「稽古」は、あるとき、突然つながる。

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コラム
呼び方はルーティーン、トレーニング、練習など様々言われますが、
役者は、日々稽古をしています。

この「稽古」という言葉は、上述の他の言葉には置き換えられない
特別な意味を持っていることを教わりました。

本日は、かなり大きな気づきを得られたので、
忘れないためにも、ブログを綴らせて頂ければと思います。

これは感覚的なもので、なかなか言葉にしにくいのですが、
今まで、見えていても出来なかったことが、出来るゾーンに入った、
という類のものです。

自分は、稽古に「カラオケ」を使います。
(何をやっているかは、別の回でご紹介出来ればと思います)

ほぼ、365日毎日、行かない日はありません(笑)
飽きない秘訣は「稽古」をしに行っているからです。

日々書き留めている、膨大な言葉の量があります。
その言葉が正しいのか、惜しいのか、近いのかどうか…。
数日、寝かせてみると分かるものですね(笑)

しかし、いざ気づいてみると「言葉以前」なんです。
いくら、先生や先輩方から実演や講義を受けていても、
自分自身の内からくる「自分定義」とは、差異があるものなのです。

例え、全く同じ現象を見ていたとしても。

今日、完全に、この差異が無くなった。
急に来るもんだな、とあっけらかんと驚きました。

それも必死に言葉にしようと書き留めましたが、果たして後で見て、
きちんと再現できているかどうか…こればかりは分かりません。(笑)

言葉を超えたところに入る。
腑に落ちる、という言葉がありますが、このことかと思いました。

正しい稽古の方向を示してくれた、Sさんに改めて感謝申し上げたい。

正しい稽古のすごいところは、
アクションとしては同じことを繰り返しているのに、限界値が無いところ。
進んできたステップは振り返ることが出来るのですが、
先の方は全く見えません。しかし方向だけは、何故かハッキリ分かる。

RPGのレベル上限や、シューティングゲームのカンストが無い、
終わりは無いがゲームは続く。そんな心境です。

とにかく、忘れたくない。今はその一心ですね。

振り返ると、単なるルーティン、または仮説として取り組んでいた時期には、正しいと分かっていても、まだ自分のものではない「距離感(ズレ?)」がずっと感じられていました。

上手くいかないとき、崩れたとき、、演者特有の危機感が募ります。
我々は、水物を扱っている水商売です。
その「水」がすべてなので、濁る、減るなど、悪影響には人一倍敏感です。

生半可な便法は通じない…。
万策尽きた様に思えたときに取り組めたことが、たまたま「稽古」でした。

「正しい稽古はシンプルである」

自分に芸事の方向を示してくれたSさんの言葉です。

シンプルだから故に、余計な事を考えずに打ち込める。繰り返せる。
面白がることが好きな自分にとって、余力があるときには、
稽古に真芯から向き合うことは余りありませんでした。

クリエイター、表現者である以上、面白いことをやりたい。
しかし、枯渇・迷い・不調・飽き…。
サラリーマンとは違って確立された体系が無い分、
ブレはそのまま自分に影響を与えてきます。
枠が無いので自分で作り、守らねばならない。

看板の無い(自分が看板である)フリーランスの個人事業主の方は、
痛いほどわかる感覚ではないでしょうか…。

稽古が繋がると、まるで生き物の様に動き始めます。
自分の身体が、ではありません。
意識が、気持ちが、別のところへ引っ張られるのです。

まさしく、次のステップが見えたのだと思います。

それがまだはっきり言葉には出来ていません。
出来ていませんが、必死に言葉を探して書き留めて、
イメージを図にして、その断片を何とか形にしようともがいています。

芸事は本当に奥が深い。

自分は意識量がそこまで多く(大きく)は無いと思うので、
「声優」を追求するのが精いっぱいです。

出来る人なら、「踊り」「歌」「絵画」など、
マルチに追えるのかもしれません。

今はただ、気づけた自分を誉めたい。芸事に感謝です。
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