③中国史上最大の名君は「唐の太宗」よりも「元のクビライ」か「清の康熙帝」
唐の第2代皇帝である太宗李世民は唐王朝の基礎を固める善政を行い、「中国史上最高の名君」と称えられています。太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、太宗と臣下達の問答が『貞観政要』としてまとめられ、後世「帝王学のテキスト」として広く読まれるようになったことは有名です。太宗は唐の国力を背景に突厥を崩壊させ、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなったため、族長達は長安に集まり、太宗に「天可汗」の称号を奉じていますが、「天可汗」という称号は北方遊牧民族の君主である「可汗」より更に上位の君主を意味するので、ここに唐の皇帝は中華の天子であると共に、北方民族の首長としての地位も得ることとなったのです。
しかしながら、第5代カーンにして元朝を創始したクビライはさらに上を行き、チンギスが結集させた「草原の軍事力」を支配の根源として保持しつつ、「中華の経済力」を管理し、「ムスリムの商業力」を再編成して、遊牧と農耕の世界を融合し、「モンゴル世界連邦」を創設しています。東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は大カーンを頂点とする緩やかな連合として結びつき、いわゆるシルクロード交易の活況ぶりは空前となり、この状況を指して「パックス・モンゴリカ」(モンゴルの平和)と呼ばれることがあります。元の首都大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、マルコ=ポーロなど数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄はヨーロッパにまで伝えられました。江南の港湾都市では海上貿易が隆盛し、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本からも、私的な貿易船や留学僧の渡来は続き、活発な交流が続いたことが明らかになっています。
「モンゴル帝国は『大カアンのウルス』であるクビライの帝国を中心に、その他のウルスがとりまく二重構造となった。それぞれの一族ウルスが帝国といってもいい規模をもっていたから、宗主国のクビライ帝国以下、いくつかの帝国グループ全体が、モンゴル世界連邦を構成したと見てもいい。クビライは、新時代の世界連邦の中心にふさわしい新国家をつくろうとした。
では、あたらしい国家をつくろうとするクビライのまえに、その範となるような国家や政権が、歴史上にあったのだろうか。それなりに、世界規模で適応できるような前例が、はたしてあったのだろうか。
クビライは、即位後、それまでよりもいっそう熱心に、ブレインや政治顧問を人種をとわずに召しかかえた。あらゆる『文明圏』についても対応できるよう、あらゆる国家・地域からのブレインたちをひととおりそろえるようつとめた。
だから、クビライが、過去に興亡した国家や帝国のパターンについて、情報や判断材料をととのえることは、さほどむつかしくはなかったはずである。・・・
クビライは、そのときまでの古今東西の知見をよりあつめ、あれこれと検討することができる環境にあったとみていい。モンゴルとは、そういう『世界性』のある政権である。そして、モンゴル時代とは、そういう時代であった。・・・
クビライには、そのままのかたちで範とするような先例は、ほとんどなかったといってよいだろう。かれは、さまざまな事例やパターンを参考にし、その有益な部分はとりこみながらも、根本においては、自分とブレインたちによって、あたらしいなにかを創造しなければならなかった。それは、人類史上、最大の規模における創造なのであった。」(杉山正明『クビライの挑戦 モンゴル海上帝国への道』)
ちなみに、清朝第4代皇帝である康熙帝もなかなかの人物で、「中国歴代最高の名君」と称えられています。西学にも造詣が深かった康熙帝は清代学術を興隆させ、中国伝統文化を集大成して、「中国文化」を「中国文化」たらしめました。
康熙帝は、ピョートル1世率いるロシア帝国に対して1689年にネルチンスク条約を結んでいますが、後の19世紀に受け入れさせられる一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものであり、伝統的な「中華思想」(中国は唯一の国家であり、中国と対等な国家の存在を認めず、国境など存在しない)の原則を揺るがす内容であったことは注目されます。これには側近にいたイエズス会宣教師フェルビースト(南懐仁)の助言があったと言われ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けました。康熙帝は内政にも熱心で、人頭税を土地税に組み込んで一本化する地丁銀制などを実施する一方、減税を度々行いながら財政は富み、人口は急増しました。また、文化的にも大規模な編纂事業を行う一方、自ら儒学者から熱心に教えを受けて、血を吐くまで読書を止めなかったと言われています。かくして康煕・雍正・乾隆の3皇帝の時代(1662~1795年)が清の全盛期となっており、康熙帝の末年(18世紀初期)に約1億5千万人だった人口は、乾隆帝の末期に3億1千万人余りになっていて、百年足らずで人口が倍増したため、中国人の一部は東南アジアへ移動して華僑となったとされます。
「康熙帝は孔子の著書を大半、暗記されておられますし、シナ人が聖書と仰いでいる原典も、あらかた暗誦されておられます。・・・康熙帝は弁舌にも漢詩にもきわめて熟達されておられます。そして、漢語または韃靼文(だったんぶん)で書かれた文章には如何なる文章にも立派な判断を下されます。皇帝は韃靼語でも、漢語でも、優美な文章をお書きになり、如何なる在朝の王侯によりも巧みに両語を話されます。一言すれば皇帝の熟達されない漢文学上のジャンルは一つもないのであります。それ故、皇帝はシナの名著名籍を残らず文庫に備えつけるために苦心されました。・・・
康熙帝が出精されたのはシナの学問ばかりではありません。この皇帝は、生来、何でも良い物には興味をお持ちですから、西欧の科学について多少の知識をお持ちになるや否や、この科学研究に対して多大な熱情を披瀝されました。・・・皇帝は他の定務を果たされてから、残余の時間をことごとく数学の研究に捧げられ、またこの研究をもって無上の楽しみとなされたほどで、二年間も続けて一心不乱に数学の研究に精進されました。フェルビースト師はこの二年間、主要な天文器械や数学器械の使用法と、幾何学や静力学や天文学の最も珍しい、最もたやすい内容とを御説明申し上げました。そのために最も理解し易い内容に関して、特に教科書を編纂いたしたのでありました。またその頃の話でありますが、皇帝は西洋音楽の原理を学びたいと思ぼされ、そのためにペレイラ師をお用いになりました。その時、ペレイラ師は音楽教科書を漢語で編纂し、シナの工人を指揮して色々な楽器を製作させられました。その楽器によって、二、三の曲譜を演奏することさえ御教授申し上げたのであります。・・・皇帝はかねてから西欧の全科学をシナに移植して、国内到る所に流通させようという計画を立てておられましたから、これらの御進講草案を公刊して、まずこの計画の実施を図ろうと考えられたのであります。その後、皇帝は手ずから幾何学原理を第三王子に教えていらっしゃいました。・・・
康熙帝は幾何学を研究された後で、哲学をも研究したいと考えられました。そのために、またしても私ども二人に対して韃靼語で御進講草案を作れと仰せつけられました。・・・康熙帝を西欧科学の研究に引き入れたと同じ好学心が、わがキリスト教の研究に対しても、この皇帝を誘導いたしたのであります。西洋科学御進講の名義を利用して、皇帝はフェルビースト師と雑談されました時、同師の口からキリスト教の初等知識を汲み出されたのでありました。宣教師達がキリスト教に関する数種の書類を特に起稿して、畏れながら陛下に奉呈いたしましたから、皇帝はこれらの書類をお読みになっておりました。皇帝は高名な耶蘇会士マッテオ・リッチの名著(『天主実義』)に対して、特別の敬意を示されて、この書を六カ月余り、御手許に差し置かれました。それのみならず、私どもは機会あれば極力、この機会を利用してキリスト教の要理をお話し申し上げたのであります。そして、耶蘇会所属の宣教師が宮中で自由に布教することをお許しになりました。キリスト教の格言からこの宗教を判断し、かつこの宗教が今までシナに弘通した発展ぶりから見ると、今後、この外来宗教がシナ第一の宗教たるを疑わず、と仰せられた御言葉を再三、仄聞いたしたのであります。皇帝はシナの古い古い数種の迷信から既に覚醒していらっしゃるように見受けられます。」(ブーヴェ『康熙帝伝』)