小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー2

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「春夜。届いてたわよ、お手紙」
 ある日の夕方。目が覚めてからいつも通り原稿作業に取り掛かると、母がドアをノックして一通の封筒を俺に差し出した。明るい茶色に染めた短いパーマの髪故か、実年齢より若く見られがちな母も、間もなく還暦を迎えようとしている。
「ああ、ありがとう」
「結構続いてるじゃないの。いいわねぇ、若いって」
 口元を指先で隠しながら、意味深な笑みを浮かべる母。
「だから、そんなんじゃねぇんだって」
 しっし、と手を振って母を追い払う。なぜ彼女がそんなコメントをするのかというと、これは文通相手からのもので、しかも差出人が女の子だからである。
 逸る心を抑えながら、鋏で慎重に封筒の端を切る。中から出てきたのは、和紙でできた花柄の便箋。そこには、可愛らしく美しい字で丁寧なメッセージが綴られていた。
 七夕祈先生
 こんにちは、お元気ですか。いつもお返事が遅くて申し訳ございません。お手紙、いつもありが
とうございます。楽しく拝読しています。
そういえば、最近よく青×白の作品を描いてくださいますね。先生の推しカプは青×朱
なのに、どうしてでしょうか。でも、とても嬉しいです。だって、それは私の推しカプですから。
もうすぐ七夕ですね。天の川が見えるといいですね。先生のペンネームとサークル名はとても素
敵ですが、それは本名が天川さんだからでしょうか。
七夕が過ぎたら、梅雨も終わりますね。暑い日が続くと思いますが、どうぞお気をつけてお過ご
しください。作品の更新も、楽しみにしています。
                                       モモカ
「モモカさん……どんな人なんだろうな……」
 読み終わり、溜め息を吐きながらその名を呟く。
 彼女とは、「ドローイングポスト」略して「ドロポス」というオタク向けのSNSで知り合った。自作のイラストや漫画、または小説を投稿し、閲覧者からいいねをしてもらったりコメントを書いてもらったりする機能や、自分の好きなマンガ・アニメ・ゲームの二次創作作品を検索し、ファンになったユーザーをフォローする機能が備わっている。「モモカ」さんは俺のフォロワーで、しかも全作品に嬉しいコメントを書き込んでくれる、言わば俺のファンになってくれた人だ。
 最初はドロポス上でやり取りをするだけだったが、いつからかモモカさんが手紙を出してもいいかと聞いてきて、特に断る理由がなかったので了承し、文通が始まったのだった。
手紙を書き合うようになってからかれこれ半年は経過しているが、彼女は千葉県に住んでいる女子大生で、本名は織(おり)田(た)明(あ)姫(き)。推しキャラ、つまり一番好きなキャラクターが青龍、推しカプ、つまり最も好んでいるカップリングが青(アオ)×白(シロ)であることしかわかっていない。
彼女は相当レベルの高い絵師で、俺よりも断然フォロワーの多いユーザーだ。しかし、漫画がうまく描けないことが悩みらしく、同人誌を出したくても出せないという。
だったらイラスト本を出せばいいのではないか、と俺含め多くのフォロワーがコメントしているが、自信がないしどうしても漫画がいいのだと意地になっていて、やはりイベントに参加する気はないらしい。
ところで俺はというと、文通が始まったのはいいものの、もっと彼女のことが知りたい、でもどこまで踏み込んでいいのかわからない、というジレンマに悩まされ、未だにオンラインでもオフラインでもオタトークしかできていないのであった。
「あれ、もう一枚ある」
 二枚目の便箋に気付き、目を通すと、そこにはビッグニュースが記されてあった。
 追伸
 そういえば、今度のオンリーイベント「桃源郷で会いましょう14」で、初めて先生が同人誌を
出されるそうですね!
とっても嬉しいです!! 必ず買いに行きます!!
「う、嘘だろ……!?」
 何ということだろう。生まれて初めて同人誌を発行し販売するという記念すべきその日に、モモカさんがわざわざ会いに来てくれるなんて。夢じゃないだろうかと勘繰って思いきり頬を抓ったが、途轍もなく痛い。どうやら、これは現実のようだ。
 余りの嬉しさに、高揚が止まらない。興奮がそのまま体の震えとなって現れ、便箋を封筒に戻す手つきさえたどたどしくなってしまう。
 この調子じゃ、当日は失神してしまいそうだな――そう思いながら俺は眼鏡を外しベッドの上で何度も何度も寝返りを打って己を落ち着かせようとしたが、結局その晩は作業をすることも碌に眠ることもできなかった。
                   *
「すみません、青×白本を一部ください!」
 オンリーイベント当日。合同企業説明会などでも使われるだだっ広いその会場には所狭しと長机が並べられ、その上にはファンたちによる同人誌やグッズが陳列されている。スピーカーからは陰陽四神戦勇記のアニメ主題歌が流れているが、参加者たちの歓喜の声もその音声に負けじと響き渡っている。パイプ椅子に座って行き交う人々を眺めていると、高校生らしき女の子がこちらへ歩み寄り、一冊くださいと言って五百円玉を差し出してきた。
「あ、ありがとうございます。二百円のお返しです」
「あの……祈先生は?」
「あ、今コスプレ撮影会の方に行ってまして……」
「そうですか、じゃあ、これからも頑張ってくださいって伝えておいてください!」
 俺の初めての同人誌を抱きしめながら、笑顔で会釈して去っていく。その背中が見えなくなってからじわじわと喜びの波が押し寄せてきて、長机の下でこっそりと拳を握った。
 陰陽四神戦勇記の登場人物はイケメンばかりであるが故に、ファンの九割以上は腐女子で占められている。右も左も前も後ろも、どこを見ても女子ばかり。数少ない男性作家として出陣する度胸は勿論なかったので、この日のために「七夕祈」という女性らしくも安直なペンネームを作り、そして本人ではなく売り子と偽って参加しているのだ。
 しかし、唯一「七夕祈」が男であることを知っている人がいる――そう、モモカさんだ。彼女が俺の個人サークル「ベガとアルタイル」のスペースに来てくれたら、きっと一目で俺が本人であることに気づいてくれるだろう。残念ながら本の売れ行きはあまり良くないけれど、念のため彼女のために一部残しておいてある。早く来ないかな、まだかな、あの人かな、いやあの人かな、とびっきりの美人だったらどうしよう、アイドル並みの可愛い子だったらどうしよう、何を話そう、それ以前にうまく話せるのだろうか――そんなことばかり考えながら、落ち着きなく周囲を見渡し続ける。
「何ニヤニヤしてんのよ、みっともないわね!」
 ドカッ、と音を立てて隣の椅子に姉が座った。ライオンの鬣のように立派な金色の長髪を靡かせた麒麟のコスプレが、腹立たしいほど様になっている。一体誰が作ったのか、麒麟の刺繍が施された黄金のチャイナ服は最早商品レベルのクオリティだ。姉の面影は、もはや右目にある泣き黒子しかない。
「ニ、ニヤニヤなんかしてねぇよ!」
 反射的に言い返すと、姉は鏡を開いて俺に向けてきた。そこには、頬を紅潮させ顔の筋肉を緩めまくった、わかりやすい表情の俺がいた。
「そんなに気色悪い顔されたら、買いたくても買えないじゃないの。私がここにいてあげるから、トイレで顔洗ってシャキッとしてきなさい!」
「うっ……」
 悔しいが反論の余地はなく、俺はすぐに席を立った。人込みを掻き分け、少し離れたところから振り返ってスペースを見遣ると、信じ難いことに姉の周りには一瞬で人だかりができていた。やっぱり気色悪かったのかと反省し、トイレで顔を洗ってから無表情をキープする練習を五分ほど続ける。
 姉は今こそ大手化粧品メーカーに就職しているものの、将来はプロのメイクアップアーティストとして独立することを目指して平日の夜間に美容の専門学校へ通っている。大企業に就職して安定した収入源を確保しつつ、いい相手を見つけて結婚するのが望ましいとする両親の意向に沿いつつも自らの夢を決して諦めないその姿勢を貫ける彼女が眩しすぎて、俺は劣等感に圧し潰されてしまいそうだった。
しかも、そのスキルをコスプレに活かせるのだから尚更である。幸い俺は長年にわたる読書歴の甲斐あって文章力に恵まれ、言葉によって推しへの愛を表現することはできるものの、推しそのものになれる快感を知っている姉が羨ましくて仕方がなかった。
過去に一度そのような愚痴を零したところ、じゃあアンタもやればいいじゃない、メイクもしてあげるし衣装だって用意してやるわよ、と二つ返事で言われた。しかし俺が成れるキャラクターは、堅物で恋愛に疎い眼鏡キャラ・玄武しかいないような気がして断ってしまった。首筋まで伸びた黒髪を切って七三分けにするだけで大幅に玄武に近づくことができるのは確かだが、推しキャラでもなければ推しカプの片割れでもないため、どうしても気乗りしなかったのである。
顔を洗い、深呼吸をしてからスペースへ戻ろうとすると、なんとテーブルの上には本が一冊も残っていなかった。腐女子向けの青×白本のみならず、ノマカプ――ノーマルカップリング、つまり男女の組み合わせ――の青×朱本すらも完売していたのだ。俺の作品が予想外に評価されたからなのか、それとも姉の神々しい麒麟コスプレのお陰なのかはわからず、嬉しさと悔しさの入り混じった複雑な心境になったが、それよりも注目すべきだったのは、本がなくなってしまったスペースの前で悲しそうに俯いている一人の女性の姿だった。
毛先を軽く巻いた長い茶髪に銀縁の丸眼鏡、そして袖口とスカートの裾がフリルのレースで可愛らしくなっている花柄のベージュのワンピースがよく似合っていて、胸元の赤いリボンも映えている。
「あっ、やっと帰って来た!! モモカさん、アイツです! アイツが七夕祈です!!」
 アイツとは何だ人聞きの悪い、という苛立ちと、遂にこの時が、という興奮が綯い交ぜになる。彼女が、モモカさん。可愛らしく美しい字で俺と文通をしてくれた、あのモモカさん。
 姉が俺を指し、彼女が振り向く。幼い顔立ちをしていた彼女は、一重瞼の瞳からポロポロと涙を流していて、白く細い指先でそれを拭っていた。
「あ、アナタが……イノリ先生?」
「そ、そうです、貴女が、モモカさん……あ、本、まだあります! モモカさんのために、一部ずつ、とっといてあります……!」
「何よ、あるんだったらとっとと出しなさいよ! 彼女、完売したショックで泣いちゃったのよ!?」
 喧しい姉は無視して、段ボールの中の最後の一部ずつを彼女に手渡す。
「あの、お代は結構です。貴女のお陰で、俺、頑張って書けたようなものなので……」
「…………」
「……えっと、モモカさん? だ、大丈夫ですか?」
 受け取った同人誌を凝視したまま、彼女は指を微かに震わせ、しばし立ち尽くしていた。俺が顔を覗き込むように彼女を見ると、我に返ったのか、急に勢いよく顔を上げ、そして、大声で言い放った。
「イノリ先生……いえ、シュンヤサン! ワタシと、結婚してくだサイ!!」
「はっ……!?」
 何を思ったのか、彼女はイベント会場の中心で愛を叫び出した。周囲が一斉にこちらに視線を向けてきて、傍らの姉も放心している。どうやら、聞き間違いではないらしい。
「ちょ、ちょっとこっち来て!!」
 とにかくその場から離れたくて、俺は彼女の腕を掴んで会場の外へ連れ出した。開けっ放しのシャッターの向こうには、貨物船の行き交う東京湾が広がっている。梅雨明けの強い日差しと、蒸し暑い潮風が夏の訪れを俺たちに告げている。
「け、結婚してくださいって……あの、深い意味はないですよね? ほら、俺たちオタクって、すぐ推しカプに向かって結婚!! とか言うし……!」
「す、スミマセン……でも、私、アナタに会えたこト、トテモ嬉しいだかラ。アナタに会いたいだかラ、私、日本に来ましタ。アマカワ、シュンヤサン」
 運動不足が祟って、少し走っただけで肩で息をしている自身の情けなさを痛感しつつ両膝に手を置いた俺。すると、頭上から少々たどたどしい日本語が聞こえてきて、耳を疑った。
「え、ちょっと待って……モモカさん、ですよね?」
「ハイ、そうでス」
「し、失礼ですけど……証拠って、あります?」
「ショウコ……? スミマセン、わかりませんでス」
 首を傾げる彼女の反応からすると、証拠として相応しいものが何なのかがわからないのではなく、証拠という言葉の意味そのものがわからないということらしい。
「え、あれ……?」
 混乱のあまり、遂に言葉が出て来なくなってしまった。俺が視線を泳がせていると、彼女は恐る恐る、申し訳なさそうに告げる。
「ゴメンナサイ。私、モモカですけド、ホントは、モモカじゃありませんでス」
 脳内がショートしかかっている俺にその言葉の真意を処理する余裕などなかったが、彼女が差し出した俺からの手紙と、隣国のパスポートが全てを物語っていた。
「私ノ名前、李(リ)桃(タオ)華(ファ)でス。中国人でス。上海から来ましタ。タオファは、日本語デ、モモカ読みまス」
「え、でも、住所は千葉県だったじゃないですか……? 名前も、織田明姫って……」
「アキサンは、私のトモダチ。私が、彼女に手紙送りまス。それかラ、彼女がいい日本語にしテ、アナタに手紙、送るしましタ」
 つまり、今目の前にいる彼女が千葉に住む織田明姫さんに手紙を出し、明姫さんがその文面をより自然な日本語に直してから俺に送っていたということだろうか。
「私、ウソつきでス。私、中国人であルのに、日本人の振りしタ。本当に、申し訳ございませン」
 彼女を責めるつもりなど毛頭なかったが、深々と頭を下げられてしまい、より一層どうしたらいいのかわからなくなってしまった。そこへ、スペースから引き上げてきた麒麟の姿のままの姉が救世主の如く現れる。
「ちょっと春夜、どうゆうこと!? どうしてモモカさんがアンタに謝ってんのよ!!」
「いや、その……」
 少しずつ冷静になってきた頭で、事の顛末を姉に説明する。姉はさほど驚いた様子もなく、頷きながら俺の話を聞いてくれた。
「へぇ、そうなんだ。中国でも人気なの? 陰陽四神戦勇記って」
「ハイ、トテモ!!」
 悲しげな表情を浮かべていた彼女が瞳を輝かせ、声を張り上げて答えた。
「中国ノ学生、ミンナ、日本のマンガとアニメ大好きでス! オンミョウシジンセンユウキは、中国の話であルから、私タチ、トテモ嬉しい!!」
「私たちも、わざわざ中国から来てもらって嬉しいわ。ね、春夜?」
 腕を組みながら俺の方に視線を寄越し、同意を求める姉。素直に従って、コクリと頷く俺。
「私は夕夏。春夜の姉で、推しは麒×白よ。よろしくね」
「ハイ、よろしくお願いしまス、ユウカサン。キリンのコスプレ、かこいいでス!」
「ホント? ありがと!」
 話しながら、笑顔で握手する二人。姉の対応力と順応力の高さを見せつけられ、俺は敗北感に打ちのめされた。
「ところで、日本へは旅行で来たの? 東京にはいつまでいるの? 良かったらホテルまで送ってってあげましょうか?」
 矢継ぎ早に問う姉についていけず、モモカさん――もとい、タオファさんは口を噤んでしまった。代わりに、今度は俺がたどたどしい中国語で通訳する。
「凄いでス! シュンヤサン、中国語、できるでスね!!」
「あ、いや……大学で、少し勉強しただけだから」
 中国の文化や歴史には前から興味があって、学生時代は文学部中国文学科に所属していた。まさか、その頃単位を取得するためだけに学んでいたことがこんな形で役に立つとは。
「今、私は夏休みでスから、日本に来ましタ。旅行でス。でモ……」
「でも?」
 姉と俺が声を揃えて尋ねると、彼女は再び泣きそうな顔になってしまった。
「ココに来る前、私、財布ありませんなりましタ。財布、credit cardありまス。今、私、passportと、mobile phoneしかありませんでス。suit caseも、飛行機が、なくすしましタ。hotelの予約も、できてる思た、でも、できてない言われたでス」
「ええっ!?」
 再び声が重なってしまいバツが悪くなったが、それどころではない。財布もスーツケースもなく、ホテルの予約すら取れていなかった彼女は一体、これからどうするつもりなのだろうか。そして俺は、彼女のために何をすべきだろうか。
「じゃあ、ウチに泊まりに来る?」
「はっ……ちょ、何言ってんだよ姉貴!!」
 俺が思い悩んでいる最中に、姉は堂々と言ってのけた。流石にタオファさんも困り顔である。
「で、でも、私、お金ありませんでスから……」
「いいのよ、困った時はお互い様なんだから! 口うるさいガンコ親父は単身赴任中だし、お客さん用のお布団もあるし!」
 日本で三本の指に入る大手通信会社・ハードウェアワークスに勤めている父・龍彦(たつひこ)は、現在上海で暮らしている。なぜなら、中国最大手の通信会社・棗紅(ツァオフォン)との次世代AI共同開発のために本社から派遣されているからだ。
「エッ、ト……」
 姉の口から難しい日本語が次々と飛び出してきて戸惑いを隠せないようだったが、俺にもそれらを全て中国語に訳せるほどの能力はなかったので、とにかくうちに来て、とだけ彼女に伝えた。

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