「薫、薫っ! 気分はどう、大丈夫!?」
「百合川先輩!! ご無事で何よりです、本当に……!!」
目覚めると、そこには保健室の白い天井、そして泣き腫らした顔の昌子と葵。その奥に、隼人と達也の姿。しばらくしてから、薫は自身が意識を失っていたことに気づいた。窓の外は、既に夕闇に包まれている。
「みんな……ごめんね、心配させて……」
「何言ってんの、アンタが謝ることじゃないでしょ!?」
ずっと薫の手を握り締めていた昌子が、更に力を込めて叫ぶ。
「達也くん……その腕、もしかして……」
「ああ、気にせんといてください! もう痛くも何ともあらへんから!」
包帯を巻いた右腕でガッツポーズをしながら、白い歯を見せる。
「良介くん……良介くんは? ねぇ、良介くんは無事なの!?」
最愛の人のことを思い出し、起き上がる薫。激しい語気に臆しながらも、昌子はそれに答えた。
「大丈夫よ。輸血が間に合ったお陰で、一命は取り留めたって」
「そう……良かった……」
心から安堵し、瞳を潤ませた薫。たまらず、彼女の細い体を抱き締める昌子。
「……ところで、何でお前が美緒さんを? 直接の知り合いじゃなかったんだろ?」
壁に寄り掛かり、腕を組んでいた隼人が尋ねる。
「うん……実はね、聞いてたの。選挙の集計の後、隼人が良介くんと話してるのを」
「はっ!? お前、あの時バレエ教室に行ってたんじゃねぇのかよ!」
「あの日はね、お休みだったの。それをすっかり忘れてて、すぐ家に帰ろうとしたら、あの噴水公園の前で二人が話してるところを見ちゃって……入りづらい雰囲気だったから、つい、隠れて聞いちゃってたの」
ごめんね、と言って眉尻を下げる。責めたつもりはなかったので、隼人もすぐに謝罪した。
「連絡は、SNSのダイレクトメッセージで取ったの。良介くんの最後の舞台を、ぜひ見に来てあげてくださいって。多忙な人だからダメ元だったんだけど、来てくれるって言ってくれて……」
シーツを握り締め、顔を綻ばせる。隼人も、それを見て肩の力を抜いた。
「じゃあ、お前もあいつの命の恩人ってわけか」
「そうね。そうじゃなかったら、会長は助からなかったかもしれないものね」
昌子に続いて、葵と達也も同意する。すると、突然保健室の扉が開かれた。
「いやぁ、素晴らしい! 傑作だ!! ラブロマンスのハッピーエンドはこうでなくっちゃね!!」
「テメェは……ッ!!」
拍手をしながら彼らに近寄って来たのは、高遠譲治だった。その姿を見た瞬間、威嚇するように睨む隼人。怯え始めた薫の肩を抱き、大丈夫よ、と囁く昌子。
「その様子だと……もう、全部わかってるみたいだね? 道理で、警察が僕を探し回っていたわけだ」
いつもの陽気な表情を消し、挑発的に首を傾ける譲治。
「そうだよ、僕が剣持学の共犯者だ。僕もSNSで彼と知り合ってね、意気投合したんだ。どうやら彼も、真田くんのことが心底気に食わなかったみたいだから」
「彼も、って……」
薫が恐る恐る問うと、譲治は眉間に皺を寄せ、叫び出した。
「そう、僕も彼が憎かった! 羨ましかった!! 何故なら、君に想われていながら、ずっと君の気持ちに応えようとしなかったからね!!」
それは、つまり恋人同士になろうとしなかったということだろうか。そう思いながら、彼らは後に続く言葉に耳を傾けた。
譲治は、薫が転校してきたその日から彼女に想いを寄せていた。しかし、それは永遠に叶わぬ恋だと悟るまで時間はかからなかった。譲治は嫉妬で胸を掻きむしる日々を送り続けた。真田良介になりたい、自分が彼だったらすぐに恋人同士になるのになぜ彼はそうしないんだ、彼女の気持ちはもうわかっているだろう――そんな苦悩を抱えていた譲治はある日偶然、SNSで剣持学と知り合った。
学は、難関国立大学の入試に失敗し、父親に顔面を殴られ、左目を失明させてしまった。そして、高学歴揃いの親戚たちに失望されながら辛い浪人生活を送っていた。嫌気が差して煙草や酒、ゲームセンター、挙句パチンコにまで手を出すと、遂に彼は家から追い出されてしまった。プライドの高い学に友人はおらず、彼を庇ってくれる者も、慰めてくれる者もいなかった。彼はコンビニでアルバイトをしながら、カプセルホテルや漫画喫茶で寝泊まりする日々を送り続けた。
そんな時、かつての後輩であり、自分と同じ鳳凰学園高校の生徒会長が、容姿端麗なだけでなく次々と難事件を解決する高校生探偵として世間から称賛され、しかも音楽業界からは将来有望なヴァイオリニストの卵として注目されていることを知り、学もまた、良介に深く嫉妬したのだった。火事を起こした後行方不明になっていたのは、ほとんど両親が帰宅しない譲治の自宅に潜伏していたからだった。
「なるほど……それが、犯行の動機だったのか」
「そう、だから二人であいつを貶めてやろうって決めたのさ。残念ながら、命を落とすことはなかったようだけどね?」
「この野郎ッ!!」
興奮した隼人が、譲治の胸倉を掴んで薬品棚に叩きつける。しかし、それでも譲治は顔色一つ変えなかった。
「じゃあ、私にミュージカルに出て欲しかったのは……」
「君を庇って死ぬ、というシナリオを想定していたからさ。まぁ、君が天に召されても僕は構わなかったんだけどね? 僕の作品の中で絶命すれば、君は永遠に僕のものになるわけだから……」
薄気味悪く譲治が笑い、薫の背筋に悪寒が走る。そして、隼人の表情は一層険しくなった。
「……で? テメェは何しに来たんだ、オレにぶん殴られに来たのか? あ!?」
「どうでもいいよ、殴りたければ殴ればいいさ。僕はただ、彼女の記憶に僕という存在を深く刻み込むためだけにここに来たんだから!!」
甲高い声で狂ったように笑い出した譲治を、渾身の力で殴ろうとした隼人。それを、既でのところで止めた達也。恐怖の余り泣き出してしまった薫を、懸命に宥める昌子。
「アカンて、先輩!! あとはもう警察に任せましょうや!!」
「放せっ、一発殴らせろ!!」
「わかったってください、わいら、先輩のそんな姿見とうないねん!!」
「そうですよ、その人を殴ったら先輩も傷害罪に問われるんですよ!?」
達也と葵が叫ぶと、我に返ったのか、隼人の動きが止まった。譲治はまだ壊れた人形のように笑い声を上げている。
「……悪かった、渡邊。お前の言う通りだ、後は警察の役目だな」
「先輩……」
隼人の力が緩んだことに気づき、彼を解放する達也。その時、文化祭の片付け作業から養護教諭が戻って来た。
「ただいまー、百合川さん目が覚めた……って、え? 何、どうしたの!?」
大学を出たばかりの年若い彼女は、異常事態であることを察したのか、すぐに狼狽え始めた。
「先生、コイツ、今日の連続殺人鬼の共犯者です。まだいますよね、警察。連行してもらいますんで、誰か呼んで来てください」
隼人が低い声で淡々と告げると、彼女は頷いてすぐに廊下へ飛び出した。警察官はすぐにやって来て、譲治を署へ連れて行った。暗闇を走るパトカーの中でも、彼は笑い続けていたという。
*
「すまない。心配かけた」
少し冷たい爽やかな秋風の吹く、一週間後の朝。良介は隼人に連れられて、地元の最寄り駅のホームで昌子、薫と合流し頭を下げた。文化祭での事件は既に知れ渡っていて、周囲の人々は鳳凰の制服を着ている彼らを意識的に避けている。中には、あからさまに白い目を向けたり、陰口を叩いたりする者もいた。しかし、彼らはそんな人々には見向きもせず、いつも通りでいることに努めた。
「それと、百合川……お前が、母さんを呼んでくれていたことも聞いた。本当に、感謝している」
「そんな……私こそ、来てもらえて嬉しかった。お母さんは、もう戻ったの?」
顔を上げてから、ああ、と良介は言った。表情に変化はなかったが、眼差しはどこか寂しげに足元を見つめていた。
それから学校に着くまで誰も口を開くことはなく、皆重い沈黙に耐え続けた。道中、堂々と彼らにスマートフォンを向けて写真を撮ろうとする輩と遭遇し、隼人がいざこざを起こそうとすると一度電車を降り、再び乗車するということを繰り返した結果、危うく遅刻してしまいそうになった。
「ったく、何なんだアイツら!! こっちは見世物じゃねぇんだぞ!?」
閉まりかけていた校門の隙間を間一髪で通り抜けてから、息を荒げて隼人が叫ぶ。しかし、朝の世間の反応は、これから良介を襲う悲劇の序章に過ぎなかったことを、彼らはすぐに知ることになる。
「どうしたの、会長……?」
予鈴の鳴り響く、人気のない昇降口。靴箱の前で固まっている良介の様子を窺った昌子も、その直後に絶句して動けなくなり、やがて怒りと悲しみの余り手と唇が震え出した。
「何よ……何なのよ、これは……!?」
死神、疫病神、退学しろ、死ね、ゴミ、カス、クズ――開閉式の靴箱のドアには、ありったけの罵詈雑言が油性ペンで書き殴られていた。中にある上履きはハサミで切り刻まれ、ゴミ箱の中身が散乱し、落書きもされている。隼人もしばし硬直し、薫に至っては膝から崩れ落ちて涙を流し始めている。
「酷い……一体誰が、こんな酷いことを……!!」
「そんなの、高遠の仕業に決まってんじゃねぇか!! あいつがSNSで、意図的にこうなるように仕組んでいやがったんだ!!」
歯を食いしばり、拳を握り締めて隼人が言う。
「こうなるように、って……まさか、会長が学園ジャック・ザ・リッパーを止めることができなかったせいで文化祭でたくさんの人が死んだっていう風にSNSで拡散したっていうの!?」
「それこそが、アイツの狙いだったんだよ……だからあの時『貶めてやろう』って言ったんだ、『殺してやろう』じゃなくてな……!!」
そう、だから二人であいつを貶めてやろうって決めたのさ。残念ながら、命を落とすことはなかったようだけどね――犯行動機を明かした時の譲治の言葉を思い出し、再び言葉を失う。
「……恐らく、机もまともに使える状態ではなくなっているだろうな」
微かに口角を上げて自嘲した良介の顔からは、明らかに血の気が引いていた。今にも泣き出しそうな彼の表情を見るのは、隼人でさえ初めてのことだった。
「俺がこのまま教室へ行けば、お前たちにも間違いなく迷惑をかける。すまないが、今日は帰らせてくれ……」
「そんな……会長は、全然悪くなんかないじゃない!!」
「そうだよ、説明すればきっと皆わかってくれるはずだよ!!」
昌子と薫は説得を試みたが、良介は苦笑いをするだけだった。二人を止めたのは、隼人だった。
「お前ら……これを見ても、コイツに教室へ行けって言えるか?」
隼人が翳したスマートフォンには、SNSが開かれていた。鳳凰学園高校、鳳凰祭とタグ付けされた投稿の検索画面には、在校生のものと思われる残忍な書き込みが多数表示されている。
――例の名探偵が無駄に事件解決して来たせいで、殺人犯を挑発させたっていう噂
だけど。そマ?
――え、じゃあ、高校生探偵とか言われて調子に乗ってたからあんな悲惨な事件が
起きたってこと?
――文化祭に行ってた人たちも、生徒たちも可哀想。完全なる巻き添え。
――一生のトラウマ確定じゃん。謝罪会見開けや。
――なんでもっと早く止められなかったんだよ、役立たず!!
――真田良介のせいで、ウチらの文化祭が台無しになった。来年から開催できなく
なったらどーしてくれんの。
――つーか、退学者いっぱい出るんじゃね? 入学する奴もいなくなるんじゃね?
――それな。
――損害賠償請求しようか?
――草。ザマァ。
「……まだまだ、こんなモンじゃねぇみてぇだな……」
「もういい、やめて! わかったから!!」
「どうして……良介くんはいつも、誰かを助けるために事件を解決してきたのに……!!」
悲痛を訴える昌子、顔を覆って嘆く薫。隼人は、靴箱の惨状をカメラに収めてからスマートフォンをバッグの外ポケットにしまった。
「……このことは、後で学校に報告しとく。だから、今日はもう帰ろうぜ、良介。送ってくからさ」
「いい。お前たちは教室へ行ってくれ」
「行きたかねぇよ、オレたちだって……」
あんな、悪意に満ちたところ――そう吐き捨て、舌打ちをしながらローファーに履き直す。
「良介くん……このまま、退学なんてしないよね……?」
上目遣いで、縋るように尋ねた薫。しかし、やはり良介は苦しげに笑うだけだった。
それが、彼の最後の登校日だった。
*