②商業利潤に立脚した地方・国家財政と「多国籍企業・総合商社」を活用した通商産業政策
中央アジアのウイグル人、チベット人、及びその西方に住むテュルク系・イラン系のムスリム(イスラーム教徒)定住民達など、元朝治下における西域(中央アジア・西アジア)諸国出身者は「色目人」(しきもくじん)と呼ばれ、色目人達はモンゴルに帰服したのが金や南宋の人々よりも早かったため、漢人・南人よりも相対的に高い地位を与えられ、モンゴルに準じる支配者階級として活躍する者が多く輩出されました。彼らは仏教やイスラーム教に基づいた高度な文化を持ち、また元の支配制度は彼等に原住地の文化・社会・習俗を保つことを保証したので、中国社会に対しても異質者として容易に同化されることがなく、入っていくことができたのです。
色目人の商人達は、多国籍企業・総合商社に近い「オルトク」と呼ばれる共同事業制度を通じてモンゴル人達から資金を集め、国際商業に投資して莫大な利益を得ていました。また、商業を通じて信任を受けた商人は、民族の出自関係よりも能力を重視したモンゴルによってしばしば財務官僚として登用されています。元朝の後期になると、色目人の中からも中国文化に親しんだ者が現われるようになり、科挙を受験する者も少なからず出ています。現代中国で「回族」と呼ばれる人々の中には、こうして漢文化をある程度受け入れ、言語と容貌において漢民族と同化した元代ムスリムの子孫とされる人々が数多く含まれているのです。
「クビライ新国家を特徴づけるものとして、軍事から経済への旋回も、挙げなければならない。軍事国家モンゴルという立場から見れば、軍事をささえる経済基盤の充実ということになるが、じつは、もっと踏み込んで、経済コントロールをもって統治の手段としたことにこそ、『クビライ・システム』の眼目がある。大都の造営、そしてその大都を中心とする陸海の交通運輸体系の整備などは、経済重視の通商国家というクビライ構想を実現させるための前提であったといえるかもしれない。・・・
ただし、クビライが通商振興・物流促進のにない手として、このオルトク商人を国家庇護のもとでより大型に育成・再編していったときには、もはやそうした原義をはなれ、さらには『組合』の域さえこえて、ほとんど『会社』にちかいものとして把握されていた。巨大なムスリム商業資本を中核に、ウイグル商人たちをもとりこんだものが、クビライ以後のモンゴル時代におけるオルトクという名の商業組織であった。・・・
ただし、ここでもっとも肝心なことは、そうした純然たる銀世界になるまえ、すでにモンゴルが、いったん銀を基本とする通貨状態をユーラシア規模でつくっていたということである。モンゴル時代に用意された状況があればこそ、十六世紀後半に世界はいっきょに銀をうけ入れるのである。
銀本位制への道は、モンゴルによってひらかれた。このことは、認めざるを得ないのである。・・・
世界とモンゴル帝国を支えたクビライが長逝した一二九四年、すなわち十三世紀のおわりころより、ユーラシアと北アフリカは、ゆるやかに一体化し、世界の各地は、どこも不思議なほどかつてはない経済の繁栄と文化の活況を迎える。安定化したモンゴルのもとで、アフロ・ユーラシアは人類史上でおそらくはじめて、空前の規模で平和共存の時代となった。国境の壁が、事実上は消えうせ、人間の視野と活動の範囲は、豁然(かつぜん)とひらけた。」(杉山正明)