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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑱」:「モンゴルの遺産」を受け継いだ近世社会が「近代」の母体

③中国・高麗・日本・東南アジア・チベットに残されたモンゴルの刻印  朝鮮半島にあった高麗国がモンゴルに服属するのが1259年です。高麗政府は江華島に逃げ込んで抵抗を続けていましたが、最終的にモンゴルの属国となりました。高麗王はモンゴルのお姫様を妃に迎え、王室にモンゴルの血が入り込むようにさえなるのです。ところが、政府がモンゴルに降伏しても軍隊は納得せず、半島の南西海岸を転々としながらモンゴル軍に抵抗を続けており、この高麗軍を三別抄(さんべつしょう)軍と言います。この三別抄軍が最後につぶされたのが1273年で、ようやく朝鮮半島を平定できたモンゴルは、その翌年に第1回目の日本遠征を実行するのです。  元は鎌倉時代の日本に2回攻めてきており(元寇)。1回目が1274年で文永の役と言い、2回目が1281年で弘安の役と言います。これに先立ち、フビライは1271年と1273年に趙良弼(ちょうりょうひつ)という女真族出身の政治家を外交使節として日本に派遣していますが、当時元は南宋攻略の真っ最中で、日本を含んだ対南宋包囲網形成というのが第1回遠征の目的でした。しかし、この遠征は失敗に終わり、その後の1279年に南宋は滅ぼされると、その2年後に第2回日本遠征となります。実は南宋を滅ぼした後、元は旧南宋軍の処理に困ったようで、南宋は元との戦争で大軍を抱えており、南宋が滅んでもその兵士達は大勢残っていたので、彼等に仕事を与えるための日本遠征だったと言うのです。したがって、フビライにとって第2回遠征は成功すればさらに領土・版図が広がるものの、負けて大軍が海の藻屑となってもそれはそれで厄介払いが出来たわ
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歴史探究「パックス・モンゴリカ③」:元朝は中国史上の暗黒時代という「大誤解」

③中国史上最大の名君は「唐の太宗」よりも「元のクビライ」か「清の康熙帝」  唐の第2代皇帝である太宗李世民は唐王朝の基礎を固める善政を行い、「中国史上最高の名君」と称えられています。太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、太宗と臣下達の問答が『貞観政要』としてまとめられ、後世「帝王学のテキスト」として広く読まれるようになったことは有名です。太宗は唐の国力を背景に突厥を崩壊させ、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなったため、族長達は長安に集まり、太宗に「天可汗」の称号を奉じていますが、「天可汗」という称号は北方遊牧民族の君主である「可汗」より更に上位の君主を意味するので、ここに唐の皇帝は中華の天子であると共に、北方民族の首長としての地位も得ることとなったのです。  しかしながら、第5代カーンにして元朝を創始したクビライはさらに上を行き、チンギスが結集させた「草原の軍事力」を支配の根源として保持しつつ、「中華の経済力」を管理し、「ムスリムの商業力」を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、「モンゴル世界連邦」を創設しています。東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は大カーンを頂点とする緩やかな連合として結びつき、いわゆるシルクロード交易の活況ぶりは空前となり、この状況を指して「パックス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)と呼ばれることがあります。元の首都大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、マルコ=ポーロなど数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄はヨーロッパにまで伝えられました。江南の港湾都市では海上貿易が隆盛し、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本からも、私的な貿
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑰」:「モンゴルの遺産」を受け継いだ近世社会が「近代」の母体

②ティムール帝国、オスマン・トルコ帝国、サファヴィー朝ペルシア、ムガル帝国への発展  カーン位を巡る対立と抗争とペストの大流行をはじめとする疫病と天災の続発により、モンゴル帝国は急速に分裂していきました。元も1351年に起こった紅巾の乱によって経済の中心地であった江南を失い、1368年、ついに紅巾党の首領の1人であった朱元璋の立てた明によって中国を追われています。  しかしながら、モンゴルを倒して漢民族王朝を復興したとされる明においても、その国制はおおむね元制の踏襲であり、例えば軍制の衛所制が元の千戸所・万戸府制の継続であることは明らかです。同じ頃、中央アジアから西アジアに至る大帝国を築き上げたティムールは、先祖がチンギス=カンに仕えた部将に遡るバルラス部の貴族出身であり、その軍隊は全く西チャガタイ・ハン国のものを継承していたのみならず、彼自身やその後継者は国家の君主を名乗らずに、名目上はチャガタイ家のハンの「キュレゲン」(女婿)を称しました。そして、チンギス=カンの名とその血統はその後も長らく神聖な存在であり続けるのです(「チンギス統原理」)。モンゴル帝国の故地モンゴリアでは、15世紀の終わりに即位したクビライの末裔ダヤン=ハーンの子孫達が諸部族の領主として君臨し、17世紀には満州人の清がダヤン=ハーンの末裔チャハル部から元の玉璽を譲り受け、大元の権威を継承して満州・モンゴル・中国の君主となる手続きを取り、新たにモンゴルの最高支配者となりました。現在のモンゴル国や内モンゴルの国境や社会組織は清代のものを継承しており、モンゴル帝国の影響は今も間接的に残っていると言えます。 ティ
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑯」:「モンゴルの遺産」を受け継いだ近世社会が「近代」の母体

①ロシアもヨーロッパも「モンゴル」抜きに語ることが出来ない  ルーシ(ロシア)の地にすさまじい破壊の嵐をもたらしたバトゥの侵攻で、ここから「タタールのくびき」時代が幕を開けるのですが、これは「タタールのくびき」と言うより、むしろ「タタールによる安定」といった方が適切であると見られています。モンゴルは侵攻当初は徹底的な破壊を行いますが、いったん支配下に入ればもう味方と考え、反乱等の如何ともし難い場合を除き、弾圧政策や同化政策は全く採っていないのです。むしろ、モンゴル侵入以前のルーシの歴史で流された血を考えると、断然モンゴル時代の方が安定して平和と言えるでしょう。  したがって、このモンゴル統治は、ロシア最初の統一王朝がスウェーデンからやって来たリューリクによって開かれたことがいみじくも示すごとく、ロシアは外国人もしくは国内少数民族が統治したほうがうまくいく、という例の1つだとも指摘されているのです。ドイツ人の血の方が濃いツァーリが統治し続けたロマノフ王朝、少数民族出身者あるいはその影響のきわめて濃い人物の書記長・政治局員が続いたソ連時代を考えると、これはロシア史のセオリーといっても過言ではないと言うのです。多民族国家はえてしてこのようなものであり、例えば同じくユーラシアの多民族国家オスマン・トルコ帝国などでも、ほとんどトルコ人の血が混じらないスルタンがトルコを治め、デウシルメ制度でキリスト教徒の子息を徴用し、イスラーム教に改宗した彼らのうち、賢い者は宮廷に上がって、後に大臣となり、そうでない者はイェニチェリ部隊に編入されてトルコ陸軍の中心となっていきました。つまり、オスマン・トル
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑮」:驚くべき重商主義財政と自由経済のシステム

③国際通貨「銀」を補完した共通通貨「紙幣」「塩」、対日主要輸出品となった「銅銭」  北宋から数えれば300年を超す古い王朝である南宋を倒し、当時のユーラシア世界で最も経済力・産業力に富む江南という豊かな社会を手に入れたクビライは、各種の占領政策と共に通貨問題についても慎重に議論を重ねた末、銅銭を国家公認の正式貨幣としては扱わないことに決定しました。元々、日本は北宋時代より銅銭を大量入手し、南宋時代に至っては日本の商船がやって来てはあまりにも大量の銅銭を買い込むので、南宋国内が銅銭不足に追い込まれ、南宋政府は幾度も銅銭売却を禁じるほどでしたが、ここへ来て、突然銅銭のフリー・マーケット状態が出現したため、銅銭は最も有力な対日貿易輸出品となるのです。従来、「日宋貿易」に比べて「日元貿易」は低調で、ほとんど行われなかったかの如く見られて来ましたが、日本や海で多数発見されている宋銭はむしろ元代に大量に運ばれたものと見ていいのです。  そもそも銅銭不足により、北宋代には「交子」、南宋代には「会子と呼ばれる紙幣が流通していましたが、モンゴル帝国も第2代オゴデイ=カーンの時代には既に金や南宋で使われていた紙幣を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る「交鈔」(こうしょう)と呼ばれる紙幣を流通させていました。ちなみに会子など旧来の紙幣は、発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨でしかなかったのですが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させたのです。交鈔は金銀との兌換(交換)が保証されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑭」:驚くべき重商主義財政と自由経済のシステム

②商業利潤に立脚した地方・国家財政と「多国籍企業・総合商社」を活用した通商産業政策  中央アジアのウイグル人、チベット人、及びその西方に住むテュルク系・イラン系のムスリム(イスラーム教徒)定住民達など、元朝治下における西域(中央アジア・西アジア)諸国出身者は「色目人」(しきもくじん)と呼ばれ、色目人達はモンゴルに帰服したのが金や南宋の人々よりも早かったため、漢人・南人よりも相対的に高い地位を与えられ、モンゴルに準じる支配者階級として活躍する者が多く輩出されました。彼らは仏教やイスラーム教に基づいた高度な文化を持ち、また元の支配制度は彼等に原住地の文化・社会・習俗を保つことを保証したので、中国社会に対しても異質者として容易に同化されることがなく、入っていくことができたのです。   色目人の商人達は、多国籍企業・総合商社に近い「オルトク」と呼ばれる共同事業制度を通じてモンゴル人達から資金を集め、国際商業に投資して莫大な利益を得ていました。また、商業を通じて信任を受けた商人は、民族の出自関係よりも能力を重視したモンゴルによってしばしば財務官僚として登用されています。元朝の後期になると、色目人の中からも中国文化に親しんだ者が現われるようになり、科挙を受験する者も少なからず出ています。現代中国で「回族」と呼ばれる人々の中には、こうして漢文化をある程度受け入れ、言語と容貌において漢民族と同化した元代ムスリムの子孫とされる人々が数多く含まれているのです。 「クビライ新国家を特徴づけるものとして、軍事から経済への旋回も、挙げなければならない。軍事国家モンゴルという立場から見れば、軍事をささえる
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑬」:驚くべき重商主義財政と自由経済のシステム

①流通経済機構の整備と「ユーラシア世界通商圏」の創出  モンゴル帝国は、先行する遊牧国家と同様に、商業ルートを抑えて国際商業を管理し、経済を活性化させて支配者に利益を上げることを目指す重商主義的な政策を採りました。内陸の国や港湾国家は一般に、通過する財貨に関税をかけて国際交易の利益を吸い上げようとしますが、モンゴル帝国は商品の最終売却地でのみ商品価格の30分の1の売却税をかけるように税制を改めました。遊牧民は生活において交易活動が欠かせないため、モンゴル高原には古くからウイグル人やムスリムの商人が入り込んでいましたが、モンゴル帝国の支配者層は彼らを統治下に入れると、「オルトク」と呼ばれる共同事業に出資して利益を得ています。占領地の税務行政が銀の取り立てに特化したのも、国際通貨である銀を獲得して国際商業への投資に振り向けるためでした。モンゴル帝国の征服がもたらした駅伝制「ジャムチ」の整備とユーラシア大陸全域を覆う平和も国際商業の振興に役立っており、モンゴル帝国の拡大とともにユーラシアを横断する使節、商人、旅行者の数も増加し、プラノ=カルピニ、モンテ=コルヴィノ、マルコ=ポーロ、イブン=バットゥータなどの著名な旅行家達が現われるのです。  モンゴル帝国の再編とともに、ユーラシア大陸全域を覆う平和の時代が訪れ、陸路と海路には様々な人々が自由に行き交う時代が生まれました。モンゴルは関税を撤廃して商業を振興したので国際交易が隆盛し、モンゴルに征服されなかった日本や東南アジア、インド、エジプト、ヨーロッパまでもが海路を通じて交易のネットワークに取り込まれました。実に「パクス・モンゴリカ」「
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑫」:「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の誕生

③チンギス・カンの伝統とクビライの構想が「パックス・モンゴリカ」をもたらした  モンゴル系もしくはトルコ系の匈奴はモンゴル高原を中核地域にして、強大な遊牧国家を300年以上の長期間にわたって保持しており、匈奴と南北に対峙した漢王朝がその後の中華帝国の基本型を作ったように、匈奴帝国で確立したパターン、システムが以後の遊牧帝国(モンゴル系柔然、トルコ系突厥、トルコ系ウイグル、モンゴル系契丹)の枠組みを決定しました。それは国家全体が東西に左翼(東方)・中央・右翼(西方)の3大部分に分かれること、社会組織としては十人隊・百人隊・千人隊・万人隊という十進法体系の軍事組織に編成されたこと、君主は各部分の長達の子弟を集め、人間組織の面でも国家全体のつなぎ手となること、などです。チンギス=カンのモンゴル・ウルスはこの後継者であり、1206年のウルス結成の後、対金戦争に旅立つまでの5年間は、こうしたマニュアル通りの国家システム作りと内政整備に充てられました。  また、唐の滅亡後、五代十国の乱を収束して契丹人が建てた「最初の華夷帝国」(フェアバンクス)が遼であり、大遼帝国は10世紀から12世紀初頭まで中華本土の北宋王朝を圧倒して、アジア東方の覇者でした。遼は遊牧国家でありながら、旧渤海国の満州(マンチュリア)、華北の「燕雲十六州」(「燕」は現在の北京地区、「雲」は大同地区)をも領有し、遊牧と農耕の両世界を支配する術を身に付けたのです。12世紀初頭に契丹帝国は満州に興った女真族の金帝国によって吸収されましたが、契丹王族の一人である耶律大石(やりつたいせき)はモンゴル高原の遊牧民を率いて中央アジアへ赴
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑪」:「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の誕生

②大都は「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の首都  大都(だいと)はモンゴル帝国(元朝)のクビライ=カンが現在の北京の地に造営した都市で、純然たる計画都市として設計され、南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝后市」など、中華帝国の帝都の理想形を模して作られました。こうした都城構成は、歴代中華王朝では一度も作られたことがなく、異邦人であるモンゴルが史上初めて実現させたものです。大都は内陸の都市としては驚くべきことに、積水潭と呼ばれる都市内港を持つよう設計されており、現在の天津にあたる通州から閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため、江南地方からの物資も水運により結ばれるようになりました。このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めたのです。大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン=バットゥータやマルコ=ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わりました。モンケ時代には城内のムスリム住民は3,000戸であったことが記録に残っており、ムスリム官僚をはじめとして、モンゴル帝国初期から中央アジアからのムスリム系の住民達が多く集中して居住していたようです。  江南の拠点である南京を首都とした出発した明代において、第3代永楽帝が即位すると、大都は対モンゴル政策の拠点として再び重視され、大都の3分の2程度の規模で北京が建設され、明の首都となっています。 「クビライ出現以後、モンゴル帝国は、大小の権力が複合する一種の『
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑨」:「草原の軍事力」+「中国の経済力」+「ムスリムの商業力」

③世界中にネットワークを張り巡らした「ムスリム商人の力量」  元代にイスラーム・ネットワークがもたらした影響は大きく、元は南宋の拠点であった襄陽の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘してマンジャニーク(中国名は「回回砲」)と呼ばれる西洋式の投石機を作ったり、イラン出身のジャマールッディーンにより暦法と天体観測器が持ち込まれ、1271年にそれを基とした「回回司天台」と呼ばれる天文台が作られています。運河の建設や水利工事も手がけていたクビライ側近の中国人学者郭守敬は、この観測結果を元に新しい暦「授時暦」を作り、この暦は明の滅亡まで使用され、江戸時代の「貞享暦」の元になっています。  また、元代の陶磁器は中国史上最高と呼ばれる宋代の陶磁器を受け継いでいますが、青花と呼ばれる染付に使われているコバルト顔料は西方からの輸入品で、「回回青」と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示しています。元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠くトルコ、イスタンブルのオスマン帝国の宮廷トプカプ宮殿や、イラン、アルダビールのサファヴィー朝の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがあります。この他にも西アジアには中国から絵画の技法が伝わって、細密画(ミニアチュール)が発達していきます。 「では、イスラーム世界がこのように繁栄し、広範に浸透した理由は何か。一つは、平等を基本精神とし、非ムスリムとも融合政策をとったこと、もう一つは、官僚機構と軍事力を整備し、中央集権的に行政を安定させたことである。  後者の一環としての、
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑧」:「草原の軍事力」+「中国の経済力」+「ムスリムの商業力」

②西方世界を圧倒する「中国の生産力・技術力・経済力・文化的成熟」  元の国土の内側でもっとも生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南でした。江南は、元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていましたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっていたのです。「蘇湖熟すれば天下足る」「蘇常熟すれば天下足る」という南宋で生まれた言葉は、江南の富が如何に大きかったかを示しています。この言葉は、蘇州・湖州・常州(湖州・常州は江蘇省太湖の西と南のこと)の作物が実ってくれれば他の地域が不作だったとしても心配は無いという意味です。実際、モンゴルが江南を併合する前の1271年と併合した後の1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ています。さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える塩、茶、酒、明礬などの専売制の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度でした。元では遠隔地交易が活性化し、国庫に入る商税の総額は非常に莫大なものとなりましたが、元において歳入の8割とも言われる最も大きな部分を占めたのは塩の専売制だったのです。  ところで、クビライは『農桑輯要』という官撰の農書も刊行していますが、国家の政策として同書が編纂されたということは、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進された事を物語っています。さらに、クビライは海に面した現在の天津から大都まで80kmほどの運河を穿ち、大都の中に港を造って、江
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑦」:「草原の軍事力」+「中国の経済力」+「ムスリムの商業力」

①中国・イスラーム・ロシア・ヨーロッパを制覇した脅威的なモンゴルの軍事力・機動力  チンギス=カンは「千戸制」という軍団組織を作り上げましたが、戸制のシステムによって集められた兵士達は全て軽騎兵であり、1人が5、6頭の馬を連れて従軍し、機動力が抜群でした。また、千戸制は軍制だけでなく、日常の行政組織でもありました。かくして、「モンゴル軍」は草原を制覇したのみならず、南方中国を完全制圧し、ヨーロッパが十字軍を繰り出しても勝てなかったイスラーム勢力の中心たるアッバース朝を滅亡させ、ロシアを200年に及ぶ「タタールのくびき」の下に置きました。第2代オゴデイの死によるバトゥのハンガリー旋回と第4代モンケの死によるフレグのシリア旋回が無ければ、ヨーロッパも制圧されたものと思われます。  モンゴル軍の遠征における組織だった軍事行動を支えるためには、敵情の綿密な分析に基づく綿密な作戦計画の策定が必要であり、モンゴルは遠征に先立ってあらかじめ情報を収集していました。実戦においても先鋒隊がさらに前方に斥候や哨戒部隊を進めて敵襲に備えるなど、きわめて情報収集に力が入れられています。また、中央アジア遠征ではあらかじめモンゴルに帰服していた中央アジア出身のムスリム商人、ヨーロッパ遠征では母国を追われて東方に亡命したイングランド貴族が斥候に加わり、情報提供や案内役を務めていたことが分かっています。  初期のモンゴル軍は抵抗した都市を徹底的に破壊して、その住民を殺戮し尽くした恐怖の軍隊でしたが、その残虐さを強調することで宣伝効果を狙ったとされます。実際、中央アジアではこの時代のオアシス都市としてはありえな
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑥」:「モンゴル帝国」によって真の意味で「世界史」が成立した

③「モンゴル帝国」の出現で東洋と西洋は連結され、ユーラシア大陸は1つになった  モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス=カンが創設した遊牧国家を「イェケ・モンゴル・ウルス」(「大モンゴル国」)と言いますが、チンギスとその後継者達はモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ビルマ、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸の大部分にまたがる史上最大の帝国「モンゴル帝国」を創り上げ、当時の世界の全人口の約半数が支配下となりました。全部1つの国なので、理論上、戦争は無くなり(内乱、内戦となるわけです)、これを「モンゴルの平和」(パックス・モンゴリカ)、あるいは「タタールの平和」(パックス・タタリカ)と言います。やがて、モンゴル帝国は東アジアの元(大元ウルス)、中央アジアのチャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)、キプチャク草原のキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)、西アジアのイル・ハン朝(フレグ・ウルス)の4大政権からなり、元を統べる大カーンを盟主とする緩やかな連合国家に再編されました。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かいますが、モンゴル帝国の支配した地域では、チンギス=カンの血を引かないものでなければハーンになることはできないという「チンギス統原理」(Chingisid principle)が長く残ることになり、チンギス=カンの末裔を称する王家達は実に20世紀に至るまで中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになります。例えば、東ヨーロッパのクリミア半島では1783年まで、中央アジアのホラズムでは1804年
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑤」:「モンゴル帝国」によって真の意味で「世界史」が成立した

②「歴史の父」ヘロドトスも「東洋のヘロドトス」司馬遷も「世界史の父」たり得ない  古代ギリシアの歴史家ヘロドトスはペルシア戦争後、諸国を遍歴して『歴史』(全九巻)を著わし、「歴史の父」とも呼ばれます。ちなみに「エジプトはナイルのたまもの」と言う言葉はヘロドトスが『歴史』に書いていることで有名になりましたが、元はヘシオドスの言葉です。『歴史』の記述はギリシアはもちろん、ペルシア、エジプトに関する事物まで及び、ヘロドトス自身が実際に見聞きしたことが集められており、ギリシア人の立場から『歴史』を物語的叙述で著わしたのですが、この点、後に現れるアテナイの歴史家トゥキディデスが著した実証的な『戦史』と対照的です。『歴史』はヨーロッパで最も古い歴史書の1つであり、後世まで読みつがれた他、中世ビザンティン時代のギリシア人達もヘロドトスに倣った形式で歴史書を書いています。  また、中国前漢時代の歴史家司馬遷も全130巻という大著『史記』の著者として東洋最高の歴史家の一人に数えられ、「東洋のヘロドトス」とも呼ばれています。司馬遷が『史記』において確立した記述方式は「紀伝体」と呼ばれ、皇帝ごとの「本紀」と諸臣を記述した「列伝」、および年表などの諸表や文化史の記述、諸侯の事績などから成ります。『史記』が中国で最初の正史となるのですが、後の中国の正史は全て基本的にこのパターンを踏襲しています。  しかしながら、真に世界史の名に値する最初の歴史書は、ヘロドトスの『歴史』でも司馬遷の『史記』でもなく、モンゴル帝国イル・ハン朝の宰相ラシード=アッディーンの『集史』なのです。『集史』は「モンゴル帝国の正史」で
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歴史探究「パックス・モンゴリカ④」:「モンゴル帝国」によって真の意味で「世界史」が成立した

①「モンゴル帝国史」の困難さは「中国系史料」と「ペルシア系史料」の統合にある  モンゴル帝国史がなかなか正当に評価されなかった理由として、それが真の「世界史」であるがゆえに史料が東西にわたり、それらを総合的に扱える専門家がいなかったということも大きいと言えます。モンゴル帝国史研究の基礎となる文献は、漢文・ペルシア語の2大史料群の他、20数カ国語に及び、研究論文も10数カ国語にわたるため、全てに通暁した専門家はおらず、かろうじて「東方史料群」の専門家、「西方史料群」の専門家がいるのみでした。  例えば、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)として『元史』があり、中世モンゴルの歴史書として『元朝秘史』(「モンゴル秘史」)などがありますが、イル・ハン朝(フレグ・ウルス)には初代フレグの時代に『世界征服者の歴史』、第2代アバカの時代に『諸史の秩序』が編纂されています。特に『諸史の歴史』では第1部でアダムから始めてイスラエルの預言者の歴史を置き、第2部で古代ペルシアの王統史、第3部でムハンマド及びカリフ史を扱って、第4部をサッファール朝から始まるイランの諸王朝史に当てて、その最後にモンゴル史を置くという構成を取っており、これは「イラン・イスラーム世界普遍史」と位置づけられ、モンゴルをイランの正当な統治者として捉え、モンゴルの統治時代をイラン・イスラーム世界史の中に組み込む、最初の作品であったされます。  さらにフレグ・ウルス第7代ハンのガザンの命令で宰相ラシード=アッディーンが編纂した「モンゴル帝国の正史」『集史』に至って、人類史上、最大の歴史書と称されています。「モンゴル史」の大部分
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歴史探究「パックス・モンゴリカ②」:元朝は中国史上の暗黒時代という「大誤解」

②元朝において儒教は保護され、国力と文化は興隆した  さらに元朝の評価を下げたのは、何と言っても「九儒十丐」(きゅうじゅじゅっかい)という言葉でしょう。元代の鄭思肖(ていししょう、鄭所南、宋の遺臣)の『心史』(しんし)にモンゴル支配下の中国における社会的地位のランク付けが出ており、それによると、「一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猟、八民、九儒、十丐」であるとされ、「丐」は乞食を指すので、儒者が如何に冷遇されていたかという証拠とされてきました。しかしながら、これはあくまでモンゴル帝国初期の一時的現象と見るべきで、第5代クビライ(世祖、1260~1294)に始まる元朝においては、特に第7代カイシャン(武宗、1307~1311)以降、儒教は明確に保護されているのです。同様に元朝は「モンゴル第一主義」を取り、民族的身分制を採用したと信じられていますが、これについても見直しがされつつあります。 「モンゴル時代に『モンゴル』とされた人びとのなかには、実は漢族もかなりいたのである。歴史の教科書では、モンゴル治下の中華地域では、モンゴル、色目、漢人(北中国の人びと)、南人(江南の人びと)という四段階の身分制が厳重にしかれたなどと記述されるが、本当は、そんな枠や身分制度は、ほとんど限りなく薄く、かすかだった。七〇年ちかくまえ、ある元代研究者がいいだした単純な謬説(びゅうせつ)が踏襲され、訂正されないままに、イメージだけがひとり歩きして、誤解が誤解を呼んで、どんどん拡大再生産されているにすぎない。」(杉山正明『大モンゴルの時代』)  また、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は儒教を排斥し
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歴史探究「パックス・モンゴリカ①」:元朝は中国史上の暗黒時代という「大誤解」

①「中華思想」こそが歴史を歪曲させる元凶である ここ20~30年でモンゴル帝国時代に対する歴史的評価が180度変わりましたが、以前は「元朝は中国史上の暗黒時代」という認識がまかり通っておりました。これは1つには「中華思想」に基づく、南宋末期の忠臣文天祥に対する礼賛が元朝の評価を曇らせたからだとも言えます。 「文天祥」(ぶんてんしょう、1236~1282年)~中国南宋末期の軍人・政治家です。滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ、何度も元に仕えるようにと勧誘されますが、忠節を守るために断って刑死し、「南宋の三忠臣」「亡宋の三傑」の1人として称えられています。  獄中で宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められますが、「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を照らしているのだ」という内容の『過零丁洋』の詩を送って断っています。宋が完全に滅んだ後も、その才能を惜しんだクビライより何度も勧誘を受けており、この時に文天祥は有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んでいます。  南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた文天祥ですが、クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評し、刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられたと言います。文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれました。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が『靖献遺言』に評伝を載せ、幕末の志士達に愛唱され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っているのです。 「中華思想」~中国(中華)が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるも
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歴史探究「パックス・モンゴリカ⑩」:「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の誕生

①多民族・多宗教・多文化を包含する「世界帝国」の出現  元来シャーマニズムを信仰してきたモンゴルは、初代チンギス=カンの時代より多宗教の共存を許し、いずれも1つの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきました。これは一種の「エキュメニズム」(教派一致・宗教一致を目指す超教派・超宗教運動)と見てもよいでしょう。  中国の宗教で最初にモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた全真教を始めとする道教教団で、南宋の併合が進むと、後漢の五斗米道の系譜を引く正一教が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大されています。  仏教では初めに保護を獲得したのは禅宗で、遼の王族の子孫で代々金に仕え、モンゴル帝国が成立すると、初代チンギスと2代オゴデイに仕えた耶律楚材(やりつそざい)など、宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けますが、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まっています。  また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方からイスラーム教が流入し、泉州などの沿岸部や雲南省などの内陸に大規模なムスリム共同体がありました。  もう1つの大宗教はキリスト教で、モンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていたネストリウス派のキリスト教は元代でも依然として信者が多く、またローマ教皇の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていたのです。 「彼ら自身はヤサと呼んでいる神の掟がある。第一は、汝ら相互に愛しあうべし、第二は、姦淫を為すべからず。(第三、以下は)盗むべからず。虚言をなすべからず。他人を欺くべからず。老人と貧者を敬わざるべからず
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