小説「生徒会長は名探偵!」第9話「向日葵と太陽みたいに」

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「お待ちどおさん! 夏の新作、トロピカルコンフィチュールのタルトやで!!」
「わぁ、いい匂い! では、いただきます!」
 パッションフルーツにマンゴー、そしてパイナップル。南国を思わせる果物を果汁で煮詰めたコンフィチュールをカスタードクリームの上に乗せただけのシンプルなタルトだが、鮮やかな黄色と甘酸っぱい匂いが食欲をそそらせる一品である。
「うん! すっごく美味しいです、渡邊くん!!」
「ほんま? そら良かったわ!」
 蝉の喧騒と灼熱の太陽から隔離された、パティスリー・ル・アブリール。その片隅のテーブルでは、変わらずこのようなやり取りが続いていた。普段は日曜日にだけ訪れていた葵だったが、夏休みに入ると達也の出勤日に必ず顔を出すようになり、二人の時間は必然と増えたのだった。
「そういえば、この間の桃のショートケーキの売り上げは如何でしたか?」
「おう、なかなか良かったんちゃうかな」
「本当ですか! 何だか私も嬉しくなっちゃいますね」
 ふふ、と柔らかく微笑んで、レモンティーに息を吹きかけてそれを味わう葵。達也が彼女のために作ったケーキは、店長に認められると季節限定枠としてショーケースに並ぶようになっている。評判は上々、リピーターも現れるようになって、達也は確かな手応えを感じていた。
 しかし、嬉しく思う反面、達也は思い悩んでいた。このまま、パティシエになるための修行を口実にして葵との時間を作り続けていいのだろうか――と。何故なら、彼は彼女に想いを寄せているが、彼女は自身がレズビアンであることを彼に告白しているからである。
 無論、自身の気持ちを押しつけようとは思っていない。だが、心の奥底ではどうしても諦めることができない自分がいる。報われないなら好意を寄せる意味なんかない、中途半端な関係など一刻も早く終わらせるべきだ――けれど、やはり彼女から離れることができない。矛盾する思考の板挟みに苦しむ達也だったが、誰にもそのことを相談できずにいた。
「よう、お嬢ちゃん! 達也のヤツ、腕上げてきただろ?」
「はい、本当に!」
 葵が最後の一口を飲み込んだ時、店主の桜(さくら)田(だ)春(しゅん)輔(すけ)が厨房から顔を出してきた。とてもパティシエには見えない筋肉質な体格と顎髭は相変わらずで、冷房が効いているにも関わらず額に汗を浮かばせている。
「お嬢ちゃんのお陰だよ、これからも頼んだぜ!」
 白い歯を見せ、親指を立てる春輔。上司が純粋に自分のことを応援してくれているというのに、どうしてこんなにも苦しくなってしまうのか――有刺鉄線が胸に食い込んでいるような気がして、拳を握る達也。
「ごちそうさまでした、今回も美味しかったです!」
「お、おう……」
 手を合わせ、律儀に頭を下げて礼を言う葵。その瞬間、揺れる艶やかな髪からココナッツのような甘い香りが放たれ、達也の鼻腔を擽る。
「あれ? 吉川、シャンプー変えたんか?」
「へっ……?」
 突然何の脈絡もない発言をされ、首を傾げる。しまった、気色悪いと思われたかと焦った直後、春輔が達也の頭を小突いて代弁する。
「お嬢ちゃん、こいつな、犬並みに鼻が利くんだよ! シャンプーとか石鹸とか、服の洗剤とか柔軟剤の匂いまで嗅ぎ分けられるんだぜ。人の匂いもすぐ覚えちまうから、見なくても匂いで常連の誰が来たかわかっちまうんだと」
「そ、そうなんですか。初耳です、びっくりしちゃいました」
「すまん、驚かすつもりはなかってんけど」
 達也が気まずそうに視線を落とすと、店の扉が開かれ、来客を知らせるベルが鳴った。
「はい、いらっしゃ……」
 いつも通り爽やかに出迎えようとした春輔。しかしその言葉は途切れ、表情も凍りついている。緊張が伝わったのか、葵まで瞬きを忘れてしまっていた。
「よう。繫盛してるかい、シュンちゃん」
 サングラス、スーツ、シャツ、ネクタイ、時計、靴――全てを黒で統一した金髪のパンチパーマの男が、煙草を吸いながらひらひらと右手を振った。煙草の先からは、チョコレートとバニラを混ぜたような甘ったるい匂いが漂っている。
「何しに来やがった。店内では煙草を吸うなとあれほど言ったろうが!」
 鬼の形相とは、まさにこのことを言うのだろう。春輔は眉間に深く皺を刻み、男を睨みつけながら狂犬のように尖った八重歯を露わにする。
「んな怖ぇツラしなくたっていいじゃねぇか。可愛い弟子とそのガールフレンドが泣いちまうぜ?」
 厭らしい笑みを浮かべて紫煙を吐き、達也と葵に視線を向けた。葵は既に怯えきっていて、呼吸が少し速くなり、涙を滲ませている。
「お前、もしかしてわざと……!!」
「いや、偶々だ。けど、お前もそろそろ店の事情を話してやった方がいいんじゃねぇのか?」
「この野郎っ!!」
「じゃあな。せいぜい頑張れよ」
 男は再び右手を振って、店を後にした。ショーケースに両肘を置き、コック帽を脱ぎ、両手で前髪を掻きむしる。いつも明るく振舞っている春輔が苦渋の表情を隠しきれていないことに、達也は動揺した。
「店長……」
「……すまねぇな、嫌なとこ見せちまって」
 項を掻き、苦笑いする春輔。
「お嬢ちゃん、悪いけど、今日のところは帰ってくれるかい?」
「は、はい……」
 指で涙を拭い、震えた声で答える。二人に会釈してから、葵は小走りで去っていった。
「店長、誰でっか、さっきのヤクザみたいな男……」
 恐る恐る尋ねると、春輔は顔を上げ、大きく溜め息を吐いてから言った。
「悪い、達也。あれ、本物のヤクザなんだ」
「なっ……!?」
 衝撃の事実に、返す言葉が見つからない。しかし狼狽える達也を他所に、春輔は顎髭に触れながら、まるで他人事のように淡々と説明し始めた。
 男の名は、菊(きく)池(ち)秋(しゅう)平(へい)。春輔とは小学校以来の同級生で、シュンちゃん、シュウちゃんと呼び合う仲だった。高校を卒業してからはしばらく疎遠になったが、いつの間にか秋平は反社会的勢力の一員となっていたのだ。
「お前には言いたくなかったんだけどな、正直、店の経営は厳しい状況だ。だから、ローンの返済に困ってた時に、あいつに付け込まれちまってよ……」
「……まさか、闇金でっか!?」
 達也が叫ぶように問うと、春輔は苦虫を嚙み潰したような顔で、ああと返した。
「あかんやん、はよ警察に言わんと!!」
「……みっともねぇ話だけどな、言えねぇんだよ。通報したら、お前らに手ぇ出すぞって脅されて……今日は、宣戦布告のつもりでわざわざお前とお嬢ちゃんの前に現れたんだと思う」
「何やて……!?」
 憎悪のあまり、わなわなと手指が震え出す。
「もっと早く言うべきだった。本当にすまなかった」
「店長、顔上げてぇな! そんな脅しに負けたらあかんて、ホンマに手ぇ出して来るわけないやろ!? 警察に尻尾掴まれるリスクが高いねんから!!」
 ショーケースの上で頭を下げる春輔の両肩を掴み、説得する達也。しかし、春輔は苦し紛れに笑うだけだった。
「お前には、ヤクザの本当の恐ろしさを知らないでいて欲しい。だから……悪いが、俺は今日付けでお前を解雇する」
「はっ……!?」
「できれば、ずっとお前のことを応援してやりたかったんだけどよ……情けねぇ店長で、本当にすまねぇ」
 遂に涙腺が崩壊し、パニックに陥る達也。最早、子どものように駄々をこねることしかできない。
「嫌や、嫌やそんなん! 店長、クビになんかせんといてぇな!!」
「悪い、わかってくれ。俺のことで、お前らを巻き込みたくねぇんだ。けどよ、代わりと言っちゃぁ何だが、お前の恋はずっと応援してっからよ」
 泣き喚く達也の頭を乱暴に撫でながら、ようやく春輔は笑った。
「今度の花火大会に嬢ちゃんを誘え、達也。今年もベビーカステラの店出すからよ、タダで食わせてやっから、嬢ちゃん連れて来るんだぞ!」
 叶わぬ恋の苦しみ、突如日常を奪われた怒りと悲しみ――あらゆる感情が彼の胸中で渦を巻き、自我を乗せた舟は為す術もなく転覆し、吞み込まれていく。
 達也の唇は震えるばかりで、もう何も言うことができなかった。
「お待たせしました、渡邊くん」
 八月の最後の日曜日。グレーの浴衣に身を包んだ達也は、うちわで火照った顔を扇ぎつつ、ガードレールに腰を下ろして今か今かとその時を待ち侘びていた。
「おう、吉川。……浴衣、よう似合うとるな」
「あ、ありがとうございます……」
 紺地に向日葵の柄のそれを見ながら、葵は少し頬を紅潮させた。
 彼らは、花火大会の会場となっている河川敷の最寄り駅で合流した。駅前は、既に花火大会の観客でごった返している。家族連れや学生のグループもいるようだが、やはり最も目立つのは手を繋いで幸せそうに歩くカップルたちだった。
「ほな、行こか」
「は、はい!」
 立ち上がり、歩き始める達也。心が逸っているからか、つい普段よりも速く進んでしまう。
「ま、待ってください、渡邊くん!」
「……あ、すまん!」
 気づけば、葵との距離はかなり開いていた。もしカップルなら、堂々と手を繋げるのに――差し出したかった手は、悔しげに浴衣の裾を掴むだけ。
「ごめんなさい、足が遅くて」
「いや、こっちも悪かったさかい。気にせんといて」
 視線が合った瞬間、すぐに逸らして前を向く。今度は離れないように、と自らに言い聞かせて。
「……今日は、ありがとうな。来てくれて」
「いえ。私も、行きたいなと思っていましたから」
 何故、自分の誘いに応じてくれたのか――葵の真意など、知る由もない。正直、春輔とル・アブリールのことが気掛かりで花火大会どころではなかった。しかし、達也は心に決めたのだ。ル・アブリールで会うことができなくなったことを皮切りに、葵への未練も断ち切ってしまおう――と。
「あの……渡邊くん、本当に、辞めてしまったんですか? 春輔さんは、大丈夫なんでしょうか」
「ああ。店長が、わいらを危険な目に遭わせたないゆうから……大丈夫かどうかは、わからへん」
「そうですか……残念ですけど、仕方ないですね。ご迷惑はかけられませんし」
「せやな……」
 背を向けていても、葵が本当に残念がっていることが伝わった。しかし、それが何に対するものなのかはわからない。彼女にとって失うのが惜しいのは、達也との時間ではなく、ケーキだけかもしれない。彼は、それを知ることが怖かった。
 露店は町中にも設置されていて、コンビニまでもが路上で飲み物や軽食を売り出していた。開始三十分前の号砲花火が打ち上げられる頃、人混みを掻き分けてやっとの思いで会場に辿り着いたが、そこは駅前の数倍の人で溢れ返っていた。
「す、すごい人ですね……」
「せやな。取り敢えず、座るとこ探そか」
 既に人で埋め尽くされている河川敷の坂を見渡し、何とか二人分のスペースを確保した達也。帯に挟んでおいた新聞紙を広げ、葵をそこに座らせる。
「ほな、適当に色々買うて来るわ。何がええ?」
「あ、私も行きます!」
「アホ、場所取りがおらんでどないすんねん! ええから、吉川はここで待っとって」
「す、すみません……では、お茶と焼きそばをお願いします」
「お茶と焼きそばな。了解や」
 ほなな、と言って露店の立ち並ぶ道へ足を運ぶ。緑茶の缶二つと焼きそば、そしてお好み焼きを買ってから、達也は春輔のいるベビーカステラの店へやって来た。
「おう、達也! 何だよ、まさか一人か!?」
 鉢巻のように白いタオルを頭に巻き、同じく白いタンクトップを着て春輔はベビーカステラを焼いていた。普段のパティシエ姿より余程似合っているな、という心の声は胸にしまい込んで頭を下げる。
「ちゃうて、吉川には場所取り頼んどるから」
「ああ、成程な。じゃあ、お嬢ちゃんによろしくな」
 慣れた手つきで、焼けたベビーカステラをプラスチックの容器に詰め込んでいく。輪ゴムで留めてビニール袋に入れ、ほらよと達也に手渡すと、その直後に春輔のスマートフォンが着信音を鳴らした。
「もしもし? ……え、今から? 今はちょっと勘弁してくんねぇかな」
 気落ちした声、下がった眉尻、無意識に項を掻く手。彼の動作から、相手が誰であるかがわかってしまった。ここで要求に従わなければ、店の存続に関わるかもしれない――達也は、逡巡することなく申し出た。
「店長、良かったら店番しまっか?」
「え、けど……」
「ええって。その代わり、これ吉川に届けてもろてええ?」
「ああ、お安い御用だ」
 やり方は去年と同じだから、任せたぜ。そう言い残して、春輔は夏の闇夜へ消えていった。
「すみません、ベビーカステラ八個入り一つ」
「へい、まいど!」
 自然と気合いが入り、声も張り上がる。来年もここで働けたら、どんなに良かっただろう――そんな気持ちに蓋をしつつ、達也は作業に勤しんだ。
「よう、お嬢ちゃん!」
「あれ、春輔さん! お店はどうされたんですか?」
「ちょっとヤボ用で抜け出さなくちゃいけなくなってよ、達也に店番を頼むことにしたんだ。せっかくのデートの邪魔して悪いな、お嬢ちゃん」
 これ、達也から。顎髭を頻りに触りながら、ビニール袋を差し出す。しかし視線は葵の姿を捉えておらず、あちこちに動いている。
「あ、ありがとうございます……」
「すまねぇな。花火上がるまでには戻るから、それまでそこで待っといてくれ!」
「あ……」
 咄嗟に呼び止めようとしたが、逃げるように足早に去られてしまった。胸騒ぎがして、心の中で達也に謝ってから立ち上がり、春輔を追いかける。
 春輔は、大きな橋の下へ向かっていた。そんなところで野暮用とは、一体どういうことだろう――緊張と不安で速まる鼓動を抑えるように、右手で胸元に触れる葵。
『皆様、大変長らくお待たせいたしました。間もなく、開演時刻です』
 スピーカーから響くアナウンス、歓喜の声を上げる観客たち。しかし、葵の耳にとっては最早雑音でしかなかった。深呼吸をし、聴覚を研ぎ澄ませる。
「どういうことだよ、シュンちゃん。返済、先週末までって約束だったろ?」
「だから、それは厳しいからもう一か月伸ばしてくれって電話したじゃねぇか!」
 橋台の陰に身を潜めていると、数メートル先から春輔と男の会話が聞こえてきた。あの日、チョコレートとバニラの匂いがするタバコを吹かしながらやって来たヤクザの男だ。指先が一気に冷たくなり、震え出す。
「残念だがな、それを了承した覚えはねぇんだよ」
「お前が了承しようとしまいと、払えねぇもんは払えねぇんだよ!!」
「ほう……お前、自分の立場ってモンをわかってねぇみてぇだな?」
「くっ……」
「ホラ、こういう時、どうしたらいいんだっけ? 人に謝りつつ、お願いしたい時はさァ、土下座するもんなんじゃねぇの? なぁ、シュンちゃん」
「…………」
 僅かに流れる沈黙。悩んだ末に、春輔はとうとう両膝を地面に着けてしまった。
「……頼む。この通りだ」
「フン。やればできるじゃねぇか」
 男が言うと、時刻は開演十秒前になった。
『それでは、カウントダウンをお願いいたします! 十、九、八……』
 アナウンスと観客の合唱に紛れて、カラン、と小さく金属音が鳴った。何かが河原の石に当たったらしい。その音には聞き覚えがあった。その正体に気づいた葵が橋台から飛び出した瞬間、花火が打ち上がる。ほぼ同時に、葵は秋平を横へ押し倒した。春輔は金属バットで頭部を打ち付けられるところだったが、軌道がずれて肩を強く打ち付けられた。倒れた秋平は、舌打ちをしてからバットを置いて逃げ去った。
「春輔さんッ!!」
 泣き叫ぶように、彼の名を呼んで駆け寄る。涙も、震えも止まらない。呼吸は速まるばかりだ。何発も打ち上げられる花火の音が、余計に彼女を焦らせる。
「その声は、お嬢ちゃんかい……?」
 パニックに陥ろうとしていた時、微かに春輔の声が聞こえた。かなり弱々しかったが、意識はあるようだ。
「春輔さん、春輔さん!! 大丈夫ですか、しっかりしてください!! 今、救急車を呼びますから!!」
 爆音が轟く中、震える指でスマートフォンを操作し、彼女は懸命に声を張り上げた。その電話を終えた直後、春輔のスマートフォンがポケットで着信音を鳴らす。画面に表示されていたのは、達也の名だった。咄嗟に手に取り、叫ぶ葵。
「渡邊くん、春輔さんがあのヤクザの人にバットで殴られました! まだ近くにいるはずです、探してください!! 警察には私が連絡します!」
「何やて……!?」
 しまった、引き留めておけば良かった。それにしても、なぜ吉川が――次々と浮かんでは消える考えに翻弄される中、あの甘い匂いが達也の鼻腔を刺激した。食欲をそそるB級グルメの匂いと人々の匂いが入り混じる祭りの会場であっても、彼の嗅覚がそれを逃すことはなかった。下駄を脱いで裸足になり、獲物を捕えんとする獣のように屋台から飛び出す。息を荒げて人混みを搔き分け、とうとうその腕を掴んだ。
「お前は……!!」
 振り向くと、男はすぐに達也のことがわかったようだ。口角を上げ、得意気に八重歯を晒す。
「人込みに紛れてずらかるつもりだったんやろ? せやけどな、オッサン。わいの鼻、犬並みにええねん」
「だ、だからどうした! 何の用だクソガキ!!」
 抵抗するものの、怒りの込められたその拳を振り払うことはできない。
「傷害罪の容疑で告発したる。誤魔化しても意味ないで、目撃者がおるんやからな」
「……チッ、あの小娘か!!」
「もうすぐ、警察が迎えに来るさかい。観念するんやな、菊池秋平サン!!」
「クソッ!!」
 周囲が騒めき出し、注目が集まる。逃げられないと悟ったのか、秋平がそれ以上暴れることはなかった。
 花火の音と共に、救急車とパトカーのサイレンが会場の夜空に響いた。
「達也くん、葵ちゃん、主人を助けてくれて本当にありがとう!!」
「いや、そんな。頭上げてください、桃(もも)恵(え)さん」
 事情聴取が終わって警察署を出ると、そこには春輔の妻・桜田桃恵の姿があった。二人に対して深々と頭を下げ、黒く艶のある長い髪を垂らす。実年齢より若く見られそうな幼い顔が上げられた時、初対面だった葵は、彼女が身重であることに気づいた。薄紅色のマタニティドレスの膨らみを擦りつつ、笑顔で提案する桃恵。
「もう遅いから、お礼にお家まで送らせて。車で来てるから」
「そんな、申し訳ないです! 桃恵さん、お腹大きいのに」
「大丈夫、いわゆる安定期ってやつだから! それに達也くん、裸足で走って怪我してるんじゃない?」
 さ、乗って乗ってと言いながら、有無を言わさず車のドアを開けて促す。他に断る理由もなかったので、二人は彼女に甘えることにした。午後十時を過ぎた道路は空いていて、花火大会帰りの客らしき姿は疎らだった。
「二人とも、本当にありがとうね。これで闇金はチャラになるはずだから、安心してね」
「それならええですけど……店長の具合はどないでっか?」
「どうやら、骨折しちゃってたらしいの。手術はしなくてもいいみたいなんだけど、念のため一週間入院することになったわ」
 信号待ちの間、バックミラー越しに達也と目を合わせて桃恵は話した。衝撃が弱まったのは、葵の体当たりという予想外の出来事があったからだろう。どうやら命に別状はないようで、二人は心から安堵した。
「そういえば吉川、何で店長について行こうとしたん? わいは電話しとるの聞いとったから、あのヤクザと会うんやなってわかったけど……」
「だって、店長さん、目が泳いでて落ち着きがありませんでしたから。ほら、焦ると顔や首を触る癖があるでしょう?」
「ああ、なるほどな」
 確かに、店長は緊張したり不安になったりすると何度もセルフタッチをする傾向にあった。葵にも、それがわかっていたのだ。
「達也くん。今更だけど、君を解雇してしまったこと、主人は本当に申し訳なく思っていたわ。でも、達也くんにとっては納得できる話ではなかったよね。それなのに、命の恩人になってくれて……感謝してもしきれないよ」
「ええんです、気にせんといてください。寧ろ、経営が苦しいのにわいの面倒見てもろて、こちらこそ何て言うたらええか……」
「何だかね、若い頃の自分みたいで、ほっとけなかったんだって。君のこと今でも凄く可愛いみたいだから、気が向いたらお見舞いに行ってあげて。絶対喜ぶし、私も嬉しいから」
「勿論、お安い御用や!」
「渡邊くん、その時は私も呼んでください。ご一緒したいので」
 葵が言い、達也が了承すると、信号が青になった。
「ありがとう、葵ちゃん。ところで、二人は付き合ってるの?」
「えっ……!?」
 無邪気に笑う桃恵から不意打ちを食らった葵が、瞬時に狼狽える。なぜすぐ否定しないんだと思いつつ、達也が歯切れ悪く答えた。
「あー、実は、そんなんとちゃいますねん……な、吉川」
 同意を求めるように視線を寄越すと、少し間を置いてから葵は小さく頷いた。
「え、そうなの? やだ、ごめんね! 二人で花火大会に来るくらいだから、てっきり……」
「いいんです、お気になさらないでください。誤解されても、無理はありませんから……」
 暗くて表情はよく見えなかったが、葵の横顔は、どこか悲しげだった。もしかして、勘違いされて嫌な思いをしたのだろうか――そう考えた瞬間、達也の心が再び針に刺されたように痛み出す。
「まぁ、あれでしょ? どうせ、主人が絶対二人で来いとか言って無理強いしたんでしょ? ごめんなさいね、その件についてもきつく叱っておくから」
「あ、ちゃいますちゃいます! いや、確かに店長はそう言うたけど……吉川に話したいことがあって、自分の意志で誘ったさかい」
「え、そうなんですか? でも、もうすぐ私の家に着いちゃいますよ」
 葵のスマートフォンの画面を見ると、地図アプリにはあと三分で到着と示されていた。
「あー……ほな、また今度話すわ」
「そうですか……」
 話しているうちに車は住宅街の細い道へ入り、やがて葵の家族が住むマンションの前に停められた。桃恵に礼を言ってドアを開け、閉めようとしたが、その前に葵は言った。
「渡邊くん。良ければ、お家に着いてから電話してもらえませんか」
「えっ……」
「なるべく早く聞きたいんです、渡邊くんの話したいこと」
「……わかった。ほなな」
 達也が手を振ると、葵は少し微笑んで、桃恵に頭を下げてからドアを閉めた。
「なになに、もしかして告るつもりだった?」
 アクセルを踏みながら桃恵は揶揄うように尋ねたが、達也は俯き、低い声で答えた。
「まぁ、そんなとこですわ……」
「…………」
 彼女は彼を元気づける言葉を探したが、結局何も言うことができなかった。
『もしもし、渡邊くん?』
「おう、吉川。今日は災難やったな」
『ええ。でも、店長さんがご無事で本当に良かったです』
 約束通り、達也は帰宅してすぐ葵に電話をかけた。スマートフォンを机の上に置き、椅子の背もたれに寄り掛かりながら話す。
「もう遅いさかい、単刀直入に言うわな。……わい、来期の生徒会役員選挙には立候補せぇへんから」
『え……』
 予想外のことに面食らったのか、葵の反応はそれだけだった。時計の秒針だけが、ひたすら音を鳴らし続ける。
「吉川は、生徒会長に立候補するんやろ? 一人にさせてまうけど、まぁ、吉川なら大丈夫やと思うとるで」
『なんで……何でですか? 渡邊くんだって、生徒会のお仕事、楽しそうにやってたじゃないですか!』
 突然、言葉に力が入る。彼女らしくなかった。
『それとも……私といるのが、嫌になったんですか?』
「…………」
 言葉が詰まる。呼吸ができなくなってしまいそうだ。
「ちゃうねん。わいな、バスケ部も辞めて、パティシエになるための修行に専念しよう思うねん。フランス語も勉強したいしな。親にも言うて、留学させてくれって頭下げるつもりや」
 天井を見上げて、淡々と告げる。まるで、そこに書いてある台詞を読み上げているかのように。
『……じゃあ、何で泣いてるんですか』
「は……? 何言うとんねん、自分」
『とぼけないでください。聞こえてるんですよ、鼻啜ってるの。声だって震えてます』
 葵に言われ、頬に触れて、達也はようやく自身が涙を流していることに気づく。
「あー、こらあかんわ……」
『渡邊くん、本当のことを教えてください。私なら大丈夫です、わかってましたから』
「わかってたって……何をやねん」
『……あなたが、私と距離を置きたがっているのを』
「なっ……!?」
 背もたれから離れ、食い入るようにスマートフォンを見つめる。
『気づいてませんでした? 渡邊くん、私といると、時々苦しそうな顔してたんですよ。生徒会室にいる時も、ル・アブリールにいる時も』
「…………」
 絶句した。そして、己の愚行に心底後悔する。
『だから……こんな言い方したくないですけど、渡邊くんがアルバイトを辞めることになって、もしかしたら良かったのかもしれませんね。これ以上、迷惑をかけずに済みますから……』
「迷惑? そんなわけないやろ! 吉川のお陰でわいが、どんだけ頑張れたと思てんねん!!」
 それだけは、誤解して欲しくない。彼は、深夜であることも忘れて全力で叫んだ。
『本当ですか? じゃあ、どうして……』
「それは……」
 ああ、やはり、言わなくては。手の甲で涙を拭い、スマートフォンを握り締める。深呼吸をしてから、彼は震える唇で想いを告げた。
「……わいな、好きやってん。吉川のこと」
『え……?』
「でも、困るやろ? 男なんかに好かれても……」
『…………』
 今、自分はどんな顔をしているだろう。勇気、羞恥、悲哀、そして劣情――様々な色をした思いが全て綯い交ぜになって、心は醜い斑模様に染まっているけれど。
「……わいは、自分の気持ちで吉川に嫌な思いさせるくらいなら、離れたいと思うとる。せやからもう、これっきりにしたいねん」
『…………』
 互いに黙ってしまったのは、ほんの数秒のことだった。しかし、二人はその時間を永遠のように感じた。
『……優しいですね、渡邊くんは』
「…………」
『渡邊くん。あなたは、太陽のような人でした』
「……は?」
 突然、詩人のようなことを言われて拍子抜けする達也。しかし、葵は構わず続けた。
『いつも元気いっぱいで、明るくて。私は、あなたといるだけで自然と笑顔になれていたような気がします。つまり、あなたが太陽で、私は向日葵だったと思うんです。いつまでも、真夏の太陽の光を浴びていたかった……でも、幸せな夏は、もう終わりを迎えてしまったんですね』
「…………」
『私は、しおれた向日葵になってしまいますが……あなたの夢を、変わらず応援し続けます。頑張ってください、渡邊くん。今まで、ありがとうございました』
「……ごめん、ごめんな、吉川。ほんま、こんなこと言うて、困らせて、ほんまに、ごめんな……!!」
 自分の夢を、否定しないでくれてありがとう。応援してくれてありがとう。一緒にいてくれて、ありがとう――たくさんの感謝を伝えたかったのに、出てくるのは謝罪の言葉ばかり。
 彼は机に伏せたまま、声を殺して泣き続けた。いつの間にか眠ってしまっていて、目覚めた時、既にカーテンの隙間から僅かに朝日が差し込んでいた。
 高くなった空に広がっていたのは、鱗雲だった。
 生徒会役員選挙の公約演説は、十五夜の日に行われた。ホールの壇上では立候補者たちがパイプ椅子に腰かけていたが、そこに達也の姿はなかった。
「ありがとうございました。では次に、生徒会長に立候補している二年B組吉川葵さん、お願いします」
 司会を務める良介が、彼女の名を呼ぶ。立ち上がり、一礼してから、葵は緊張の面持ちで中央の演台へ向かった。会場は静まり返り、足音はホールに木霊する。原稿を広げ、深呼吸をする葵。それから胸を張り、口を大きく開いて話し出した。
「只今ご紹介に預かりました、吉川葵と申します。昨年から書記を務めさせて頂き、この度生徒会長に立候補いたしました。その理由は……」
 ここで、彼女は再び深呼吸をした。そういえば生徒会長になってからやりたいことがあると言っていたな、と舞台袖で昌子が一年前の葵の言葉を思い出す。薫も同じことを考えていたらしく、小声で昌子に確認する。
「……ジェンダーとセクシュアリティ、そして性的マイノリティについて、皆さんに考えて頂きたいと思ったからです」
 直後、生徒たちが一斉に騒ぎ出した。静粛に、と良介は注意したが、収まる気配はない。数百人分の動揺と非難の声が重なり、波となって葵を飲み込もうとする。しかし、彼女は動じなかった。
「皆さん、LGBTQ+(プラス)という言葉を聞いたことはありませんか? 恐らく、たった今初めて聞いたという方は少ないのではないかと思います。昨今、働き方や人生の在り方に対する価値観は大きく変容しています。ジェンダーとセクシュアリティ、そして恋愛や結婚についても例外ではありません。かく言う私は……レズビアンであることを、自認しています」
 彼女は懸命に声を張り上げながらスピーチを続けたが、生徒たちの騒ぎは収まるどころか大きくなる一方だった。良介たちは、驚きのあまり言葉が出なくなっている。達也に至っては、瞬きを忘れてしまっていた。
「LGBTQプラス? 何言ってんだ、あの人」
「あれだろ、ゲイとかレズとかの話だろ?」
「何それ、キモッ!」
「同性のカップルを認めるとか言うのかな、何か気色悪くない?」
「じゃあ、あの人、うちらのこと性的な目で見てるってこと!?」
 生徒たちの発言のほとんどが、彼女を嘲笑し、侮蔑するものだった。何とかして止めなければ、と思う達也だったが、焦るばかりで震える唇からは何も出て来ない。
「テメェら、いい加減にしろッ!!」
 すると、一人の怒号とハウリングがホール中に響き、それから声を発する者はいなくなった。手で塞いだ耳を解放し、瞼を開いて壇上を見ると、演台の前には怒りで顔を歪めている隼人の姿があった。
「ゴタゴタ騒いでんじゃねぇよ、聞こえねぇだろうが! コイツに賛同できねぇヤツは白紙投票して出てけ、今すぐにだ!!」
 隼人が唾を飛ばしながら叫ぶと、ほとんどの生徒は萎縮してしまい、その場で俯いた。彼に従って棄権したのは僅か数人だった。
「邪魔したな、吉川。頑張れよ」
 瞳を涙で滲ませ、震える手で原稿を握り締めていた葵の肩に触れて優しく笑う隼人。呆然と立ち尽くしていた良介と目を合わせたが、何も言わずそのまま舞台袖へ戻っていく。
「……皆さん、突然混乱させるようなことを言ってしまい、申し訳ございません。誤解して頂きたくないので申し上げますが、私は皆さんに、自分自身のセクシュアリティをカミングアウトして欲しいわけでは決してありません。何故ならそれは、とてもリスクが高く、そして勇気の要る行為だからです。私も、自身がレズビアンであることはたった一人の信頼できる人にしか打ち明けられませんでした」
 たった一人の、信頼できる人――その言葉に、胸を打たれた達也。
「限られた人にしか話せない。話しても、理解してもらえないかもしれない。それどころか、拒絶されるかもしれない。話したら、他の人にもその秘密が伝わってしまうかもしれない。その結果、誹謗中傷の的になるかもしれない……だからこそ、辛いのです。そんな人が、少なくともおよそ十人に一人の割合でいると言われています。つまり、一クラスに二人か三人はいるということです。それはあなた自身かもしれないし、あなたの友人かもしれない。もしくは、先輩か後輩かもしれない。先生かもしれない。家族の誰かかもしれない。あなた自身がそうでなかったとしても、決して他人事ではないのです」
 話しながら、葵は思い出していた。カミングアウトによって精神的に追い詰められ、退学してしまった文芸部の先輩・大(おお)神(がみ)司(つかさ)のことを。
「私は……心や体の性、世間体、そして差別によって苦しむ人を、もうこれ以上、この学園から出したくないのです」
 しん、と静まり返る会場。その言葉によって、彼のことを思い出した者が少なからず存在していた。
「ですから、少しでも性的マイノリティの皆さんが安心して通学できるように、私がきっかけになりたいと思いました。具体的には、生徒手帳の性別記入欄に『中性』と書くことを認めたり、身体的な性別と異なる方を選ぶことを可能にしたり、スカートとズボンを自由に選択できるようにしたり……そういったことから始めたいと考えています。実際に性的マイノリティであることを生徒手帳に記す人や、制服の下半身部分を変える人が現れなくても全く問題ありません。そのような体制作りをすることによって、性的マイノリティに対する関心を持って頂けたらと、私は心から願っています」
 そして、彼女はマイクのスイッチを切り、一歩下がって深く頭を下げた。ホールの静寂を破ったのは、隼人の拍手だった。それに続いて良介、昌子、薫も手を叩き始める。遠慮がちではあったものの、聴衆たちも彼らに倣う。そんな中、達也だけは一人俯き歯を食いしばり、拳を握っていた。
「それでは、全員の演説が終わりましたので、これより投票に移りたいと思います。生徒会長、書記、会計、広報、庶務のそれぞれの欄に、投票したい候補者の氏名を記入してください。副会長については、後日改めて……」
「あの、すんまへん!!」
 良介が言いかけたところで、突然達也が右手を伸ばし、叫んだ。周囲の生徒が、一斉に彼の方を振り向く。羞恥のあまり顔を赤く染めながらも、達也は小走りで舞台に上がっていった。
「あのっ、今ここで、副会長に立候補してもええでっか!?」
 肩で息をしつつ、良介に訴える達也。聴衆は再び騒めいたが、良介は返事をする代わりに少しだけ口角を上げ、マイクのスイッチを入れた。
「……では、公約演説をお願いします」
 良介が言うと、達也は頭を下げてからマイクを受け取り、演台へ向かった。葵は困惑した表情を浮かべていたが、彼は自信ありげに笑い返した。
「えーっと、まずは急に割り込んですんまへん! 元庶務で二年A組の、渡邊達也いうもんです! わいが立候補した理由は、生徒会長候補の志を全力で応援したいと思ったからです!!」
 大声で言い放つと、聴衆はまたしても驚かされたが、先程のような嫌悪を含む声はほとんど上がらなかった。葵は、ただひたすら、真っ直ぐに彼の背中を見つめている。
「わいは、ジェンダーとか性的マイノリティとか、正直ようわかっとりません! でも、昔小学校で女子みたいだって嗤われたせいで、パティシエになりたいという夢を堂々と言うことができなくなった過去があります! そういうのも、男ならこうあるべき、女ならこうあるべきという価値観に世間が囚われていたせいだと思っとります! せやからわいも、男女二元論とかいうのに縛られんで、もっと皆が自由に生きていけたらええなと思います!!」
 荒くなった息を整え、更に達也は言った。
「それから……さっき出てった人みたいに、生徒会長候補のことを素直に支持でけへん人もぎょうさんおると思います。それはそれでしゃーないけど、キモいとかサブいとか、ただそれだけの理由で生徒会長候補のことを非難するような行動を取る奴が現れたら、その時は容赦なくとっ捕まえてそれなりの処分をしたるさかい、よう覚えとけよ!!」
 興奮のあまり、両手でマイクを握り締め挑発的な発言をしてしまった達也。そんな彼の頭を良介は軽く平手打ちしたが、その顔は彼の行動を褒め称えているようにも見えた。葵は、その後ろで俯き、静かに涙を流していた。
 その後、良介たちは投票箱を生徒会室へ運び、集計作業を始めた。それが、生徒会執行部役員としての最後の大仕事だった。それが終わった頃、西の空はすっかり茜色に染まっていた。
「おめでとう、吉川、渡邊。明日からは、お前たちが次期生徒会の会長と副会長だ」
 良介が宣言すると、二人は立ち上がって一礼した。良介が手を叩き始め、隼人たちもそれに続く。
「ありがとうございます、今まで大変お世話になりました……!!」
「わいも、ありがとうございました!!」
「お疲れ、二人とも! 応援してるからね、頑張んなさいよ!?」
「葵ちゃん、達也くん、私も応援してるよ。きっと、二人のお陰でこの学校はもっと素敵になると思うから」
「はい、ありがとうございます!」
 感涙に咽びつつ、再び礼を言う葵。不意に、神妙な面持ちで立ち上がる隼人。
「吉川、渡邊。オレさ、実は、トランスジェンダーなんだよ」
「えっ……!?」
 流石に驚いたようだったが、構わず隼人は続けた。
「今まで黙ってて悪かった。吉川の言う通り、なかなか言えるもんじゃねぇからさ。けど、さっきの演説も、相当の勇気が必要だったと思う。だからこそ、敬意を表して感謝したい。ありがとう、吉川」
「……いいえ、いいえ! こちらこそ、先程は助けて頂いてありがとうございました!!」
 戸惑いながらも、指で涙を拭って再び頭を下げる葵。
「それから、渡邊。さっきは随分威勢が良かったが、その分余計に風当たりは強くなるはずだ。でも、ぜってぇ逃げんじゃねぇぞ。吉川を守ってやれるのは、お前しかいねぇんだからな!」
 そう言って、達也の両肩を掴み目を合わせる隼人。達也は勇ましい表情を浮かべ、任せたってください、と返した。
「渡邊くん、私からも、お礼を言わせてください。本当にありがとうございます、心強いです! でも、どうして急に……パティシエになるための修行は大丈夫なんですか?」
「ええねん、そっちも何とかするさかい! わいはただ、吉川の夢を応援したくなっただけやねんから。吉川が、わいの夢を応援してくれたみたいに」
「そうですか……では、また一緒に頑張りましょう!」
 はにかみ笑いをして、ガッツポーズをする葵。達也も照れ笑いをして応じたが、内心では、もう一つの大きな想いを秘めていた。
 彼は、彼女に想いを寄せていたにも関わらず、自分の気持ちばかりを優先し、その結果彼女を傷つけた。しかし、彼女を助けた隼人の姿を見て、彼は変わった。明日からは自分こそが彼女を守り、支えるのだと、心からそう思えたのだ。
「改めて、また一年よろしくな。吉川!」
「ええ、こちらこそ!」
 差し出された手を、力強く握り返す。
 薄暮の空に、一番星が輝いていた。
「良かったな、渡邊が立候補してくれて。これで安心して引退できるぜ」
「ああ……しかし、驚かされたな。まさかあんなことを考えていたとは」
 それな、と言いつつ両手を頭の後ろで組む隼人。昌子は予備校、薫はバレエ教室へ向かったので、すっかり暗くなった住宅地の道を辿っているのは彼らだけだった。明かりの点いている家々からは、家族団欒の声と夕食の匂いがする。
「学年首位の成績を保つ傍ら、生徒会長職も全うする。お前もなかなか大変だったよな、この一年間。親父さんから、ヴァイオリンを取られないために」
「ああ。だが、文化祭が終わったら俺はもうヴァイオリンを弾かない。それも父さんとの約束だからな」
「父さん、父さんって言うけどさ……お前、本当にいいのか? 美緒さんみたいなヴァイオリニストになるのが、お前の夢なんじゃねぇのかよ」
「…………」
 隼人が射るような眼差しを向けると、良介は視線を落とし、足を止め、しばらく考え込んでしまった。どこからか水の撥ねる音がして、その方を見遣ると、そこには児童公園の噴水があった。薫と初めて出会った場所だ。彼女に将来の夢を尋ねられた時も、彼は素直に答えることができなかった。
 鳳凰学園高校に入り、学年首位の成績を維持しながら、生徒会長の仕事をやり遂げる――それが、高校生活最後の文化祭までヴァイオリンを弾き続けるための、父・真田聖(ひじり)から出された条件だった。つまり、それは『真田家』からのお触れであったことを意味する。
 妻に不倫された挙句離婚に至った聖は、永田町及び霞ヶ関に多くの人材を輩出してきた一族の汚点となった。妻・美緒が数々のCMやテレビ番組に出演してきた有名人だったせいで週刊誌にも取り上げられてしまった結果、選挙で真田家の者たちが落選してしまったためだ。
離婚後、聖は良介からヴァイオリンを没収しようとしたが、良介は頑なにそれを拒絶した。手を焼いた聖だったが、やがてその熱意を逆手に取って利用しようと考えたのだ。一族の名誉に貢献してきた者たちと同じ道を歩ませ、自らの立場の挽回を図るために。
「……いいんだ。これ以上、父さんを苦しませるわけにもいかないからな」
「その代わり、お前が苦しむってことだろ? なぁ、もう一度掛け合ってみろよ、親父さんと! もう結構な時間が経ってんだ、趣味で弾き続けることくらい許してもらえんじゃねぇのか!?」
 隼人が良介の肩を掴むと、良介はその腕を強く振り払った。顔を顰めた隼人だったが、良介が震えていることに気づき、何かを言おうとした唇はそのまま閉ざされた。
「……母さんは、鳳凰にいた時からずっと、父さんの憧れだった。だからこそ、結婚できた喜びも、不倫された悲しみも人一倍大きかったはずだ。俺がヴァイオリンを弾き続けるということは、ただでさえ深く傷つけられた父さんの心を抉り続ける行為だ。親戚からも責められる筈なのに、それでも父さんは高校最後の文化祭まで許してくれた。だからもう、我儘を言おうとは思わない」
「…………」
 隼人はしばらく逡巡してから、悪かった、と呟くように言った。
「オレは、もうちょっと聴きたかったんだけどな。お前のヴァイオリン」
 苦し紛れに笑ってみせると、良介も、少し無理をして笑った。
 空には、中秋の名月。月にいる兎は、腹を空かせた老人のために火に飛び込んだという伝説がある。コイツも、父親のための犠牲になるしかないのか――天を仰ぎながら、隼人は己の無力さを嘆いた。

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