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小説「泡沫のエレジー」ー3

 その後のことは、断片的にしか覚えていない。勝手にピアノを弾いたことを注意しに来た教師が俺を見て狼狽え、良介はただの喧嘩ですと言って俺をその教師に託して出ていった。俺は保健室に連れて行かれて、嗚咽を漏らしながら母の迎えを待っていた。  母・霧崎雅(みやび)がやって来たのは、夜の帳が下りた後のことだった。 「隼人! ごめんね、遅くなっちゃって! さ、早く帰ろ? ねっ?」  パート先からダッシュで駆けつけてくれたのだろう。額から滝のように汗を流し、肩で息をしている。軽く茶色に染めた短い髪も僅かに乱れていた。  事情を聞き出したくてたまらなかったはずなのに、大丈夫かとか、何があったんだとか、そういうことは一切口にしなかった。代わりに話したのは、そろそろ夏も終わりだねとか、今日の夕飯は隼人の好きな豚の生姜焼きにしようかとか、他愛のないことばかり。そんな母の気遣いでさえも、俺の胸を締めつける。  家に着いてから、ようやく母は尋ねた。 「ねぇ。先生から聞いたんだけど、ほんとに良介くんとケンカしたの? そうだったら、私だけでも謝りに行きたいんだけど」  ベッドに座って俯く俺の顔を、屈んで下から覗き込む。まるで、幼子を相手にしているかのように。  大事なことだから、よく相談した方がいい――いつかの梅宮の言葉と真摯な表情を思い出す。その時が、来たのかもしれない。 「母さん。俺……」  俺は、全てを明かした。朝露を垂らす葉のように、一つ一つ、ゆっくりと。母は、ずっと真剣な眼差しで見つめ、俺の言葉に耳を傾けてくれた。 ありがとう、話してくれて。つらかったね、苦しかったね。最後に母はそう言って、俺を抱
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小説「泡沫のエレジー」ー2

 帰国して、二学期から地元の中学に通う。あいつからその知らせが届いたのは、三年の夏休みが始まったばかりのことだった。  その頃の俺は、水泳部の活動に明け暮れていた。飛沫に反射する太陽の光は眩く、水の感触は火照った肌に心地良い。泳いでいる間だけは、暑さも蝉のやかましさも気にならなくなる。他の部活に比べたら、チームワークなんてものは気にしなくていい。何より、プールにいる間は無心になれる。唯一、自身に纏わりつく全ての糸から解放される貴重な時間だった。  だが、更衣室で着替える時、シャワーを浴びる時、そしてトイレで用を足している時、現実は容赦なく襲いかかる。俺はどうしても、自分の体を直視したくなかった。触りたくなかった。特に股間のそれなんて、己の一部だと思いたくないほど汚らわしいもののように感じた。  しかも、そんな俺の気持ちなどお構いなしに体は変化していく。低くなる声、濃くなる体毛、伸びていく身長に大きくなる足、骨張って筋肉質になるシルエット。その全てに強烈な違和感を覚えたが、抵抗する術などありはしなかった。  同時に、どんどん体も雰囲気も女性らしくなる梅宮が羨ましかった。もちろんそれは性欲の対象としてではなく、自分もそうなりたい、という憧れであることはもう自覚していた。  だから、どうしても、勃たなかった。 「――もう止めましょう。こんなこと」  ぽつり、と梅宮が呟いた。彼女の頬は濡れていたが、その瞳は潤んでいなかった。泣いていたのは、俺の方だった。小さな子供をあやすように微笑んで、両手でそっと俺の顔に触れる。その瞬間、塞き止めていたもの全てが涙となり、叫びとなり、溢れ出る。俺はそ
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小説「泡沫のエレジー」ー1

 あいつとの一番古い記憶は、夕暮れのオレンジに染まる部屋に響く、美しくも哀しいピアノの旋律。まるで、それに合わせているかのようにカーテンが風に吹かれている。「ねぇ、それ、なんていうきょく?」  どうせわかりはしないのに、お気に入りのテディベアを抱きながら尋ねる幼い俺。指を止め、こちらを一瞥し、小さく溜め息を吐いてからあいつは言った。 「ラフマニノフの幻想的小品集第一番、エレジー変ホ短調」 「エレジーって?」 「悲しみの歌。もともとは、死んだ人のために作られた曲のことだった」 「ふぅん。じゃあ、ヘンホタンチョーって?」 「残念ながら、音楽のおの字も知らない奴に説明できることじゃないな」  ふん、と鼻で笑ってから口角を上げる。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、そういうイヤミな性格はきっと何十年経っても変わらないだろう。 「もういい、りょーすけのばか!」  ふくれっ面をして、そっぽを向く。けれど、決して出てはいかない。あいつの奏でる音楽に耳を傾けることが、何よりも好きだったから。  俺とあいつは、いわゆる幼馴染という関係だった。俺は当時まだソ連の一部だったウクライナ出身の父親と日本人の母親との間に生まれた。父は亡命先のアメリカで留学中だった母と出会い、交際し、結婚を申し込んだ。 しかし父は母の妊娠が発覚した直後に交通事故で亡くなり、母は帰国してから東京で出産した。札幌の実家から勘当された母は途方に暮れていたが、そんな母を助けたのが、俺が通っていた幼稚園で知り合った女性。彼女こそが、あいつ――真田(さなだ)良介(りょうすけ)の母親だった。彼女はかつて世界的に有名なヴァイオリニストだ
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第1章 新たな惑星の発見

宇宙船「アヴァロン」は、ついに未知の惑星「ゼノン」へと降り立った。このミッションには三人の主要な登場人物が参加していた。エリック・サンダースは34歳の宇宙探査パイロットだ。彼は過去に家族を失い、その悲しみから逃れるために宇宙探査の任務に身を投じた。冷静かつ慎重な彼の判断力が、このミッションの成功の鍵を握っている。エリックは家族の写真をポケットから取り出し、再びその笑顔に触れ、過去の痛みを感じながらも前を向く決意を新たにした。リア・フェルナンデスは28歳の宇宙生物学者で、地球外生命体の研究に情熱を燃やしている。彼女のバイオフィールド操作能力は、未知の生態系を解明するために不可欠だ。未知の生命体に対する彼女の興奮は、まるで子供の頃から抱いていた夢が現実となったかのようだった。カイ・アンダーソンは41歳の技術者で、幼少期に右腕を失った経験から機械と生体の融合技術に打ち込んできた。彼の技術的知識とエネルギーシールド生成能力は、チームを守るための重要な役割を果たす。アヴァロンがゼノンの地表に降り立つと、三人はその壮大な風景に驚嘆した。空は紫と青のグラデーションが広がり、奇妙な植物が大地を覆っている。風に揺れる植物たちは、まるで生きているかのようにささやき合っているかのようだった。リアはすぐにその植物の一つに目を奪われた。彼女は慎重に近づき、バイオフィールド操作を使ってその成長を観察し始めた。「見て、エリック。この植物、異常な速さで成長しているわ!」リアの声には興奮が混じっていた。エリックは過去の任務での失敗を思い出しながらも、慎重に周囲を観察していた。「注意してくれ、リア。予測不能なこと
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小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー最終回

「面会希望の方。どうぞ、お入りください」 入室を促され、刑務官に会釈する。ガラス越しに見えたのは、囚人服に身を包んだ織田明姫の姿だった。彼女は、窃盗罪、贈収賄の罪、そしてチャイニーズマフィアへの誘拐の幇助の罪で受刑している。 「……あなたが今更、一体何の用?」  猫背になり、恨めしそうに上目遣いで睨んできた彼女。よく眠れていないのだろう、目の下に深い隈が幾重にも刻まれている。 「ちゃんと、聞いておきたかったんです。どうしてあなたが、タオファさんを困らせるために財布を盗み、タオファさんが寝ている間に彼女のスマホで勝手にホテルの予約をキャンセルした挙句、マフィアに彼女の居場所を教えたのか」  財布とホテルだけならわからなかったが、盆コミのスペースの前にマフィアが現れた時点で、全て彼女の仕業だと気づくべきだった。なぜなら、チャイニーズマフィアならタオファさんの手紙を入手してアキさんの名前と住所を手に入れることも、来日していることを知るのも朝飯前だと考えたから。そして、直接アキさんを訪ね、タオファさんの居場所を教えれば金を出すと言われたはずだと思い至ったからだ。アキさんは、ドロポスやSNSの告知で俺たちのサークルのスペース番号を知っていた。だからこそ、スペースを離れてから電話して、マフィアにそれを伝えることができたのだ。 タオファさんが日本で行方不明になったと警察に伝えたのも、彼女だろう。タオファさんが俺の家にいることを知っていて、俺や母、姉貴を誘拐犯に仕立て上げるために。 「……そんなことを聞いて、何になるっていうの」  舌打ちをしてから、彼女が愚痴を零すように言う。 「何となく、で
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小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー7

「皆様、当機は間もなく離陸態勢に入ります。リクライニングシートとテーブルを元の位置に戻し、シートベルトをお締めください」 動き出した飛行機、響くCAのアナウンス。まるで初めて飛行機に乗った子供のように、緊張してしまう俺。まさか同じ飛行機にいないよな、と思って辺りをつい見回してしまう。 「ハルサン。怪しいでスよ」 「あ、ごめん」  小声で彼女から注意され、素直に従う俺。念のため、機内ではお互い偽名で呼び合うことにしている。それにしても、パスポートの姉の写真と今のタオファさんは本当に似ていて見分けがつかない。だからこそ無事飛行機に乗り込めたわけだが、姉の実力に感心してしまう。  やがて、機体は滑走路に辿り着き、徐々にスピードを上げていった。そして、勢いよく宙へ浮き上がる。  タオファさんは、黙って窓の外を見つめていた。まるで、日本との別れを惜しむかのように。 「仕方ないよ。またいつか来れば……」  いいじゃないか、と言いかけたところで俺は自らの唇を閉じた。彼女が、来日を育ての親に禁じられていることを思い出したからだ。  彼女は、黙って正面に向き直った。その瞳からは、一筋の涙が零れている。 「……ゴメンナサイ、ハルサン。迷惑をかけテ……」 「い、いや、別に……華(はな)さんのせいじゃないし」 「イイエ、私のせいデス。私のせいデ、一緒に上海まデ来てもらうなんテ……本当に、ゴメンナサイ」 「だから、気にしないでって……」  そんなことを言っても、恐らく効果はないだろう。諦めて、俺は別の話題を振ることにした。ずっと聞きたくて、でも言い出せなかったことを。 「……ねぇ、華さん」 「ハイ?」
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小説「海を夢見た蛙(かわず)ー6

 何とか自宅へ帰り着くと、先に帰宅していた姉貴とお袋が血相を変えて玄関から飛び出してきた。「おかえり、春夜、タオファさん!!」 「お母さん、それ大きな声で言っちゃダメ!! とにかく早く入って、二人とも!!」  母を咎めつつ、姉が叫ぶように言って俺たちを家に入れ、ドアを閉める。深呼吸をし、両手を腰に添えてから、姉は続けた。 「ニュース、見たわよね? タオちゃん、事情は説明してくれる?」 「……ハイ、もちろんでス。心配おかけして、申し訳ございまセン」  気落ちしたような声と表情で答え、頭を深く下げるタオファさん。謝るのはいいから、と言って姉は彼女をリビングのソファへ促した。 「私、大学の寮住んでいましタ。寮にハ、北京(ベイジン)や成都(チェンドゥ)、西(シー)安(アン)旅行する言ってまス。でも本当ハ、ビザを申請しテ、ホテルと飛行機予約しテ、日本来ましタ。ダッテ、日本行く言ったラ、おじいサン、絶対許してくれませんかラ」 「そう……。でも、どうして行方不明だなんていうニュースになったのかしら」  淹れた紅茶をテーブルに運びながら、母が呟く。 「そうね、誰かが棗紅(ツァオフォン)にわざわざ報告しない限り、彼女が行方を晦ましたなんて事実はわからないはずだものね。どうやらまだ日本にいるってことはバレてないみたいだけど、中国中を騒がせて、タオちゃんのお祖父さんを困らせて、一体誰が得するっていうのかしら。ライバル企業とか?」 「いや、違う。彼女は今、チャイニーズマフィアに追われているんだ。行方不明というニュースを知らせた奴は、マフィア共から金を受け取って情報を流したんじゃないか?」 「マ、マフィ
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小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー5

 次の日から、俺たちは早速作業に取り掛かった。小説は未完成のものを使うことにしたので、ある程度のあらすじを彼女に伝え、挿絵と表紙の構想を練ってもらった。デジタルで絵を描くための道具とアプリは姉が持っていたので、彼女はそれらを借りて作業を進めた。 原稿は無事締め切りまでに完成し、印刷会社へのデータ送信を終えた瞬間、俺たちは万歳をして喜び合った。あとは、SNSでの告知を済ませ、会場へ向かうだけだ。  当日は、うだるような暑さと湿度だった。しかし、熱中症対策は万全である。冷たい水の入った水筒二本に生理食塩水の粉末、扇子に熱冷ましシート、濡らすだけで冷感を出す百均の首掛けタオル、保冷バッグの中に入った大量の保冷剤に帽子、そして日傘。気合い十分の装備で会場へ乗り込み、自分たちのスペースを探す。 「A21b、A21b……あっ、ありましタ! あそこでス、シュンヤサン!!」  彼女が指さした先に、確かに俺たちのスペースはあった。そこに、大きな段ボール箱が置かれている。その中に、完成した同人誌が五十部入っているはずだ。  高鳴る鼓動を静めるように、深呼吸をしてからカッターで浅めに切り込みを入れる。蓋をゆっくりと開けると、そこにはみっちりと俺たちの作品が詰められていた。 「シュンヤサン! スゴイでス、ちゃんとできてまス!! 素晴らしいでス!!」 「ああ、出来てるな! 良かった、本当に良かった!!」  当たり前のことに感極まってしまい、涙目になりながら俺たちはまた万歳をした。周囲の視線なんて気にしない。俺たちにとって今大事なのは、一生に一度かもしれない感動を共有することなのだから。  しばらくして落
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小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー4

「お帰りナサイ、シュンヤサン!」「お、おう……ただいま」  バイトから帰って来たら、エプロン姿の可愛い女の子が笑顔で出迎えてくれる――少し前までは想像すらしていなかった、まるでライトノベルや恋愛ゲームのような非現実的な光景に若干狼狽えつつ、ぎこちなく返事をして靴を脱ぐ。  働き者の彼女は、うちに来てから毎日、積極的に家事を手伝ってくれた。買い出しは難しいが、掃除や洗濯、食器洗いなどはお手の物のようで、母はとても喜んでいる。 「シュンヤサン。朝ごはん作るしましタから、食べてくだサイ!」 「え……これ、タオファさんが作ったの!?」  食卓に置かれたのは、いわゆる中華粥だった。湯気と共に優しい匂いが漂い、鼻腔を擽る。蓮華で一口目を掬い、吐息で冷ましてから口に入れると、柔らかい食感と鶏の出汁が染み渡り、俺の胃袋を満たし、疲れ切った心を癒していく。 「あノ……美味しいでスか? シュンヤサン」  ずっと傍らで立っていた彼女が、俺の顔を伺いながら尋ねる。 「うん、美味い。すっげえ美味いよ、タオファさん」 「ホントでスか!? 嬉しいでス!!」  俺は親指を立てただけなのに、彼女は頬を赤く染め、満面の笑みでガッツポーズを決めて喜んだ。大袈裟な反応にたじろいでいたその時、俺に向けられていた母と姉のいやらしい視線に気づく。 「あらやだ、新婚さんみたい! そのままお嫁に来てもらったら?」  ド直球なワードを聞いた途端に咽てしまい、しばらく咳き込んでから言い返す。 「な、何言ってんだよお袋!!」 「とか言っちゃって、まんざらでもないんじゃないの? ねぇ、タオファさん」 「顔真っ赤だし。わっかりやす!」
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海を夢見た蛙(かわず)ー3

「あらあらあら、まぁまぁまぁ! あなたが、タオファさんなのねぇ!?」 日が傾き出した頃に帰宅した俺たちを出迎えた母の顔が、彼女の姿を捉えた途端に輝き出した。事情は、既に電話で説明済みである。 「ハイ、初めましテ。私、李桃華でス。突然、スミマセン」 「あらまぁ、日本語お上手ねぇ! さ、どうぞ入って入って!」  息子の文通相手との対面が、余程嬉しいらしい。こんなに上機嫌な母を見るのは久方振りである。客人用の真新しいスリッパをいそいそと取り出して、母は笑顔のままリビングへ彼女を促した。  滅多に使わない上等な陶器にジャスミンティーを淹れて、ソファーに座った彼女の前に置く。最後に母が腰を下ろしてから、俺たちは彼女の現状を説明した。 「それは大変だったわねぇ!! うちで良かったら、どうぞ泊まっていって!」 「え……でも、私、お金が、払えませんでス」 「そんなのいいのよぉ、うちの春夜と文通してくれてたってだけで十分有難いんだから!!」  笑って話しながら手を払うという中年女性特有の謎めいた仕草をしながら、母は調子よく答えた。 「私は、夕夏と春夜の母親で、星(ほし)恵(え)っていうの。よろしくね、タオファさん!」 「ハイ、よろしくお願いしまス、ホシエサン。お世話になりますでス」  ぺこり、と遠慮がちに頭を下げる。表情はまだ硬い。 「そうだ、今夜はタオファさんの歓迎パーティーにしましょ! ちょうどね、餃子の材料を買ってきたところなのよ!! ビールと梅酒もあるわよ!」 「ぎょーざ……?」 「チャオズ、だよ」  また首を傾げていたので横から中国語の発音を伝えると、彼女はすぐに納得した。 「嬉しいで
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小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー2

「春夜。届いてたわよ、お手紙」 ある日の夕方。目が覚めてからいつも通り原稿作業に取り掛かると、母がドアをノックして一通の封筒を俺に差し出した。明るい茶色に染めた短いパーマの髪故か、実年齢より若く見られがちな母も、間もなく還暦を迎えようとしている。 「ああ、ありがとう」 「結構続いてるじゃないの。いいわねぇ、若いって」  口元を指先で隠しながら、意味深な笑みを浮かべる母。 「だから、そんなんじゃねぇんだって」  しっし、と手を振って母を追い払う。なぜ彼女がそんなコメントをするのかというと、これは文通相手からのもので、しかも差出人が女の子だからである。  逸る心を抑えながら、鋏で慎重に封筒の端を切る。中から出てきたのは、和紙でできた花柄の便箋。そこには、可愛らしく美しい字で丁寧なメッセージが綴られていた。  七夕祈先生  こんにちは、お元気ですか。いつもお返事が遅くて申し訳ございません。お手紙、いつもありが とうございます。楽しく拝読しています。 そういえば、最近よく青×白の作品を描いてくださいますね。先生の推しカプは青×朱 なのに、どうしてでしょうか。でも、とても嬉しいです。だって、それは私の推しカプですから。 もうすぐ七夕ですね。天の川が見えるといいですね。先生のペンネームとサークル名はとても素 敵ですが、それは本名が天川さんだからでしょうか。 七夕が過ぎたら、梅雨も終わりますね。暑い日が続くと思いますが、どうぞお気をつけてお過ご しください。作品の更新も、楽しみにしています。                                        モモカ 「モモカさん…
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小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー1

 北海(ほっかい)若(じゃく)曰(いわ)く、井蛙(せいあ)には以(もっ)て海を語るべからざるは、虚に拘(かかわ)ればなり。夏(か)虫(ちゅう)には以て冰(こおり)を語るべからざるは、時に篤(あつ)ければなり。曲士(きょくし)には以て道を語るべからざるは、教えに束らるればなり。今 爾(なんじ)は崖涘(がいし)を出でて、大海を観、及ち爾の醜を知れり。爾将(まさ)に与(とも)に大理を語るべし。  黄河の神・河(か)伯(はく)が初めて海を見た時、その大きさに驚いた。河伯に対し、北海の神・若(じゃく)は言った。  井戸の中の蛙に海の広さを語っても、彼は理解できない。夏の虫に氷の冷たさを言ってもわかってもらえない、なぜなら彼らは夏しか知らないからだ。己の世界が狭い者に対して真理を解いても、伝わるわけがない。彼らには、乏しい知識や経験しかないからだ。  しかし今、あなたは海の広さを知り、己の愚かさを知った。今、あなたは、真理が理解できるようになったのだ。                    *  世間の理想通りに生きていける人間なんて、きっとほんの一握りしかいない。きっと、子供の頃の俺が今のこの有り様を見たら、大いに失望することだろう。 「お買い上げありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」  斜め三十度の会釈、手は臍の前、左手が上。マニュアル通りの、機械的な所作。返事がないのは当たり前、蔑みの眼差しと舌打ちならまだいい方。絡まれて罵詈雑言を浴びせられた時は、申し訳ございません、申し訳ございませんと平謝り。ただひたすら、相手が満足して帰って行くまで。 「お先に失礼します……
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小説「人魚を祀る者たち」ー5(最終回)

 打ち寄せる波が、青白く光っている。夜光虫と呼ばれる海洋プランクトンがその正体で、波による刺激に反応して発光するという。 波音に耳を澄ませ、海面を照らす満月を見つめる。その白い光は、俺のことを待ってくれている人の姿を指し示す。ウェットスーツを着た俺は、ダイビングの器材を携え、そこへ向かっていた。  俺が、初めてダイビングをした場所。俺が、初めてかの人と心を通わせた場所。波打ち際に飛び出た岩の上に、その人は腰かけていた。月明かりに、下半身の青い鱗が煌いている。 「紫月さん」  呼ぶと、すぐこちらに振り返った。瞳は潤み、頬には幾筋もの涙の痕がある。  彼女は上半身もほとんど鱗に覆われていて、脇には鰓のような線、腕には鰭があり、指と指の間には薄い膜がついていた。奇妙な感覚ではあったものの、それでも彼女は紫月さんで間違いない、という確信があった。  俺は、公衆電話から神社に電話をかけて、彼女をここへ呼び出していた。あなたの正体と島の秘密がわかりました。話をしたいので次の満月の日の午前0時に月海浜まで来てくださいませんか、と。  なつき、と呼ぶように彼女の唇が動いた。しかし、声は出ない。駆け寄り、触れることも叶わない。そのもどかしさに、指を震わせている。 「話せなくなるっていうのは、アンデルセン童話と同じなんですね。だけど……まさか、人魚の血を飲んだ人が、不老不死になるだけじゃなくて、人魚そのものになるだなんて思いもしませんでした」  あの日、高槻潮音が見せてくれた写真。その端に写っていたのは、間違いなく、『今』と全く変わらない紫月さんの姿だった。笑いぼくろが同じ位置にあったのだから、別
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小説「人魚を祀る者たち」ー4

「ああ、荻野さんですね! お待ちしておりました、どうぞこちらへ!」  煩わしいことに、方向音痴だという教授に宿までの道案内までさせられてしまった。出迎えたのは島にある唯一の民宿の主人、高槻(たかつき)孔(こう)明(めい)である。名前だけで父親が大の三国志好きだったことがわかるその人は笑顔を絶やさない豪快な男で、胡麻塩のような顎鬚と綺麗に剃った頭、これでもかという位膨れた大きな腹が特徴だ。彼は雄二朗さんの悪友で、鮪の解体を得意とする元漁師。腰を痛めて現役を引退し、今では一人前の料理人として宿泊客を喜ばせている。 「じゃあ、俺はこれで」 「ああ。有難う、凪月くん」  礼を言う相手の顔を見もせずに、踵を返す。ズカズカと音を立てて廊下を歩き、座り込んで靴を履こうとする。  直後、目の前の扉が開かれた。現れたのは、少し長めの髪を二つに分けて結んでいる少女。聞き慣れた小さめな声で、あれ、癸くん、と続けて口にする。教室以外で、彼女――高槻潮(し)音(おん)と会うのは、この時が初めてだった。 「そうか、ここが君の家だったのか」 「うん。……あのね、癸くん」  すれ違おうとした瞬間、遠慮がちに引き留められた。苛立ちを隠せないまま、黙って振り向く。 「余計なお世話かもしれないけど……癸くんは、元の学校に戻った方が、いいんじゃない、かな」 「えっ……」  らしくもなくストレートな発言を聞いて、一瞬耳を疑った。いつも優しげな表情をしている彼女もまた、俺を疎ましく思っているのだろうか。嫌味な東京者を追い出して、平穏な学校生活を取り戻そうとしての提案なのだろうか。 「あ、ごめん、そんなつもりじゃなくて……
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小説「人魚を祀る者たち」ー3

 俺はライセンス取得のための講習を放課後に雄二朗さんから受け、週末の僅か二日間で海での実習を終わらせ、新米ダイバーとなった。学ぶことは数多く、テキストも約二センチという分厚さで初めは戸惑ったが、紫月さんがつきっきりで教えてくれたので難なくダイバーデビューを果たせたのだった。 彼女と海に潜るようになってから、教室の扉が軽くなった。伯父と顔を合わせることも億劫だったはずなのに、家に帰れば彼女がいて、すぐに海の世界を二人で満喫することができた。しかも、二人っきりで。それが、今の俺にとって最も大切なひとときとなっている。  恋をしているんだ。好きなんだ、紫月さんのことが。これまでは恋愛に何の関心も持たなかった俺でさえ、認めざるを得ないところまで来てしまっている。  彼女に恋人がいるという噂はない。だが、毎日一緒に潜ることができる幸せを壊したくなくて、俺に想いを告げる勇気はなかった。我ながら、この臆病っぷりに自分でも呆れてしまう。  そうだ、このままでいい。これから何があったとしても、現状維持に徹しよう。彼女にとっての可愛い後輩であればそれでいい。それ以外は、何も望まない。  せめて、彼女に相応しい男になるまでは――。 「……くん、癸くん。どうしたの、もう帰っていいんだよ?」 「えっ、あ、そうだな、ごめん。何でもない」  いつの間にかホームルームが終わっていたらしく、慌てて席を立つ。殆ど担任の話を聞いていなかったが、恐らく問題はないだろう。  一学期が幕を下ろし、明日からは遂に夏休みだ。しかし、一応受験勉強をしなければならない三年生にとってはあまり有り難くないものかもしれない。ダイビング
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小説「人魚を祀る者たち」ー2

 蝉が鳴き始めた。太陽がアスファルトの地面を照らし、風は湿り気を帯びている。俺はようやく慣れない学ランから解放されて、白襟の半袖シャツ一枚で学校へ向かう。 季節が変われば、新しい環境にも順応するものだ。目的地への道のりも、途中で顔を合わせる島民も、どの家に誰が住んでいるのかも、家主がどんな仕事をしているのかも、どの畑で何が育てられているのかも、全てわかるようになった。  しかし、教室の扉は、いつまで経っても重いままだ。 「おはよ、癸くん」 「あ、うん……おはよう」  四人しかいないクラスメイト。その中で、声をかけてくれるのは大抵隣の席の女子だけだった。残りの男子二人も、相手にしてくれないわけではなかったが、どこか余所余所しく、なるべく関わらないようにしようと顔に書かれてあるようだ。先程の彼女にしても、親しいと表現できるような仲ではない。他学年と廊下ですれ違っても、反応に差はない。要するに、友達と言える存在が未だにできていないのだ。  他所者が簡単に受け入れられるとは思っていなかったが、ここまでとは――頬杖をつき、窓の外を眺めながら、無意味にシャーペンの芯を出し続ける。ぽろ、と力なく机の上に芯が落ちた時、ちょうど担任の教師が入ってきて、教壇に出席簿を置いた。  こんな状態だから、部活動という名の同好会にも所属していない。こんな田舎の離島に学習塾なんて気の利いたものがあるはずもなく、放課後の俺の居場所は伯父と伯母の住む家だけだった。  我ながら、情けないと思う。受験生とはいえ、遊ぶ相手も場所もろくにないなんて。東京にいた頃とは何もかもが違った。こんなはずじゃなかった、母さんが死んだ
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小説「人魚を祀る者たち」ー1

 親父は、海で命を落とした。  遺体は、地元のダイバーが偶然見つけたらしい。鮫に腹部を噛まれた痕があり、死因は容易に想像できたが、不可解な点がいくつもあった。  まず、服装。ウェットスーツでもなければ水着でもなく、ただの普段着のままだったという。つまり、意図的に海へ潜ったわけではないということだ。死亡推定時刻が深夜であったことから、溺れていた人を助けようとしたという仮説が成り立つ余地もない。  次に、鮫の歯型には合わない鋭利な刃物の痕跡。それは見事に親父の心臓を貫いていて、そこから流れ出した血が鮫を誘き寄せたと想像できる。よって、海難事故ではなく殺人――親父を刺殺した後、何者かが遺体をそのまま海へ打ち捨てたという結論に至る。  自殺する理由もなければ、殺される覚えもないはずだった。何故なら彼は、どこにでもいる平凡な漁師としてその島で過ごしてきた男だったからだ。人あたりが良く、島の皆と顔見知りで、人間関係のトラブルも、金銭関係の諍いも起こしたことがないという。  そんな彼と俺の母さんが東京で出会い、恋に落ち、想いを遂げた。母さんが俺をその身に宿した時、結婚しよう、と彼は言った。彼女は喜んで頷いた。  だけど、すぐにはできない。一度島に帰って両親に伝えて来るから、東京で待っていて欲しい。大丈夫、必ず戻るから。子供が生まれる前に、必ずお前のもとへ行くから。  しかし、二人が再会を果たしたのは、彼岸でのことだった。母さんは、事故で他界した。パートの帰り道、歩道橋の階段で足を踏み外し、転落死してしまったのだ。  けれど、俺はそれを事故死だとは思っていない。何故ならその頃、母さんはストーカ
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小説「ニライカナイ」ー5

 容疑者・大城雅貴の供述は、次のようなものだった。 被害者・金城辰巳は雅貴の恋人・新垣美穂に思いを寄せていた。しかしその恋は叶わず、美穂は雅貴と恋人同士になり、更に将来まで誓い合うまでの仲になった。辰巳は恐らくそれに嫉妬し、東京で働いていた彼女の後を尾行して強姦したのだろう。彼女は、辰巳の子を身籠ってしまったことに絶望し、多摩川の橋から身を投げ、自殺した。  そして、辰巳はあの日、遺跡のポイントへ向かう途中の船で雅貴にこう言ったのだ。  お前の女、最高に良かったぜ、と――。  その瞬間、雅貴の心に殺意が芽生えた。辰巳が、残圧など碌に気にしない性格であることはわかりきっていた。雅貴はそれを利用し、大海のセッティングしたタンクのバルブを僅かに開け、空気を漏らした。そうして、あの事故は起きたのだった。  金城辰成を殺したのは、辰巳をこの世に産み落とした存在を生かしてはおけないと考えたからだ。彼の母親は既に他界していたので、狙いは父親一人に絞られた。雅貴の計画に協力したのは、美穂の母親である喜友名朝美――夫とは既に離婚していた――、兄である新垣武、そして武の先輩であった高橋慎吾。彼らもかつて琉球国際大学のダイビングサークルに所属していたのだ。そして、慎吾は武から借金をしていたため、彼の申し出を拒むことができなかった。  計画の内容は以下の通りだ。まず、息子が死亡したことによって頭に血が上った辰成を例のホテルに泊めさせるため、部下である武が部屋を予約。そして、清掃スタッフである朝美が辰成と武が泊まる部屋を清掃している間、ベッドの裏側に武のダイビングナイフを用意した。凶器をそれにしたのは、
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小説「ニライカナイ」ー4

「えーっ、台風が発生したぁ!?」  昼下がりのキャンパスの片隅で大声を上げたのは、遼平だった。 「うん、そうなの。石垣に行く便には乗れそうなんだけど、もうあっちは波浪警報が出てるし、ダイビングはできないと思うわ」  そう言ったのは、発案者である渚だった。 「そんなぁ、楽しみにしてたのにぃ!!」  悔しそうに頭を掻きむしる真珠。せっかくセットした髪が台無しよ、と窘める渚。 「それじゃあ、あっちに行ってもほとんど何もできないな。残念だが、キャンセルして大人しく俺たちも台風対策をしよう。こっちにも来るようだからな」  そう言ってスマホを取り出したのは、篤志だった。冷静に発言する彼を、恨めしそうに睨みつける遼平。 「いいよな、大海?」 「……えっ? あ、ごめん、何の話?」 「お前、こないだからずっと上の空だよな。台風で石垣行きが中止になったって話だよ!」 「あ、そうなの? じゃあ、仕方ないよね。キャンセルしよう」 「……大海。お前、本当に大丈夫か? まだ気になっているのか、あの事件のこと」 「うん……ごめんね、心配かけて」 「気にすんなって、あれはお前のせいなんかじゃねーんだから! 警察も納得してくれたろ?」 「そうだよ、ヒロミちゃん! あれは金城先輩本人が悪いんだから!」 「……うん、ありがとう。二人とも」  遼平と真珠が懸命に励ましてくれたが、大海が気にしているのは一件目の事故ではなく、二件目の殺人事件の方だった。あの数字が、どうしても犯人の残したメッセージであるような気がしてならないのだ。  13579、2468……その数字のことばかり考えながら、石垣行きを諦めた同級生たちの後を
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小説「ニライカナイ」ー3

「ダイバーズナイフなんか、持ってきてるわけないじゃないですか!!」  ホテルのロビーで刑事から取り調べを受けていたのは、山内友和だった。その隣には、口を噤んだままの友弥が座っている。 「私と息子のものは器材と一緒に船の上に置きっぱなしですよ、疑わしいなら島の駐在に調べさせてください!! 第一、私たちは八丈島から飛行機で来たんですよ!? 飛行機に刃物なんか持ち込めるわけないじゃないですか!! それに、私たちは一歩も部屋から外に出てないんだからそんな凶器買えやしないんですよ、なぁ、友弥!!」  傍らの息子に聞いても、彼はコクコクと頷くだけだった。 「しかし、あなた方には動機が……」  刑事がたじろぎながら反論すると、友和は更に語気を強めて言った。 「娘が殺された恨みから殺したとでも言うのですか、まだ事件なのか事故なのかもわからないのに!? もう我々の心をいたずらに傷つけるのはやめてください、刑事さん! まだ家族を喪った痛みも癒えていないんですよ!?」  静かに泣き出した友弥を、強く抱きしめる友和。とうとう、刑事は何も言えなくなってしまった。  ホテルのスタッフに監視カメラを調べさせると、確かに山内親子は部屋の外へ出ていないようだった。チェックイン前に被害者の部屋に入ったのは清掃スタッフの喜(き)友名(ゆな)朝(あさ)美(み)、チェックイン後に入ったのは被害者とその部下である新垣(あらがき)武(たけし)、そしてルームサービスのために訪れたホテルのスタッフである高橋(たかはし)慎(しん)吾(ご)だった。 「喜友名さん。清掃の時、不審なものは確かに何もなかったのですね?」 「はい、もちろ
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小説「ニライカナイ」ー2

「だから、何度も言ってるじゃないですか!! おれは、金城先輩のタンクが満タンだったことをちゃんと確かめたって!!」「しかしね、もはやそれを証明する術はないんだよ。友弥くんの証言によると、被害者の金城辰巳はエア切れを起こしていたらしいじゃないか」 「でも、おれはセッティングのあと器材に触ってないし、船が移動している間にタンクを取り換えられるわけないじゃないですか! それに、空気の入ってないタンクが最初から船にあると思いますか!? あるわけないでしょう、まだ誰も潜ってなかったんだから!!」  事件が発生した後、ダイビングサークルの面々は従姉妹島に残り、警視庁から派遣された刑事たちから事情聴取を受けていた。真っ先に疑われたのは、辰巳の器材をセッティングした大海だった。彼らは島の小さな交番で向かい合って話していたが、先ほどから押し問答が続いている。 「刑事さん、ちょっとよろしいでしょうか?」  そこへ、雅貴が割って入った。君は、と尋ねられる前に、事故が起きたのは辰巳自身の責任であると彼は言った。 「彼は僕の二つ上の先輩で、卒業して東京へ行ってもよく潜りに来ていました。彼は傲慢な性格で、いつもセッティングは後輩にさせていました。そして、いつも碌に残圧を確認せずに潜っていたことも知っています。加えて、あの体型では通常よりもエアを消費しやすいことはダイバーなら誰でも察しがつきます。なので、大海くんに責任は一切ありません。これは、金城辰巳本人が引き起こした事故です」  堂々と話す雅貴を前に、思わず口を噤んでしまった刑事たち。迷ったように視線を泳がせてから、しかし、と片方の刑事が続けた。 「今の
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小説「ニライカナイ」ー1

 ニライカナイとは、琉球神道における「神々の国」及び「生命が生まれ、死んだ者の魂が祖霊神として蘇る国」のことである。言わば、「常世の国」にあたるものだ。 琉球の島々では、東の海の果て、またはその海底にニライカナイがあると信じられてきた。つまり、太陽の昇る場所にそれがあると考えられてきた。そしてニライカナイからやって来る神々によって豊穣がもたらされ、人々の生活が支えられているのだと語り継がれてきた。  その存在が証明されたことは、未だかつてなかった。そう、あの日までは。                 *  琉球国際大学ダイビングサークルの面々は、夏休みの初日、那覇空港発羽田空港行きの飛行機の中にいた。彼らは到着後ホテルで一泊し、翌朝フェリーに乗って小笠原諸島父島・母島を経由し、従姉妹(いとこ)島(じま)へ向かう予定だ。  従姉妹島は、母島と硫黄島の間にある小さな有人島である。主な観光資源はなく、ダイバーぐらいしか訪れない知る人ぞ知る島であったが、あるものが発見されたことで、昨今注目を浴びている。 『次のニュースです。先月、小笠原諸島従姉妹島近海で発見された海底遺跡の件で、経済産業省資源エネルギー庁は、その下に大量のメタンハイドレートが発掘される可能性が高いとして、調査を積極的に進める方針であると発表しました。一方で、東京神道大学神道学部神道学科の入(いり)江(え)奈(な)津(つ)彦(ひこ)教授は、その遺跡は我が国にとって重要な史跡であると述べ、メタンハイドレートの発掘に反対する意思を表明しています。続きまして……』  琉球国際大学二年・赤(あか)郷(ざと)大海(ひろみ)は、イヤ
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小説「ユナイタマの島」ー11(最終回)

 震源地は石垣島の北北西沖約六十キロ、マグニチュードは六・八。赤間島の最大震度は五強、石垣・西表・鳩間・多良間(たらま)島は五弱であった。津波の被害は当然あったが、計算よりも波は低く、赤間島以外に幸い大きな影響はなかったという。威力が抑えられたことに多くの専門家たちが首を捻らせたが、大海たちにだけはその理由がわかっていた。ユタとしての彼の願いが、自身が最後の生贄になることで天に通じたのだ。 波は三度往来したが、赤城山の頂上に避難した島民たちと東側の牧場の家畜、そして空港は全て無事だった。日が沈む前に自衛隊ヘリが下山の困難な老人たちを優先的に救出し、他の人々は空港で一夜を明かしてから飛行機で那覇や宮古、石垣へ運ばれていった。大海たちは石垣へ渡り、島の中学校を卒業。そして全員で示し合わせて、那覇にある甲子園常連校へ進学したのだった。 「ヒロミ、今日ってミオウさん来るんだったよな!?」  部室で制服に着替えながら、遼平が尋ねる。 「うん、もう空港着いたって! じんべえざめで待っててって伝えてあるよ」  じんべえざめとは、彼らが足繫く通う沖縄料理の食堂のことである。 「おい、アツシも行くよな?」 「ああ、勿論。五年振りの再会だからな」 「じゃあ、とっとと着替えちまおうぜ!」 「バカジマ、ボタンずれてるぞ」 「げっ、マジか!!」  篤志に指摘されてようやく気づき、慌てて直す。一度寮に戻って通学鞄とエナメルバッグを置き、財布とスマートフォンだけを持って、彼らはじんべえざめへ向かった。 「いらっしゃい……って、またあんたたちかい! そうだ、県大会優勝おめでとう!」 「ありがとう、リエコおばあ
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小説「ユナイタマの島」ー10

※このページの最後に津波の描写があります。ご注意ください。「大海、そこのパイナップルを全部切ってお皿に盛りつけて。美桜さんは、このお刺身をお願いします」  上客を迎える日の夕方。聡美と大海、そして美桜の三人は、与那覇家の台所で次々と仕事をこなしていた。その日は朝からベッドメイキングや食材の調達で忙しかったが、休んでいる暇はない。聡美はあぐーじゅーしぃ――あぐー豚の炊き込みご飯――を炊く準備をしながら、二人に指示を出している。  リビングの中央に置かれたテーブルで、美桜と大海は作業に取りかかる。しばらくして、向かい側で刺身を切っている美桜が、大海に目配せをした。テーブルに置いたスマートフォンで、録音を開始したという合図だ。頷き、パイナップルの皮を剥ぎながら、聡美に尋ねる。 「……ねぇ、お母さん。どうしてわざわざ社長をここに呼んだの?」 「だって、おじいちゃんは元気のないご老人だもの。最初は東京に来てくれって言われたけど、老体を労わって欲しいって食い下がったのよ」  おばあちゃんが亡くなった後すっかり弱っちゃったからね、と言いながら二品目の調理を始める。 「社長さんは、何でおじいと話がしたいのかな?」 「決まってるでしょ。あの人たちはおじいちゃんに、リゾートホテル建設に反対する島民たちを説得して欲しいのよ。島のみんなはもう町長になんか期待してないけど、昔漁労長だったおじいちゃんの信頼はまだ厚いみたいだからね」  食材棚から車麩を取り出し、薄く切って水に戻している。どうやら、副菜はフーチャンプルーのようだ。 「でもさ、おじいだって本当は、リゾートホテルなんて建てて欲しくないんじゃない
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小説「ユナイタマの島」ー9

 ランタンを掲げながら、二人で暗い山道を歩いた。ハブに咬まれないよう用心しながら登っていたが、幸いそれに遭遇することはなかった。 山頂に辿り着いた時、満天の夜空に一筋の閃光が走った。天の川も見える。 「凄い……」  まるで宇宙にいるかのような光景に圧倒されていると、東の方角から、地響きのように何者かの声が聞こえてきた。咄嗟に跪く波音。 「ヒロミ、私と同じ姿勢になって! 東(あがり)方(かた)大(うふ)主(ぬし)よ!!」  やはりここも御嶽だったのか、と一人納得しながら彼女に倣う大海。 ――来たか、ティダヌファ。そして赤間のユタよ。 「……初めまして。お話ししたいことがあって参りました、東方大主様」  こんな言葉遣いでいいのだろうか、そもそも本当にこれは自分と神との対話なのだろうか。緊張と困惑で手が震える。しかし、頬を抓ると確かに痛むので、やはり夢ではないようだ。 「彼女と、ユナイタマから聞きました。島を守るために、おれの祖父が生贄を捧げていることを」 ――ああ、そうだ。それがどうした? 「……何故、この島なのでしょうか? あなた様が、人間による傲慢な行いによってお怒りになっていることはわかります。けど、環境破壊が進んでいるのはこの島だけではないはずです。それなのに、どうしてこの島に天罰を下すのでしょうか」 ――貴様がいるからだ、ティダヌファ。 「おれが……!?」 ――ああ、そうだ。貴様が邪魔なのだ、ティダヌファ。貴様はティダから特別な力を与えられ、そして守られている。我々が下す罰から、次々と人間を救い出してしまう。それでは罰を与える意味がない。人間を悔い改めさせることができなく
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小説「ユナイタマの島」ー8

「大丈夫、大海!? ねぇ開けて、お願いだから! 返事もできないくらい痛むの!?」 息子の部屋のドアを、叫びながら叩く聡美。中からは、苦しそうな呻き声と荒い呼吸が聞こえてくる。 「だい、じょぶ……だから、ほっといて、おかあさ……っ」  島を出ようと聡美に言われてから、大海は毎晩激しい頭痛に襲われるようになった。割れるような痛みと吐き気に耐えながらベッドで一人悶える夜が続いたが、聡美が診療所へ連れて行っても身体に異常はなく、ストレスのせいだろうとしか言われなかった。 鎮痛剤を飲んでも治まらず、その恐怖と苦しみに怯える日々。やがて、彼は痛みを感じている間、何者かの声を聞くようになった。それは人魚の歌ではなく、他の誰にも届いていないようで、初めはほとんど言葉として聞き取れなかったが、少しずつわかるようになっていった。  ティダヌファヨ、ウタキ、イケ。ユタ、オマエ、ムカエ、クル……。 「大海、波音ちゃんが来てくれてるわよ。どうしても、あなたに会いたいって言ってるんだけど……」  波音。不思議と、痛みが彼女の名を聞いた途端に和らいだ。よろめきながら鍵を開け、ドアの隙間から制服姿の彼女の顔を覗く。その瞳から感情を推し量ることはできなかったが、彼女が彼の手に触れると、嵐が去って凪いだ海のように痛みは完全に静まった。  行くわよ、と唇だけで告げて、波音はジャージを着たままの大海の手を引いて外へ出た。キャンピングランタンで夜道を照らし、突き進む。何かを悟ったのか、聡美が二人を引き留めることはなかった。  大海が連れて来られたのは、赤間御嶽だった。鳥居を潜り、聖域に足を踏み入れる。 「……聞こえたで