歴史探究「パックス・モンゴリカ⑫」:「陸上帝国」と「海上帝国」を統合する「世界連邦」の誕生
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③チンギス・カンの伝統とクビライの構想が「パックス・モンゴリカ」をもたらした
モンゴル系もしくはトルコ系の匈奴はモンゴル高原を中核地域にして、強大な遊牧国家を300年以上の長期間にわたって保持しており、匈奴と南北に対峙した漢王朝がその後の中華帝国の基本型を作ったように、匈奴帝国で確立したパターン、システムが以後の遊牧帝国(モンゴル系柔然、トルコ系突厥、トルコ系ウイグル、モンゴル系契丹)の枠組みを決定しました。それは国家全体が東西に左翼(東方)・中央・右翼(西方)の3大部分に分かれること、社会組織としては十人隊・百人隊・千人隊・万人隊という十進法体系の軍事組織に編成されたこと、君主は各部分の長達の子弟を集め、人間組織の面でも国家全体のつなぎ手となること、などです。チンギス=カンのモンゴル・ウルスはこの後継者であり、1206年のウルス結成の後、対金戦争に旅立つまでの5年間は、こうしたマニュアル通りの国家システム作りと内政整備に充てられました。
また、唐の滅亡後、五代十国の乱を収束して契丹人が建てた「最初の華夷帝国」(フェアバンクス)が遼であり、大遼帝国は10世紀から12世紀初頭まで中華本土の北宋王朝を圧倒して、アジア東方の覇者でした。遼は遊牧国家でありながら、旧渤海国の満州(マンチュリア)、華北の「燕雲十六州」(「燕」は現在の北京地区、「雲」は大同地区)をも領有し、遊牧と農耕の両世界を支配する術を身に付けたのです。12世紀初頭に契丹帝国は満州に興った女真族の金帝国によって吸収されましたが、契丹王族の一人である耶律大石(やりつたいせき)はモンゴル高原の遊牧民を率いて中央アジアへ赴き、サマルカンド周辺に第2次契丹帝国「西遼」(カラキタイ)を建設しました。西遼は東西トルキスタンを押さえて繁栄し、ロシアやイランなどに中国文化を伝える役目を果たしていますが、ロシア語で「中国」を「キタイ」と呼ぶのはここに由来します。このイメージは契丹の実体以上の規模と強大さを持っていたとされますが、これはかつての匈奴帝国を初めとする遊牧帝国の場合には見られなかった現象です。この契丹帝国の300年にわたる知恵と経験が、それを支えた契丹族の武将・行政官の子孫達と共にそっくり新興モンゴルに投入された時、かつてない統制された国家と軍事力が出現したのであり、こうした契丹族のブレーン達こそ、チンギス=カンとモンゴルを導くプランナーにして、参謀であったのです。
「それにしても、モンゴル・ウルスは、まったく出来合いの国家であった。にもかかわらず、誕生まもないときから、まことに内政・外交ともに、周到きわまりない手配りで、わずかな乱れもみせることもなく、すべてが整然と、おしすすめられている。
多言語でしるされる数多くの原典史料をつきあわせ、そこから割りだされる確実な国家・政権としての行動を考えると、おそるべき用意周到さが目につく。計算ずくの布石・展開に、おもわずうならざるをえないことも、しばしばである。国家として子供時代がないのである。はじめから、大人になってしまっている。」
ちなみにジャック=ウェザーフォード『パックス・モンゴリカ』によれば、モンゴル帝国で実践されたのは、「信教の自由」「自由貿易」「法の絶対性」「外交特権の確立」「政教分離」「紙幣の使用」「国際法の制定」「情報網の整備」などであり、「近代世界のモデルはここにあった」としています。岡田英弘が週刊東洋経済に書いた『パックス・モンゴリカ』の書評においても、「現在の欧米が主導する世界で普遍とされている制度――民主主義、資本主義、宗教と政治の分離、印刷、紙幣、軍隊、連邦制など――は、全てモンゴル帝国に起源があるという。これらについては、評者もおおむね同意見である」として、高く評価しています。こうしたモンゴル帝国に対する評価は一致・共有されてつつあると言ってもよいでしょう。