小説「人魚を祀る者たち」ー4

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「ああ、荻野さんですね! お待ちしておりました、どうぞこちらへ!」
 煩わしいことに、方向音痴だという教授に宿までの道案内までさせられてしまった。出迎えたのは島にある唯一の民宿の主人、高槻(たかつき)孔(こう)明(めい)である。名前だけで父親が大の三国志好きだったことがわかるその人は笑顔を絶やさない豪快な男で、胡麻塩のような顎鬚と綺麗に剃った頭、これでもかという位膨れた大きな腹が特徴だ。彼は雄二朗さんの悪友で、鮪の解体を得意とする元漁師。腰を痛めて現役を引退し、今では一人前の料理人として宿泊客を喜ばせている。
「じゃあ、俺はこれで」
「ああ。有難う、凪月くん」
 礼を言う相手の顔を見もせずに、踵を返す。ズカズカと音を立てて廊下を歩き、座り込んで靴を履こうとする。
 直後、目の前の扉が開かれた。現れたのは、少し長めの髪を二つに分けて結んでいる少女。聞き慣れた小さめな声で、あれ、癸くん、と続けて口にする。教室以外で、彼女――高槻潮(し)音(おん)と会うのは、この時が初めてだった。
「そうか、ここが君の家だったのか」
「うん。……あのね、癸くん」
 すれ違おうとした瞬間、遠慮がちに引き留められた。苛立ちを隠せないまま、黙って振り向く。
「余計なお世話かもしれないけど……癸くんは、元の学校に戻った方が、いいんじゃない、かな」
「えっ……」
 らしくもなくストレートな発言を聞いて、一瞬耳を疑った。いつも優しげな表情をしている彼女もまた、俺を疎ましく思っているのだろうか。嫌味な東京者を追い出して、平穏な学校生活を取り戻そうとしての提案なのだろうか。
「あ、ごめん、そんなつもりじゃなくて……ちょうど一学期も終わったことだし、帰ってもいいんじゃない? いいことないよ、こんなところにいたって。高校だって、東京の方がいいでしょ?」
「……それは、そうだけど」
「それに、もう『あの人』と関わらない方がいいよ! 一緒にダイビングして、随分仲良くなったみたいだけど……騙されてるんだよ、癸くんは!!」
 大人しい性格の彼女が、途端に語気を荒げた。眉を顰め、反論しようとすると、彼女は下駄箱の上の写真立てを俺の目の前に翳した。
「見て、これ! 端っこの人!!」
 色褪せている、古びた写真。背景になっているのは、俺達が通っている学校の正門だった。卒業式の時のものらしく、学ランを着た若かりし日の雄二朗さんと孔明さんが楽しそうに肩を組んで笑っている。まだ小学生の皐月さんも一緒だ。
 その傍らで、物憂げに佇んでいるのは……
「凪月」
 びくっ、と大袈裟に肩を強ばらせた彼女。呼ばれたのは俺なのに、呼んだのはただの上級生なのに、何故彼女が蛇に睨まれた蛙のように怯えなくてはならないのか。
「紫月さん……どうして、ここに」
「明仁から聞いたのよ、もしかしたら教授を宿へ案内してるんじゃないかって。こんにちは、潮音ちゃん」
「こ、こんにち……は」
 視線を下げ、小さな声で返事をする。震える手で慌ててスリッパを出してから、彼女は逃げるように厨房へ去っていった。
「……あの、紫月さん」
「ごめんなさい。しばらく、ダイビングはお休みすることにしたの。神社の手伝いもしないといけないし」
 俺の言葉を遮って、機械のように返事をする。どうして、と言う前にまた先手を取られてしまった。
「誕生日おめでとう、凪月。今日は、これを渡しに来たの」
「えっ……あ、」
 そういえば、今日が俺の十五の誕生日だった。色々あり過ぎて、すっかり忘れてしまっていた。
 彼女の白い指が、そっと俺の手に触れる。差し出されたのは、紺色の布で出来たごく普通のお守りだった。中央に、刺繍で『沖埜綿津見神社』と綴られている。
「これはね、私が作った特別なお守りよ。肌身離さず持っていれば、どんな災厄からもあなたを守ってくれるわ。でも、もし開けて中身を見てしまったら……」
 彼女の瞳に見つめられて、金縛りに遭ったかのごとく動けなくなってしまった。ごくり、と生唾を呑む音を立てる。
「とても、恐ろしいことになるわ。だから、決して開けないようにしてね」
 妖しく微笑んで、人差し指を紅い唇に添える。その表情は、写真の人物と良く似ていた。
 それだけ言い残して、彼女は宿を後にした。既に空は藍色に染まっている。黒い雲の隙間で、白い星が微かに瞬いている。
 波の音を聞きながら一人帰路を辿り、自宅の扉を開けた。台所から皐月さんの声と、食欲をそそる匂いがする。ニュース番組が、台風の接近を知らせていた。
 自室に着くや否や、ベッドに勢い良く倒れ込み、ため息を吐いた。そして、先程受け取ったばかりのお守りを見つめる。
 彼女は今、どうしているのだろう。何故、急にダイビングを休止したのだろう。何故、俺の誕生日を知っていたのだろう。何故、プレゼントをくれる気になったのだろう。何故、突然呼び捨てで呼ぶようになったのだろう。
「紫月さん……」
 切なげに、恋しい人の名を呼ぶ。無意識に、手の平のそれに口づける。
 決して開けてはならない――彼女の忠告が木霊する。しかし、幼稚な俺が好奇心に抗うことは叶わなかった。
しかし、すぐに俺は後悔した。脂汗が垂れ、額を伝う。鼓動も、体温の上昇も抑えられない。
「……何だ、これ――!?」
 目を疑う、とはまさにこのことだった。
 そこにあったのは、干からびたナメクジの死骸のようなものと青い魚の鱗だった。一体何故、お守りにこんなものが入っているのか。何故、彼女はこんなものを俺に贈ったのか。
 そして、折りたたまれた小さな紙も入っていた。恐る恐る開いてみると、そこには彼女からの伝言が記されていた。
 島から出なさい、一刻も早く――。
 恐怖に怯える己を奮い立たせ、真相を確かめるべく、俺は再び外へ飛び出した。
 寺と違って神社に墓地はないが、それでも肝試しの舞台にはもってこいだなと思いつつ進んでいく。生温い風が、木々を揺らし、肌を撫でる。満天の星空は、鎮守の森によって遮られる。
 やっとの思いで階段を上り終え、鳥居を潜って境内に足を踏み入れる。御社には、まだ仄かに光が灯されていた。静かに砂利を踏みしめ、荒れた息を潜めながら、そこへ近づいていく。
「いい加減にしろッ!!」
 突然、男の叫び声が聞こえた。反射的に身を石灯篭の陰に隠し、左胸を押さえ、呼吸を整える。毛穴という毛穴から、一斉に冷や汗が湧き出る感触がした。震える指先が、熱を失っている。
 先程の罵声は、壬明仁のものだろう。そして、僅かに聞こえてくる啜り泣くような声は、間違いなく、かの人のものだった。
「お願いよ、もう止めて、止めましょうこんなこと、もう疲れたの、赦して、もう赦して……っ!」
「たわけが! 我々壬と癸の永遠の使命を忘れたのか!? 何のために人魚の血を守ってきたのか、島の秘密を守り続けてきたのかわかっているのか!?」
「そんなわけないじゃない!! でももう無理よ、間違ってるわこんなこと、もう私、貴方たちの子供なんて産めない、産みたくない……っ」
「ふん、何を今更。それが百四十年以上も己の息子たちと馬鍬い続けてきた女の言う台詞か? 差し詰め、例の少年に情けを覚えたというところか。十四年も、臍の緒と己の鱗をお守りに入れて大事そうにしていたぐらいだからな」
「……明仁、どうしても、やるっていうの?」
「当然だ。疑いの芽は、すぐにでも摘まねばならぬ」
「…………」
「母上よ、これが其方の、そして我々一族の運命なのだ」
「――私、わたし……っ」
「永遠に、この繰り返しだ。其方が人魚の依り代として、現人神(あらひとがみ)として選ばれた以上、その事実を島の外へ漏らしてはならぬのだ!!」
「でも、でもっ……」
「甘えるでない。だが、そんなにその子を産みたくないのであれば、堕ろしてしまっても構わぬぞ? どうやらあの少年は母上に気があるらしいからな、少したぶらかせばころっと落ちてしまうであろう。散々其方がしてきたことだ、難しいことではあるまいて!」
「……無礼者、恥を知れっ!!」
 遠ざかる笑い声、響き渡る悲痛の叫び。それは僅かに木霊して、それっきり、何も聞こえなくなった。
 ああ、そうか。わかったよ、紫月さん。全部、ぜんぶ、今この瞬間で、全ての謎が解けてしまった。全て、あの手紙の通りだった。出来れば、知りたくなかったんだけどな。やっぱり、パンドラの箱は開けてはいけないものだったんだ。俺は、こんなところに、来るべきではなかったんだ。貴女と、逢うべきではなかったんだ。貴女に、恋をすべきではなかったんだ。
 涙が、頬を伝う。同時に、夜空に一筋の光が走り、そして、消えた。
 どこかへ行きたくて、一人になりたくて、俺はふらりと境内を出た。台風の接近を知らせる風に身を任せ、灰色の空を見上げる。店には閑古鳥が鳴き、この機会にタンクを満タンにしてくると伯父が言っていたので家にいても良かったのだが、何となく、どこか知らない場所へ行きたかった。出来れば、その場で自分という存在を消し去ってしまいたかった。
 浜辺を臨む公園があった。初めて訪れる場所に、人の姿はなかった。寂れたベンチに腰掛け、荒れた海を見つめる。適当な石を拾い、そして、海に投げ捨てた。俺もいっそ、親父のようになってしまおうか。そんなことを考えながら、一人項垂れる。もう、涙を流す気力さえ残っていない。
 その翌日から、雨が降り始めた。滝のようなそれが屋根を叩きつけ、風は絶えず窓を揺らす。島民は、台風の被害を恐れて高台の公民館に避難していた。同じ学校の生徒とその家族が、身を寄せ合って嵐が過ぎ去るまで耐え忍ぶ。昔の村人がこれを海神(わだつみ)の怒りと思っても不思議ではないな、と妙に納得している自分がいる。
 台風は一日で去り、そのまま本州に上陸したと報道された。あの荒れ模様が嘘のように、いつも通りの日常がそこにはあった。しかし、島にはたった一人の行方不明者が出た。
 荻野教授の遺体が海岸に打ち上げられ、死亡が確認されたのは、それから一週間後のことだった。死因は、溺死とのことだった。台風で荒れた海を見物しようとして灯台のある岬へ赴き、そのまま足を滑らせて落下したか、高波に攫われたのだろうと警察は判断した。

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