜が、前を向いたまま名前を呼ぶ。凪が、少しだけ顔を上げる。「今日さ」陽菜が、小さく笑う。「前より、ちゃんと話してくれた」夜風が吹く。髪が、少し揺れる。凪は、少しだけ視線を落とす。「……そうかな」「うん」陽菜は、迷わず頷く。「前の凪って」少し考えるみたいに空を見る。「なんか、“正解の返事”探してる感じだった」その言葉に、凪の胸が、静かに揺れる。正解。たしかに、ずっと探していた気がする。どう返せば嫌われないか。どう返せば安心されるか。間違えないように。ちゃんとして見えるように。でも、陽菜と話していると、時々、“正解”より先に言葉が出る。「……変なの」凪が、小さく笑う。「陽菜といると、ちゃんとしようとするの忘れる」言ったあとで、少しだけ恥ずかしくなる。でも、陽菜は笑わなかった。「いいじゃん」やわらかい声。「そのほうが凪っぽい」凪の足が、少しだけ止まりそうになる。“凪っぽい”。その言葉が、思っていたより深く落ちてくる。今まで、“ちゃんとしてる”とは言われてきた。“優しい”とも。でも、“凪っぽい”と言われたことは、あまりなかった気がする。凪は、少しだけ前を向く。夜の道。静かな街。隣を歩く陽菜。胸の
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凪って、 全部、自分で抱えようとするよね。

ブランコが、ゆっくり揺れている。きい、と小さく鳴る音が、夜の静けさに溶けていく。凪は、鎖を軽く握ったまま、足元を見ていた。陽菜の言葉が、まだ胸に残っている。無理にちゃんとしなくていいよ。そんなふうに言われたのは、たぶん初めてだった。「凪ってさ」陽菜が、静かに口を開く。「人のこと、気にしすぎるよね」凪の指先が、少しだけ動く。「……そんなことない」反射みたいに返す。でも、陽菜はすぐに首を横に振らない。ただ、“またそうやって隠した”みたいな目で見る。凪は、その視線に少しだけ耐えきれなくなって、ブランコの鎖を握り直した。冷たい感触。胸の奥が、少しざわつく。「だって」凪が、小さく言う。「誰か機嫌悪いと、気になるし」風が吹く。前髪が揺れる。「怒ってたりすると」少し間。「自分のせいかなって思うし」その声は、自分でも驚くくらい素直だった。陽菜は、しばらく黙っていた。夜の公園。遠くの道路を車が通る音。その静かな時間のあと、陽菜が、ぽつりと言う。「凪って」少しだけ困ったみたいに笑う。「全部、自分で抱えようとするよね」凪は、何も返せない。返せないというより、返す言葉が見つからない。“抱える”。その感覚は、ずっと普通だった。空気が悪くならないように。誰かが嫌な思いをしないように。ちゃんと、みんなが大丈夫なように。そうしていれば、自分もここにいていい気がしていた。でも、最近、少し苦しい。ちゃんとしているのに、心だけ、ずっと疲れている。「……でも」凪が、小さくつぶやく。「そうしないと、嫌われるから」陽菜が、静かに目を細める。「ほんとに?」その声は、やさしい。責める感じじゃない。ただ、凪が信じてきたものを静
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どうして、あの一言のほうが、こんなに残るんだろう。

夕焼けの色が、少しずつ薄くなっていく。教室の窓に映る空が、オレンジから青へ、ゆっくり変わっていく。凪は、スマートフォンを持ったまま、しばらく動かなかった。『見ちゃう』その短い言葉だけが、まだ胸の奥に残っている。廊下から、誰かの笑い声が聞こえる。部活へ向かう足音。遠ざかる声。教室の中は、少しずつ静かになっていく。凪は、もう一度だけ画面を見る。トーク画面。最後の一言。たったそれだけなのに、閉じるのが、少し惜しい。「まだ帰ってなかったんだ」後ろから声がする。振り返ると、悠真が立っていた。バッグを肩にかけて、いつもの顔で、こっちを見ている。「……うん」凪は、スマートフォンを伏せる。反射みたいな動き。悠真は、それに気づいたのか、気づいていないのか、そのまま近くの席に軽く腰をかけた。「珍しいな」窓の外を見ながら言う。「凪、いつもすぐ帰るのに」その言葉に、凪の心が、ほんの少しだけ止まる。“いつも”。その言葉が、妙に引っかかった。確かに、そうだった。放課後は、特別長く残らない。誰かを待つこともない。でも、今日は、まだここにいる。理由を考えようとして、やめる。「……なんか」凪は、小さくつぶやく。悠真が、「ん?」と顔を向ける。凪は、その続きを探して、でも、見つからない。言葉にした瞬間、何かが変わってしまいそうで。「……ううん」結局、そう言って、首を振る。悠真は少しだけ不思議そうな顔をしたあと、「そっか」とだけ返した。沈黙が落ちる。気まずくはない。安心できる静けさ。ずっと知っている温度。でも、その静けさの中で、凪は、別の空気を思い出していた。夜の公園。風。ブランコの音。そして、“見ちゃう”あの短い言
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その全部を、見られていた気がする。

教室のざわめきが、少しずつ薄れていく。部活へ向かう声。椅子を戻す音。窓の外から入る、夕方の風。凪は、まだ席に座っていた。手の中には、スマートフォン。画面は暗いまま。開けばいい。それだけなのに、指が、少しだけ止まる。窓の外が、オレンジ色に染まっていく。その光が、机の上を長く滑る。凪は、ゆっくり息を吐いた。そして、親指が、静かに動く。画面が点く。通知は、一つだけ。陽菜。短い名前。それだけで、胸の奥が、少しだけ鳴る。メッセージを開く。『今日は、ちゃんと授業受けてた?』凪は、瞬きをする。思わず、小さく息が漏れる。なんでもない言葉。特別じゃない。重くもない。でも、なぜか、少しだけ笑いそうになる。『受けてた』打つ。送る。すぐ既読がつく。その速さに、胸が小さく揺れる。凪は、画面を見つめたまま動かない。数秒。それだけなのに、長い。『ほんとに?』続けて届く。『なんか上の空っぽかった』凪の指が止まる。教室の空気。窓際。昼休み。その全部を、見られていた気がする。凪は、画面を見たまま、少しだけ俯く。胸の奥が、静かに落ち着かない。嫌じゃない。でも、安心とも少し違う。『……見てたの?』送る。既読。少し間。それから、『見ちゃう』短い返事。たったそれだけ。なのに、凪の心臓が、大きく鳴る。教室には、もう人が少ない。遠くで、誰かが笑っている。夕方の光が、ゆっくり薄くなっていく。その中で、凪は、スマートフォンを持ったまま動けない。『なんで?』打ちかけて、止まる。消す。また、打つ。止まる。聞いたら、何かが、変わってしまう気がした。まだ、そこには触れたくない。でも、もう、気づき始めている。自分の時間が、少しずつ、一人分
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なのに、一瞬だけ、違うものを探してしまう。

午後の授業は、静かに進んでいく。黒板に、白い文字が増えていく。チョークの音が、一定のリズムで続く。凪は、その音を聞きながら、ノートにペンを走らせる。ちゃんと、書いているが、でも、どこかで、別の音を待っている気がする。隣の席から、ページをめくる音。ふと、顔を上げる。そこには、いつもの教室。いつもの景色。なのに、一瞬だけ、違うものを探してしまう。すぐに、目を戻す。理由は、ない。でも、探していたことだけが、少し残る。先生が、質問をする。名前を呼ばれて、凪は立ち上がる。答えは、わかっている。口に出す。間違っていない。「正解」その一言で、席に着く。小さく息を吐く。できている。ちゃんと、いつも通り。でも、さっきの一瞬が、まだどこかに残っている。授業が終わる。チャイムが鳴って、一気に空気がほどける。椅子の音。話し声。笑い声。その中で、凪はゆっくりと立ち上がる。ポケットに、手を入れる。スマートフォン。指先が触れる。取り出す。画面を、つける。通知が一つ。短い名前。一瞬だけ、息が止まる。凪は、そのまま画面を見つめる。開くまでの、ほんの数秒。それだけで、周りの音が、遠くなる。指が、少しだけ動く。でも、止まる。まだ、開かない。なぜか、ここで止めておきたい気がした。このままでも、もう、わかっている気がして。「帰る?」後ろから、悠真の声。凪は、画面から目を離す。「……うん」短く答える。スマートフォンを、ポケットに戻す。まだ、見ていない。でも、さっきまでより、少しだけ、心臓の音がはっきりしている。教室を出る。廊下の光が、少しだけ長く伸びている。窓の外、空が傾いていく。その先に、昨夜の場所がある。凪は、少しだ
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今日を終わらせたくない。

雨は、家の近くまで来る頃には、ほとんど止んでいた。ぽたん。傘の先から、最後の雫が落ちる。「じゃあね」陽菜が笑う。いつも通りの笑顔。でも、凪にはいつも通りじゃなかった。「まだ悠真のこと好きなの?」「わかんない」「今の凪の方が好きだけどね」何度も頭の中で繰り返される。陽菜はもう歩き出している。なのに、凪だけがそこに残されているみたいだった。家に帰る。玄関を開ける。「ただいま」返事はない。静かな家。自分の部屋へ入る。鞄を置く。ベッドに座る。そして、気づく。今日一日、何度も陽菜のことを考えていた。朝も。昼も。放課後も。帰り道も。でも、悠真のことは。ほとんど考えていない。凪は天井を見る。胸の奥が少しざわつく。これは何なんだろう。その時、スマホが震えた。メッセージだった。送り主を見て、心臓が跳ねる。陽菜。『ちゃんと家着いた?』たったそれだけ。たったそれだけなのに。凪は気づいてしまう。嬉しい。すごく嬉しい。返信を打とうとして、手が止まる。なんて返そう。大丈夫。着いたよ。それだけでいいはずなのに。なぜか、もっと話したいと思ってしまう。もっと。もう少しだけ。今日を終わらせたくない。凪はスマホを見つめる。その時だった。不意に、悠真の顔が浮かぶ。もし。今、このメッセージが悠真からだったら。私は同じように嬉しかっただろうか。答えは、すぐには出なかった。でも、その問いを考えた瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。初めてだった。悠真と陽菜を、比べてしまったのは。そして凪は、まだ知らない。その答えが、思っているより近くまで来ていることを。
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今、何を期待した?

昨日の夜のことが、夢だったみたいに思えた。朝の教室。窓から差し込む光が、机の上を白く照らしている。誰かの笑い声。椅子を引く音。教科書を開く音。いつもと同じ朝。いつもと同じ教室。なのに、凪の中だけが少し違った。机に頬杖をつきながら、窓の外を見る。青空。風に揺れる木々。ふと、昨日の夜を思い出す。"今日はもう十分なんじゃない?"陽菜の声。夜道。街灯。並んで歩いた時間。凪は、慌てて顔を上げる。まただ。今日だけで、何回思い出しているんだろう。「……変なの」小さくつぶやく。その時、教室のドアが開いた。凪の心臓が、一瞬だけ跳ねる。でも入ってきたのは、別のクラスメイトだった。凪は、自分でも驚く。今、何を期待した?視線を落とす。胸の奥が、少しだけざわつく。"違う"凪は心の中で言う。ただ、昨日たくさん話したから。ただ、少し安心したから。ただ、それだけ。なのに、否定しようとするほど、陽菜の笑顔が浮かぶ。"凪が楽なほうが、見てて安心する"また。、凪は額を机につける。おかしい。こんなの、今までなかった。悠真のことを考える時は、もっと違った。会えると嬉しい。優しいと嬉しい。話せると嬉しい。でも、今みたいに、気づくと頭の中にいる感じじゃなかった。もっと静かだった。もっと、わかりやすかった。じゃあ、これは何なんだろう。凪は、机の木目を見つめる。"私は陽菜のことが気になっているの?"その問いが浮かんだ瞬間、胸が大きく鳴る。違う。そう思う。でも、何が違うのかは、うまく説明できない。"私は普通だし"その言葉を考えた瞬間、凪は自分で違和感を覚えた。普通って、何だろう。昨日までなら、考えなかった問い。でも、陽菜と出会っ
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どうしたら嫌われないか、ばっか考えてたかも

夜は、ゆっくり深くなっていた。公園の街灯が、静かな円を地面に落としている。ブランコは、もうほとんど揺れていない。凪と陽菜は、並んで座ったまま、同じ夜風を感じていた。凪は、少しだけ空を見上げる。黒に近い青。その色を見ながら、胸の奥で、何かが静かに変わっている気がしていた。今までは、ずっと同じことを考えていた気がする。嫌われないように。変に思われないように。ちゃんとしていられるように。どうしたら、ここにいていい人になれるか。その問いばかりで、ずっと生きてきた。「……なんか」凪が、小さくつぶやく。陽菜が、ゆっくり視線を向ける。「私、ずっと」言葉を探すみたいに間が空く。ブランコの鎖が、かすかに鳴る。「どうしたら嫌われないか、ばっか考えてたかも」夜風が、髪を揺らす。その声は、少し恥ずかしそうで、でも、ちゃんと本音だった。陽菜は、何も急がない。ただ、凪の言葉が落ちる場所を、静かに待っている。「だから」凪が続ける。「誰かが怒ってると、自分のせいかなって思うし」少し笑う。苦しそうな笑い方。「ちゃんとしてないと、ダメな気がしてた」陽菜は、しばらく黙っていた。それから、小さく息を吐く。「凪ってさ」やわらかい声。「ずっと、“自分がどうしたいか”聞いてなかったんだね」その瞬間、凪の胸の奥が、静かに揺れる。“自分がどうしたいか”。そんなこと、考えたことがあっただろうか。どうすれば嫌われないか。どうすれば安心されるか。どうすれば空気を壊さないか。そればかりで、“自分”を置いてきた気がする。凪は、ゆっくりブランコを揺らす。ほんの少しだけ。前へ。後ろへ。「……わかんない」小さく言う。「私、何が楽なのかも、まだ
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ちゃんとしていれば大丈夫。優しくしていれば嫌われない。

ブランコは、ゆっくり揺れていた。きい、と小さく鳴る音が、夜の静けさに溶けていく。凪と陽菜は、並んで座ったまま、しばらく何も話さなかった。でも、その沈黙は、不思議と苦しくなかった。夜風が、二人の髪を揺らす。街灯の光が、足元にやわらかい影を落としている。凪は、鎖を軽く握ったまま、前を見ていた。“理解される価値がある”そんな言葉を、昔の自分は信じられなかった気がする。ちゃんとしていれば大丈夫。優しくしていれば嫌われない。空気を読めば、ちゃんとここにいられる。そう思っていた。でも、今こうして陽菜の隣にいると、それだけじゃなかったのかもしれないと思う。「……静かだね」凪が、小さく言う。陽菜が、少しだけ笑う。「うん」短い返事。でも、その声の温度が、やさしい。また沈黙が落ちる。普通なら、何か話さなきゃと思う時間。でも今日は、それがない。凪は、少しだけ不思議だった。誰かと一緒にいるのに、頑張って空気を作らなくていい。ちゃんと笑わなくていい。何か話題を探さなくていい。ただ、ここにいる。それだけでいい。その感覚に胸の奥が、少しだけ熱くなる。「……陽菜といると」凪が、ぽつりと言う。言葉を選ぶみたいに、少し間を空ける。「なんか」ブランコが、きい、と鳴る。「呼吸、楽」言ったあとで、凪は少しだけ視線を落とす。恥ずかしくなったみたいに。でも、陽菜は笑わなかった。からかいもしない。ただ、少しだけ目を細める。「そっか」小さな声。その一言だけで、凪の胸の奥が、また静かにほどける。陽菜が、足で少しだけ地面を蹴る。ブランコが、ゆっくり前に揺れる。「凪ってさ」夜風の中で、陽菜が言う。「ずっと息止めて生きてた感じする」凪
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“楽でいてほしい”なんて、誰かに言われたことはなかった。

陽菜の言葉のあと、しばらく、誰も話さなかった。夜風だけが、静かに通り過ぎる。ブランコが、きい、と小さく鳴る。凪は、胸の奥に残る熱を、どう扱えばいいのかわからなかった。“凪が楽なほうが、見てて安心する”その言葉が、何度も、ゆっくり胸に落ちていく。今まで、“ちゃんとしてるね”とは言われてきた。“優しいね”とも。でも、“楽でいてほしい”なんて、誰かに言われたことはなかった。凪は、少しだけ視線を落とす。制服の袖を、指先でつまむ。癖みたいな動き。不安な時、昔から、よくしていた。陽菜は、その手元を見ていた。でも、何も言わない。ただ、少しだけ距離を近づける。肩が触れそうで、触れない。その曖昧な近さが、妙に落ち着かなかった。「……陽菜って」凪が、小さく言う。「なんで、そんなこと言えるの」陽菜は、少しだけ笑う。「なんでだろ」考えるみたいに空を見る。「たぶん、凪が頑張ってるの、わかるから」凪の胸が、静かに揺れる。わかる。その言葉が、思っていたより、深く刺さる。「でもさ」陽菜が続ける。「凪、自分が疲れてる時ほど、“大丈夫”って顔するよね」その瞬間、凪は、言葉を失う。図星だった。たぶん、自分より、陽菜のほうが見えている。「……そうしないと」また、小さく漏れる。陽菜が、静かに見る。凪は、少しだけ苦しそうに笑った。「そうしないと、迷惑かけるから」その言葉のあと、夜が少しだけ静かになる。遠くで、自転車のベルが鳴った。陽菜は、しばらく黙っていた。それから、ほんの少しだけ眉を下げる。「凪ってさ」やわらかい声。でも、逃げられない声。「誰にも迷惑かけないようにしてるのに」少し間。「自分には、ずっと無理させてるよね」
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陽菜の前では、“いつもの言葉”が、うまく出てこない。

陽菜の言葉が、まだ胸の奥に残っている。『「無理してる感じ」してた。』凪は、何も返せなかった。返そうと思えば、返せたはずなのに。「そんなことない」とか。「普通だよ」とか。いつもみたいに。でも、陽菜の前では、その“いつもの言葉”が、うまく出てこない。夜の公園は静かだった。ブランコの鎖が、風に揺れている。街灯の光が、二人の影を長く伸ばす。凪は、少しだけ下を向いた。「……別に、頑張ってないし」小さく言う。その声は、自分で思っていたより弱かった。陽菜は、すぐには返事をしない。少しだけ首をかしげて、凪を見ている。“ちゃんと聞いてる”目だった。「凪ってさ」陽菜が静かに言う。「いつも、“大丈夫な人”やってるよね」その瞬間、凪の呼吸が、少しだけ止まる。“大丈夫”。その言葉は、ずっと自分を守ってきた。迷惑をかけないように。空気を壊さないように。心配させないように。そうしていれば、ちゃんとここにいられる気がしていた。「……そうしないと」気づけば、口から漏れていた。凪は、自分で少し驚く。言うつもりじゃなかった。でも、陽菜の前だと、時々、本音が先に出る。陽菜の目が、少しだけ揺れる。「そうしないと?」やわらかい声。急かさない。でも、逃げ道も作らない。凪は、言葉を探す。胸の奥が、少し苦しい。でも、嫌な苦しさじゃない。ずっと閉じていた場所に、空気が入ってくるみたいな感覚。「……嫌われるから」小さな声。風に消えそうなくらい。でも、ちゃんと陽菜には届いた。沈黙。ブランコが、きい、と鳴る。遠くで、車の音。夜は静かなままなのに、凪の胸の中だけが、少しずつほどけていく。陽菜は、すぐには何も言わなかった。ただ、ほんの少し
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『一人?』 打とうとして、止まる。

凪の指先が、画面の上で止まる。打ちかけた文字。消して、また打って、もう一度消す。教室は、静かだった。窓の外の空だけが、ゆっくり色を変えている。『なにしてるの?』短く打つ。送る。その瞬間、胸の奥が、少しだけ熱くなる。凪は、スマートフォンを伏せる。でも、数秒も経たないうちに、また手に取ってしまう。既読。その二文字だけで、呼吸が少し浅くなる。返事は、まだ来ない。なのに、待っている時間が、妙に長い。窓の外で、風が揺れる。遠くで、電車の音。教室の時計が、静かに秒を刻む。凪は、スマートフォンを見つめたまま、ふと、昨日の公園を思い出す。あの距離。あの沈黙。“見ちゃう”あの言葉。通知音。小さく、鳴る。凪の肩が、ほんの少しだけ動く。画面を開く。『帰り道』短いメッセージ。それだけ。でも、凪の胸の奥が、また静かに鳴る。『一人?』打とうとして、止まる。なんで、そんなことを聞きたいのか。自分でも、よくわからない。でも、聞きたいと思ってしまった。凪は、画面を閉じる。窓の外を見る。夕焼けが、少しだけ薄くなっている。教室のガラスに、自分の顔が映る。その表情が、ほんの少しだけ、知らない顔に見えた。「……なにしてるんだろ」と小さくつぶやく。誰に聞かせるでもなく、でも、その声は、どこか少しだけ、やわらかかった。スマートフォンが、もう一度震える。凪は、すぐには見ない。なのに、口元が、少しだけ緩んでしまう。“安心”とは違う。でも、嫌じゃない。少しずつ、そっちへ引っ張られている。凪は、ゆっくり立ち上がる。椅子が、小さく音を立てる。窓の外。夜の色が、少しずつ近づいてくる。そして、凪の中でも、まだ名前のない何かが、静かに、形
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ちゃんと見るって、言ったでしょ?

昼休みのざわめきが、少しだけ遠くに感じる。教室の中はにぎやかで、誰かの笑い声が、何度も弾む。凪は、自分の席でお弁当のふたを開けた。いつもと同じ中身。いつもと同じ匂い。でも、箸を持ったまま、少しだけ手が止まる。「ちゃんと見るって、言ったでしょ?」また、浮かぶ。ほんの一瞬。凪は、軽く瞬きをして、そのまま一口、口に運ぶ。味はする。でも、どこか、遠い。「今日さ、放課後どうする?」向かいの席から、悠真が言う。何気ない声。凪は、少しだけ顔を上げる。「……まだ、決めてない」短く答える。本当は、考えていないわけじゃない。でも、言葉にすると、違うものになりそうで。悠真は「そっか」とだけ言って、それ以上は聞かない。その距離が、ありがたいはずなのに、どこか、少しだけ、物足りない。窓の外に、風が通る。カーテンが、ふわりと揺れる。その動きに、昨夜のブランコが重なる。きい、と鳴る音。ほんの少しの揺れ。凪の指先が、わずかに動く。箸を持つ手とは反対の手。机の上で、少しだけ握られる。無意識に。「なに?」隣から、蓮の声。視線だけ向けると、やわらかい顔がそこにある。「……ううん」凪は、小さく首を振る。蓮は、それ以上踏み込まない。ただ、同じ空気の中にいる。それが、心地いいはずなのに、凪の中で、ほんの少しだけ、何かが足りない。理由は、まだわからない。ふと、ポケットに意識がいく。スマートフォン。さっきから、見ていない。見ようと思えば、すぐ見られる。でも、なぜか、そのままにしている。開いたら、何かがはっきりしてしまう気がして。まだ、その形にしたくない。チャイムが鳴る。昼休みの終わり。凪は、お弁当を閉じる。カチッという小さな
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何を覚えているのか。どうして今なのか。

陽菜の指先が、ほんの少しだけ、こちらに向いた。呼ぶほどでもない。でも、気づかないふりはできないくらいの動き。凪の足が、もう一歩だけ前に出る。砂の上で、小さく音がした。その音に、陽菜の視線がわずかに揺れる。逃げるでもなく、受け止めるでもなく。ただ、そのまま。距離が、少しだけ縮まる。それだけで、空気の密度が変わる。言葉を探そうとして、やめる。今は、いらない気がした。代わりに、呼吸がそろう。同じ速さで、吸って、吐いて。それだけで、さっきまでの遠さが、少しずつほどけていく。ブランコが、もう一度だけ鳴る。陽菜が、目を伏せた。ほんの一瞬。それから、また顔を上げる。「……来たね」小さな声。凪は、うなずく。声にすると、壊れそうで。でも、伝わってほしくて。「……うん」それだけ。沈黙が、すぐに戻る。でもさっきまでの沈黙とは、少し違う。逃げ場としての静けさじゃなくて、置いておいても大丈夫な静けさ。陽菜が、ブランコに手をかける。鎖が、軽く揺れる。「ここ、覚えてる?」振り返らずに言う。凪は、少し考えてから、うなずく。「……うん。たぶん」はっきりしない返事。でも、陽菜は、それでいいみたいに、小さく笑った。「わたしは、ちゃんと覚えてる」その言葉だけが、少しだけ重く落ちる。凪の胸が、また静かに鳴る。何を覚えているのか。どうして今なのか。聞こうとして、やめる。まだ、そこまで踏み込まないほうがいい。そんな気がした。陽菜が、ブランコに座る。きい、と音がして、ゆっくり前に揺れる。ほんの少しだけ。子どもみたいに強くは蹴らない。ただ、体重を乗せただけの揺れ。「ね」揺れながら、言う。「さっきの続き、ここでしてもいい?」凪は
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その気持ちは、もうごまかせなかった。

家の窓を、雨粒が静かに叩いていた。凪はベッドの上で、スマホを見つめている。陽菜からのメッセージ。『ちゃんと家着いた?』たった一行。それなのに、何度も読み返してしまう。返信はもうした。『うん。着いたよ』それだけ。本当は、もっと送りたかった。今日の雨のこと。紫陽花のこと。相合傘のこと。でも、送れなかった。変に思われるかもしれない。迷惑かもしれない。そんな考えが浮かんでしまう。凪はスマホを置いた。そして、天井を見上げる。その時だった。スマホがまた震えた。陽菜からだった。『よかった』その後に、もう一通。『風邪ひかないでね』凪の胸が、少しだけ苦しくなる。どうしてだろう。こんな何気ない言葉なのに。こんなに嬉しい。こんなに安心する。目を閉じる。すると、今日の帰り道が浮かぶ。雨。傘。紫陽花。そして、「まだ悠真のこと好きなの?」陽菜の声。凪は布団を引き寄せる。昔なら、答えられた。でも今は、"わかんない"その言葉しか出なかった。なぜだろう。悠真は優しい。かっこいい。一緒にいると嬉しい。それは本当。でも、今日、陽菜からメッセージが来た時の気持ちと悠真からメッセージが来た時の気持ちは、同じなんだろうか。考えた瞬間、胸がざわつく。その答えを考えるのが、少し怖い。もし本当に違っていたら、私は、何に気づこうとしているんだろう。窓の外では、雨が少しずつ弱くなっていた。そして凪は、知らないうちにスマホを手に取る。陽菜とのトーク画面を開く。何か送りたい。でも、送る理由が見つからない。その時、ふと指が止まる。画面の上に残る、陽菜のアイコン。それを見つめながら、凪は初めて思う。明日、早く陽菜に会いたい。その気持ちは、
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