歴史探究「パックス・モンゴリカ②」:元朝は中国史上の暗黒時代という「大誤解」

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②元朝において儒教は保護され、国力と文化は興隆した
 さらに元朝の評価を下げたのは、何と言っても「九儒十丐」(きゅうじゅじゅっかい)という言葉でしょう。元代の鄭思肖(ていししょう、鄭所南、宋の遺臣)の『心史』(しんし)にモンゴル支配下の中国における社会的地位のランク付けが出ており、それによると、「一官、二吏、三僧、四道、五医、六工、七猟、八民、九儒、十丐」であるとされ、「丐」は乞食を指すので、儒者が如何に冷遇されていたかという証拠とされてきました。しかしながら、これはあくまでモンゴル帝国初期の一時的現象と見るべきで、第5代クビライ(世祖、1260~1294)に始まる元朝においては、特に第7代カイシャン(武宗、1307~1311)以降、儒教は明確に保護されているのです。同様に元朝は「モンゴル第一主義」を取り、民族的身分制を採用したと信じられていますが、これについても見直しがされつつあります。

「モンゴル時代に『モンゴル』とされた人びとのなかには、実は漢族もかなりいたのである。歴史の教科書では、モンゴル治下の中華地域では、モンゴル、色目、漢人(北中国の人びと)、南人(江南の人びと)という四段階の身分制が厳重にしかれたなどと記述されるが、本当は、そんな枠や身分制度は、ほとんど限りなく薄く、かすかだった。七〇年ちかくまえ、ある元代研究者がいいだした単純な謬説(びゅうせつ)が踏襲され、訂正されないままに、イメージだけがひとり歩きして、誤解が誤解を呼んで、どんどん拡大再生産されているにすぎない。」(杉山正明『大モンゴルの時代』)

 また、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は儒教を排斥したと言われますが、漢文化に初めて理解を示したとされる第5代クビライよりはるか以前の第2代オゴデイの時代より、モンゴル帝国は孔子や孟子の子孫の保護、曲阜の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきです。そして、歴代カーンは即位すると、儒教と中国文化の保護をうたう詔勅を発し、その碑刻を建てるのが習わしだったのです。
 なお、朱子学が儒教の「正学」として認められるのは、元代の科挙復活で朱子の解釈・集註が採用されたからです。実に東アジア世界では朱子学は儒教の中の「正学」としての位置を占めていくのですが、それはまさに元代に淵源するのです。逆に元朝が科挙を復活させ、朱子学を採用しなければ、宋代にはむしろ迫害されていた朱子学が「正学」にはなり得なかったと言うべきでしょう。

「カイシャンは、クビライと同様、軍事力をもって第七代のモンゴル大カアンとなった。その直後に、かれは、この『詔(みことのり)』を発し、儒教の保護を宣言した。それは、中国文化を尊重する意思表示でもあった。
 しかも、このとき注目されるのが、その詔を刻した石碑が、中国全土の路・府・州・県にいっせいにたてられたことである。そのいくつかは、いまも各地に現存する。そのもっともすぐれた最大の石碑が、この曲阜孔廟の碑なのである。
 その後の歴代モンゴル皇帝は、即位すると、カイシャンにならって儒教と中国文化の保護をうたう詔を発し、その碑刻をたてるのがならわしとなった。曲阜とその周辺には、孔子廟だけではなく、そうした記念碑が数多くのこっている。
 孔子の弟子の顔回(がんかい)をまつる顔子(がんし)廟には、境内での乱暴・狼藉(ろうぜき)を禁じる現地当局者のペルシア語による『そえがき』を追刻した碑文さえ、ある。ペルシア語はモンゴル時代、ユーラシアの東西でもっともよく通用する『国際語』(リンガ・フランカ)であった。
 曲阜の孔子廟という、とりわけ特別なところに立つパスパ文字の儒教保護碑は、頭抜(ずぬ)けて特別な存在といっていい。その意味で、まさにモンゴル時代を象徴するモニュメントである。」(杉山正明『大モンゴルの時代』)
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