小説「人魚を祀る者たち」ー5(最終回)

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 打ち寄せる波が、青白く光っている。夜光虫と呼ばれる海洋プランクトンがその正体で、波による刺激に反応して発光するという。
 波音に耳を澄ませ、海面を照らす満月を見つめる。その白い光は、俺のことを待ってくれている人の姿を指し示す。ウェットスーツを着た俺は、ダイビングの器材を携え、そこへ向かっていた。
 俺が、初めてダイビングをした場所。俺が、初めてかの人と心を通わせた場所。波打ち際に飛び出た岩の上に、その人は腰かけていた。月明かりに、下半身の青い鱗が煌いている。
「紫月さん」
 呼ぶと、すぐこちらに振り返った。瞳は潤み、頬には幾筋もの涙の痕がある。
 彼女は上半身もほとんど鱗に覆われていて、脇には鰓のような線、腕には鰭があり、指と指の間には薄い膜がついていた。奇妙な感覚ではあったものの、それでも彼女は紫月さんで間違いない、という確信があった。
 俺は、公衆電話から神社に電話をかけて、彼女をここへ呼び出していた。あなたの正体と島の秘密がわかりました。話をしたいので次の満月の日の午前0時に月海浜まで来てくださいませんか、と。
 なつき、と呼ぶように彼女の唇が動いた。しかし、声は出ない。駆け寄り、触れることも叶わない。そのもどかしさに、指を震わせている。
「話せなくなるっていうのは、アンデルセン童話と同じなんですね。だけど……まさか、人魚の血を飲んだ人が、不老不死になるだけじゃなくて、人魚そのものになるだなんて思いもしませんでした」
 あの日、高槻潮音が見せてくれた写真。その端に写っていたのは、間違いなく、『今』と全く変わらない紫月さんの姿だった。笑いぼくろが同じ位置にあったのだから、別人であるわけがない。
「最初は、貴女のお母さんだと思ったんです。でも、違いました。雄二朗さんと皐月さんの卒業アルバムも見たんですけどね、紫月さん、どうして両方のアルバムに今と同じ貴女の姿があるんですか。おかしいじゃないですか、だってあの二人は、六歳も違うのに!」
「………」
 風が、彼女の長い髪を揺らした。月明かりが、その艶を輝かせる。
「それらを見て確信しました。貴方は永遠に年を取ることのない、不老不死の身であることを。そして、貴女の子孫の名に必ず『月』の字が入っているのだということを」
 彼女の頬が強ばった。目を見開いたかと思うと、すぐに瞼を伏せ、全てを諦めたように項垂れる。
「俺の誕生日を知っていたのも、それを祝いに来たのも、その日から呼び捨てにしたことも、俺の臍の緒をお守りの中に入れたのも、全て……貴女が、俺の本当の母親だったからだ。そうですよね? そうなんですよね……!?」
 歩み寄り、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめ、叫ぶ。彼女の白い腕が俺の背中に触れ、そして、強く抱き寄せた。彼女の涙が、俺のものと合わさる。嗚咽が、直に肌から伝わってくる。小さな胸から、百四十年にも渡って鼓動を打ち続けてきた命の証が存在を主張してくる。
 俺から彼女に触れることはしなかった。こんな関係でなければ、優しく、その頬に手を添えていたはずだった。けれど、実の母親だとわかってしまった以上、そんなことをするわけにはいかなかった。彼女の息子だという現実を受け入れようと受け入れまいと、神聖な存在を穢すような行為をするわけにはいかなかった。
 それに、彼女の体には今、壬明仁との間で紡がれた小さな命が宿っている。だから、彼女は海に入らなかったんだ。妊娠は、ダイビングの禁止事項の中に入っているから。人魚の体なら別なのかもしれないが、人間として潜るわけにはいかないのだ。
 ごめんね、ごめんね、なつき、ごめんね――謝罪の言葉ばかりが、俺の脳に響いてくる。どうしたらいいかわからなくて、俺は、しづきさん、しづきさんと、ただひたすら彼女の名を呼び続けた。
 あの伝承には続きがあった。瀕死の状態で海岸に打ち上げられた人魚は、こう言った。自らの血を神社の巫女に飲ませ、その者を人魚の依り代、つまり現人神(あらひとがみ)として祀り続けよ、そして人魚の血を色濃く残し続けよ。さすればこの島は永遠に我によって守られよう、と。もし、現人神がこの島を離れたり、人魚の血が絶えたり、現人神が人魚であることが外の世界に知られたりすることがあれば、恐ろしい災厄が島を襲うだろう、と。そして、人魚によって選ばれたその巫女こそが紫月さんだったのだ。
 そして彼女はその日から、現人神――人であり神でもある存在になった。島の平穏を守り続けるために、その身を永遠に島に捧げ続けなければならなくなった。
 どうやら、彼女は自らの記憶を他者の脳に直接伝えることもできるらしい。言葉ではなく、過去の出来事の回想として。
父と雄二朗さん、皐月さん、そして孔明さんは幼い頃からの仲良し四人組だったようだ。そして紫月さんも、彼らと共にあの学校に通っていた。
 時は過ぎて、紫月さん以外の生徒は全員卒業し、大人になった。雄二朗さんは皐月さんと島で結婚し、父は東京で母と出会い、結婚した。
 母は、原因不明の不妊症と闘っていた。五年ほど続けていたが、遂にその夢が叶うことはなく、母はその病院を後にした。しかし、それでも諦めきれなかった。どうしても、子供を授かりたいと母は毎日のように口にした。
 そこで、父は禁断の提案をした。島と紫月さんの秘密を明かし、その上で、紫月さんに俺の子供を産んでもらわないか、と。
 初めは戸惑っていた母だったが、それでも誘惑に抗えず、その提案に賛同した。紫月さんも驚いたが、睦月が困っているなら、と承諾した。
 紫月さんから生まれたばかりの俺は、漁師だった父の船に乗せられ、母と三人で東京へ逃亡した。そして、父だけが島へ戻ったのだ。俺を東京で育てることを許してもらおうと、壬家に直談判をするために。紫月さんが最初に生んだ双子の兄弟の兄の子孫が壬家、弟の子孫が癸家――つまり、壬家が本家だからだ。妻はどうしても東京で暮らしたいと言っている、絶対に島の秘密を漏らしたりしないから許して欲しい、と父は頭を下げて言った。しかし、彼は紫月さんを利用した罰、そして黙って赤ん坊を攫った罰として処刑された。それが、真相だったのだ。
 人魚の血を他所の土地に広めないため、島の人間は結婚して子供を授かったら島に戻るという決まりがあった。しかし、母は悍ましい秘密のある島での暮らしを拒んだ。だから、俺を攫って夜中に逃亡し、父だけが島へ帰ったのだ。恐らく、父は自身が殺されることを覚悟していた。母もそれをわかっていた。父は、母と俺を島から守るために、たった一人で果敢に立ち向かったのだ。
 けれど、用心深い島民の魔の手は母にまで及んだ。彼女を何者かが追跡し、タイミングを見計らって夜の歩道橋の階段で突き落とし、殺したのだ。やはり、母がストーカーに狙われていたのは勘違いではなかったのだ。俺を島へ連れ戻すのも、目的の一つだったのだろう。
 母は、生前に手紙を教授に送っていた。彼女は、ストーカーが自分を殺そうとしている島民であることをわかっていて、縋るように助けを求めたのだろう。その教授が島を訪れ、俺に手紙を渡したところも誰かが見ていたに違いない。そして、壬明仁に報告し、宿の主人である孔明が教授の意識を失わせ、台風で荒れ狂った海に棄てたのだ。
 そして次に殺されるのは、島の外へ秘密を漏らす可能性の高い人間。つまり、真実を記した手紙を持ち、紫月さんの正体を今まさに目の当たりにしているこの俺――癸凪月。きっと、今も誰かが、俺たちを見張っている。
 島の住人は全て知っていて、だからクラスメイトもあまり俺と親密にならないようにしていたのだろう。高槻さんがあそこまで東京に戻るよう言ったのは、島の都合で殺されて欲しくなかったからだ。
 それは、紫月さんも同じだったはずだ。ましてや、実の息子ともなれば尚更のことだろう。しかし、東京に帰れとも、島に残れとも言わなかった。ただ、俺の笑顔を見るために、一緒に海に潜ってくれた。殺そうと思えば簡単にできたはずなのに。そんなこと、赤子の手を捻るようなものだったのに。それでもできなかったのは、やはり母としての自我を捨てきれなかったからだろうか。けれど、明仁が俺を殺そうとしているのを知って、お守りの中にあの手紙も入れたのだ。
 回想と同時に、彼女の想いも痛いほど伝わってきた。通常、彼女の子供は島の夫婦が引き取って育てるのだが、どうやら島で育たなかった彼女の子供は俺だけだったようで、成長していく姿を間近で見守ることができなかったことをとても悔やんでいたらしい。だからこそ思わぬ再会に心から喜んでいたのに、それを伝えることができず、更に俺に恋をされ、戸惑い、それに応えられないことにも苦しんでいたようだ。
 そして彼女は、自らの運命を呪っていた。人魚の依り代となるために血を飲まされ、不老不死の人魚となり、己の息子に犯され子を産み続け、人魚の血を濃く残さなければならないという定めに嘆き続けていた。
しかし、終止符を打つ手立てがわからなかった。いや、できなかったと言うべきだろうか。その運命から逃れるためには、先代の人魚と同じように、誰かに自分の血を飲ませてしまえばいいだけの話だからだ。だが、優しすぎる彼女に、そんなことができるわけがなかった。
 満天の星空に、月が妖しく浮かんでいる。どの時代でも、どの世界でも、月には魔の力が宿っていると信じられてきた。潮の干満も、月の満ち欠けによって決まる。月と海には切っても切れない関係がある。だから、沖埜綿津見神社は海神(わだつみ)と月読(つくよみの)尊(みこと)を祀っているのだ。だから、紫月さんの子孫の名に『月』が入っているのだ。
月の光と海水を浴びることによって、彼女は人魚になる。あの美しい声が封じられてしまうのは、不老不死になったことによる代償なのだろうか。しかし、今思えば『不死』ではなく『不滅』の方が正しいのかもしれない。
「紫月さん。……最後に、思い出を下さい」
 涙を拭いながら、こくり、と小さく頷く。ありがとうございます、と言ってから、俺はタンクを背負い、マスクを装着し、フィンを足につけ、レギュレーターを咥えた。ウェットスーツ姿で現れた時点で、潜水が目的であることは一目瞭然だっただろう。
「他にいませんよね、本物の人魚とナイトダイビングが出来る人なんて」
 手を繋ぎ、彼女の瞳を見つめて、精一杯笑ってみせる。それに応えるように、そうね、と唇を動かしてから、彼女も微笑んでくれた。
 夜の海は、昼とはまた違った表情を見せる。ライトに照らされた先、そこには珊瑚の陰で眠っている熱帯魚が、夜の帳に歓喜する魚たちが姿を現している。
水深十メートルほどのところで、徐にレギュレーターを放した。マスクも外し、瞼を閉じる。海水が、口腔を、鼻腔を侵し、喉の奥へと流れ込んでいく。肺が酸素を求め、心臓が命を留めようと抗い、脳が、首が、早まるなと、地上へ戻れと、必死に俺を叱咤するように熱を帯びていく。
 やめてくれ、生きようとしないでくれ。もう、俺にそんな意志なんてない。俺は、どのみちいつか殺される。それに、俺の母親を殺したのは、雄二朗さんかもしれないし、皐月さんかもしれない。だから、もう誰も信用できない。ならば、その運命を受け入れるしかない。
 紫月さん。俺が貴女のお腹にいた時も、こんな感じだったのかな。あたたかい水に包まれて、あの臍の緒で貴女と繋がっていたのかな。
 意識が遠のいてきて、ライトが手からすり抜け、落ちた。彼女の声が聞こえる。叫ぶように、俺の名を呼んでいる。嬉しいな。でも、貴女が俺を愛してくれたのは、貴女がお腹を痛めて産んだ子供の一人だからだ。どんなに努力しても、決して、一人の男として愛される日なんてやって来ない。この気持ちを、どうしたらわかってもらえるだろう。涙を流しても、すぐ海に溶けて消えてしまう。
 紫月さん。できれば、赤の他人として、どこか別の場所で出会いたかった。健康で、何のしがらみもなく、男として、女として、互いに想い合うことができたら、どんなに良かっただろう。
 貴女はきっと、これからも生き続ける。島によって、人魚の呪いによって、欠けては満ちる月のように、永遠にこの世を見つめ続ける。
 だったら、いつか見つけて欲しい。生まれ変わった後の、もう一人の俺と出会って欲しい。人間だったら、話しかけて欲しい。女だったら、親友になって欲しい。男だったら、もう一度、俺にチャンスをください。
 その時は、きっと、きっと――。
 満月の夜が明けた後、一人分のダイビングの器材が沖で浮かんでいるのが見つかった。しかし、その持ち主らしきダイバーが発見されることはなく、彼は行方不明者となり、七年後に死亡が認定された。
 しかし、同じ頃に島の巫女も姿を消していた。島民たちは血眼になって探し回ったが、彼女が見つかることもなかった。
 二人の失踪が宣告された頃、人魚の加護を失った月海島に疫病の感染者が立ち入り、ウイルスはたちまち島中の人間を侵していった。高齢者ばかりだった島の人口はあっという間に半分以上減ってしまい、空き家ばかりになった島からは人が離れ、やがて誰も住まなくなった。
 島の伝説を知る者は、時が経つにつれていなくなった。そこにはただ、忘れ去られた神社があるだけだった。

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