小説「海を夢見た蛙(かわず)」ー最終回

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「面会希望の方。どうぞ、お入りください」
 入室を促され、刑務官に会釈する。ガラス越しに見えたのは、囚人服に身を包んだ織田明姫の姿だった。彼女は、窃盗罪、贈収賄の罪、そしてチャイニーズマフィアへの誘拐の幇助の罪で受刑している。
「……あなたが今更、一体何の用?」
 猫背になり、恨めしそうに上目遣いで睨んできた彼女。よく眠れていないのだろう、目の下に深い隈が幾重にも刻まれている。
「ちゃんと、聞いておきたかったんです。どうしてあなたが、タオファさんを困らせるために財布を盗み、タオファさんが寝ている間に彼女のスマホで勝手にホテルの予約をキャンセルした挙句、マフィアに彼女の居場所を教えたのか」
 財布とホテルだけならわからなかったが、盆コミのスペースの前にマフィアが現れた時点で、全て彼女の仕業だと気づくべきだった。なぜなら、チャイニーズマフィアならタオファさんの手紙を入手してアキさんの名前と住所を手に入れることも、来日していることを知るのも朝飯前だと考えたから。そして、直接アキさんを訪ね、タオファさんの居場所を教えれば金を出すと言われたはずだと思い至ったからだ。アキさんは、ドロポスやSNSの告知で俺たちのサークルのスペース番号を知っていた。だからこそ、スペースを離れてから電話して、マフィアにそれを伝えることができたのだ。
タオファさんが日本で行方不明になったと警察に伝えたのも、彼女だろう。タオファさんが俺の家にいることを知っていて、俺や母、姉貴を誘拐犯に仕立て上げるために。
「……そんなことを聞いて、何になるっていうの」
 舌打ちをしてから、彼女が愚痴を零すように言う。
「何となく、ですけど……あなたは俺と似ているからです。自分に自信がなくて、将来に希望が持てない。オタクで、冴えなくて、恋人どころか友人もいない。俺も、そういう人間でしたから」
「でしたから? もう私みたいなのとは違うっていうわけ?」
「ええ、違います。少なくとも、自分に自信は持てるようになったし、将来の希望も見えましたから」
 俺が断言すると、癪に障ったのか、彼女は大きな音を立てて机を叩き、立ち上がって吠えた。
「いい気になるんじゃねぇよこの腐男子! 萌豚!! キメェんだよ、根暗なオタクの癖に文通相手とイチャつきながらスペースに来やがって!! その上テメェらの合同誌は飛ぶように売れやがった!! それに比べて私の漫画は全ッ然!! しかも李(リ)桃(タオ)華(ファ)は若くて可愛くて、しかも大企業のお嬢様ときた!! 私の家は貧しくて大学にさえ行けなかったのに!! 何なんだよテメェらは、ふざけんじゃねぇよ!! わざわざ面会にまで来て、そこまで私のことをバカにしてぇのかよ!?」
 言い切ってから、彼女は泣き崩れた。机に突っ伏して、大声を上げて泣き続けた。
「……タオファさんは、アキさんは優しい人だって言ってました。俺もそう思います。だって、わざわざ歪な日本語を丁寧な日本語に書き直して手紙を出すなんて、優しい人じゃなきゃできません。俺はただ、残念で仕方がない。あんなに可愛らしくて美しい字を書いていたあなたが、嫉妬心に囚われてこんな姿になってしまったのが……」
「…………」
「ただ、一つだけ訂正させてください。タオファさんが大企業の令嬢であることは事実ですが、それ故、命を狙われやすい立場であること、不自由な身であることを忘れないでください。しかも、彼女には祖父が決めた婚約者がいたんですよ? その彼は同性愛者で、婚約は破棄されましたけど」
「…………」
「人にはそれぞれ与えられた立場があるんです。割り振られた能力があるんです。あなたは漫画が描けて、俺にはできないように。日本に来たくても、祖父の許しを得られなかったタオファさんのような人がいるように。そのことも、覚えておいて欲しいです」
「…………」
「だから、俺たちは……その立場と能力で、できる限りのことをするしかないんです」
「…………」
「時間です。戻ってください」
 面会室の隅で記録を取っていた刑務官が、事務的な口調で告げた。アキさんは黙って立ち上がり、扉の向こうへ消えていった。
 刑務所を出ると、雨は止んで、すっかり晴れていた。沈もうとしている夕日を見て、西の彼方にいる彼女は今頃どうしているだろうな、とふと思った。
 事件から五年後。俺とタオファは、都内のホテルで結婚式を迎えていた。
「それでは、お色直しをした新郎新婦の入場です。拍手でお迎えください!!」
 司会者が言うと、招待客たちから拍手が送られた。ドアが開くと同時に、歓声と笑い声が上がる。主に、あの事件の後にできたオタクの友人たちからのものだ。タオファの友人たちは、アイヤーと嬉しそうに言いながらスマホで俺たちの姿を撮影する。
 俺は玄武、タオファは朱雀のコスプレをしてヴァージンロードを辿り、再び正面の席についた。言うまでもないが、衣装とメイクを担当したのは、メイクアップアーティストとして独立した姉・夕夏である。彼女は、誇らしげな表情を浮かべつつ口笛を吹いた。
 姉の隣には母、そして父の姿。横のテーブルには、棗紅(ツァオフォン)の前社長夫妻。つまり、タオファの祖父母が座っている。前社長は狭心症のせいで少し痩せてしまったものの、棗紅グループの会長としてまだまだ取り仕切っていくつもりらしい。しかし、今日は終始号泣しっぱなしで威厳が全く保たれていない。
 そんな俺はというと、事件の後すぐに日本語教師養成講座を半年間受講し、修了後すぐに日本語学校に就職して、非常勤講師として三年間働き続けた。現在はコンビニのアルバイトを辞め、学校の専任講師として勤務している。なので、会場には上司や仕事仲間たちも来てくれている。
 タオファは、現在漫画やアニメの台詞、そして小説などの翻訳の仕事をしている。日本のアニメや漫画のみならず、小説も中国では大人気で、受注が絶えないそうだ。
「えー、皆さん、改めまして本日はお集り頂き誠にありがとうございます。さて、ご存じの方も多いとは思いますが、今の私たちの格好は、『陰陽四神戦勇記』というソーシャルゲームのキャラクター・玄武と朱雀です。俺は小説、彼女は絵を描いてそのゲームの二次創作をしており、それがきっかけで巡り合いました。ですから、彼らへの感謝を込めて、そのコスプレをしております」
 俺が説明すると、続いてタオファさんが中国語に訳した。彼女の友人たちがうんうんと頷いている。
「そして、せっかくですので、ここからは中国の結婚式で行われる儀式を二つしてみたいと思います。一つ目は、拜天地(パイビェンティー)。これは天地や両親に向けて、夫婦の間で行われるお辞儀です。二つ目は交杯酒(ジョーベイジュオ)と言って、夫婦で腕を交差させながら杯の酒を飲み合う儀式です。何と、秦の時代から始まった歴史あるものだそうです。そしてこれが意外と難しくて、練習では何度も零してしまいました。しかし、今日は失敗しないように頑張りたいと思います!」
 ははは、と小さな笑い声が響く。そんな中、俺たちは拜天地(パイビェンティー)を済ませ、緊張しながら交杯酒(ジョーベイジュオ)を行った。しかし、恥ずかしさも手伝って、やはり腕が震えてしまう。
「春夜さん。頑張って、大丈夫だから!」
 すっかり日本語の上達したタオファだが、その無邪気な笑顔にはあの頃の面影が残っている。それを見てリラックスしたのか、腕の震えは止まり、俺たちは酒を一滴も零さずに飲み干した。互いに杯を上げると、拍手喝采が送られる。
「それでは皆さん、中国の結婚式では欠かせない、二つの掛け声をお願いいたします! 一つ目は『新婚快乐(シンホェンクワァイラー)』、二つ目は『百年好合(バイニェンハオへ)』です。では、俺の掛け声に続いてお願いいたします。参りましょう! せーの、」
「新婚快乐(シンホェンクワァイラー)!!」
「百年好合(バイニェンハオへ)!!」
 日本人の今一つな発音と、本物の発音が入り混じる。しかし、これで――いや、これがいいのだ。これが、俺たちの見たかった結婚式そのものだった。
「春夜さん」
「うん?」
 招待客が再びシャンパングラスで乾杯し合っている中、朱雀の姿をしたタオファが不意に俺にキスをした。彼女は、いたずらっぽい笑顔を浮かべている。
「宝贝(バオベイ),我爱你(ウォーアイニー)!」
 俺も口角を上げ、彼女の細い体を抱き上げて言い返す。
「亲爱的(チャァインダ―)、我爱你(ウォーアイニー)!!」

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