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視点を変えると世界が変わる

廉清生織のブログの部屋へようこそゴールデンウィーク皆さんはどのように過ごされましたか?自宅でのんびりと過ごす傾向も上昇している中で私は北の方へ車で旅をしてきましたおかげでもう一度・・桜のお花見を楽しむことができました雪景色を観たり桜の下でお散歩したり季節を二度楽しめた休日となりました今回は「視点を変える」というお話をしていきたいと思います同じ日本でも目線を変えることで・・まるで世界が変わったかのような視点で見えることがありますそれは「現実」が変わるのではなく・・自分の捉え方・解釈・感じ方が変わることで・・同じものであっても新しい意味や価値が生まれるからなのです例えば・・悲しみの中にある優しさ:辛い出来事を「ただの不幸」と見るのか?「自分や人の痛みに気づく機会」と見るのか?によって心の在り方が変わります日常の中の奇跡:慣れた風景も「初めて見るような目」で見れば・・美しさや面白さに満ちてくるのです他社との関係:相手の立場や背景に目を向ければ・・理解や共感が生まれ衝突も減るでしょうつまり「視点を変える」ことは「心のレンズを磨く」ことでもあり世界の色を塗り替えること」とよく似ているのですアナタも何か気持ちが落ちていたり・・悩んでいることがありましたら・・「目線を変えて」新たな視点で世界を変えてみませんか?もし一人で悩んでも視点が変えられないのであれば・・是非私とお話しませんか?きっと世界が変わって見えるようになりますよお手伝いさせてくださいね時間と共に見え方は変わりますアナタを応援しています
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【No.104】1つや2つ人に言えない悩みあります....

電話相談をしております『心友カウンセラー』のゆい❤️❤️と申しますおはようございます^ ^ 新しい週が始まりましたね!今日はゆい❤️❤️の大好き『渋柿』の写真を投稿します♡『あれ?』タイトルと違わない??と思いますよね....祖父母が住んでいた場所には家はもうないけれど、畑や柿の木は残っています....大粒のこの渋柿は、全部皮を剥いて風当たりの良い場所に吊るして干し柿に仕上げて行きます^ ^  ゆい❤️❤️は田舎育ちなので、干し柿大好きなんです〜♡冷凍したら1年中食べれます(笑)そんな柿を、もう80歳の年老いた両親が後何年柿狩りが出来るんだろ....と、思うだけで何か涙が滲みます....それは....ゆい❤️❤️にも誰にも言えない過去をずっと引きずって生きているからです!過去って残酷....って何度思った事かわかりません朝から少し暗い?笑?話になりましたが、仲が良い親子関係でなかったので複雑なんですよね〜いつも『心』が寂しくて....でも前を向いて生きないといけなくて....特に親子関係は難しいですね....笑笑 『あ〜ゆい❤️❤️さんにもあるんだな〜』って思ってもらえたらいいかな?と、ふと思って投稿しちゃいました、笑笑!私にも沢山たくさん言えない悩みあります^ ^ だから電話相談やってるのかもしれません、笑笑!【❤️32品・出品中❤️】✅おすすめ順入り✅ランキング順入り✅お気に入り順入り✅初心者向け順入り⚫︎自分の実体験を元に、共感したりアドバイスさせて頂いております。⚫︎気軽な話し相手から〜深いお悩みまで、どんな内容でもお電話可能です^ ^⚫︎お電話が苦手な方にはチャット(
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私の生い立ち

生い立ちから お話しないと…6歳 そう小学校一年生になった ある日「死にたい なんで こんな家に産まれて来たの?」と 学習机の下に 潜りこんでは 泣きました。理由は 父親の酒乱 暴力 です。現代では あまり耳に しなくなりましたが、昭和の代表的なパターンです。酒乱 暴力で 恐怖の毎日、なんで こんな家に?って思いしか 考えなかったです。環境は 身内は 組員と言えば ご理解頂けるでしょうか?その上 在日韓国人です。近所の意地悪おばさんから始まり 学校の先生、町内の友達…攻撃されましたね!「朝鮮人 朝鮮人」と…自分の親の子供時代に 散々いじめられた話を 聞かされ 育ちましたが まさか 自身に 降りかかるとは 想像も していませんでした。ショックでした。泣けば 父親が また 大げさに 罵声を浴びさせた相手を 呼び出し 大騒ぎになります。でも 幼い心には 重すぎる現実で 嗚咽して 泣きました。 結局、近所の意地悪一家は 父親から 呼び出し喰らい 土下座してましたね。でも 傷が 癒される事は、ありません。高校卒業するまで やられましたね。しかも、先生に…大人になって 知った話ですが、私の仲良しさん達は、私と仲良くするなら 希望の高校は 受験させないとか、色々言われたそうです。昭和の日本人の先生なんて そんなもんです。現代なら 社会問題ですね!“パッチギ“って 井筒監督の映画ありましたが、まあ 想像して下さい。そして 私は 根性の座ってる?女に 変身して行きました。朝鮮人なんて 言われたくない 言わせなくするには どうしたら良い?考えて考えた結果→私なら どうなら 言えない?答えは 相手が
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占い師 ひかり★ とは(その2)

まぁまぁ。ひかり★っていろんな経験しましたよ。子供のころから親には育てられず【乳母】に育てられていました。父と母 はずっと仲が悪く、間に挟まれる生活をしていました。家を飛び出し、自由奔放な生活をしてました。消費者金融で働いたことも・・・。結婚も出産も離婚もしました。不倫も浮気もしました。されました。精神が病んで何度か死にかけて・・・正直今記憶がない期間もあります。odして車を運転して事故ったことも何度か・・・。仕事に関してはずっと続けている仕事はあります。作業員をしたことも、事務をしたことも、管理職をしたことも、営業をしたことも、経営者をしたこともあります。何人もの友人を亡くして悲しい思いをしました。いろんな業界の人ともお知り合いになりました。にもにも公人からのご相談も受けておりました。芸能関係の方からもご相談を受けておりました。著名人の【死】にも遭遇しました。遠距離恋愛もしています。再婚もする予定です。別居婚でパートナーに名字を変えてもらう予定です。別居婚というより【遠距離別居婚】ですね。パートナーには離婚歴がないと思っていたら一度結婚もし子どもまでいることも知りました。そして、そのパートナーとは運命的な出逢いがあってのお付き合いをしています。簡単に ひかり★ をまとめてみましたが、いかがでしょうか?年齢は非公開ですが、普通の人が経験していないことは山ほど経験してきたつもりです。ですので、ひかり★ の占いには【引き出し】がたくさんあります。ある程度のことには対応できると自負しております。皆さん、ひかりンン★のことを分かったうえでご相談に来られても面白いかと思いますよ。今日はこ
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自己紹介 序章

はじめまして、栄次(エイジ)と申します。2022年11月25日より、こちらで電話相談サービスを開始しました。私のことを少しでもあなたに知っていただいて、お役に立てるかどうか判断していただきたいと思い、自己紹介記事を書きました。ひとつにまとめると長くなってしまうので、いくつかの段階に分けて書いていきながら、私のことを知っていただこうと思います。私は生まれた時から、ちょっとだけ他の人とは違うものを背負っています。当時でいう高齢出産でした。もともと母は身体が弱く、高齢であったため、生まれてすぐの私は保育器に入って生命を守ろうとされました。他にも同じような赤ちゃんが私を含めて5人いたそうです。800グラムという小さな小さな私は「1週間、生きられるかどうかわからない」と医者から言われたそうです。………。それから半世紀以上が経過した現在、私はこうして生きています。身長は183センチあります。生まれた時は800グラムの超超未熟児がです。この話をすると、大抵の人が信じてくれません。同じように生まれてすぐ保育器に入れられた赤ちゃんは、私を除いて全員亡くなったそうです。奇跡的に私だけがこの世に生きることを許されました。他の赤ちゃん達が私を生かせてくれたんだと感謝しています。でもその代償は、とても大きなものでした。脳性マヒを持って生きながらえたのです。脳性マヒといっても右足だけなんです。あとは至って正常。走ったり正座できなかったり、少しだけ不便を感じますがそれ以外は日常生活に全く支障はありません。ただ、普通に歩くことができません。初対面の人からは必ずと言っていいほど「足をどうしたんですか」と聞かれま
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【実は、誰にも言えなかった私のこと】2つの血脈と、あの孤独な夜の話。

はじめまして。多次元光子霊視のリオです。 いつもたくさんのご縁をいただき、本当にありがとうございます。 日々、みなさまの切実な胸の内をお聞きするなかで、ふと思ったことがあります。 「私はみなさんの悩みに深く耳を傾けているけれど、私自身のことは、まだちゃんとお話しできていなかったかもしれない」と。 今日は、プロフィールには書ききれなかった、私の「本当のルーツ」と、この力が覚醒したあの夜の秘密を、少しだけお話しさせてください。 ■ どちらの国にもなじめなかった「異邦人」私は、親の顔をほとんど知りません。 物心ついたときには、母方の祖父母の家が世界のすべてでした。 実は私の身体には、2つの異なる国の血が流れています。 ひとつは、アジアのエネルギーが交わる地・福岡で、代々神霊に仕えてきた母方の血。 そしてもうひとつは、遥か彼方、霧深いアイルランドの地で、自然の光や星の運行を読んできた「ケルトの民」である父方の血です。 髪や瞳の色、独特の佇まいのせいか、幼い頃の私は周囲からいつも「外から来た子」として見られていました。 それだけではありません。 日本の土着の神聖な空気感と、ケルトの祖先が愛した万物の「光の粒子(波動)」が、子どもの頃から同時に視えてしまっていたのです。 「普通」が分からない。 周囲からも、自分のルーツからも浮いているような、強烈な疎外感。 だから私は、子どもでいることを早くやめようとしました。甘えず、頼らず、自分の殻に閉じこもって、孤独に耐えることだけが自分を守る術だったのです。 ■ 2つの血脈が交わった「覚醒の夜」 そんな私が、なぜ今、こうして占い師としてあなたのお手伝
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生い立ち

はじめまして。ブログをご覧いただきありがとうございます。このブログでは、日々の出来事やこれまでの人生で経験してきたこと、その中で感じたことなどを少しずつ綴っていこうと思います。どんな人物なのか、話してもいい相手なのかを見極めてもらえたらと思い、まずは私の生い立ちから少し話していきたいと思います。私は一人っ子として育ちました。母はとても支配的で過干渉な性格で、家庭の中では母の影響が強い環境でした。父は仕事中心の人で家庭にいる時間は少なかったものの、仕事では上場企業の営業職で支社長を務めていました。両親は13歳差があり、父は再婚だったようです。亭主関白で横暴なところはありましたが、私にとっては優しい良い父親でした。小学校3年生のころ、いわゆる連れ去り離婚のような形で両親は別居状態になりました。その後、母方の親族の下で生活する時期もあり、家庭の環境は大きく変化していきました。小学生の頃は、家庭環境があまり良くないことを見抜かれ、担任の先生から厳しく当たられることもありました。そのことは今でも強く記憶に残っていて、ふと思い出すことがあります。中学生のころには、長い時間をかけた裁判の末にようやく両親の離婚が成立します。ただ、その背景には、当初私が理解していたものとは違う事情があったことも後になって知ることになります。その後も家庭環境は安定せず、母の交際相手の変化があり、思春期は落ち着いた環境とは言えない状況で過ごしました。いくつかの環境の変化の中で苗字も何度も変わりました。人との関係性をうまく築くことができず、恋人ができても依存してしまったり、感情的に不安定になってしまうことが多くありま
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【生い立ち(出生~高校)】

こんにちは!私も今年の10月で40歳ということもあり、原点回帰を含め人生を振り返ってみました。人生あと40年として、80歳まで生きれたら嬉しい限りです。恥ずかしい投稿ですが、何回かに分けて残していきたいと思いますので、お気軽にお付き合いください😓そしていつか子どもたちが大きくなったら、このブログを見て何かを感じてくれれば嬉しいです。こんな生き様の父親だったと。おそらく1歳ぐらい!?父とこれを書いていたら父を思い出すことが多く、父は僕が幼少期の頃から腎臓が悪く、亡くなるまで30年以上透析生活をしながら家族を養ってくれました。一昨年春に71歳で他界しましたが、ここまで何不自由なく育ててくれて感謝してもしきれません。本当にありがとう。母と兄母と4つ上の兄と。兄とは帰省すると毎回二人で飲みに行く仲です🍻では、私の生い立ちから高校までをご紹介します。恥ずかしい部分もありますが、温かい目で見てください。。。【生い立ち(出生~高校)】1983年10月10日愛知県名古屋市生まれ。父は、製薬会社勤務、母は元銀行員、4歳上の兄に見守られながら、小さな病院で出産、温かい家庭で育ちました。性格は甘えん坊でとてもわがままだったと覚えています。うちの長男もすでに似た傾向があります・・・。兄は幼い頃からよく勉強ができ、国立大を卒業し、僕はスポーツばかりしてました🏀😓小学校から高校まではバスケットボールに打ち込み、高校生の時に私の人生の歩みを決定する「出逢い」がありました。バスケ部専属で週一度トレーナーの方が来てくれていました。今でこそ、部活にトレーナーという職業の方が多く見受けられますが、約20年前の当時は
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生い立ち8回目

ども、お久しぶりの更新です。ずーです。生い立ちシリーズ8回目。そろそろ終わりにしようと思ってます。では、離婚し独身の兄にお世話になり数年、子供が小学校に入学するタイミングで兄は転勤になり、私は子供と二人でアパートを借りることができました。それまでは保育園で働く母に優しい環境でしたが、小学校ともなるとそうはいかず授業参観や家庭訪問、運動会、面談そしてPTA行事と何かと仕事を休んだり早退をすることが増えました。しかし、当時の勤務先の上司がとても理解ある方で文句ひとつ言わず、私のいない時は自ら働きフォローしてくれたのです。そんな上司を見ている同僚たちも休んだり早退してる私に何も言わず協力してくれる方ばかりでした。おかげで私はPTAの役員に立候補することもがありました。というのもあの役員を決めるときの気まずい時間が耐えられないんです。なので自ら手を挙げることが多かったです。一度やってしまえばあとは断れるので。そして、他の地域から越してきて家族も知り合いもいない私にとってはお友達(情報網)を作るいい機会だったのです。他県から引っ越しをしてきて子供の学校のこと(中学高校入学そして就職進学)まるで解らなかった。役員をすれば役員同士はもちろん先生とも話をする機会が増えるし、前もって情報が得られる。何しろうちの子は持ってきたプリントを言っても出さない子でしたから、面談や説明会の日程も役員をしてなかったら知らなかったことが多かったと思います。受け身にならず必要な情報は自ら取りに行く。おかげで子供が小中高と何かと楽しかったです。自分が子供のころ学校に他の子の親が来ているのにうちは来てない。そんなさみ
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【生い立ち③(沖縄移住~現在)】

こんにちは。これにて私の生い立ち編の最後になります。最後までお付き合い頂き、本当にありがとうございます。【生い立ち③(沖縄移住~現在)】親元も地元も一度も離れたことのない私が沖縄で生活することができるのか、また、沖縄で将来開業できるのかなどの大きな不安があり、何度も沖縄に赴き、現地の鍼灸院や整骨院を回り沖縄での開業についてお話しを聞かせてもらいました。また、移住するタイミングで就職先を探していたところ、専門学校の同級生に偶然紹介してもらった先が、長年名古屋でハンドボールの日本代表などのトレーナーとして活躍されていた先生ということもあり、就職をお願いしました。初めは、時間に追われる日々が再び舞い戻るのかという心配もありましたが、どこかで「運命的」なものを感じました。もう一度頑張れと、「For the Athlete」選手に尽くせと、天からそう言われている気がしました。今となっては、こういう巡り合わせというものに本当に自分は恵まれていると思います。最適な環境で、トレーナーとしてもう一度チャンスが来たと、素直にとても嬉しかったです。その就職先では、小・中・高の学生を対象としたスポーツ障害についてのトレーニング指導、コンディショ二ング指導などの講師や、中・高・実業団の県内大会・全国大会に数多く帯同させて頂きました。そしてそのお陰もあって、退職してから男子ハンドボール代表の合宿やU-16ハンドボール日韓戦のトレーナー活動に携わらせて頂いたりと、夢にまで見た日の丸を付けたトレーナー活動も経験できました🇯🇵そして2014年には、沖縄県宜野湾市真志喜にて念願の開業を迎えました。何度も挫折もあり
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幸せのカタチは人それぞれだから、みんなと違っても大丈夫!

こんにちは、こんばんは彩倉星華です!今日は自分自身についてちょっとお話しますね~!!どうして、声優をやってる彩倉が相談を始めたのか・・・占いは元々興味があって、それを少しでも誰かのために活かせたらと思ったからです。相談については、ちょっと長くなるので時間のある、彩倉の話聞いてやる!という心優しい方読んでいただけたら嬉しいです♡自分は多分幼いころから他人と違うところが多くて、他人ができることが同じように出来なかったり、理解出来なかったり、空気も読めないし、おそらく発達障害でしょうと大人になってから言われました。その他にも精神的疾患も抱えています。小中学生時代はイジメにもあいました、貧乏だったというのもあるけれど、変わり者だったからが大きかったのかなぁと思います。なので、他人と違うということがダメなことなんだ、直さなきゃいけないんだと思ったのですが、親にも誰にも言えず、登校拒否も家族に認められず苦痛な学生生活を送りました。だから、今そういう思いをしている人やそういう思いをしたことがツライ思い出になっている方が話をすることで少しでも心が軽くなって貰えたらいいなと思います。大人になってわかったことは、他人と違うことは何も悪くない、自分の心ひとつで苦痛もやわらぐよっていうことです。幼いうちに父を亡くしました。父親っ子だった自分には酷くショックな出来事でした。何が何だか分からなくなるというか・・・死別する辛さもわかりました。家業の手伝いを小中学生でしたりもしていました。貧乏とイジメられ、家族には大人びることを強いられ、泣くことなんて許されず、いつの日にか自分の本心は誰にも話さなくなりました
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私のヒストリー

素性がわからない人に話を聞いて欲しいとは思いませんよね。本日は、私のことについて触れたいと思います。ちょっと特殊な環境で育ち、特殊な結婚をしています。◆先祖代々続く農家の次女として生まれる両親共に農業の仕事が忙しく、かまってもらった記憶は無いに等しい。それと同時に甘えた記憶も薄い。◆親が忙しかった両親は農業を営んでいたので家には居るが、私から見るととても忙しそうだった。なので、迷惑かけない、わがまま言わないと思ってきた。◆小学生の頃から夢は“幼稚園の先生“小さい子のお世話が好きで、近所の子をよく相手していたのを思い出す。……………………………………………………………………………………◆保育士、幼稚園教諭一種の資格取得念願の夢を叶えて11年間現場経験を積む。◆恋愛がうまくいかない年頃になり恋もする様になるが、長続きしなかったり、騙されたり。自分は恋愛できない体質だと決めつける。◆中学校でサポート指導員という立場で働く幼稚園教諭にピリオドを打ち、稼業を手伝いながら、パートを始める。やはり教育現場で仕事がしたくて、不登校気味な生徒、心が不安定な生徒、特別支援学級の生徒などと関わる立場を任される。◆一級心理カウンセラー資格取得中学生の心をもっと理解したい、良き聞き手になりたいと思い取得。◆36歳で結婚農家に婿として来る条件はかなりハードルが高くなかなか縁がなかったが、農業に興味があり、名字を変えてもいいと言ってくれる夫に出会う。◆37歳で第一子を出産高齢出産という枠での出産。産後、家事、育児、仕事にいっぱいいっぱいになり安定しない日々。◆夫の借金発覚追い討ちをかけるように、夫の三度にわ
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生い立ち3高校生編

ども、ずーです。はい、生い立ちシリーズ3回目です。中学では軽くいじめられ、若い先生を見下して乗り切った話でした。ひねくれていましたね。それでもいいんです。今元気で楽しいので。人生楽しんだもん勝ち。さて、高校生になりました。一年生の冬。父方の母(祖母)が亡くなります。それまでの父は母に出ていかれ離婚をしながらも母方の両親との同居を形だけですが保っていました。(ほぼ家には帰りませんでしたが)しかし、実の母が亡くなり緊張の糸というか義理というしがらみが切れたのでしょう。お付き合いしていた彼女と暮らすようになりました。彼女には連れ子が居ました。私たち本当の子供たちには生活費も学費も入れなくなりました。私はバイトをして学費と高校までの交通費と自分の食費を稼いで暮らし居ました。一緒に住んでいる祖父母は孫に関心がなかったのか、父から仕送りがあると思っていたのか私たちにかかわることはほぼ無かったです。でも、住む家と光熱費、米は父か祖父母が負担してくれてたようで贅沢は出来なかったけど何とか高校を卒業することができました。その当時からドラマや漫画などで不良ものが流行っていました。「不良少女と呼ばれて」「ヤヌスの鏡」「ビーバップハイスクール」「ホットロード」など。流行に乗って制服を改造したりパーマかけたり化粧をしたりする子たちもいましたが本物はたいてい家族関係が良くないというイメージが先行していてそういう格好をする子たちは必ずと言っていいほど片親だったり親が居なかったりするのだと思っていた人たちが多かったですね。私も両親がいないという理由でお金を扱うお弁当屋やスーパー、コンビニのバイトには雇ってもら
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生い立ち2中学編

ども、ずーです。前回から私の生い立ちについてとその向き合い方を書いてます。近い状況にいる方の参考になれば。中学生になりました。小学4年生の時に母親が家を出ていき、やくざな借金取りが家に頻繁にやってきてすっかり精神的に内向きになってしまった私は中学に入って友達が作れずにいました。同じ小学校からきた仲の良い子たちは別のクラス。違う小学校から来た子たちはもうすでにグループができていて、入っていくことはできないし、友達ってどうやって作るのかわからないまま数週間が過ぎました。そのうちにだんだんクラスの中でハブられてきて、汚い物扱いされるようになりました。ドラマや漫画に出てくるような犯罪行為(物を取られたり、暴力を振るわれたり)はせれずに済んだので軽いものだったと思います。が、やはり居場所がないというのはつらいものです。通常の授業は良いのですが、グループ行動や誰かと組んでやるワークなどは嫌でしたね。その中でも課外活動や遠足、運動会。どうしても嫌である日の課外授業を無断で休みました。すると夕方担任教師から電話がかかってきていたようで、電話を受けた祖父?祖母?は「学校に行きましたよ」と言ったのです。この時の家の状況はというと祖父母は一日中部屋にこもり、トイレと台所で簡単な調理(自分たちが食べる分だけ)をするくらいしか出てこず、同じ家に住んでいながら顔を合わせることがない日も多かったのです。加えて、祖母は今思えば認知症を発症していたと思います。で、次の日の職員室に呼び出され、「昨日はどこに行ってたんだ?」と問われました。「家にずっといました」と正直に答えました。「嘘をつくな。おばあさんは学校に行
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よっちゃんの生い立ち その2

前回に続き、私の生い立ちをかいつまんでお話したいと思います。大学に入って子供の頃から、外国語のエキゾチックな響きに魅せられて、NHKの語学講座をみていたこともあり、大学は外国語の大学に一発で合格することができました。高校の時に、ハングルを勉強する講座に通っていて、とっつきやすい言葉だなあと思い、専攻を朝鮮語にしました。しかし、朝鮮語を勉強すると、どうしても両国間の悲しい歴史に踏み込む必要がありました。大学二年の夏休みに韓国旅行に行ったのですが、日本人と韓国人とで歴史認識の違いに、モヤモヤした気持ちを経験しました。どんなにこちらが気持ちを尽くしたとしても、埋まらない深い溝を感じ、旅行から帰ってしばらくすると、大学の授業にまったく出られなくなってしまいました。クラブ活動には参加できるのですが、授業に出ようとすると、全身が拒否する感じがしました。今であれば、カウンセラーに相談することもできたのでしょうが、私の時代には、そういう選択肢もありませんでした。ネパールに留学する突破口は意外なところから現れました。きっかけは、母がネパールに旅行したことです。それまで母は海外旅行に行ったことがなかったのですが、お世話になっているお寺の檀家さんたちが毎年仏教にまつわる国にツアーで遊びに行っていて母が断り切れず、ツアーに参加したのがネパールだったのです。母がネパール旅行から帰ってくると、下宿先の私の元に電話をかけてきました。旅行中、母の枕元に現れたヒンズー教の神様である、シヴァとパールヴァティが現れたそうです。そして、「息子をネパールによこしなさい」と母にお告げをしたのです。その言葉を電話口で聴いて
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【生い立ち②高校~沖縄移住】

こんにちは!前回からの続き「生い立ち第2弾」です。今回も自己開示の投稿ですが、宜しければお付き合いください(^_^)【生い立ち②高校~沖縄移住】高校卒業後は、高校の時にお世話になっていたトレーナーの方の元で勉強したいという思いが強く、進路は幅広くスポーツ科学の学べる中京大学の体育学部に進学しました。そして、今でこそあまりないかもしれませんが、丁稚奉公のように師匠と弟子という関係で、学校のない時間帯は師匠のいる治療院で治療見学をさせて頂き、雑用を行いながら、マッサージやテーピングを教わり、また人としてのマナーなどの教育を受けました。一番は、師匠の話し方から身振り、手先までを全て観察し、「盗む」ことで覚えていくことが大切でした。平日は、大学が終わり次第治療院にて学び、週末は陸上・バスケ・バレエなどの競技にてトレーナー活動をさせて頂きました。2006年、研修先三菱電機バスケットボール部211cmの富永選手いつも同じ志の方々が10名ほどいて、毎晩交代で夕食を作り、皆で同じ釜の飯を食べ、遅くまで勉強させて頂きました。当時は終電ばかり乗ってました・・・懐かしい💪 大学生らしい生活はまったく送れませんでしたが、休みなしの日々からハングリー精神はとても鍛えられたと思います。また、日本代表など第一線で活躍するアスレティックトレーナーの方のアシスタントをしながら、その姿を間近に拝見できたことは本当に貴重な経験でした。今の自分の原点となっております。大学卒業後、鍼灸治療の必要性から中和医療専門学校に進学したタイミングで、情けないながらも、トレーナーという仕事の現実の厳しさについていけず、師匠の元を離
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よっちゃんの生い立ち その3

キネシオロジーとの出会いいまから10年ほどまえに、ロサンゼルスでHSKキネシオロジーを勉強しました。キネシオロジーについては、また詳しく説明しますが、Oリングテストの元となったもので、相談者の筋肉の動きをテストすることで、相談者自身の身体の情報を取得し、相談者の体を調整することで、心身を統合するものです。私たちは、自分の意志で筋肉を動かしていると思っていますが、実際は、潜在意識の影響が大変大きいのです。どんなに頭でやろうと考えても、やる気がおきないとか、どんなに我慢しようと頑張っても、人前でうまく話せないというのも、潜在意識の影響によるものの一例です。このような状況は、顕在意識と潜在意識のズレが発生しているためです。この事を応用すれば、キネシオロジーを使う事によって、相談者の潜在意識にアクセスすることができます。潜在意識にアクセスする方法は他にもありますが、多くの場合、人によってうまくいったりいかなかったりするか、相談を聴く側の思い込みによって結果がぶれるという欠点があります。しかし、キネシオロジーは手順さえ間違えなければ、確実に相談者の潜在意識にアクセスすることができます。相談を聞く側が得た直感に対して、相談者にダブルチェックできるのです。自分の頭では、もう終わったことだと思っていても、キネシオロジーでチェックしてみると、まだ潜在意識にはストレスが残っていることもあります。そのような隠れたストレスを見つけ調整することで、調整前に比べて変化を感じやすいというのも大変魅力的でした。日本にもどってきて、キネシオロジーの練習を毎日のようにし、相談者の突然のぎっくり腰をものの10分かか
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(再掲)私が適応障害になった経緯

 適応障害になった経緯  こんにちは。こんばんは。おはようございます。適応障害になり無職になった望月現です。  私が社会人になってから適応障害と診断されるまでの経過を書いていきたいと思います。  今思うと、入社してからずっと心身ともに緊張する日々が続いていたように思います。気が休まる日がなく、ずっと仕事のことを考えていましたし、仕事に活かせるように自己啓発本などを読んで、根詰めて生きていました。  最終的には、私は、メンタルが崩壊し、無断欠勤してそのまま仕事を辞めることになるのですが、具体的な内容は、以下で詳しく書きたいと思います。 ※以下は、ややプライバシーに関わることやショッキングな内容が含まれるため、申し訳ないですが、有料記事とさせてください。(現在は無料です。) ・生い立ち  私は現状、いわゆる高学歴ニートと言ってもよいと思います。  地元では一番頭の良い高校を出て、早慶ないし旧帝レベルの大学を出て、人に職業名を言ったら驚かれるような仕事に就きました。中学時代に夢見た仕事に就けたのです。  良い意味でも悪い意味でも「レール」に乗った人生を歩んでいたと思います。   ・社会人生活 ①仕事量の多さ・休めなかった  最初は任される仕事も少なかったので、自分の力だけで回すことができていました。  しかし、次第に任される仕事の量が多くなっていき、仕事をする時間が増えていきました。  入社して3か月経ったころには、家に帰る時間が1時、2時を回るようになっていました。(私がいた業界も仕事の量は多い部類ですが、私の仕事量は同期と比べても異常に多かったようです。)  最初のうちはそのくら
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信じてやまないチカラ

どうも、私です。こんにちわ。ココナラで出品しても、どんな人か知って貰えなけば、購入も難しいかと、私の生い立ちを記したブログでも始めてみました。私は今年で40を迎えるしがない、おっさんです。すごい実績があるわけでもなければ、誰かを救えるような特別な力があるわけでもない、その辺で歩いているような、おっさんです。こんなおっさんの私が、唯一誇れるというか、自慢できるチカラがあるとしたら、それは…《自分を助けてくれる人間を引き寄せる》というチカラくらいです。貧困が目立つ国で生まれ、スラム街と呼ばれるような場所で生活。兄は路上で物乞いをやり、卵代を稼ぐ。子供への愛が強かった母を引き寄せ、貧困の国から日本へ呼び寄せてくれた今の父を引き寄せ、今現在、普通にご飯が食べれる生活を送れています。先述したとおり、私は特にこれといってすごい人間ではないので、父親が日本に呼び寄せてくれなければ、一生を日本に来ることなく、こうして筆を取るなんてことも一生なかったと思います。思えば、私を助けてくれる人間はいっぱいいました。そんな人たちを引き寄せる。それが唯一、私が自慢できるチカラだと思っています。次回、私が生まれた話から始めます。では、今日はこの辺で。
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生い立ち 私と母

私は、私から見ると極普通と思われる家庭に、3人兄妹の真ん中として産まれた。兄とは1歳差、妹とは6歳差。両親は共働きだった。母は自分が子供のころにやってきたということもあり、私が女の子だからという理由で、家の手伝いに対して凄く厳しかった。幼稚園に入ってしばらくして妹が産まれると、私は幼稚園から帰ってきたらお米を研いでセットしておくように頼まれるようになった。1年生になると、洗濯物畳み、夜の食器洗い、掃除機かけなども頼まれるように。子供なので、学校から帰ると頼まれていたことを忘れてしまうこともあり、そのときは帰ってきた母に「何でやってないの!」と怒られた。食器を洗っても、それを褒められたり感謝されることはなく、排水溝のゴミ入れに残飯が残っているとそれを指摘され、怒られた。私にとって、家の手伝いをすることに対して喜びを感じることは全くなく、逆に「今日はどこで怒られるんだろう」「何でお母さんはありがとうも言ってくれないの?」「何で兄ちゃんは手伝いしなくても怒られないの?」と、ネガティブな感情ばかり感じていた。この感情は思春期に入るにつれ益々大きくなり、兄にも妹にも手伝いを頼まないのに、頼んだ私に一番厳しくしてくる母に対し、「どうせお母さんは兄ちゃんと妹のことが可愛くて、私のことは可愛くないんでしょ!」「私はなんでこの家に産まれてきたの?」と、とても悲観的になっていった。でも、表立って手伝いをストライキするとかそういうことはなく、自分のことは自分でやる、プラス家の手伝いもする優秀な娘だったと思う。これが私から見えていた、子供の頃の私と母。
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生い立ち

※ご興味のある方だけご覧ください私は日本人の父と韓国人の母の間に生まれました父はアル中でひどいDV気質があり、たくさんの見たくない光景を見たり、恐怖に怯えるような体験をし、気がつけばこどもの頃から動悸やパニック症状を起こしていました私が4歳の頃に両親は離婚し、母は家を出ていき、父は新しい妻を迎え、腹違いのきょうだいも生まれましたその後、小学1年生になった私は母とまた暮らすようになりましたしかし母は生活のために朝方まで水商売をしていた為、日曜日以外は毎晩1人で留守番をしていました親戚も頼れる人も全くおらず、当時は外国人差別もありました朝も1人で起きることができずに寝坊し、遅刻することも度々あり、学校では友達もできないどころか、年上の男の子たちに目をつけられ放課後にボールを投げられたりもしました転校も2回し、時には不登校、時には家出と、いつも心が落ち着かない時期をずいぶん長く経験しました大切な人を事故で亡くした時は、生きていることがとても困難にも感じましたそしてそれまで私の中にあった様々な感情は、あらゆる面で自分自身の心と体に影響を及ぼしていったのでしたそれらは思った以上に長く続き、今はその痕跡も私の一部となっていますしばらくしてから私は、自分自身のためにあらゆる経験をしてみることにしました興味の湧いた仕事はなんでもし、小さいながらも起業やお店の出店などもしました旅行もたくさん行き、世界のいろんな歴史や文化にも触れました美容、食育、薬膳、心理学、子育てに関する様々なこととにかく興味のある事をたくさん勉強もしました子供を産み、価値観も変わっていきました私なりの経験を経て、今現在として
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よっちゃんの生い立ち その1

その人の人となりを知っていただくには、生い立ちを知っていただくことが一番だと思い、僭越ながら、私の生い立ちを何回かにわけて書きたいと思います。深い仏縁私の家系はひいおばあちゃんの代から、深い仏縁に導かれてきました。おばあちゃんは拝み屋でした。毎晩毎晩、悩み多き人々の相談にのっていました。おばあちゃんの家に行くと、家の長い壁一面にお寺にも引けを取らないぐらい様々な仏具がそろえてありました。祖母の家はそういうところなのだと、小さい頃の私は勘違いしていたぐらいです。母は祖母と同じぐらい仏縁が強かったのですが、僧侶の道には進むことはありませんでした。普通の主婦でしたが、不思議な現象をたびたび体験しました。人から相談されることも多く、近所の人の相談にたびたびのっていました。私自身も子供の頃から目に見えない存在を感じていました。一度本当に不思議なできごとがありました。お正月になると、おばあちゃんの家に親戚で集まるのが恒例でした。私が小学二年生のとき、おばあちゃんの家でご飯をたべたあと、他の親戚たちは、テレビをみていたのですが、おばあちゃんと母と私は、仏壇の前にいました。おばあちゃんの家の壁は、砂のようにざらざらした壁でしたが、そこに突然文字が浮かび上がってきました。それも一文字や二文字ではなく、中央から外に広がるように後から後から湧き上がってくるのです。おばあちゃんはペンと紙を私にわたしてきて、その文字を書くように命じました。その文字の中に「妙」という文字があったのは、いまでもはっきり覚えています。そんな感じの家でしたから、不思議なことに対する免疫はありませんでした。ひどいいじめをうけるし
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