ものがたりの内と外

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小説
物語を構築できたから人間ってやつは繁栄できたんだ。

みたいなことが言われて結構経つけれど、今更ながら、それはそうだなあと思うわけです。
まだ言葉の種類も少なっただろう、10万年前のご先祖だって、きっとそうだったのでしょう。

マンモスを狩って肉を持っていったら奥さんも子供も大喜びで、機嫌を良くした近所の家族とも、一緒に歌ったり踊ったりできるだろう。
だから、皆で協力してマンモスを狩り続け、何回も冬が越せるように集落を作って皆で仲良く暮らして行こう。これはいいぞ!
くらいの未来予想、即ち「物語」を共有できたから、大きな獲物も団結して仕留められたし、ヒョウとか他の大きなサルっぽいものを退けてもこられたのでしょう。

そのうちモノが多くなり、貨幣という、これまた物語的なものが現れて、お金の貸し借りだの株だの先物だのと、どんどんそれが膨らみ続けます。そんな物語の余りで武器が作られ、これがあったら喧嘩に勝てる、抗争に勝てるだろう、紛争を生き残れるだろうと、これまた物語でもって、あれこれと要らないものを作りまくるのも、人間の能力がそうさせているのでしょう。

こんな風に考えると、日々コンビニでコーヒーだの菓子パンだのを仕入れる行為から、年に一回行くか行かないかの神社みたいなものまで、人間の空想や簡単な未来予測、つまり「お話」の外側にあるものはどのくらいあるのか、と不安になってきます。
残念ながら農作物の成長と収穫をメインにした感動超大作映画も、気象予報をテーマとした涙必至の凄いゲームも出来ません。悔しいですけれど。
こういった地に足のついた系の職業の方々や、自然科学でもって何かをやられている方々などは、ある意味物語的ではないかもしれません。
でも、その他の所に属する、大多数の人々は・・・。

うやむやな妄想の上に立って生きているのが人間なのに、不思議なことに、なお物語を求めつづけます。
宗教の多くは、根幹が物語でしょうし、昔話をせがむ子供達や、有名作家の古典を読み漁る読書家さん、投稿サイトでまだ花咲かない新人を発掘するのが趣味な方などなど、砂漠に垂らした水の雫のように物語は吸い込まれてゆきます。そういった要求に負けじと、映画やドラマ、漫画やアニメなど、あふれんばかりの物語が、あからさまな形で提供されつづけます。
これはもうどうなってんの? と思うしかありません。
絶対的な価値基準もよくわからない仕事をして、それなりなのか何なのかもわらない給料を貰い、その中から、断じてそんな価値などない1000円と書かれた紙を握りしめ、きっとこれは他の所にもっていっても1000円の価値を発揮するだろう、という暗黙の物語を店員さんと以心伝心で共有し、物語がびっしり詰まった紙の束をそれと交換して、なんかニヤニヤしながら家に帰ってそれを開く人生劇場。
なんという生物でしょう(笑)

このように、物語世界を泳ぎ、物語を消費して生きることを幼い時分から当たり前としてきた我々が、何かの拍子で「物語を作ろう」と思ってしまったら、それはきっと大変なことなのです。
自分だけは、少なくとも「自分の構築した世界(物語)の外側」に立たないとならないことを宿命付けられる瞬間なのですから。
地味で小さいとはいえ、生まれてこのかた慣れ親しんできた物語の外側とは、いったいどういう場所なのか。この人類文明の大部分を占める「当たり前の因果関係」を、一旦止めてしまった立ち位置とはどこなのか。
なんなら、130億光年くらいの広がりを持つ、この宇宙の外側ってなんなの?的な意味のわからない地点に立ってみるのと同じくらいの不気味さをまず味わってみないとならないのかもしれません。
現代劇なら多くの部分は「私の物語」から流用できるでしょう。とても省エネ。
でも、人それぞれに別の物語があり、キャラそれぞれにも物語があってしかるべきなので、100円の価値の重さから、宗教観に至るまで、やはり客観的な立場からその都度計測しないと問題自体を認識できないでしょう。
ましてや、ファンタジーにおいておや。
人間が何万年もかかってコツコツ積み上げてきた文明文化の外側に立たなければ、ねこみみ少女と妖精の織りなす、ファンタジー世界の物語は構築できないでしょう。
だって人間じゃないのですから!

人間が、物語など信じない、日が登れば起き暗くなれば眠り、動くものがあったらまず敵だと思って警戒し、物々交換以外は一切しない、みたいな性質だったら簡単だったかもしれません。
が、その場合小説を書いても売れないでしょうけれど(笑)
なんやかんやとやって、なんとか作り上げた小説みたいなものを、見ず知らずの方と共有できる悦びを感じられるのもまた、人間が物語を理解し欲してくれているおかげなのでしょう。


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