歴史探究「パックス・モンゴリカ⑪」:「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の誕生

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②大都は「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の首都
 大都(だいと)はモンゴル帝国(元朝)のクビライ=カンが現在の北京の地に造営した都市で、純然たる計画都市として設計され、南には宮殿と官庁街、北には市場が置かれる「面朝后市」など、中華帝国の帝都の理想形を模して作られました。こうした都城構成は、歴代中華王朝では一度も作られたことがなく、異邦人であるモンゴルが史上初めて実現させたものです。大都は内陸の都市としては驚くべきことに、積水潭と呼ばれる都市内港を持つよう設計されており、現在の天津にあたる通州から閘門式の運河(通恵河)が開削され、城内の積水潭に繋げられたため、江南地方からの物資も水運により結ばれるようになりました。このため、陸上輸送された時代に比べて物資の輸送量は飛躍的に増大し、海のシルクロードを通してさまざまな国際商品が大都にもたらされ、国際商業都市として空前の繁栄を極めたのです。大都には西方の旅行者・商人も多く訪れ、その繁栄ぶりは、イブン=バットゥータやマルコ=ポーロなどの旅行記でヨーロッパにまで伝わりました。モンケ時代には城内のムスリム住民は3,000戸であったことが記録に残っており、ムスリム官僚をはじめとして、モンゴル帝国初期から中央アジアからのムスリム系の住民達が多く集中して居住していたようです。
 江南の拠点である南京を首都とした出発した明代において、第3代永楽帝が即位すると、大都は対モンゴル政策の拠点として再び重視され、大都の3分の2程度の規模で北京が建設され、明の首都となっています。

「クビライ出現以後、モンゴル帝国は、大小の権力が複合する一種の『世界連邦』になっていったと考えられる。
この『世界連邦』は、全体としては、ただひとりの大カアンの権威がおおい、その下にあるそれぞれの権力体や国家組織も、モンゴル・ウルスを縮小したような共通の構造でつらぬかれていた。・・・
 かれがなそうとしたのは、直接には、まったく新しいタイプのモンゴル帝国の建設であった。それは、かれ自身によって、『大元大モンゴル国』(ダイ・オン・イェケ・モンゴル・ウルス)、略して『大元ウルス』と名づけられた。だがじつは、それをつきぬけて、クビライは世界を見つめていた気配が濃密に漂う。
 あたらしい世界の創生――。それこそが、クビライとかれをとりまく多人種のブレーンたちが目指したものではなかったか。・・・
 クビライがつくった大元ウルスの最大の特徴は、それまでのユーラシア世界史で展開した国家・社会のパターンの主要なものを、すべて総合したところにある。クビライは創造者ではあるが、それ以上に総合者であった。
 大元ウルスは、中央ユーラシアの草原とオアシスの世界を中心に展開されてきた遊牧国家の伝統にくわえ、それに対峙するかたちで定住農耕世界を基盤にいとなまれてきた国家のシステム、とくに中華地域に形成されてきた中華帝国の体系を大きく取り込んだうえで、両者を合体・融合させたものであった。しかも、それにとどまらず、国家構想のはじめから海への視野をはっきりと持ち、南宋国の接収後は、海洋世界にも一気に進出して海上交易を国家主導で組織化し、本式の『海の帝国』の側面も濃厚に帯びることとなった。
 陸の世界における遊牧と農耕、くわえて海へのまなざし――この三つは、それまでの人類の歴史の大流をなすものであった。人類史におけるおもな舞台と、いとなみの主要なかたちといってもいい。その三つをことごとく引きうけるものとして、大元ウルスは構想されたのである。」(杉山正明)
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