①「モンゴル帝国史」の困難さは「中国系史料」と「ペルシア系史料」の統合にある
モンゴル帝国史がなかなか正当に評価されなかった理由として、それが真の「世界史」であるがゆえに史料が東西にわたり、それらを総合的に扱える専門家がいなかったということも大きいと言えます。モンゴル帝国史研究の基礎となる文献は、漢文・ペルシア語の2大史料群の他、20数カ国語に及び、研究論文も10数カ国語にわたるため、全てに通暁した専門家はおらず、かろうじて「東方史料群」の専門家、「西方史料群」の専門家がいるのみでした。
例えば、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)として『元史』があり、中世モンゴルの歴史書として『元朝秘史』(「モンゴル秘史」)などがありますが、イル・ハン朝(フレグ・ウルス)には初代フレグの時代に『世界征服者の歴史』、第2代アバカの時代に『諸史の秩序』が編纂されています。特に『諸史の歴史』では第1部でアダムから始めてイスラエルの預言者の歴史を置き、第2部で古代ペルシアの王統史、第3部でムハンマド及びカリフ史を扱って、第4部をサッファール朝から始まるイランの諸王朝史に当てて、その最後にモンゴル史を置くという構成を取っており、これは「イラン・イスラーム世界普遍史」と位置づけられ、モンゴルをイランの正当な統治者として捉え、モンゴルの統治時代をイラン・イスラーム世界史の中に組み込む、最初の作品であったされます。
さらにフレグ・ウルス第7代ハンのガザンの命令で宰相ラシード=アッディーンが編纂した「モンゴル帝国の正史」『集史』に至って、人類史上、最大の歴史書と称されています。「モンゴル史」の大部分はガザン自らが口述し、追加編纂された世界諸族史の部分はフレグ・ウルスの首都タブリーズ郊外に造営された学術街「ラシード区」に世界各地から学者・知識人を集め、膨大な書籍・情報を収集して作られ、1310年に完成しています。『集史』は、ペルシア語の史書とはいうものの、実に数多くのモンゴル語、トルコ語の用語にあふれ、さらには漢語、チベット語、サンスクリット、ラテン語などに由来する単語さえも使われているのです。
『集史』~ダンテの『神曲』と同時代の歴史書で、「モンゴル正史」にして、14世紀初めに至るまでのユーラシア諸地域についての総合史となっています。ちなみに『集史』の中の「中国(ヒタイ)史」には「通史」(歴史を最初から最後まで総述する試み)への志向が見受けられますが、従来の中国史書においては司馬遷の『史記』(司馬遷自身の同時代史たる前漢の武帝までの歴史を総述したもの)と北宋の司馬光による『資治通鑑』ぐらいしかなく、後は班固の『漢書』以降、ほとんど王朝ごとの「断代史」であったことに注意しなければなりません。ラシードの『集史』が現われた後、東方では中国正史として『宋史』『遼史』『金史』の3つの正史が一挙に編纂され、ここから司馬光の『資治通鑑』の後を総述する金履祥(きんりしょう)の『通鑑前編』に付する陳経(ちんけい)の『通鑑続編』(『通鑑前編』『通鑑続編』を合わせれば、人祖盤古から南宋の最後までを総述したことになります)、宇宙開闢からモンゴル時代までを仏教史として述べた『仏祖歴代通載』、曾先之(そうせんし)の『十八史略』(盤古から南宋消滅までの中国通史)などが矢継ぎ早に現われるのです。ちなみに盤古が天地を開いてから歴史が始まるという「天地創造」説話もモンゴル時代に発生したと言います。
『五族譜』~主に『集史』の「世界緒族史」の部分に対応し、特にその中の4つの部分を抜き出して、本篇に当たる「モンゴル史」の部分と合わせる形で支配者達の系譜として仕立てられており、その構成は次のようになっています。
(1)『旧約聖書』の世界から、イーサー(イエス)を経て、アラブ・イスラーム出現に至るまでのユダヤ史。
(2)最後の預言者とされるムハンマドから、様々なイスラーム王朝を経て、1258年にモンゴルに滅ぼされたアッバース朝最後の第37代カリフ、ムスタースィムに至るまでのイスラーム史。
(3)伝説のモンゴル王ドブン=メルゲンから始まり、光(ヌール)に感じて身籠ったアラン=ゴアを経て、世界帝国の創業者チンギス=カンを起点に一気に世界の支配者となった全モンゴル王族の系譜。
(4)ローマ皇帝・神聖ローマ皇帝とローマ教皇を二頭立てに並列した、モンゴル時代までのフランク史。
(5)伝説の人祖盤古(ばんこ)から始まる、中国(ヒタイ)史の歴代統治者の系譜。