①「中華思想」こそが歴史を歪曲させる元凶である
ここ20~30年でモンゴル帝国時代に対する歴史的評価が180度変わりましたが、以前は「元朝は中国史上の暗黒時代」という認識がまかり通っておりました。これは1つには「中華思想」に基づく、南宋末期の忠臣文天祥に対する礼賛が元朝の評価を曇らせたからだとも言えます。
「文天祥」(ぶんてんしょう、1236~1282年)~中国南宋末期の軍人・政治家です。滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ、何度も元に仕えるようにと勧誘されますが、忠節を守るために断って刑死し、「南宋の三忠臣」「亡宋の三傑」の1人として称えられています。
獄中で宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められますが、「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を照らしているのだ」という内容の『過零丁洋』の詩を送って断っています。宋が完全に滅んだ後も、その才能を惜しんだクビライより何度も勧誘を受けており、この時に文天祥は有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んでいます。
南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた文天祥ですが、クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評し、刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられたと言います。文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ、『正気の歌』は多くの人に読み継がれました。日本でも江戸時代中期の浅見絅斎が『靖献遺言』に評伝を載せ、幕末の志士達に愛唱され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っているのです。
「中華思想」~中国(中華)が世界の中心であり、その文化、思想が最も価値のあるものとし、漢民族以外の異民族を「化外の民」として見下す選民思想の一種で、「華夷思想」とも言ます。しかし、中国史上大きな発展期とも言うべき周・秦は元々西方の周辺民族でした。周は現在の陝西省を拠点とし、元々戎狄(じゅうてき)であったのが、中原の影響を受けて開化されたと見られており、秦も後に穆公が西戎の覇となることから考えて、西戎そのものではないかと考えられています。さらに、隋・唐も北朝系鮮卑族で、隋の初代文帝楊堅の妻は北周の重臣で鮮卑族の名門である独弧信の第四女であり、唐の初代高祖李淵の母は独弧信の第九女でした。したがって、煬帝と李淵は母が姉妹ということになります。また、『隋書』によれば、文帝の父楊忠は「普六茹」(ふろくじょ)という鮮卑族の姓を賜ったとあり、唐の李氏も西魏八柱国の家柄で、楊氏と同じように「大野」という鮮卑姓を賜っているのです。元も蒙古民族、清も満州民族ですから、周辺民族・異民族王朝の時にこそ中国は「イノヴェーション」(創造的破壊)に成功してきたと言ってもいいかもしれません。
【中華思想に基づく異民族への蔑称】
(1)東夷(とうい)=倭、朝鮮など。
(2)西戎(せいじゅう)
(3)北狄(ほくてき)=匈奴、鮮卑、契丹、蒙古など。
(4)南蛮(なんばん)
「小中華思想」~「中華思想」から派生して、日本、朝鮮、阮朝ヴェトナムなど、中国の王朝以外の儒教文化圏(中華文明圏)の内で比較的技術・文明が発達していた国で起こった「文明の担い手である」という自負の思想です。元来、これらの国々では儒教の影響を受けて、自らを文明の担い手と考える風潮が少なからず存在しましたが、モンゴル民族の元朝に続いて、漢民族ながら農民出身の朱元璋が建国した明朝が成立すると、漢民族(中国)が「中華文明の継承者」であるという儒教伝統の主張に疑問が持たれ始めました。さらに朱子学の大義名分論や正統論が紹介されて影響力を強める一方、17世紀中期に女真(満州)族の清朝が明朝に代わって中国支配を確立させると、周辺諸国では公然と自民族こそが「中華文明の継承者」であると唱える学説が盛んになり始めたのです。
「西欧中心史観」~これまでの日本の世界史教育において、「四大文明の発生からいきなりギリシア、ローマへ、そして中世ヨーロッパの封建制に対する分析の後はイタリア・ルネッサンスへ飛び、大航海時代・産業革命を通って近代西洋に行き着く」という「近代西欧への偏向」が批判されています。そもそも、「歴史は封建社会から資本主義へ進歩するものだ」という歴史観自体、マルクスも「はっきりと西ヨーロッパ諸国に限定されている」と言明している通り、理論ではなく、西ヨーロッパの史的事実でしかないのです。
「たとえば、高校世界史教科書の市場の三三パーセントのシェアを誇る『詳説世界史』(山川出版社)は、目次を見ればすぐわかるように、ヨーロッパ中心史観を貫徹している。『要説世界史』(山川出版社)に至っては、『世界史イコール、ヨーロッパ史・プラス・アルファ』という時代錯誤とも言うべきヨーロッパ中心史観を死守している。他の教科書はこの二冊より『公平』ではあるが、依然としてヨーロッパの比重があまりにも大である。」(謝世輝『これでいいのか世界史教科書』)
「近世は、中世の延長線上に位置し、依然としてアジアの時代、とくにイスラムの時代であった。大航海は世界史上の重要なできごとではあったが、ヨーロッパの影響力は相対的にまだ小さく、世界史を二分する分水嶺には値しない。世界の一体化は、中世のイスラムによる広範な一体化をステップとし、近世に至って、その速度が徐々に速くなった。」(謝世輝『これでいいのか世界史教科書』)
「日本で教えられている『世界史』というのは、次々と覇権が移ろう地中海世界の各王朝の栄枯盛衰を記述した『西洋史』と、ひたすら時の王権を正当化するために書かれた『中国史=東洋史』という、全く異質な2つの「歴史」を無理やりくっつけたもの。どちらも、地中海や中国が世界の全てだという前提で書かれているので、くっつけるには無理があり、『世界史』なのに日本をきちんと位置づけることが出来ていない。そんな破綻した『世界史』ではなく、本当に世界が相互関係を持つようになったのはモンゴルがユーラシア大陸の大半を征服して1つの世界にしてからであるからである。モンゴルを起点とする『世界史』を新たに構想すべきである。今の中国もロシアもインドもイランもトルコも実はモンゴル帝国の中で国家の原形が作られた。紙幣の制度化に初めて成功したのもモンゴル人。モンゴルが実はある時期の世界の中心であり、中国や西欧はその辺境に過ぎなかったのである。」(岡田英弘『世界史の誕生』)