あいつとの一番古い記憶は、夕暮れのオレンジに染まる部屋に響く、美しくも哀しいピアノの旋律。まるで、それに合わせているかのようにカーテンが風に吹かれている。
「ねぇ、それ、なんていうきょく?」
どうせわかりはしないのに、お気に入りのテディベアを抱きながら尋ねる幼い俺。指を止め、こちらを一瞥し、小さく溜め息を吐いてからあいつは言った。
「ラフマニノフの幻想的小品集第一番、エレジー変ホ短調」
「エレジーって?」
「悲しみの歌。もともとは、死んだ人のために作られた曲のことだった」
「ふぅん。じゃあ、ヘンホタンチョーって?」
「残念ながら、音楽のおの字も知らない奴に説明できることじゃないな」
ふん、と鼻で笑ってから口角を上げる。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、そういうイヤミな性格はきっと何十年経っても変わらないだろう。
「もういい、りょーすけのばか!」
ふくれっ面をして、そっぽを向く。けれど、決して出てはいかない。あいつの奏でる音楽に耳を傾けることが、何よりも好きだったから。
俺とあいつは、いわゆる幼馴染という関係だった。俺は当時まだソ連の一部だったウクライナ出身の父親と日本人の母親との間に生まれた。父は亡命先のアメリカで留学中だった母と出会い、交際し、結婚を申し込んだ。
しかし父は母の妊娠が発覚した直後に交通事故で亡くなり、母は帰国してから東京で出産した。札幌の実家から勘当された母は途方に暮れていたが、そんな母を助けたのが、俺が通っていた幼稚園で知り合った女性。彼女こそが、あいつ――真田(さなだ)良介(りょうすけ)の母親だった。彼女はかつて世界的に有名なヴァイオリニストだった人物で、その血を継いで生まれたあいつは、当然のように音楽の英才教育を受けていた。
おまけに、容姿にも恵まれていた。艶やかな黒髪も、切れ長の瞳に二重瞼も、高く筋の通った鼻も、全て美人の母親譲り。寡黙で素っ気ないところは、恐らく父親譲りだろう。結果、あいつは羨望と嫉妬の眼差しを受け続け、他人から距離を置かれ、幼稚園でも小学校でも孤立状態だった。
一方で、俺――霧崎(きりさき)・レオニードヴィッチ・隼人(はやと)も、金髪碧眼という日本人離れした外見と名前のせいで集団から疎外されていた。つまり、似た者同士で傷の舐め合いをしていたということだ。放課後になったらあいつはピアノやヴァイオリンの練習をし、俺はその傍らで大人しくそのメロディーを聴いていた。それが、幼い頃の俺たちの日常だった。
そんな日々が、ずっと続けば良かったのに。二人だけの特別な時間は、ある日突然終わりを迎えた。
「ドイツに行くことになった。父さんと、母さんと三人で」
あいつの父親は外交官だった。彼に、在フランクフルト日本国総領事館への辞令が出たという。あまりにも唐突な話だった。
「……良介だけ、残ることは?」
「出来ないに決まってるだろう」
ピアノの傍らで体育座りをしながら、必死に涙を堪える。あいつは鍵盤から離れ、俺と向き合ったかと思うと、不意に頭をくしゃりと撫でた。
「泣くな。どうせすぐに帰って来る」
その時、俺は初めてあいつの優しい笑顔を見たような気がした。
*
あいつがいない日々。心にぽっかりと穴があいて、学校でも家でも、ぼんやりと窓の外を眺めることが多くなった。どこからか響くピアノの音を辿っては、奏でているのがあいつではない事実に落胆する俺。わかっているはずなのに、己の愚行が止められず、虚しさが募る。
高学年になっても、相変わらず俺は独りだった。絶えず続く、良介との仲を冷やかす声。だが、変化はある日突然訪れた。
クラスメイトの女子から、ラブレターを貰ったのだ。
下駄箱に入っていたそれは、キャラクターもののレターセットだった。封をしているシールはハートの形をしていて、便箋には拙い文字で幼い恋心がありのままに綴られていた。
最初は、イタズラか罰ゲームだろうと思っていた。だが、放置しているとクラスのリーダー格の女子に呼び出され、無視するなんてサイテー、と罵られた。そしてその取り巻きに、泣いてんじゃん謝んなよ、と謝罪を要求された。その奥には、ラブレターの差出人。ごめん、付き合ったら許してくれる? と半ば強制的に言わされ、仕方なく数日間カレシになり、そして別れる――その繰り返し。女子からは非難の声、男子からは妬み嫉みの眼差し。ウンザリする学校生活だった。
そして、ようやくそんな毎日から解放されると思った十三回目の春に、事件は起きた。その時、俺は長く伸ばした髪を項で束ねていた。
「霧崎くんって、ホモなの?」
「……は?」
「だって、みんな言ってるよ? 霧崎くんは、ドイツに転校していった真田くんっていう男子のことが好きなんだって」
人気のない校舎裏。蕾の綻ぶ桜の下で、名前も顔も知らない女子に突然告白された、その時のことだった。
「違うよね、ただ仲が良かっただけだよね? 霧崎くんもさ、中学で誤解されるのイヤだろうし、付き合っちゃおうよ、あたしたち! ね、そうしよ?」
「………」
無遠慮なことを無邪気に言うその女を前に、怒りが止まらなくなった。わなわなと拳が震える。
「悪いけど、俺、帰るわ」
「えっ? ちょっと、待ってよ、ねぇ!」
左腕を強く引かれた。睨みつけるように振り返った瞬間――俺の視界は、その女の顔で埋まった。唇には、人肉の感触と生ぬるい体温。
「……ね、女の子の方がイイでしょ?」
耳元で囁かれ、恍惚とした笑みを見せつけられた直後、俺はそいつの顔面を渾身の力で殴りつけた。
受験をしなかったことが悔やまれる。そのまま公立の中学に進めば、必然的に三割は知っている顔触れになるのに。
でも俺は、どうしても受験をしたくなかった。もしかしたら中学のうちにあいつが帰ってくるかもしれない、下手に私立へ行くとあいつと一緒に過ごす時間が減ってしまう、そんな思いに駆られていた。それが仇となってしまったのだ。
殴った女の頬は入学式の日も腫れていて、噂は瞬く間に広まった。もうどうすることもできないと思っていたその頃、俺は見知らぬ女子に声をかけられた。アスファルトの隅に落ちた桜の花弁を踏み潰しながら帰路を辿る、ある夕暮れのことだった。
「霧崎。ちょっといい?」
聞き覚えのない声だった。しかし、その低く落ち着いた抑揚から、告白の類でないことだけは察知した。
振り向くと、やはり見たことのない顔だった。首筋まで垂れ下がったポニーテールと、二重瞼の下の鋭い瞳が印象的な女子だった。
「私は梅宮。一年二組の梅宮(うめみや)昌子(しょうこ)。ちょっと話したいことがあるんだけど、いいかしら。ああ、告白じゃないからそれは安心して」
知り合いでもないのにそれ以外に何の用がある、と思っていると、彼女は俺の心を読んだかのように続けた。
「アンタは知らないだろうけど、私同じ小学校に通ってたのよ。それで、私には……アンタに、謝らなきゃいけないことがある」
「……なんで?」
聞きはしたが、なんとなく答えはわかっていた。そして、その予感は的中する。
スカートを強く握り締め、視線を落とし少し泳がせてから、震える唇で彼女は言った。
「……あの子に、卒業式の後アンタに告れって言ったの……私、なのよ」
「………」
道端でする話ではなさそうなので、俺は彼女を自宅へ招いた。築四十年超えの古びたアパートの一室、絵に描いたような母子家庭。当然、ピアノなんて大層なものはない。
俯いている彼女の前に、安物のティーバッグで淹れた紅茶を置く。すると、彼女は徐に噛み締めていた唇を開いた。
「ごめんなさい。本当に」
俺はダイニングテーブルの椅子に斜めに座り、脚を組み、紅茶を口に含みながら懺悔の言葉を聞いた。
要約すると、彼女はあの女から毎日のように恋愛相談を持ちかけられ、それに辟易し、半ば投げやりに「卒業式の日に告白でもしたら?」と言ったそうだ。そしてその結果、俺の中学校生活をいきなり台無しにしてしまったことに責任を感じているらしい。
「こんなことしたって、どうにもならないことはわかってるわ。これは私の自己満足よ。でも……せめて名乗り出て、頭を下げなきゃいけないと思って……」
「…………」
「…………」
長い沈黙が続いた。空になったカップを置き、天井を見つめる。
「噂はもう取り消せないわ。でも、その代わり私を好きにしてくれていい。一発殴ってくれたっていいわ、あの子みたいに。覚悟は出来てるから」
「――覚悟?」
凪いだ湖のように穏やかだった俺の心に石が投げられ、波紋が広がる。ぐにゃり、と湖面に映った風景が歪む。
「そういう言葉ってさ、軽々しく言うもんじゃねぇよな?」
「えっ――」
冷たく放たれた俺の言葉に、ようやく顔を上げた彼女。凛々しかったはずの瞳が、怯えているように見えた。
「お前さ、あの日俺がどんだけそいつにイラついたかわかってんの? わかってねぇよな? わかるはずねぇよな? つーか、わかってたまるかってんだよ!!」
息を荒げ、怒りのままにカップを床に叩きつける。その破片が、彼女の脚を切った。深紅の雫が肌を伝い、靴下の白を侵食する。
「トラウマっつーの!? もう一生消えねーんだよこの傷はよ!! お前が謝ったところで何の意味もねぇんだよ!!」
傷。それは、無理やりキスされたことで出来たものなんかじゃない。同性愛者であることを疑われ、あろうことかそれをカモフラージュするために付き合えと言ってきたあの女の無知と無神経によって深く刻まれたものだ。彼女にその責任などないことくらいわかっていた。彼女は助言をしただけで、言う内容や態度にまで口を出したわけじゃない。彼女のその真摯な姿を見て罵れるとしたら、それは最早ただの外道だ。
それなのに、俺の心は暴れ出した。泣き叫び、胸倉を掴み、執拗なまでに彼女を責め立ててしまっている。
その時、俺の魂は悪魔に蝕まれていたのだろう。挑発するような笑みを浮かべ、俺は容赦なく言い放った。
「いいこと考えた。お前、俺と付き合えよ」
「――は?」
強く閉ざしていた瞼を開けて、俺の歪んだ笑顔を映す。刹那、彼女の顔が恐怖に戦慄いた。
「責任感じてんだろ? じゃあカモフラージュにくらい協力してもらわねぇとなぁ? あと、俺が本当に同性愛者なのかどうかを探る実験体にもなってもらうぜ?」
「実験体……!?」
「俺がちゃんと女に興奮するかどうかを確かめるってことだよ、だからキスでもセックスでも何でもするからな? あ、言っとくけどお前に拒否権ねぇから。いいな?」
瞳孔が開いている。目尻から零れ落ちた涙が、震える頬を伝う。息がどんどん荒くなっていく。過呼吸になると面倒だったので、そこで俺は彼女を放した。彼女は、何も言わずに玄関から飛び出していった。
一人になった途端に力が抜けて、その場でへたり込んだ。日は既に傾き始めている。どこからか、優しいピアノの旋律が聞こえる。
良介、ごめん。俺、お前がいない間に、すげぇクソ野郎になっちまった。自分が傷ついたからって本当は悪くない奴に八つ当たりして、ヤクザみてぇなツラして脅すような真似するようになっちまった。こんなんじゃ、お前に合わせる顔がない。
それどころか、もしかすると、俺、お前のこと――。