小説「泡沫のエレジー」ー3

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 その後のことは、断片的にしか覚えていない。勝手にピアノを弾いたことを注意しに来た教師が俺を見て狼狽え、良介はただの喧嘩ですと言って俺をその教師に託して出ていった。俺は保健室に連れて行かれて、嗚咽を漏らしながら母の迎えを待っていた。
 母・霧崎雅(みやび)がやって来たのは、夜の帳が下りた後のことだった。
「隼人! ごめんね、遅くなっちゃって! さ、早く帰ろ? ねっ?」
 パート先からダッシュで駆けつけてくれたのだろう。額から滝のように汗を流し、肩で息をしている。軽く茶色に染めた短い髪も僅かに乱れていた。
 事情を聞き出したくてたまらなかったはずなのに、大丈夫かとか、何があったんだとか、そういうことは一切口にしなかった。代わりに話したのは、そろそろ夏も終わりだねとか、今日の夕飯は隼人の好きな豚の生姜焼きにしようかとか、他愛のないことばかり。そんな母の気遣いでさえも、俺の胸を締めつける。
 家に着いてから、ようやく母は尋ねた。
「ねぇ。先生から聞いたんだけど、ほんとに良介くんとケンカしたの? そうだったら、私だけでも謝りに行きたいんだけど」
 ベッドに座って俯く俺の顔を、屈んで下から覗き込む。まるで、幼子を相手にしているかのように。
 大事なことだから、よく相談した方がいい――いつかの梅宮の言葉と真摯な表情を思い出す。その時が、来たのかもしれない。
「母さん。俺……」
 俺は、全てを明かした。朝露を垂らす葉のように、一つ一つ、ゆっくりと。母は、ずっと真剣な眼差しで見つめ、俺の言葉に耳を傾けてくれた。
ありがとう、話してくれて。つらかったね、苦しかったね。最後に母はそう言って、俺を抱きしめた。その腕は微かに震えていて、俺の肩に彼女の涙が滲んだ。
 このことを、梅宮にも伝えた。彼女は俺に平手打ちをしてから、バッカじゃないの、と吐き捨て、声を上げて泣いた。ホントバカ、何考えてんの、とそういうことばかり言いながらも、ひたすら泣き続けてくれた。俺はただ、力なく謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。
 新学期が始まった。不幸中の幸いとはまさにこのことで、良介は別のクラスに転入した。だが、それでも校舎のどこかですれ違うことは避けられない。俺は、あいつの顔を直視することができなかった。きっと、あいつも俺に視線は向けなかっただろう。
 あんなに仲が良かったのにおかしい、と同じ小学校出身の連中は口々に言った。その中には、ホモだと思われたくないからじゃないのと勘繰る奴らも含まれていた。
 言葉を交わさず視線も合わせないまま、桜の葉は色づき、次第に散っていった。俺たちの噂話を耳にすることもなくなっていき、同級生たちは受験に関することばかり話すようになった。風の便りによると、あいつは文武両道の由緒正しき名門校・鳳凰学園高校を目指すという。俺は第一志望を県下トップの公立校・蘇芳高校に決めた。梅宮も、同じレベルの公立を視野に入れているらしい。
 浮ついた世間に惑わされず年末年始を乗り越えると、受験日はあっという間にやって来る。私立の推薦入試で受かった数人の生徒を除いたほとんどの奴が、刻一刻と迫る運命の日を前にして尻込みしているのがよくわかった。
 それとは対照的に、俺はやけに落ち着いていた。水泳の代わりに、勉強が邪念を払ってくれていたお陰かもしれない。今日はやるべきことをやればいい、あとのことは進路が決まってから考えよう――そう思いつつ、白い息を吐きながら俺は受験会場へ向かった。
 緊張疲れを伴って、家路を辿る。アパートの階段を上ると、自宅の前に人影があった。梅宮だ。俺に気づくと僅かに口元を緩ませて、小さなピンク色の紙袋を突き出した。
「お疲れ。それと、ハッピーバレンタイン」
「……ああ、そういや今日だったな」
「何よ、もっと有難がりなさいよ」
 目を合わせ、互いに笑う。
「わりぃ、サンキュー。そっちもお疲れ」
「言っとくけどそれ、義理でも本命でもないから」
 じゃあ何だよと聞いたら、彼女は餞別だと告げた。
「私もアンタも、同じ高校へ進む気はなかった。だから、今日で終わりにしない? いい加減、私を解放して自由に恋愛させなさいよね」
 なんちゃって、と付け加えて無邪気な笑みを浮かべる。つられて、俺も白い歯を見せた。それから、彼女に深く頭を下げる。
「ありがとう。三年間も、余計な負担をかけさせて悪かった。本当に」
「……また何かあったら、メールくらいしなさいよ」
 じゃあね、と言って、彼女は俺の肩を軽く叩いて去っていった。町のどこかから、童謡のメロディーが夕闇の空に響いた。
 合格発表は二週間後だった。俺も梅宮も、無事進路が決まった。これで、春からは別々の道を歩むことになった。人づてに、あいつも志望校に受かったことを知った。
 受験が終わった途端、俺はまた余計なことを考え始めた。卒業する前に、あいつにきちんと謝った方がいいだろうかと思ったのだ。けれどやはり怖くなって、俺は何もできずにいた。せめてあの日の俺の愚行を黙っていてくれたことに感謝だけでもしたいのに、それすらも叶わないもどかしさと情けなさに悶え続けた。しかし、卒業式の日も声をかけることすら出来ないまま終わってしまったのだった。
 新生活に胸を膨らませることなく、無気力に過ごす春休み。彼岸が明けた頃、自宅に一本の電話が入った。美緒さんからだった。
「隼人……落ち着いて、よく聞いてね」
それは、良介が車に撥ねられたという報せだった。
 一命は取り留めたものの、頭を打ち、腕と脚の骨が折れてしまったという。居ても立っても居られず病院へ向かったが、意識はまだ戻っておらず、面会は謝絶されてしまった。俺に許されたのは、ただ回復を祈ることだけだった。
 あいつが目を覚ましたのは、桜が満開になる頃だった。そして、伝えなければならないことがある、と美緒さんは病院の廊下で俺たちに言った。
 良介は、生まれてからその日までの一切の記憶を失った――。
 その晩、俺は枕に顔を埋め、ひたすら声を殺して泣いていた。
 もうあいつのピアノが聴けないかもしれない。もう二度と、俺のことを思い出してくれないかもしれない。そんなことばかり考えて、悲嘆に暮れていた。眠れないのは母も同じだったようで、一晩中ダイニングテーブルに肘をつき、俯いて静かに涙を流していた。
 あの日のことを謝れなかった。大事なことを伝えられなかった。きっとあいつも、半年間ずっと思い悩んでいただろう。さぞ気色悪かったことだろう。自責の念に駆られ、ただひたすら懺悔を繰り返す。そんなことをしても、何にもならないというのに。
 嘆き疲れた頃、東の窓のカーテンから光が漏れてきた。鳥の囀りが、どこか遠い世界から聞こえてくるような気がした。
 良介も、朝日の眩さに目覚めたのだろうか。それとも、同じように眠れなかっただろうか。
「親のことも、自分のこともわからないって、どんな感じなんだろうな……」
 呟きが、薄暗い部屋に響く。数秒の沈黙の後、心の内に巣くうもう一人の自分が、俺を誘惑するかのように甘い声で囁いた。
 あいつは俺のことを忘れている。あの日の告白も覚えていない。ならば、別人としてあいつの前に現れて、新しい人生を歩むことができるんじゃないか――?
「霧崎。聞いたわ、真田くんのこと。大丈夫? アンタ……」
 その日の夕方、梅宮から電話があった。俺の目は虚空を見つめていたが、口元でだけ笑ってこう言った。
「梅宮。俺、女になるよ」
「……は?」
「性適合手術して、女になる」
あいつが俺のことを忘れたなら、俺はもうこれ以上、男である必要なんてないから。

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