仏教における悟りとは③

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こんばんは。

いつもブログをご覧いただきありがとうございます。

さてさて、引き続き悟りについてお話していきます。

前回お話したように、悟りとは日常生活の中にある気付きです。

そして、それは大それたことではなく、ごく身近にある些細なものです。

その些細なもの中に実は真理があるのです。

悟りとは、何か新しい発見のようなものではないのです。
もともとあった事実に目を向け、それを認識することなんですね。

ただここで大切なことは、頭で知るのではなく心で感じることなんです。

以前にも言いましたが、悟りは感性や感情の部類です。ですから伝えることができません。頭で理解することなら伝えれますね。

まずは頭で理解しなければなりません、そしてそこで止めるのではなく、心でも得心できるところまで深めていかなければなりません。

しかしそれが深まる過程において、必ず感情に何らかの変化が現れてきます。

それが喜びであるのか、悲しみであるのか、怒りであるのか、不安であるのか、その感情の変化は様々です。

もちろん何を求めるかにもよりますが、心の奥深くに共鳴するには、意識の底に沈殿するあらゆる感情を一時的にかき混ぜなければならないのです。
そうしなければ心の底に届かないんです。

ですからいろんな感情があふれ出て情緒不安定みたいな状況にもなったりします。

ですが、その感情は一時的なものです。決して本当の自分の想いとは思わないでくださいね。感情は因縁作用によって引き起こる波のようなものです。

そこに実体などありません。変化に必要な副作用なものです。

でもその変化に付随する副作用を自分の本当の想いとして受け取ってしまうと
心は疲れますし、弱気になったり、変化を遂げるまえに後戻りしてしまう結果となるのです。

ですから悟りを体験する前に必要な心構えは、この感情に絶対に振り回されないことが大切なのです。

感情に振り回されてしまうと、一進一退の繰り返しになり、結局深めきれず引き戻されるケースが多いのです。

ですから、ここぞというときは厳しい言い方になりますが、少し無理をしてでも前に進む選択をするほうが良いわけです。

覚悟を決めるわけです!覚悟の二文字を見てください。

覚(さとり)悟(さとり)ともにさとりと読みますよね。

また悟の漢字を崩してみると、りっしんべんに吾(われ)になります。
覚はめざめともいいます。

吾(わ)が心(こころ)の覚(めざ)め =覚悟

覚悟こそが悟りです!
これは迷いがない状態ですから、揺らがないんですよ。

そういう状態になるには生みの苦しみがどうしても付きまとうものです。

「百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進む」という言葉があります。

これは百尺(約30m)の竹の竿(さお)のてっぺんまで登りました。ゴールのはずなのですが、更に一歩進みなさいと言っているのです。

現実にやれば大怪我しますから絶対にしちゃ駄目ですよ(;^_^A

世間では努力や工夫の上に更に工夫を重ねるよな時に使われますが、

ここでは、目に見える百尺の竿の先には目に見えない一歩踏み込んだ世界があるといっているのです。

そのためには疑いや不安や恐怖のような負の感情を(百尺竿頭)で表しているわけです。

しかしその世界に踏み込みたい自分、変わりたい自分(一歩踏み込こめと言う人)がいます。

それに鼓舞され、勇気をもって進みます。(一歩踏み込む自分)その時には必ず心には覚悟が決まっているはずです。

悟りを得るときの喩え話ですが、体験した人からなら納得できる例えではないかと思いますよ。

では、続きはまた次回にします。

相変わらず、あまり上手くお伝えできてるか微妙ですが(;^_^A

最後までご覧いただきありがとうございました。

















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