小説を書いたり読んだりする頭

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小説
本屋で買ってきて、夢中で読んで
「ああ面白かった」
と、本を閉じた時、既に深夜の二時を回っていた。

なんてことは多くの人が経験したことでしょうけれど、私にもそういう経験がありました。中二の頃だったでしょうか・・・。
いや、象徴的な意味ではなくて、現実として誰しもが通る14才のことですよ?
念のため(笑)
開いて数ページで引き込まれ、先がどうなるのか気になり過ぎて、本を片手に夕食のテーブルにつき、母親に怒鳴られながらも本を放さず、自動人形のように冷蔵庫から麦茶を、食器棚の奥からせんべい的なものを取り出してそのまま自室にこもり、トイレも忘れて読みふけったのでした。

むろん、本は好きでした。小学校上がる前から読み始め、おみあげは何がいいとか父親が言い終わる前に「本」といい、たまに行くデパートでは、でっかい図鑑なんかを買ってもらうようなガキでした。
でも、そこまで引き込まれた「小説」はあれが初めてだったと思います。未だに憶えているし。
本は好きだったけれど、小説が好きというわけではなかったのも、あの体験を特別な思いで記憶させている要因だと思います。

めくるめく場面展開、登場人物がイキイキと立ち上がる。物語は一直線に盛り上がり、私の中の不満や不安なんかとらせんを描いて絡み合ってゆく。
そしてクライマックス。一抹の哀しさと寂しさを匂わせつつ、優しい融解とともに盛り上がり続けた硬いその世界を霧のような優しさで作者は抱きしめました。今になって思えば、本当に子供達を愛しておられたのだろう、と思います。
読み終えてすぐ、私にもこのような物語が書けるだろうか! とえんぴつを手に取り、ノートに向かった! 
の、だったらまあ格好良かったんだろうけれど、そのまま本を放り出して、ニヤニヤしつつ眠っただけでした。

それから何年後か、初めて小説っぽいものを書こうとした時には、あんな面白いものが書けたらな、と確かに思ったのです。アホのように楽観的に。
思っただけで、その本を再び開いたり研究したりはしませんでしたけれど。
そして書いている最中、私はあの体験を不思議とあまり思い出しませんでした。目のまえで紡ごうとする自分の文章と格闘するのに脳のリソースを取られ、過去読んだ作品を思い出すだけの余裕がなかったということかもしれません。
結果できたものは、なんだかよくわからん文章の塊に過ぎず、ガッカリしたものです。これが私の能力か、と。

後になってやっと気がついたのは、書くのと読むのとじゃ大ちがい、という当たり前でした。文字をなにやら頭で処理し、読了やら完成に持ってゆくという道具立ては似ているのだけれど、言うなれば、自転車でヒルクライムするのと、下り坂を転ばないように下るのとの違いみたいなもので、使う能力も筋肉もかなりちがうのです。
こんな当たり前なことすら、わざわざ頭を捻ってみないと気がつけない自分に愕然としつつも、これがいわゆる「体験」なんだな、と妙な納得感も得ました。

そしてちょっと笑いました。

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