歴史探究「パックス・モンゴリカ⑱」:「モンゴルの遺産」を受け継いだ近世社会が「近代」の母体

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③中国・高麗・日本・東南アジア・チベットに残されたモンゴルの刻印
 朝鮮半島にあった高麗国がモンゴルに服属するのが1259年です。高麗政府は江華島に逃げ込んで抵抗を続けていましたが、最終的にモンゴルの属国となりました。高麗王はモンゴルのお姫様を妃に迎え、王室にモンゴルの血が入り込むようにさえなるのです。ところが、政府がモンゴルに降伏しても軍隊は納得せず、半島の南西海岸を転々としながらモンゴル軍に抵抗を続けており、この高麗軍を三別抄(さんべつしょう)軍と言います。この三別抄軍が最後につぶされたのが1273年で、ようやく朝鮮半島を平定できたモンゴルは、その翌年に第1回目の日本遠征を実行するのです。
 元は鎌倉時代の日本に2回攻めてきており(元寇)。1回目が1274年で文永の役と言い、2回目が1281年で弘安の役と言います。これに先立ち、フビライは1271年と1273年に趙良弼(ちょうりょうひつ)という女真族出身の政治家を外交使節として日本に派遣していますが、当時元は南宋攻略の真っ最中で、日本を含んだ対南宋包囲網形成というのが第1回遠征の目的でした。しかし、この遠征は失敗に終わり、その後の1279年に南宋は滅ぼされると、その2年後に第2回日本遠征となります。実は南宋を滅ぼした後、元は旧南宋軍の処理に困ったようで、南宋は元との戦争で大軍を抱えており、南宋が滅んでもその兵士達は大勢残っていたので、彼等に仕事を与えるための日本遠征だったと言うのです。したがって、フビライにとって第2回遠征は成功すればさらに領土・版図が広がるものの、負けて大軍が海の藻屑となってもそれはそれで厄介払いが出来たわけです。実際、第2回の遠征軍の兵士達は船の中に鋤、鍬等の農具を持ち込んでおり、彼等は日本を征服した後はそのまま故郷には帰らず、日本に住み着いて農業をするつもりでいたと言います。
 元寇が2回も続けて失敗した原因についても、「神風」(台風)が吹いたと一般には言われていますが、当時の京都の公家の日記などを見てもそんな様子はなく、失敗の原因は元軍の構成にあるようです。例えば、第1回遠征軍の主力は高麗人であり、高麗の三別抄軍はその前の年までモンゴル軍と戦っていたわけで、遠征軍の中身がとてもしっくりいっているとは考えにくいでしょう。しかも、水軍の経験のないモンゴル人が司令官です。第2回になると旧南宋の軍人も大勢混じり、彼等は遠征軍とは言いながら棄民に近いので、士気が高かったとは思えないのです。モンゴルに服属したばかりの諸民族の混成軍が朝鮮半島、中国大陸別々の所から出発して対馬沖で合流し、しかも陸上生活と違って船ですから、各軍団の司令官同士の意志疎通や連絡もうまくいかなかったと想像されます。一言で言えば、元寇のモンゴル軍は烏合の衆ということになります。しかも、水軍に不慣れであり、遠征軍の乗った船が第2回では4400隻とされますが、その多くは突貫工事で高麗の船大工に造らせたもので、急造の粗悪船が多かったとされます。だから、記録にも残らないようなちょっとした風でも船が大きい被害を受けたり、司令官達が混乱したりしたのではないかというわけです。ちなみにクビライは1287年にはビルマ遠征とヴェトナム遠征、1292年にはジャワ遠征を行っていますが、全て失敗しています。
 しかし、アジア各地に大きな影響を及ぼしたことは確かであり、日本は元寇を撃退することはできましたが、鎌倉幕府はそれを機に弱体化に向かい、南北朝の戦乱期に入り、倭寇の活動が始まります。東南アジアではベトナム人、タイ人、ビルマ人などの民族的自覚が始まり、ベトナムの字喃やタイ文字などの文字が生まれ、タイのスコータイ朝やジャワ島のマジャパヒト朝などの新しい勢力が登場することとなります。さらに東南アジア海域と南アジア海域を結ぶ海上交通の活発化によって、イスラーム教が東南アジア地域に及んできたことも見逃せない事実です。また、クビライはチベット仏教の僧パスパを国師として仏教を管理させ、モンゴル語を表記する文字としてチベット文字をもとにパスパ文字を制定させるなど、モンゴル独自の文化政策を進めており、チベットとモンゴルは特別な関係を構築することになりました。
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