小説「人魚を祀る者たち」ー1

記事
小説
 親父は、海で命を落とした。
 遺体は、地元のダイバーが偶然見つけたらしい。鮫に腹部を噛まれた痕があり、死因は容易に想像できたが、不可解な点がいくつもあった。
 まず、服装。ウェットスーツでもなければ水着でもなく、ただの普段着のままだったという。つまり、意図的に海へ潜ったわけではないということだ。死亡推定時刻が深夜であったことから、溺れていた人を助けようとしたという仮説が成り立つ余地もない。
 次に、鮫の歯型には合わない鋭利な刃物の痕跡。それは見事に親父の心臓を貫いていて、そこから流れ出した血が鮫を誘き寄せたと想像できる。よって、海難事故ではなく殺人――親父を刺殺した後、何者かが遺体をそのまま海へ打ち捨てたという結論に至る。
 自殺する理由もなければ、殺される覚えもないはずだった。何故なら彼は、どこにでもいる平凡な漁師としてその島で過ごしてきた男だったからだ。人あたりが良く、島の皆と顔見知りで、人間関係のトラブルも、金銭関係の諍いも起こしたことがないという。
 そんな彼と俺の母さんが東京で出会い、恋に落ち、想いを遂げた。母さんが俺をその身に宿した時、結婚しよう、と彼は言った。彼女は喜んで頷いた。
 だけど、すぐにはできない。一度島に帰って両親に伝えて来るから、東京で待っていて欲しい。大丈夫、必ず戻るから。子供が生まれる前に、必ずお前のもとへ行くから。
 しかし、二人が再会を果たしたのは、彼岸でのことだった。母さんは、事故で他界した。パートの帰り道、歩道橋の階段で足を踏み外し、転落死してしまったのだ。
 けれど、俺はそれを事故死だとは思っていない。何故ならその頃、母さんはストーカーの被害に遭っていたからだ。外では常に誰かの視線を感じていて、その気配に毎日怯えていたのだ。警察に相談しても全く相手にされず、彼女はただその存在を恐れることしかできなかった。だから、母さんはそのストーカーに殺されたのだと俺は考えている。
 だが、ストーカーによる殺人の可能性など、警察は疑おうともしなかった。誰が狙うんだよ、あんなオバサン――若い刑事による小さな嘲笑を、俺は一生忘れない。
 葬儀は、伯母によって執り行われた。その時、二十年ほど前の母の主治医だったという産婦人科医が俺に挨拶をしに来た。話によると、母は五年ほど不妊治療を続けていたが、諦めて彼のもとを去ったという。でも、あの後無事に君を授かることができたんだね、本当に良かった――と、年老いた彼は涙を流していた。
 そして俺は、父の故郷・月(つき)海(うみ)島(じま)に住む伯父の養子になった。それは、子供のいない伯父からの申し出だった。伯母には家庭があったので、ぜひお願いします、と彼女は頭を下げた。
東京からフェリーで四時間、人口五百人前後の小さな孤島。飛び立つ鴎、照りつける太陽、紺碧の海。どれもが新鮮で、刺激的で、父の悲劇の舞台であったことも忘れて俺の胸は高鳴った。
 その島には、人魚を祀る神社があるとのことだった。
「東京から来ました、癸(みずのと)凪(な)月(つき)といいます。今日から、中学部二年に転入することになりました。よろしくお願いします」
 平成二十五年、五月。全生徒約五十名の前で、俺は挨拶をした。ささやかな拍手が送られる。
 少子高齢、過密過疎と騒がれる世の中だが、この島でも例外ではない。二十歳以下の若者は十人に一人の割合しかおらず、そのため唯一の学校も小中一貫にしてやっとこの人数だ。生徒は皆入学した頃からの幼馴染同士であり、先輩後輩の壁もなく全員が互いの顔と名前、その他諸々を知っている。転校生など、滅多なことでは起こりえない一大イベントに違いない。
 同級生は四人しかいなかった。中学部は一年生が二人、二年生が俺含め五人、三年生が四人の合わせて十一名。よって、学年の差こそあれ、国語と数学、英語以外はその十一人が一斉に同じ授業を受けることになる。部活動は一応存在しているが、小学部四年から中学部三年までが所属しているので、公式試合に出られるわけではない。つまり、事実上の同好会ということだ。
 二年の中で最も背が高かった俺は、挨拶を終えた後、列の最後尾に足を運んだ。東京ではブレザーを着ていたので、伯父のお下がりである学ランにもしばらく慣れそうにない。暑くなるまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせながら、首元を圧迫する第一ボタンを外した。
窮屈そうね
「……えっ?」
 どこからか、女性の声が聞こえた。いや、聞こえたというよりも、脳に響いたと表した方が正確かもしれない。
 空耳かと思ったその時、真横から視線を感じた。ちらり、と盗み見る。すると、長く艶やかな黒髪の女生徒と目が合った。心臓が飛び跳ね、咄嗟に視線を逸らす。くすくす、くすくすと笑い声が聞こえる。しかし、隣にいる三年生の彼女が笑っている気配はない。
 気のせいか――忙しなく鼓動を打つ胸に手を当て、俺はため息を吐いた。
 潮風が、校庭の砂を巻き上げていた。

                                                 *

 月海島には、二つの山が連なっている。放課後、俺は一人で北側に位置する大きな山沿いを歩いていた。木の葉はまだ青々と茂っており、隙間から陽の光が注いでいる。傍らに流れる小川の音色が耳に心地良い。
 アスファルトの坂を辿り、中腹まで辿り着く。波の音がした。眩い空の下、水平線の境目に何雙かの船が浮かんでいる。貨物船だろうか、と思いながら俺はしばらくその光景を眺めていた。
 右手には島の西側に突き出た岬があり、先端に古い灯台がある。港は山の陰になっているのでここから見ることはできない。左手の浅瀬の方に、俺の伯父の家がある。彼もかつて漁に出ていたらしいが、いつからか網を手放し、ダイビングショップを経営するようになった。店は家の真横にあるので、タンクやウェットスーツといったものが庭に放置されていることがしょっちゅうである。
 どれくらいの時間が経っただろうか。太陽の光を反射する水面、流れゆく薄い雲を見ているだけなのに、不思議と飽きずにいられる。俺の心を惹きつける何かが、そこにはあるのかもしれなかった。
「道に迷ったの?」
 人の声だと認識するまで、数秒を要した。振り返り、思わず身構えてしまう。
「あ……」
 そこには、彼女が立っていた。朝礼で俺の隣にいた、色白でどこか霊的な雰囲気をその身に纏っている彼女。学校から直接ここへ来たのか、胸元に赤いスカーフを巻いた紺色のセーラー服のままである。絹のような髪が風に吹かれ、ふわりと宙に舞う。
「いえ、あの……ちょっと、散策でもしようかな、と」
「そう。まだ島に来てから日が浅いものね」
 微かに目が細くなり、口角が上がる。唇の左端に、笑いぼくろ。その仕草に、何故か心が波紋を描く。
「小さな島だけど、良かったら案内しましょうか。どこか行きたいところはある?」
「えっ、と」
 唐突な提案に、うまく返すことができない。正直言って、何の宛てもなくただ歩いていただけなのだ。目的地などあるはずがなく、焦った末に出てきたのはこの一言。
「人魚……」
「えっ?」
 刹那、彼女の瞳が大きく開かれる。
「あの、この島って、人魚を祀ってる神社があるんですよね? なんか、面白そうだなと思って」
「そう……誰かから聞いたの?」
「伯父さんです。あっちの方でダイビングサービスをやってる」
「雄(ゆう)二(じ)朗(ろう)さんね。彼には子供がいないから、きっと大事にしてくれるわ」
「はぁ……」
 察するに、伯父さんとは親しい仲にあるらしい。狭いコミュニティでは当然のことなのかもしれないが、少し面白くなかった。
「ついてきて」
 踵を返し、ふわり、とまた髪を踊らせる。アスファルトの坂道はどんどん急になり、しばらく進むと朱色の立派な鳥居が現れた。石階段を上っていくと、沖埜綿津見神社、と書かれた旗が目に入る。
 着いたわ、ここよ。促されて、足元の砂利を踏みしめる。視線の先には何の変哲もない御社があるだけだったが、木々に覆われたその空間には人が穢してはいけない神聖な何かがあるような気がした。
「あの、ここ、オキノワタツミ神社っていうんですか? 変わった名前ですね」
「ワタツミじゃなくて、ワダツミ。ワダツミは神道でいう海神のことなんだけど、この島では特にオキノワダツミと呼んでいるの。あと、月の神様である月読尊(ツクヨミノミコト)も祀っているわ。だからこの島は、月海島というのよ」
「へぇ……」
「でもね、御神体は人魚のミイラだから、人魚神社とも呼ばれているわ」
「ミ、ミイラ!?」
 臆するあまり後ずさりした俺とは対照的に、彼女は微笑んだままだった。
「ええ、そうよ。大切なものだから、神事の時しか公開はされないけどね」
 絶対に見るものか、と心の中で誓ったが、興味のある人はわざわざ一目見ようとこの島に集まってくるのかもしれない。
「人魚はね、日本では龍宮にいる海神の遣いと言われているの。だから、人間界に災いがもたらされる前に人々の前に現れて、その危険を知らせていたという伝承があるんだけど、知ってる?」
「ああ……なんか、テレビで見たことあります。アマビエとかいう妖怪が、江戸時代のコレラの流行を予言したとか……」
 妖怪、と俺が言うと、彼女はまたくすりと笑った。
「そうね、人魚も妖怪みたいなものよね」
「えっ……俺、何か変なこと言いました?」
「ううん。だって、アマビエも人魚の仲間だもの。要するに、疫病や津波といった災厄を予知してきたのは、海からやって来た人ならざるものってことよ」
「じゃあ、御神体の人魚も?」
 俺が尋ねると、ええ、と彼女は頷いた。
 江戸時代末期、島に現れた人魚は、江戸で『コロリ』という疫病が流行っているから島に江戸から来た人や物資を受け入れないようにと警告したらしい。お陰で島からは一人も感染者が出ず、島民は心から人魚に感謝した。
 それからは、人魚の姿を描いた絵が祀られるようになった。しかし、明治になって間もない頃、あの時予言をした人魚が死にかけた状態で海岸に打ち上げられていたのだった。鮫に襲われて大量出血していたらしく、既に虫の息だったという。
 島民は懸命に看病したが、その甲斐虚しく、人魚は息を引き取った。人魚を海神(わだつみ)のもとへ還すことのできなかった彼らは、せめて高天ヶ原で海神と会えるようにと、死体をミイラにして新たな御神体にしたそうだ。
「おお、帰ったか、紫(し)月(づき)。そちらの方は?」
 背後から突然、男性の声が聞こえて跳ね上がる。しかし、彼女は至って冷静だった。
「ただいま。この子は癸凪月くん、中学部二年の転校生よ」
「ど、どうも……」
 社務所から出てきた神主らしき人物に、軽く頭を下げる。四十代後半か五十代前半と思われる髭を生やしたその男性は、白い着物に白い袴という出で立ちをしていた。
「あれ? ただいまってことは、つまり」
「そう、ここが私の家」
「え? じゃ、じゃあ」
「お察しの通り、神社の娘よ。学校の時以外は巫女として生活しているわ」
「み、巫女?」
「そういえば、まだ自己紹介をしてなかったわね。私は壬(みずのえ)紫月、こちらは壬明仁(あきひと)よ。宜しくね、凪月くん」
 にこやかに笑う二人を前に、またぎこちなく頭を下げる。
 それが、俺と壬親子の出会いだった。

サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す