仏教における悟りとは④

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こんばんは。

いつもブログをご覧いただきありがとうございます。

3月も早いもので三分の一が過ぎようとしてます。
だんだんお彼岸が近づいてきましたね。

お彼岸についてもお話したいことがあるんですが、まずはこれまで話してきた悟りについて完結しておかなければなりません。

前回は悟りは覚悟ということを説明しましたね。

今回は悟りを体感したらどういう変化が起きるかについてお話します。

まずこれまでのおさらいですが、悟りとは気付きです。

日常生活で当たり前に思っていたことに変化がおきるのです。

皆さんは「当たり前」のは反対語ってご存じですか?

「当たり前」の反対語は「有難い」つまり「ありがたい」です。

有ることが難しい。それは当たり前にあるものは何一つとして簡単には成り立っていないということです。


自分の身の周りに有る「当たり前」が「有難い」に変化する!

その瞬間が悟りの体得ポイントです!その瞬間に目の前の景色が一変します!


という言葉だけで伝わったらいいんですが、前にも言いましたが言葉で伝えることができません(;^_^A

ですので、もう少し深くお話しします。今の表現は悟りの中でも大悟という、大きく悟った時に起こる現象です。

悟りには小悟、大悟があります。

小悟はヒラメキ的に、お!っと、心のバロメーターが少し上昇する感じです。

大悟は雷に打たれような衝撃が心のバロメーターを一気に振り切る状態です。

この瞬間に爆発的な感動が自発的に生まれ、そして今日この瞬間に生きていることがうれしくてうれしくて涙が止まらない。何もかもがこの自分の為だけに存在している。なんてありがたいんだろう!!!

まーこんな感覚になるわけです。

この感覚がはっきり自覚できます。

仏教ではこの大悟徹底の末に起こる感覚、この境地へ導くための手立てを説いた教えなのです。すなわちこれが一種の涅槃寂静の境地なんです。

もちろん誤解のないように言っておきますが、大悟徹底といってみても、これが完璧な悟りというわけではありませんし、涅槃寂静の極みでもありません。
どちらかというと入門レベルです。

この感覚の延長上に真実の悟りがあるのだと私は思っています。
また一度悟れば終わりということもありません、また次の悟り、次の悟りと、何度も繰り返して、人間の心、魂を成長させていくのだと思います。

これには「え~悟りってそんな何回もあるの」とか「入門レベルですか?」と思われる方もいると思いますが、真理のすべてを一瞬にして悟ことは不可能です。レベル1が突然レベル99にはなれません。

それでもレベル10くらいはアップしてそうな気持ちにはなれるかもしれません(;^_^A

また入門レベルと言いましたが、入門するということは、入口を見つけたということです。入口を見つけられなければ絶対に出口は見つかりません。

たとえば、切り口のない袋に入っているお菓子があります。手では破ることが出来ない袋です。そこでハサミを入れて切り口を作る(入門)としましょう。
そしたら後は少しの力で一気に破る(ゴール)ことができますよね?

これと同じで、この入門するまでが実は一番難しいと仏教でも言ってるんですよ。

こういった感覚を一度体験したならば、後はおのずから(先の境地は)開けていくといっている歴史的偉いお坊さんが沢山いてます♪


これは宗教的なものはもちろんですが、全ての分野において起こり得ることなのですよ。

たとえば、スポーツや芸術の追求を通して目覚めることもあれば、家庭や職場の環境において目覚めることもあります。

教は人が生きる道を説く教えです。何からでも悟りの境地の感覚は目覚めるんです。それを方便力(ほうべんりき)といってますね。

ではその悟りにいたる為の大切な要素について

次回お話したいとおもいます。

今回も長々となりましたが(;^_^A


最後までご覧いただきありがとうございました。




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