小説「泡沫のエレジー」ー2

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 帰国して、二学期から地元の中学に通う。あいつからその知らせが届いたのは、三年の夏休みが始まったばかりのことだった。
 その頃の俺は、水泳部の活動に明け暮れていた。飛沫に反射する太陽の光は眩く、水の感触は火照った肌に心地良い。泳いでいる間だけは、暑さも蝉のやかましさも気にならなくなる。他の部活に比べたら、チームワークなんてものは気にしなくていい。何より、プールにいる間は無心になれる。唯一、自身に纏わりつく全ての糸から解放される貴重な時間だった。
 だが、更衣室で着替える時、シャワーを浴びる時、そしてトイレで用を足している時、現実は容赦なく襲いかかる。俺はどうしても、自分の体を直視したくなかった。触りたくなかった。特に股間のそれなんて、己の一部だと思いたくないほど汚らわしいもののように感じた。
 しかも、そんな俺の気持ちなどお構いなしに体は変化していく。低くなる声、濃くなる体毛、伸びていく身長に大きくなる足、骨張って筋肉質になるシルエット。その全てに強烈な違和感を覚えたが、抵抗する術などありはしなかった。
 同時に、どんどん体も雰囲気も女性らしくなる梅宮が羨ましかった。もちろんそれは性欲の対象としてではなく、自分もそうなりたい、という憧れであることはもう自覚していた。
 だから、どうしても、勃たなかった。
「――もう止めましょう。こんなこと」
 ぽつり、と梅宮が呟いた。彼女の頬は濡れていたが、その瞳は潤んでいなかった。泣いていたのは、俺の方だった。小さな子供をあやすように微笑んで、両手でそっと俺の顔に触れる。その瞬間、塞き止めていたもの全てが涙となり、叫びとなり、溢れ出る。俺はそのまま彼女を抱きしめた。彼女も、俺の背に手を添えた。俺の涙が枯れ果てるまで、彼女は黙って待ち続けた。
 日暮の歌と、家路を走る子供たちの楽しげな声が木霊する頃、彼女は言った。
「霧崎。性同一性障害って知ってる?」
 ダイニングテーブルを挟み、向かい合う。かつての構図とは正反対に、今度は俺の方が俯いていた。視線の先に、何冊かのパンフレットが置かれる。その全てに、性同一性障害専門外来と書かれていた。
「余計なお世話かもしれないけど、アンタにとっては大事なことだと思うから、お母さんと相談してよく考えた方がいいわ」
「……わかってたのか、お前」
 独り言のように、頭を垂れたまま零す。
「私ね、三つ下の弟がいるの。だから、アンタの部屋にあるものを眺めていれば嫌でもわかるわ。……あのテディベア、可愛いわよね」
 放課後の演奏会にいつも同伴させていたそれは、良介の母・真田(さなだ)美(み)緒(お)から貰った誕生日プレゼントだった。イギリス産のブランドものはこの空間の中ではかなり浮いているが、今でも大切にしているので、埃など全くついていない。
「それに、そのきれいな髪も、本当はもっと伸ばしたいんじゃない?」
「…………」
 図星だった。項を隠す程度に伸ばし、ヘアゴムで纏めているこの髪も、彼女のように長く艶やかにしたいと心の奥底では願っている。
 買ってもらっていたおもちゃは着せ替え人形におままごとセット、ねだった絵本はお姫様が王子様と結ばれて幸せになる童話。母親の化粧品も、何度勝手に使ったかわからない。そのうち自分の趣味嗜好が周りと違うことに気づき始め、そういう欲求を抑え始めたのだが、母はもう息子の心身の性別の不一致を悟っているのではないだろうか。俺が自ら明かすその時を待っているのではないだろうか。
「これからどうするかは、全部アンタ次第だけど……でも、はっきりさせた方がいいんじゃないかしら。だって、もうすぐ帰ってくるんでしょ?」
 誰が、どこから、なんて今更言うのは野暮だと思ったのか、敢えて彼女はそれを口にしなかった。俺たちの視線は、自然とカレンダーの方へ向けられていた。
 あいつが帰国するまで、あと三週間。
 陽炎の立ち上る滑走路に、次々と機体が滑り込む。八月の終わり、俺は梅宮を連れて成田空港の到着ロビーに来ていた。航空会社のアナウンスと、スーツケースを引く音が重なる。日焼けした家族連れもいれば、英語で電話をしながら歩くサラリーマンもいた。フランクフルトからの便の到着が掲示板に表示され、鼓動が速まり、全身が熱くなる。
 すると、梅宮が横から肘で小突いてきた。得意そうな笑みで言う。
「何よ、ソワソワしちゃって。心配して損したわ」
 悪い、と言って俺もつられて笑う。不安や恐れよりも喜びの方が大きいことに気づき、安堵する。
 俺と梅宮は、その日まで入念な相談を繰り返し、幾つかの約束をした。性同一性障害の疑いがあることを良介に明かさないこと。診察もしないこと。偽装カップルの関係は続けること。そして今後のことは、良介と再会し、自分の気持ちを確かめてから決めること。
「ねぇ、彼じゃない?」
 梅宮が俺の袖を引く。視線を上げると、そこには確かに、あいつの姿があった。五年振りの再会だった。身長も伸びて、少し大人びてはいても、そこに立っていたのは間違いなく良介だった。
「――隼人、か?」
 あっちも俺に気づいて、震える唇で答えようとしたが、声が出るよりも早く俺は良介のすぐ後ろにいた女性に抱きしめられた。
「隼人くん? 隼人くんよね!? 久しぶり、元気にしてた? 私のこと覚えてる!?」
 サングラスを額に上げて興奮気味に飛びついてきた彼女は、良介の母にしてかつての天才ヴァイオリニスト・真田美緒。毛先を巻いた艶やかな黒髪も若々しさも健在である。深紅のワンピースに真珠のネックレス、エメラルドの指輪という派手な格好が相変わらず様になっていた。
「お久しぶりです、美緒さん」
「本当、しばらくぶり! 大きくなったわねー……あら、彼女は? もしかしてガールフレンド!?」
「あっ……はい、初めまして。梅宮昌子といいます」
 ぺこり、と小さく彼女が会釈した。小気味良いテンポで話を進めてくれる美緒さんに、俺は心の中で感謝した。良介だけではこうはいかなかっただろう。
「やるじゃない、隅に置けないわねぇ! 良介、あんたも見習いなさいよ?」
「…………」
 その言葉に返事はなく、表情からは何も読み取れなかった。もともと口数は少なくいつも仏頂面なので、気にすることはないかもしれないけれど。
 良介の父はまだドイツに一週間ほど残るらしく、この日帰国したのは二人だけだった。特急電車の中で向かい合った席に座ると、梅宮はずっと美緒さんの世間話に付き合ってくれた。あいつと俺は車窓の田園風景を眺めていて、時折目は合うものの、ほとんど話すことはなかった。
 地元の駅に着くと、梅宮はそのまま学習塾へ向かうと言って俺たちと別れた。美緒さんは素早くタクシーを拾い、俺たちに早く乗れと促す。美緒さんは助手席に、俺たち二人は後部座席に間を空けて座った。再び、互いに窓の外を見る。
「あんたたちは大きくなったけど、この町は変わんないわねー!」
 長時間のフライトを経たにも関わらず、疲れを感じさせない調子で彼女は話し続ける。
「美緒さん、俺、良かったら荷物運ぶの手伝いましょうか?」
「ありがと、でも私は大丈夫よ! そんなことよりあんたたち、さっきから全然喋ってないじゃない! お邪魔虫は引っ込むから、少しくらい話していきなさいよ!」
 上半身を捻り、美緒さんが俺たちを指さして言う。俺は少したじろいでしまったが、良介は涼しい顔のまま。
「決めたわ。運転手さん、狩(かり)ノ宮(みや)中学校に向かってくださる? 良介、あんたそこで隼人くんに学校案内してもらいなさい。いいわね?」
「…………」
 良介は相変わらず返事をしなかった。反抗期だからと容認しているのか、美緒さんも溜め息を吐くだけで咎めない。そして俺に拒否権などあるはずはなく、タクシーはあっという間に目的地へ辿り着いてしまった。白い月の浮かぶ校庭では、野球部やサッカー部、テニス部、陸上部が声を張り上げて練習に励んでいる。
「それじゃ、ゆっくりしていきなさいよー!」
 憎らしいほどの笑顔で言い放ち、返事を聞く間も作らず走り去る。置いていかれてから数秒沈黙したが、目を合わせていたら、自然に笑みが零れた。良介もそれに応じる。
「美緒さん、相変わらず元気だな!」
「どっちが子供かわからないくらいな」
 この時初めて、俺は肩から力を抜けた気がした。
 まず職員室へ行き、事情を話してスリッパを借りる。三年の教室のある階を見てから、家庭科室、理科室、そして図書室という順番に回った。
「で、体育館はこの階段から一階まで下りて、渡り廊下の先にあるから。プールはその隣。これで全部かな」
「いや、一つ忘れてるな」
 そう言って、片手でピアノを弾く動作を見せる。
「ああ、音楽室か。さっきブラバンが使ってたけど、もう入れっかな」
 敷地内に響き渡っていた吹奏楽部の演奏は既に止んでいた。再び職員室へ赴き、鍵を入手してからその場所へ足を運ぶ。
 扉を開けると、良介は即座にピアノへ向かった。ラの鍵盤を押し、その音の高さを確かめる。瞼を閉じ、聴覚を研ぎ澄ませながら。
「……よし。ちゃんと調律してあるな」
「お前もそーゆーとこ全然変わってねぇな」
 俺の嫌味を無視して、すぐさま椅子に座る。きっと、早く弾きたくて仕方なかったのだろう。
 深呼吸をしてから、良介の指は繊細な音色を奏で始めた。どこか悲しげで、でも微かなぬくもりも感じる、切なく美しい旋律。
 良介が、横目で俺を見て尋ねた。
「覚えてるか? この曲」
 愚問だ。俺がこのメロディーを思い返さない日なんて一度もありはしなかった。
「ラフマニノフの幻想的小品集第一番、エレジー変ホ短調」
 どうだ、と言わんばかりに口角を上げると、良介の唇も弧を描いた。
 カーテンを揺らす風に、俺たちの髪も吹かれている。秋の訪れを予感させるこの爽やかな風の感触も、西の空の橙と藍色のグラデーションも、そしてこの音楽も。俺たちを包み込む全てを、今、分かち合っている。良介と、二人で。
 この景色を、空間を、何度夢見たことだろう。このメロディーに、何度思い焦がれたことだろう。ああ、これは幻なんかじゃない。良介が、目の前で、あの曲を弾いている。離れ離れだった時間を、埋め合わせるかのように。俺に聴かせるために、あの頃の記憶を思い出させるために。
「……隼人? おい、どうした」
 弾き終わった良介が、俺を見て驚く。その様子から、ようやく自身が泣いていることに気づいた。
 ああ、この涙が、ただ再会を喜ぶだけのものだったらどんなに良かったことか。
「――良介、俺さ」
 ダメだ、言うな。口元を必死に押さえる。それでも、声が漏れてしまう。脚の力が抜け、膝から崩れ落ちる。両手で顔を覆っても、溢れる想いが止まらない。
「俺、ずっとお前に会えなくて……お前のピアノが聴けなくて、つらかった」
「隼人……」
 止めろ、止めるんだ。今ならまだ引き返せる。言うな、言うな、言うな、言うな、言うな!
「良介、ごめん。俺、好きだ。お前のこと」

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