小説「人魚を祀る者たち」ー3

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 俺はライセンス取得のための講習を放課後に雄二朗さんから受け、週末の僅か二日間で海での実習を終わらせ、新米ダイバーとなった。学ぶことは数多く、テキストも約二センチという分厚さで初めは戸惑ったが、紫月さんがつきっきりで教えてくれたので難なくダイバーデビューを果たせたのだった。
 彼女と海に潜るようになってから、教室の扉が軽くなった。伯父と顔を合わせることも億劫だったはずなのに、家に帰れば彼女がいて、すぐに海の世界を二人で満喫することができた。しかも、二人っきりで。それが、今の俺にとって最も大切なひとときとなっている。
 恋をしているんだ。好きなんだ、紫月さんのことが。これまでは恋愛に何の関心も持たなかった俺でさえ、認めざるを得ないところまで来てしまっている。
 彼女に恋人がいるという噂はない。だが、毎日一緒に潜ることができる幸せを壊したくなくて、俺に想いを告げる勇気はなかった。我ながら、この臆病っぷりに自分でも呆れてしまう。
 そうだ、このままでいい。これから何があったとしても、現状維持に徹しよう。彼女にとっての可愛い後輩であればそれでいい。それ以外は、何も望まない。
 せめて、彼女に相応しい男になるまでは――。
「……くん、癸くん。どうしたの、もう帰っていいんだよ?」
「えっ、あ、そうだな、ごめん。何でもない」
 いつの間にかホームルームが終わっていたらしく、慌てて席を立つ。殆ど担任の話を聞いていなかったが、恐らく問題はないだろう。
 一学期が幕を下ろし、明日からは遂に夏休みだ。しかし、一応受験勉強をしなければならない三年生にとってはあまり有り難くないものかもしれない。ダイビングも恋煩いも程々にしないとな、と自らに言い聞かせつつ昇降口へ向かう。
「癸凪月くん……かな?」
 眼鏡をかけた見知らぬ男性に名を呼ばれ、足を止める。彼は校門に背を預けて、ずっと俺のことを待っていたようだ。中折れ帽もスーツの上下もワイシャツも、靴も時計も全て黒。文字通り頭の天辺から爪先まで黒に統一されている姿に違和感を覚え、これでサングラスだったら完全に殺し屋だな、と内心で毒づく。ロマンスグレーの髪と短い髭、目尻と口元の皺から察するに、歳は六十代半ば程だろうか。
「そうですけど……貴方は?」
「すまないね、急に呼び止めてしまって。私は、こういう者なんだけれど」
 名刺入れを取り出し、そのうちの一枚を差し出す。受け取ったそれには、荻(おぎ)野(の)博之(ひろゆき)、東京神道大学神道学部民俗学科教授と記されていた。
「君は、十六年前この島で亡くなった癸睦月さんの息子さんだね。私の兄は警視庁に勤めていてね、その事故の捜査に携わっていたんだ。兄はもうこの世の人間ではないけれど、最期まであの事件を未解決のままにしてしまったことを悔やんでいてね。その遺志を果たすために、私はこの島へやって来たんだ」
 眼鏡の奥の瞳は、真っ直ぐに俺を見ていた。
「それと……君のお母さん、小(お)野(の)寺(でら)汐(しお)里(り)さんは、私の教え子だったんだ」
「えっ……!?」
「この島の人魚伝説のことも、彼女から聞いてね。一人の神道学者としても興味を持ったんだよ。この後、もし良かったら神社まで案内してくれないかい?」
「はぁ……まぁ、いいですけど」
 見知らぬ初老の学者とはいえ、母の恩師と言われると断れない。仕方なく、俺は彼を神社まで連れて行った。
「やぁ、凪月君。久し振りだね、元気にしてたかい」
「はい、ご無沙汰してます」
 柄杓で掬った水で手を清めながら、ぺこりと会釈する。明仁さんの視線は、神社でお参りをしている荻野さんの方に移った。
「ところで、あの方は? 君と一緒に来たのかな」
「はい。東京神道大学で教授をしている人だそうです」
 話題にされていることに気づいたのか、彼もこちらの方を向いた。鎮守の森と共に風に吹かれながら、俺達のもとに近づく。
「神主の方ですか? 初めまして、東京神道大学の荻野と申します。今日東京から来たばかりなので、この島の神様にご挨拶をと思いまして」
 そう言いながら名刺を渡し、明仁がそれを受け取る。
「それはどうも、有難う御座います。ところで、此度は何故こちらに?」
「研究のためです。民俗学の講座を主に担当しているんですが、学生からこの島の人魚の伝説を聞いて興味が湧きまして。確か、人魚のミイラがこの神社の御神体になっているんでしたよね」
「ご存知でしたか。ですが、神事以外で公開することはできないことになっておりますので……」
 申し訳御座いません、と丁寧に頭を下げる。荻野さんはあっさり納得し、二三言葉を交わしてから境内を後にした。その場に残る理由もなかったので、そそくさと彼の背中を追う。
「あの、俺には事件の真実を明らかにするのも目的って言ってましたよね。どうしてそのことを言わなかったんですか」
「どうも、神社の人は信用できなくてね。兄も怪しいと言っていたんだ、根拠は特になかったらしいんだけど」
 所謂、刑事のカンってやつかな。と加えながら、海の見える坂を下りていく。長袖のスーツも烏のような黒装束も、滑稽なほど夏の日差しと不似合いだった。
「でも、あながち間違いでもなかったと思うんだ。ところで、君の名付け親は、お父さんとお母さんのどっちだったのかな」
「母の方だと聞いてますけど」
 なぜそんなことを、と訝しみつつ答える。彼の質問の意図が全く読めなかった。
「そうか……」
「あの、なんでそんなこと聞くんですか」
「君は疑問に思っていないのかい? なぜ、壬と癸の一族の人間の名に必ず『月』という字が入っているのか」
 立ち止まり、振り返る。目ではなく、心を射るように俺の顔を捉えた。木漏れ日が、彼の額を伝う汗を照らす。蝉時雨が、一瞬遠のいたような気がした。
 凪月、紫月、睦月、皐月、明仁、雄二朗――これだけ揃っていれば、気づかない方がどうかしている。だけど、その理由を深く考えたことはなかった。
「名字にしたってそうだ。壬と癸は十干における九番目と十番目、五行における水の兄と弟という意味だということは知っていたかい」
「いえ……」
 己の無知が恥ずかしくなり、俯いて呟くように返す。
「ここからは私の推測なんだけれど、壬家と癸家のご先祖様は共通しているんじゃないかな。それで、あるきっかけで二つに分かれた。つまり、両家には血の繋がりがあると思っているんだけれど」
「……だから、何だっていうんですか」
「ところで、君はこの島の人魚に纏わる言い伝えをどう聞いているのかな」
 俺の言葉を無視して、再び問いかける教授。質問を質問で返すなよ、と心の内で舌打ちをしたが素直に答えておいた。初めて会った日に、彼女から聞いた話を反芻しながら。
「成程ね。やっぱり、兄さんの勘は正しかった」
「何なんですか、勿体ぶらないで早く言ってくださいよ!」
「凪月くん、君は嘘をつかれている。やはり、あの神社の人間は信用しない方が良さそうだ」
「嘘? 何がだよ!」
「とにかく、君にこれを読んで欲しい」
 なぜか冷静になることを忘れ、敬語が使えなくなるほど興奮した俺を余所に彼は落ち着いたままだった。ポケットから封筒を取り出し、俺に渡す。宛先は教授、送り主は俺の母だった。
 便箋には、一族の名のことだけではなく、紫月さんから聞かされていない悍ましい内容が綴られていた。
「嘘だ、こんなの……俺は、信じないっ!!」
「信じるか否かは君の自由だが、真実は真実だ。僕はできる限りのことをやるよ、君のお父さんのためにもね」
 その手紙は、君に渡しておこう。そう言ってから彼は黒い背広を翻した。
鴎の声が、遠くから響いていた。

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