小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー1

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 北海(ほっかい)若(じゃく)曰(いわ)く、井蛙(せいあ)には以(もっ)て海を語るべからざるは、虚に拘(かかわ)ればなり。夏(か)虫(ちゅう)には以て冰(こおり)を語るべからざるは、時に篤(あつ)ければなり。曲士(きょくし)には以て道を語るべからざるは、教えに束らるればなり。今 爾(なんじ)は崖涘(がいし)を出でて、大海を観、及ち爾の醜を知れり。爾将(まさ)に与(とも)に大理を語るべし。 

 黄河の神・河(か)伯(はく)が初めて海を見た時、その大きさに驚いた。河伯に対し、北海の神・若(じゃく)は言った。
 井戸の中の蛙に海の広さを語っても、彼は理解できない。夏の虫に氷の冷たさを言ってもわかってもらえない、なぜなら彼らは夏しか知らないからだ。己の世界が狭い者に対して真理を解いても、伝わるわけがない。彼らには、乏しい知識や経験しかないからだ。
 しかし今、あなたは海の広さを知り、己の愚かさを知った。今、あなたは、真理が理解できるようになったのだ。
                   *
 世間の理想通りに生きていける人間なんて、きっとほんの一握りしかいない。きっと、子供の頃の俺が今のこの有り様を見たら、大いに失望することだろう。
「お買い上げありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
 斜め三十度の会釈、手は臍の前、左手が上。マニュアル通りの、機械的な所作。返事がないのは当たり前、蔑みの眼差しと舌打ちならまだいい方。絡まれて罵詈雑言を浴びせられた時は、申し訳ございません、申し訳ございませんと平謝り。ただひたすら、相手が満足して帰って行くまで。
「お先に失礼します……」
「お疲れ様でーす」
 レジ金の確認を終え、制服を脱いで裏口から去って行く。雨は上がっていたが、空はまだ厚い雲に覆われていて、今日も朝日は拝めそうにない。時折肌を撫でる湿った生温い風が、不機嫌な俺の神経を逆撫でする。
「ただいまー……」
「お帰り、春(しゅん)夜(や)! 行ってきます、お母さん!」
「行ってらっしゃい、夕(ゆう)夏(か)。お帰り、春夜」
 帰宅すると、大抵出勤していく姉と入れ違いになる。長いストレートの黒髪を額で左右に分け、メイクのみならずファッションやアクセサリーにも気合が入っていて堂々としている姉は、今日もハイヒールの音を高く響かせて家を後にした。俺は、欠伸をしながら冷めた朝食を電子レンジで温め直して食べ、ベッドへ倒れ込み、泥のように眠った。
 清掃、品出し、レジ、清掃、品出し、レジ……毎晩ずっと、同じことの繰り返し。決して難しい仕事ではないのに、愛想も要領も物覚えも悪い俺は昼の面子に嘲笑され続け、耐え難くなった結果深夜の固定スタッフとなってしまった。一人は気楽だし、時給も昼よりは高い。けれど、こんな生活を送っていて、心身にいい影響なんてあるわけがない。俺はいつまでこうしていなければいけないのだろう、といつも考えながら、一日の始まりと共に深い深い意識の底へと沈んでいく。
 天川(あまかわ)春夜、二十八歳。資格なし、友人なし、彼女なし。幼稚園の頃から一人でいることが多く、学生時代の休み時間はずっと図書館で借りた本を読んでいた。今の言葉を使って言えば、俺はまさに「陰(いん)キャ」そのものであった。
最終学歴は四年制大学であるものの、フリーターのままもう六年以上という時を過ごしてしまっている。いいなと思う職業がないわけではなかったが、父に認めてもらえるとは思えず早々に選択肢から除外し、俺は気乗りしないまま就職活動に臨んだ。
けれど、あの頃もまだ景気が悪く、予想以上の苦戦を強いられてしまった。今となってはもう、履歴書を書いた枚数も応募した会社の数も名前も全く覚えていない。それでも今なお鮮明に甦るのは、説明会や面接の予定ばかりで埋まっていくスケジュール帳、溜め息を吐きながら腕を通したリクルートスーツ、面接官との無味乾燥なやり取り、遂には開封する気すら失せてしまった大量のお祈りメールたちの幻影。
 新卒という最強のカードを失った瞬間、俺は全てを諦めて、以来ずっと近所のコンビニで働き続けている。根気よく続ければいつかきっといいご縁がある、と母は何度も俺を説得したが、同じ歳の頃に異常なほどの好景気を経験していた母からの言葉が俺の心に響くことはなかった。お前なんか要らない、と繰り返し言われることの辛さは、同じ立場の人間にしかわからない。
 けれど、姉は違った。四つ年上の彼女は、自由奔放で、自信満々で、就職活動を始めてすぐに大手化粧品メーカーの内定を獲得してしまったのだ。友人は勿論のこと、恋人にだって恵まれている。本当に同じ血を分けた姉弟なのかと、俺はずっと疑ってきた。
 母は俺を気遣って何も言わなかったが、日本で知らぬ者はいない、泣く子も黙る大手通信会社に勤める父は容赦なく俺を侮蔑した。高校受験の時も大学受験の時も、常に姉の結果と比べられて惨めな思いをさせられてきたが、就職活動を止めた時、遂に父は俺に言ったのだ。
お前は失敗作だ、と。
 父とは滅多に揉めない温厚な母も、その発言に怒り、涙を流しながら俺を擁護してくれた。姉も、俺を傷つけるようなことを言ったことはない。家庭から居場所をなくさなかっただけマシなのだと、俺は何度も己に言い聞かせた。
 それでもやはり、俺は父のことが苦手だった。何の取り柄もない自分のことを受け入れて欲しい、愛して欲しいと思ったことはないけれど、父は出来損ないの俺だけでなく、俺の好きな世界のことすらも根本から否定し続けているのだ。その態度だけは、どうしても許せなかった。
「ただいまぁ! しゅんやぁ、おねえさまのお帰りよぉー!」
 日が暮れる頃に起き上がり、パソコンをつけて小説の執筆作業に没頭していると、飲み会帰りの姉がノックもせず急にドアを開け、俺の部屋に侵入してきた。肩に手を置き、背後から画面を覗き込む。
「うわっ、酒臭ぇ!!」
「あんたってぇ、ぶんしょぉだけはホント上手いよねぇー。それさぁ、次のオンリーイベントのしんかぁん?」
「ああそうだよ、つーかとっとと風呂入れよ!」
「ねーえー、いつになったら麒(キ)×白(シロ)のやつ描いてくれんのぉー? 七夕(たなばた)祈(いのり)せんせぇー!!」
 青(アオ)×白(シロ)と青×朱(アカ)はたくさん書く癖にぃ、と言いながら俺の頭頂部に顎を乗せ、穴を掘るようにぐりぐりと動かす。これ以上酔っ払いの相手をしたくなかったので、俺は彼女を廊下に突き出しすぐさま鍵を閉めた。
 そう、俺と姉は、いわゆる「オタク」と呼ばれる部類の人間である。更に分類するのであれば俺は「萌(もえ)豚(ぶた)」及び「腐(ふ)男(だん)子(し)」というもので、彼女は「腐(ふ)女子(じょし)」及び「コスプレイヤー」に該当する。「萌豚」とは萌え系美少女アニメを、「腐男子」と「腐女子」は男性同士の恋愛を描いた作品を好む者たちの総称である。「コスプレイヤー」は、文字通りキャラクターなどのコスプレを嗜む人々のことだ。
 そして現在俺たちがハマっているのは、「陰陽(おんみょう)四(し)神(じん)戦(せん)勇(ゆう)記(き)」という名の、古代中国を舞台にしたソーシャルゲームのキャラクターたちだ。四神たる東の青(せい)龍(りゅう)・南の朱雀(すざく)・西の白(びゃっ)虎(こ)・北の玄(げん)武(ぶ)、そして中央の麒(き)麟(りん)の加護を受けた選ばれし者たちが世に蔓延る悪、つまり妖怪たちを倒して「桃源郷」、即ち楽園を築いていくというストーリーが基盤となっていて、アニメ化までされている。課金すればするほどレベルが上がり易くなり、使える武器や技が増え、コスチュームも豪華になるという恐ろしいゲームであるが、これが中々面白くて止められない。
そして俺が推している、つまり夢中になっているのは「朱雀」という赤い髪にお団子頭のチャイナガールなのだが、それ以外のメンバーは全員美声を持ったイケメンたちであるため世の腐女子たちから絶大な支持を得ていて、二次創作も非常に盛んである。
 オンリーイベントとは、ある特定の作品の二次創作物を扱うオタクたちの祭典、即ち同人誌即売会のことだ。「七夕祈」は、俺のペンネーム。つまり父が否定している俺の趣味というのは、マンガ・アニメ・ゲームを嗜み、かつ同人活動に興じていることである。
 姉が推しているのは明るく破天荒なムードメーカー・白虎で、キラースマイルのリーダー格・麒麟がその彼氏設定になっている作品を好んでいる。しかし俺はクールでキザでツンデレな青龍と明るく無邪気な朱雀との愛の行方を追うのが特に好きなので、そこは決して譲れない……いや、譲ってはいけないのだ。
 イベントが開催されるのは海の日、そして印刷会社への入稿締め切りはその三日前である。残された時間は、約三週間。メインの青(アオ)×朱(アカ)本(ぼん)は完成しているものの、もう一冊の青(アオ)×白(シロ)本の進捗状況は芳しくない。それまでに何としてでも仕上げなければ、と俺は闘志を漲らせた。

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