眩い日の光に照らされて、白樺の大地の雪と大河の氷が溶け出す。熊は長い眠りから目覚め、町の人々は春の訪れを予感して胸を躍らせる――そんな北国の光景を思い起こさせる、甘く優しい、しかしどこか切なさも感じさせるメロディー。ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品三十五番第一楽章は、そんな曲であると良介は感じていた。それは彼が高校生活最後の文化祭でソリストとして披露するものであり、そして、プロのヴァイオリニストである母・光(こう)元(げん)寺(じ)美(み)緒(お)のデビュー曲でもあった。
文化祭の前日、彼は一人では広すぎる家のリビングでⅮⅤⅮを再生し、ソファーで頬杖をつきながら若かりし日の美緒の姿を見つめていた。真っ赤なドレスと深紅のバラのコサージュを身につけた彼女の演奏は艶やかで、堂々としている。そして、たった一人で主旋律を奏でているにも関わらず、その音はオーケストラに決して引けを取っていなかった。それどころか、指揮者に代わってオーケストラを率いているようにさえ見える。
父を裏切って不倫をし、結果離婚して自分の元を去った母には冷たく接してしまう良介だったが、彼女に抱いた憧れだけは遂に消えることがなかった。一体、この映像を何度観たことだろう。この曲を、何度聴いたことだろう。願わくは、自身も彼女と同じように、プロとして演奏したかった。その夢が叶うことはなくなってしまったが、それでも、ヴァイオリニストとしての引退を華々しく飾る曲として申し分ない――否、これ以外に考えられない。良介は自らの想いを噛み締めつつ、瞼を閉じ、耳を澄ませる。
泣いても笑っても、明日が最後だ。悔いのないように弾こう――拍手喝采に包まれる美緒の笑顔を見届けてから、彼はリモコンの停止ボタンを押した。テレビ画面は地上波に切り替わり、あるニュースを報道していた。
『続いて、速報です。横浜市〇△区のある一軒家から火が出ているとの通報があり、現在消防隊員が消火活動を進めています。この家に住んでいる剣持(けんもち)裕(ゆたか)さん、縁(ゆかり)さん夫婦と長男学(まなぶ)さんが行方不明となっており……』
*
雲一つない晴天となった、十月最後の週末。冬の気配を感じさせる寒気を孕んだ風に吹かれながらも、第六十三回鳳凰祭は朝から活気に満ち溢れていた。
「こんにちはーっ、三年B組、お化け屋敷やってまーす!」
「本日十二時より、校庭の野外ステージにて焼きそば大食い大会行いまーす、ぜひご参加くださーい!!」
「同じく野外ステージにて、仮装コンテストを開催します! エントリーは十二時まで、開催時刻は十四時からとなっておりまーす!!」
校内は例年通りハロウィンらしい装飾で彩られていて、仮装をした生徒たちが懸命にビラ配りをしている。仮装大会に参加するためか、そのような風貌をした来校者も多い。校門付近に設置された総合案内所の集会テントの下でパンフレットを配りながら、葵はそんな様子を嬉しそうに眺めていた。
「何や吉川、どないしてん?」
「いえ。ちょっと、去年のことを思い出してまして」
「ああ……懐かしなぁ、もう一年も経ったんやなぁ」
昨年は、パティシエになりたいという達也の夢を応援するために、葵がハロウィンティーパーティーという企画をクラスの出し物として提案したのだ。その予行練習として調理実習でスイーツを作った時にある生徒がアレルギー反応を起こして倒れてしまい、達也がその事件の容疑者にされてしまったのだが、良介たちの協力によって無事解決されたのだった。
「会長さん、この一年でかなりの有名人になりましたよね」
「せやけど、吉川もなかなかのもんやで? 近々、LGBTQ+(プラス)の保護団体? NPO法人? の人たちからインタビューされるんやろ?」
「ええ、恐れ多いですが……」
葵が生徒会長に就任した後、彼女の演説は瞬く間にSNSで拡散され、内外からしばらく批判の声が上がった。けれど、達也の支えもあってか、彼女は自らの意志を曲げようとはしなかった。生徒会役員の立候補者も二人辞退してしまったが、その代わり彼女の言葉に感銘を受けたという生徒がやって来て、何とか新体制を整えることができたのだった。生徒会室の前に置いている意見箱にも、誹謗中傷の紙も少なからず入っていたが、匿名で自らの素性や悩みを明かし、演説に励まされたという手紙も何通か投函されていた。
「そういえば会長はん、今日が最後の舞台らしいな。かの有名ヴァイオリニストの息子ゆうのもあって、音楽業界の人らも来とるみたいやで」
「え、本当ですか!?」
葵が仰天すると、達也は自身が受け取った数々の名刺を彼女に見せた。音楽雑誌の記者や評論家、オーケストラの経営者など、肩書は様々だった。
「ほわぁ……何だか、圧倒されてしまいますね」
「せやな。こんなに注目されとって、プロでも難しい曲に挑戦しはるのに、プロになれへんなんて……」
掴みたい夢があるのに、許されない。そんな人も世の中にはいるのだと思うと、達也は歯痒かった。
「そういえば、もうすぐ開演ですよね。見に行けなくて残念です」
腕時計を見て、葵は小さく溜め息を吐いた。針は、開演時刻の十分前、九時五十分を指していた。
「あれ? そういや、理事長が来ぉへんな。学校説明会のパンフ配りに来はるゆうとったのに、何しとるんやろ」
「そうですね。渡邊くん、理事長室へ行ってきてもらえますか?」
了解や、と言って敬礼し、達也は駆け出した。
*
「いやぁ、実に惜しい。あなたのような人材が、今日でヴァイオリンを手放してしまうなんて」
「同感です。良介さん、本当によろしいのですか?」
「……ええ。もう、決めたことですから」
その頃ホールの控室では、達也に名刺を渡した人物たちが良介と向かい合っていた。彼らは縋るように問うたが、それでも良介の意志が揺らぐことはなかった。
「では、そろそろ時間ですので……」
「ああ、そうですね、長々と失礼いたしました。演奏、楽しみにしております」
「有難うございます。ただ、くれぐれも、今回の演奏を記事にはしないようにお願いいたします。……親戚が、煩いので」
「承知しております。ご迷惑はおかけいたしません」
深々と頭を下げてから、彼らは去っていった。肩の力を抜き、大きく溜め息を吐く。
「お疲れ、真田くん。今日もお互い頑張りましょう」
「……ああ。よろしく頼む、部長」
白い蝶ネクタイを着けながら、燕尾服姿の白鳥姫子が背後から声をかける。その姿は凛としていて、前任の指揮者に怯えて泣いていた頃の彼女の面影はどこにもなかった。そんな彼女も、今日の舞台が指揮者として、部長としての最後の務めとなる。
「良介くん!」
「百合川……」
ドアの音に身構えたが、そこに立っていたのは薫だった。彼女の出演するミュージカルはオーケストラの演奏の後なので、まだ制服姿のままだ。
「私、メイクとかしなくちゃいけないから途中で抜けちゃうんだけど、楽しみにしてるね。良介くんの晴れ姿」
ふふっ、と愛らしく微笑む薫。反射的に頬を赤らめ、目を逸らす良介。
「それとね、実は、私が用意したビッグサプライズがあるの。演奏が終わったら教えてあげるから、期待しててね!」
「サプライズ……?」
何だそれは、と言おうとした時、既に彼女の姿はなかった。
ホールには既に観客が集まっていて、騒めきが控室まで聞こえてくる。開演のアナウンスが終わると、まずオーケストラ部の面々が拍手を送られながら入場した。次に姫子が舞台袖から現れ、最後に彼女がタキシード姿の良介を招き入れる。客席を眺めつつ、思わず母の姿を探してしまった自身に気づき、良介は心の内で舌打ちをした。
ヴァイオリンを構え、オーケストラ部のメンバー、そして姫子と目を合わせて頷き合う。姫子が手を振り始め、オーケストラの美しい和音が奏でられる。瞼を閉じ、呼吸を整え、心地良い旋律に身を委ねるように、彼は弓と指を動かし始めた。ヴァイオリンへの未練、両親や真田一族との軋轢――彼の心を乱していた全てのものが彼の意識から排除され、彼はただひたすらに、音楽の神へ捧げる協奏曲を、全身全霊で響かせた。
およそ二十分間に及ぶ最後の晴れ舞台は、あっという間に終演を迎えた。気づけば彼の額と前髪は汗で濡れそぼっていて、呼吸は浅く速くなっており、観客たちからは割れんばかりの拍手が送られていた。姫子に肩を叩かれてようやく我に返り、慌てて一礼する良介。
ああ、終わってしまったんだ――彼は頭を下げながら、歯を食いしばり、全身を震えさせ、必死に涙を堪えていた。
「よう、良介! お疲れさん!!」
控室に戻ると、隼人と昌子が差し入れを携えて良介を出迎えた。
「お疲れ、会長! 演奏、すっごく良かったわ!!」
「……ああ、有難う」
嬉しいはずなのに、その声はとてもか細かった。そんな彼の心中を察し、二人はそれ以上演奏については何も言わなかった。
「そうそう、この後は薫たちのミュージカル見なくちゃね! まだ部室で打ち合わせしてるはずだから、会長も一緒に行かない?」
「いや、俺は……」
しばらく休もうと思う、と言いかけたが、それは突然控室のドアを開けて割り込んできた葵と達也によって遮られる。
「会長さん、大変です!!」
「りっ、理事長が……理事長が……!!」
顔面を蒼白とさせ、息を荒げる二人を見て、隼人と昌子から笑顔が消えた。
「どうした、何があった!?」
良介が問うと、涙目になって唇を震わせながら、葵が小声で言った。
「こっ、こ……殺されてたんです、誰かに、胸を裂かれて……!!」
「なっ……!?」
目を見開き、互いに顔を見合わせる三人。オーケストラ部の面々に聞かれたらまずいと思い、そっと廊下に出る。
「警察には知らせたのか、吉川!?」
「それが……通報したら、校舎に仕掛けた爆弾を爆発させるという書き置きが……」
「何だと!?」
そう言うと、葵は大声で泣き出してしまった。まだ平静さを保っていた達也が、その書き置きを良介に差し出す。
「これと、ジャック・オ・ランタンの被り物と黒いマントが、現場に残っとったんですわ」
「……前生徒会長、真田良介に告ぐ。通報したら、直ちに校舎中に仕掛けた爆弾を爆発させる……学園ジャック・ザ・リッパーより?」
「ジャック・ザ・リッパーって、あの有名なロンドンの連続殺人鬼じゃない!!」
「良介、これ、SNSのユーザー名じゃねぇか!?」
横から覗き込んでいた隼人が指さしたのは、それらしきアルファベットと数字の文字列。検索すると、それはすぐにヒットした。アイコンは不気味なジャック・オ・ランタンのマスクを被った人物の肖像で、そのアカウントは昨晩作られたばかりのようだ。そして、まだ三件だけの投稿の文面は、いずれも意味深で気味の悪いものだった。
「放蕩息子を赦さなかった者たちへ、業火に焼かれ憤怒の罪を悔いよ。権力によって金を貪った支配者へ、正義の刃によって強欲の罰を下す。己の務めを放棄した者へ、怠惰の罪深さを知れ……」
「何よこれ、一体どういうこと!?」
パニックになりかけている昌子を他所に、眉間に皺を寄せ、食い入るようにその画面を見つめる良介。その真意がわかった時、激しくなり始めた彼の鼓動。
「これは……俺に対する、犯行予告だ。こいつは、あと四件の殺人を犯す。止められるものなら止めてみろ、と言っているんだ……!」
「あと四件って、どうしてわかったんだよ!?」
隼人が叫ぶと、良介は冷や汗を掻きながら、それでも自身と周囲を落ち着かせようと、敢えて淡々と答える。
憤怒、強欲、怠惰。この三つは、いわゆる『七つの大罪』に含まれているものである。残りの四つは、淫蕩、貪食、傲慢、そして嫉妬。それらは主にカトリック教会において、人間を罪に導く悪しきもの、即ち禁忌とされている。
「そうか、じゃあ二件目の強欲の罪人は理事長だったってことだな!?」
「ああ。三件目は、怠惰の罪人……どこかで、自分の仕事をしていない者が狙われるということかもしれない」
「ちょっと待って、一件目は? 理事長より前に殺されたのは一体誰なのよ!?」
「一件目の投稿は昨日の夜……横浜市内で、火事があった直後だ。見つかった遺体は二人分、剣持裕と剣持縁。長男の剣持学――つまり、先々代の生徒会長の剣持先輩だけ遺体が見つかっていない上に、行方不明のままだ。つまり……」
「犯人は、剣持先輩で……最初に両親を殺したってのか!?」
「恐らくな。渡邊に吉川、すまないが不審な動きをしている人物を探してみてくれ」
「りょ、了解や!!」
再び敬礼をして答え、まだ話す余裕のない葵を懸命に宥める達也。葵が泣き止むと、二人はすぐに控室から飛び出した。
「つーか良介、何で剣持先輩がこんなこと……」
「わからない。だが、学校のことをよく知っている人物でなければ、校内で犯行に及ぼうとはしないだろう。それに、二人目のターゲットは理事長で、挑発している相手は俺だ。ならば、学校か……俺に対する恨みが動機の可能性が高い」
黒い蝶ネクタイを外し、ジャケットを脱ぎながら答える。
「そういえば、校内に爆弾が仕掛けられてるって本当なのかしら!?」
「それを確かめる術はない。兎に角、俺たちは急いで校舎中を捜索するぞ。もしかすると、第三の殺人はもう済まされているかもしれないからな……」
背筋に悪寒が走り、呼吸すら忘れそうになる。それでも彼らは頷き合い、それぞれの捜索エリアを決めてから走り出した。
三件目の現場を見つけたのは、隼人だった。午前十一時過ぎのことだった。
『見つかったぜ、良介。場所は校庭の倉庫、殺されたのは……サボり魔で有名な、二階堂麗羅だ』
「……そうか、わかった。そこに被り物は?」
『ああ、あるぜ。フランケンシュタインのマスクと、血のついた透明な雨合羽が。あと、コイツをここに呼び出したエサらしき物もな』
そう言いながら、隼人はコンビニで万引きをしている麗羅の写真を見つめた。口封じのための札束も血に染まっている。
『つまり怠惰ってのは、学生の本分である学業をロクにしなかったってことか。コイツ、よく授業サボってたからな』
「どうやら、犯人は一件毎に被り物と上着を替えているようだな。……そろそろ、次の予告が投稿されている筈だ。俺はそれを確認する、お前は二階堂のことを梅宮に伝えてくれ」
了解、と言って隼人は通話を切った。直後、屋上に続く階段の踊り場でSNSを開く良介。
「最後の審判を待たずに我は蘇り、淫蕩の罪を裁く……」
最後の審判とは、世界が終焉を迎えた時に蘇るキリスト教徒たちが、イエス・キリストによって天国もしくは地獄へ振り分けられるという教義である。その前に蘇るということは、死者に扮して第四の殺人を犯すという意味か――そこまで考えた時、一筋の閃光が走るように、ある考えが良介の脳を過ぎった。
「隼人、お化け屋敷だ! お化け屋敷をやっている教室へ向かえ、確か三年B 組だったはずだ!!」
それだけ言ってスマートフォンをポケットにしまい、再び駆け出す良介。背中の汗で、ワイシャツはすっかり肌に張りついてしまっている。
彼らがそこに到着したのは、ほぼ同時だった。お化け屋敷は大盛況で、長蛇の列ができている。
「会長。私、十一時半からここのシフト入ってるから、ちょっと早めに交代して中の様子見て来るわ!」
「ああ、頼んだ」
教室の中からは、楽しげな悲鳴が響いてくる。何も起きていないことを祈り、脂汗を垂らしつつ、良介は壁に寄り掛かり思考を巡らせた。