歴史探究「パックス・モンゴリカ⑰」:「モンゴルの遺産」を受け継いだ近世社会が「近代」の母体

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②ティムール帝国、オスマン・トルコ帝国、サファヴィー朝ペルシア、ムガル帝国への発展
 カーン位を巡る対立と抗争とペストの大流行をはじめとする疫病と天災の続発により、モンゴル帝国は急速に分裂していきました。元も1351年に起こった紅巾の乱によって経済の中心地であった江南を失い、1368年、ついに紅巾党の首領の1人であった朱元璋の立てた明によって中国を追われています。
 しかしながら、モンゴルを倒して漢民族王朝を復興したとされる明においても、その国制はおおむね元制の踏襲であり、例えば軍制の衛所制が元の千戸所・万戸府制の継続であることは明らかです。同じ頃、中央アジアから西アジアに至る大帝国を築き上げたティムールは、先祖がチンギス=カンに仕えた部将に遡るバルラス部の貴族出身であり、その軍隊は全く西チャガタイ・ハン国のものを継承していたのみならず、彼自身やその後継者は国家の君主を名乗らずに、名目上はチャガタイ家のハンの「キュレゲン」(女婿)を称しました。そして、チンギス=カンの名とその血統はその後も長らく神聖な存在であり続けるのです(「チンギス統原理」)。モンゴル帝国の故地モンゴリアでは、15世紀の終わりに即位したクビライの末裔ダヤン=ハーンの子孫達が諸部族の領主として君臨し、17世紀には満州人の清がダヤン=ハーンの末裔チャハル部から元の玉璽を譲り受け、大元の権威を継承して満州・モンゴル・中国の君主となる手続きを取り、新たにモンゴルの最高支配者となりました。現在のモンゴル国や内モンゴルの国境や社会組織は清代のものを継承しており、モンゴル帝国の影響は今も間接的に残っていると言えます。

ティムール帝国~イル・ハン国もチャガタイ・ハン国も14世紀には衰退して在地勢力が各地で自立し始めますが、再びこの地域を統一し、イラクから中央アジアにまたがる大帝国となったのがティムール帝国(1370年~1500年)です。建国者はティムール(?~1405年)で、元々はチャガタイ・ハン国の武将でしたが、やがて自立して、サマルカンドを都に大帝国を建設しました。中央アジアのトルコ民族の間では今でも人気のある英雄の1人です。
 ティムールは「モンゴル帝国」の復活を目指しており、積極的な領土拡大の原動力はここにあったと見られています。1402年にはイスラーム東西両雄の決戦「アンカラの戦い」で新興勢力オスマン朝と激突していますが、オスマン朝は大打撃を受け、一時は滅亡寸前にまで追い込まれるので、その強さが窺えます。ただし、オスマン朝はこの後、復活してやがて古代ローマ帝国にも劣らないような大帝国を作り上げ、最終的には20世紀まで存続する王朝になります。さらに東方では中国遠征、明の討伐に出発しますが、ティムールの死亡により、この遠征は途中で中止になりました。おそらく明と直接対決になったらならば、ティムールが勝ったであろうと見られています。

オスマン・トルコ~バヤジット1世(1389年~1402年)の時には、ニコポリスの戦い(1396年)で北方のハンガリー王ジギスムントと戦って勝利し、バルカン半島で足固めをしたオスマン朝は次に東のアナトリア地方で領土を拡大しようとしますが、モンゴル帝国の復活を夢見るティムールは中央アジアを統一して、イラン・メソポタミアを領土に加え、アナトリア地方にまで進撃して来ました。オスマン朝がティムールを迎え撃ったのが「アンカラの戦い」(1402年)ですが、結果はティムールの勝利で、オスマン朝はいったん滅亡します。その後、再興・復活したオスマン朝はすぐに「アンカラの戦い」以前の領土を回復し、さらに領土を広げ始めました。
 そして、1453年にメフメト2世は23歳の若さでコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼしました。
 セリム1世(1512年~20年)の時には西に進出して、イランにあったサファヴィー朝を圧迫した後、さらにエジプトに入り、ここにあったマムルーク朝を滅ぼしています(1517年)。モンゴル軍の西進を食い止めたことで知られるマムルーク朝は、モンゴルの攻撃で滅亡したアッバース朝のカリフを保護し、セリム1世はマムルーク朝を滅ぼした時にカリフの子孫を見つけ、その「カリフ」という地位を譲り受けたとされますが、「世俗の王」「皇帝」という意味の称号である「スルタン」と全イスラーム信者の指導者としての称号である「カリフ」両方を兼ね備えたオスマンの皇帝を、「スルタン=カリフ」と19世紀頃から呼ぶようになります。このセリム1世の段階で、オスマン朝はアジア、ヨーロッパ、アフリカの三大陸に領土を持つ大帝国に発展していますが、これはローマ帝国以来の領土の広さなのです。
 さらに領土を拡大してオスマン朝の最盛期となったのが、スレイマン1世(位1520~66)の時で、1526年にモハーチの戦いでハンガリーを破って属国とし、さらにドイツ、神聖ローマ帝国に侵入し、神聖ローマ皇帝カール5世の領地であるオーストリアの都ウィーンを包囲しています。この第1次ウィーン包囲(1529)以降、オスマン朝はヨーロッパの国際関係に大きな影響力を持つようになります。1538年にはプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア連合軍を破り、東地中海の制海権を確立し、さらにチュニジア、アルジェリアなどアフリカ北岸、イラクを併合して、地中海を取り囲む大領土となりました。

サファヴィー朝ペルシア~オスマン帝国とほぼ同時期に、イランに栄えていた王朝がサファヴィー朝(1501~1736)で、ティムール帝国が崩壊した後のイランに建国しています。建国者イスマイール1世は第4代正統カリフ、アリーの息子フサインと、ササン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャハル=バーヌーの血を引くという伝説を持っており、イスラーム教創始者とペルシア王家という、イスラーム教徒のペルシア人にとってこれ以上の高貴な血筋はないと言えます。イスラームの中でもシーア派を国教としており、西の大国オスマン朝がスンナ派なので、これと対抗するという意味もありました。また、皇帝の称号にはイランの伝統的な王号「シャー」という呼称を使っていましたので、イスラーム教国ではありつつもイランの民族国家という意識もあったということです。最盛期の皇帝がアッバース1世(位1588~1629)で、オスマン朝からイランの一部とアゼルバイジャン地方を奪還して領土を拡大し、ホルムズ海峡に要塞を築いていたポルトガル人を追放し、新たに首都イスファハーンを造営しています。

ムガル帝国~オスマン朝、サファヴィー朝と同時期に、インドでもイスラームの大国ができました。これが、ムガル帝国(1526~1858)です。「ムガル」という国名はモンゴルがなまったものです。建国者バーブル(位1526~30)はティムールの子孫で、ティムール帝国、さらにはモンゴル帝国の復活を夢見ていたのです。元々中央アジアの都市サマルカンドを本拠地にしてフェルガナ地方を支配していましたが、ウズベク人の南下で本拠地を追われてしまったので、1526年、デリーを本拠地にしていたロディー朝をパーニパットの戦いで破り、これ以後、本拠地をデリーに移して、インドの王朝として発展するのです。インドに建国したバーブルですが、本心はサマルカンドで建国したかったと言います。
 第3代皇帝アクバル(1556~1605)は50年間位にあって、まだ不安定だったムガル帝国をインドの大帝国に発展させ、現在のアフガニスタンから北インドにかけて統一しました。アクバルは柔軟な発想の持ち主で、最終的にはイスラームでもヒンドゥーでもない新しい宗教を創って、インドを統合しようと考えていたようです。アクバルはさらに積極的に北部インドの有力部族であるラージプート族の諸侯と婚姻関係を結び、ムガル帝国の最盛期を現出しました。

「一七世紀になると、イスラム圏が最高潮の繁栄を迎え、それに対して、西欧は文字どおり暗黒期であった。すなわち、オスマン・トルコの時代は一七世紀まで続き、サファヴィー朝(イラン)の繁栄は一七世紀前期に絶頂に達した。また、当時のムガール帝国(インド)は、一七世紀半ばに最大・最強の国になっていた。いっぽう西欧においては、イギリスの資本主義の進展やルイ一四世の一時的な繁栄はあったものの、世界史的にみて、その影響力は微々たるものであった。」(謝世輝『これでいいのか世界史教科書』)
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