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「九死に一生を得る」

こんにちは。ご報告が遅くなりましたが、実は予定より2日遅れて帰国していました。イギリスから日本へ帰国する前日、最後の観光を終えてホテルに戻る際に事故が起きました。母が転倒し、頭を強打して救急搬送されてしまいました。事故した瞬間に、死を意識するほどの強い衝撃と出血量ではありましたが、現在後遺症もなく自宅で療養しております。入院生活など母が一番大変であったことに変わりはありませんが、私自身にとってもショッキングなことで、今も事故の瞬間がフラッシュバックし、自責の念に苛まれております。この内容をどこまで記載するか迷いましたが、無事帰国したというご報告と母は回復に向かっているということ、自らがこの件に付いてしっかりと向き合っていくこと、また日本海外問わず、予期せぬ事故に出くわした時の参考になれば幸いです。「九死に一生を得る」というのは、多くの偶然が重なり母は助かったと感じています。本当にロンドンの方々、医療チームの方々に深く感謝しております。今回の事故は、私もトレーナー経験を通し色々なケガを見てきた中でも、一番生命の危機を感じた頭部外傷でした。事故からの状況を時系列で並べます。・11/3(事故発生)13:30最後に観光を終えたのは、ロンドンブリッジがある場所で記念撮影をして、帰る途中の駅前での出来事でした。歩行中に杖が引っ掛かったことにより、足がもつれて受け身を取れないまま勢いよく頭から地面に転倒。幸運だったのは、駅前に駅のスタッフさんが何名かいらしていて、倒れてすぐに止血を行う大量のガーゼや身体を冷やさないアルミの保温シート、そしてすぐに救急車を手配してくださったことです。私の太もも
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「ビビアン・リー」の栄光と悲恋!

ビビアン・リーって知ってる?(^^;「え?知らない・・・やっぱり~」もう遥か昔の「大女優」じゃ。ほぉ~。アメリカの「アカデミー主演女優賞」を2度も獲った大女優じゃ。^^代表作は、やっぱり「風と共に去りぬ」と「欲望という名の電車」じゃ。相手役は、クラーク・ゲーブルとマーロン・ブランドじゃね。超有名男優ばかりじゃ。ま、一番の代表作って、「風と共に去りぬ」というのが一般的じゃね。ただボクはあまりその映画を観てないのじゃ。なんか、あまり興味なかったのよねえ~。ホホホ^^;(今度ぜんぶ観てみたい気もするけど、あ、それで~、ちょい小話だけど、その相手役のクラーク・ゲーブルの”口臭がひどかった”とのウワサ?じゃ。ありゃまぁ~。それは・・)とにかくボクとしては、「アカデミー受賞作」ってあんまり興味ナイのじゃ。実は・・・彼女の作品の中で一番好きなのは、「哀愁」じゃ。もうねえ~、「中国映画の”初恋の来た道”」も最高じゃけど~、その上?を行くのが、この「哀愁(あいしゅう)」じゃ~♪ヘイユぅ~♪ボクの「ビビアン作品」の中というよりも、ボクの好きな映画の「ビッグ3」に入るぜよ!(ほんとは一番と言いたいけど・・・ねぇ~)・・・・・・ 哀愁(あいしゅう)・・・・・・第一次大戦下のロンドン、英国将校クローニンと踊り子マイラは「ウオータールー橋」で出会う。空襲警報の鳴る中、地下壕に二人で逃げ込み、「次の出会い」を約束する。しかし、二人は翌日には「結婚の約束」をした。だが、クローニンは戦場に出向き、マイラは彼の帰還を待った。しかし、マイラはある日、彼の「死亡記事」を見る。それによりマイラは失望し、「娼婦」になって
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ロンドンガールズ

こんにちは!今回のイラストは、ロンドンを楽しむガールズを描いてみました。ご覧いただきありがとうございます。次回作もお楽しみに!
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小説『DNA51影たちの黒十字』(続ロザリンド物語) 〜12〜

小説『DNA51・影たちの黒十字』(続ロザリンド・フランクリン物語) 〜12〜     13       危険スモッグ サッスーン卿が所有する競走馬ピンザ号(2歳)は10月のニューマーケット競馬場でのデューハーストステークスもまた圧勝してレースを終えた。サッスーン卿のピンザによるダービー制覇の夢はまた一歩現実味を帯びて膨らんでいく。       ☆                       ☆ 11月末から12月にかけて倫敦では大問題が起ってきた。スモッグ問題である。工場の動力源や冬の暖房源として石炭を燃やし過ぎているのが原因であった。倫敦では19世紀からこの問題が度々起きてきてはいたのだが、この年は特に酷く、1万人ほどが呼吸器疾患などの健康被害を被って死亡した。 倫敦の中心部に位置するキングスカレッジロンドンは倫敦東部の工業地帯とも近いため、スモッグに覆われる日々が続いている。天候次第では自動車の運転さえも前方視界の不良にて困難となる始末である。このままでは、いずれは肺をやられてしまう。 ついに、ロザリンドは倫敦西部のイーリング地区に住む友人宅に一時避難することにした。イーリングはアクトンの西方2kmにある閑静な住宅地ともいえる街である。 居住地を工場地帯から距離を取って離れた場所にしたとはいえ、暖房には石炭を燃やすので街には煤煙が不穏な様相で立ち込めている。しかも、勤務先の倫敦大学キングスカレッジが倫敦市街のほぼ中心部に位置していることには変わりはない。 12月に入って状況はさらに悪化する気配だ。冬の寒気が倫敦の上層部に居座り、地上近くの低層気団をブロックして閉じ込
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16歳の渡英 第一話

私は16歳の時にイギリスに渡英した。家族は行くことに対して最初は反対だったけれど、私の熱意に負けて、渡英を許した。もうそれはかなり前の話である。私は当時から英語が得意な方ではあった。英語は塾には通っていなかったが、学年で常に一番だったし祖父の関係で、アメリカからの交換留学生が来ていたり、子供の頃から海外旅行に何度も行ったせいで、英語を勉強することに喜びを感じていた。今思うと、私はませた子供だったと思う。私はヨーロッパの街並みが好きで、その当時からヴェルディやプッチーニといったイタリアのオペラを聴き、ヨーロッパでの生活に憧れを抱いていた。私の心はその時すでに日本にはいなかった。そして中学2年生の時にイギリスに語学留学をしたことをきっかけに、この国にすでに魅了されていたのだ。ただ、異国の地へ一人で行くというのは、想像以上に困難だった。まずは、学校探し、そして宿泊先。行き先の知識が貧しかったが為に、正しい情報を得るには苦労した。その当時にはインターネットはすでに普及していたが、2022年の現在と比べると、あまり多くの情報はなく、行き当たりばっかりで風に任せてただ進むだけだった。そして、その日は来た。ついに旅立つ日が。誕生日を迎えたばかりの私は既に成田空港に家族や友人といた。そして、別れを告げると期待と不安を抱え、空港のセキュリティチェックへと一人で歩いて行ったのだった。そして気がつけばすでに飛行機に乗っていた。そこから先はあまり良く覚えていないが、約12時間後に到着したヒースロー空港で待ち受けていたのは、パスポートチェック前の長蛇の列だった。どのくらいの時間が経っただろうか。ようやく
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イギリスに汚部屋はあるのか?の続き。

イギリスには不要な物を手放しやすい環境にあると話しましたが、それは何だったのかのお話しをします。これは私が感じた事なので個人的な感想なのですが、イギリスにはチャリティーショップという物が存在します。一応日本にもあるのですが、数も少ないし知名度は低いように見えます。このチャリティーショップは何かというと、不要な物を店に寄付して、お店がそれを売り、売り上げ金をアフリカの難民やその他の慈善団体に寄付をするという物です。日本にも不用品を寄付できる場所はありますが、送料がかかったりしますよね。リサイクルショップは買い取ってくれるのでお金にはなるけど、買い取ってくれない物はその場で返されたり、査定時間で待たされたのに結局あまりお金にはならなかった。なんて事もありますよね。それがチャリティーショップに持っていけば、お金にはならないけど簡単に物が手放せる。しかもそれが誰かの助けになるかもしれないと考えると気分が良いものです。ロンドン市内にはいくつも店舗があったため、持って行くのも苦ではありませんでした。部屋をスッキリさせたいから不要品を手放す。不用品で社会貢献。もし日本にもチャリティーショップがたくさんあったら、幸せになる人が増えるんじゃないかな。チャリティーショップが増える事を願います。
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イギリスに汚部屋はあるのか?

4年間ロンドンに住んでいた私ですが、今思い返して「そういえば、イギリスに汚部屋ってあったかな?」と考えてみたけどこの家、散らかってるなーとか思ったことはあまりありません。イギリスにいた頃は片付けの仕事はしていませんし、ホームパーティなどで色んな人の家に行く機会は多かったのですが、何か気に留めるような家ってなかったように思います。全ての家が綺麗だったわけでもないし、ちょっとごちゃごちゃしてる場所もあったり、掃除をしても家が古いとネズミが出たりもします。それでも「部屋が片付けられなくて困ってる」とか「散らかってるから今は人を呼べない!」とか、私自身も思った事がないし、そんな話しは聞いた事がありません。もちろんどこかで部屋の片付けに困ってるイギリス人もいるかもしれませんが、お目にかかった事はありませんでした。イギリスでは日本ほど人目を気にしないという特徴があるかもしれませんが、不要な物を手放しやすい環境があったなーと思います。それは何か?次回へ続く。
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片付いた部屋に住み始めたら人生が好転した話しの続き。

日本の汚部屋から一転、ロンドンの素敵な部屋に住むようになった私。その変化から得られた驚きの効果は、翌日にわかりました。ロンドンに到着した日に眠りに付いた時間は10時くらいだったと思います。そして翌日、朝6時頃に目覚まし時計がなる前にパッと目が覚めたのです。これには本当に驚きました。なぜかというと、長年不眠症に悩まされ、布団に入っても30分以上眠れないのは当たり前。寝ても夜中に何度も目を覚まし、またしばらく眠れない。朝、目覚まし時計の音に起こされても寝起きが最悪。布団からなかなか出られず、日中は眠い、だるい。。。だったのに8時間ぶっ通しで眠り続けて、寝起きの気分がこんなに良いなんて????!!!!何年ぶり、、、!?というか今までの人生でこんな事あったか、、、?くらいの衝撃でした。が、「、、まぁ、昨日は疲れもあったから、たまたまかな!?」と思ったけど翌日も、また翌日も、10時に寝る→6時にパッと起きるという事が続いたのです。何ということでしょう!この頃の私は今までの人生で最もパフォーマンスが良い状態でした。疲れが残らない、ストレスなんて気にならない、勉強に集中出来る。当時は英語を必死で勉強していたわけですが、受験生の頃よりも勉強していたと思います。でもストレスは感じず、むしろ楽しんでいました。朝起きて、朝食を食べて、ロンドンの美しい街中を見るのが楽しいからよく歩き、勉強にも励み、あぁ、人生って素晴らしいと心の底から思いました。家に帰るとホストマザーが部屋の掃除、ベッドメイキングまでしてくれて、1人には大きすぎるクイーンサイズのベッドで夜10時にぐっすりと眠りにつく。こんな毎日って素
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片付いた部屋に住み始めたら人生が好転した話し

私がなぜ片付けにはメリットしかないと確信めいたものを持っていたのか。それは私の経験から基づくものです。留学先の部屋で感動私は20台の頃、イギリスのロンドンに留学に行きました。たいした英語も話せないのに初めての留学。。留学したきっかけはイギリスのワーキングホリデービザを獲得したからです。当時、イギリスのワーホリビザは年間400人程度しか取る事が出来ず、その取り方も「ハガキを出して当選したら行ける」という、なんとも運に頼るものでした。20倍以上の倍率と言われるワーホリビザを「留学考えてるから、一応応募だけしておこうかな」なんて気持ちで送ったら、まさかの当選。これは行かないわけにはいかないよね。って事で勤務していた会社を辞め、イギリスへ行くことを決めたのです。ロンドン、ヒースロー空港に到着。最初のホームステイ先まで送ってくれる運転手を見つけ、ホームステイ先のお家に到着。ここには3ヶ月ステイする予定でした。「今日からここがあなたの部屋よ」と案内されたその部屋は。。クイーンサイズのベッドと、机、シャワーとトイレまで着いていました。私が日本から持ってきた物勉強道具パソコン洋服数枚替えの靴 1足化粧品薬洗面用具お金、カード、日本円もなど必要最低限の物は持ってきました。部屋にはベッドがあるから寝れる。机があるから勉強が出来る。部屋にトイレもシャワーもある。必要な物は全て持ってきた。足りないものは何もない!という事を目の当たりにし、ものすごい感動した事を今でも覚えています。この時は携帯電話も持っていなかったので、誰かからの連絡がくる事を気にする必要もありませんでした。そしてさらに、部屋の窓からは
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ラプソディー・イン・ロンドン  ~もう一つパブにて~

パブでの会話は、およそ日本では思いもつかないような話を色々聞かせてもらった(まぁ今はインターネットのおかげで現地に居なくても情報はどんどん入ってくるが・・・)。滞在時「Japan Week」という日本を紹介する企画が毎日TVで流されていて、色々聞かれたり教えてもらった。「日本の電車は時刻表通りに来るってのは本当か?」「まあ、当たり前の話だけど。」「凄いな!今朝なんか車掌が寝坊して電車1時間遅れたぞ。」「チッ、俺の遅刻の原因は車掌の寝坊かよ。」「煙草の自動販売機あるのに何故みんなカウンターで買うの?」「えっ?買えないからにきまってるだろ。」「???」「そういえば日本人は自動販売機に100ポンド札(1万円の事)入れて切符買ってるの見たけど怖くないの?」「なんで?」「切符出てこなかったら100ポンド失くすんだぞ!」「!!!」「サッカーはどこのファン?」サロンにて「アーセナル」「アーセナル」「ラグビーとクリケットしか見ない」パブにて「チェルシー」「チェルシー」「チェルシー」「チェルシー」「じゃラグビーは?」「見ない」「新聞は何読んでる?」サロンにて「Financial Times」「The Independent」「The Guardian」「The Times」原則、クオリティー・ペーパーパブにて「The Sun」「The Daily Mirror」「The Daily Mail」「The Daily Express」原則、タブロイド紙当時、既に「Evening Standard」というフリーペーパーがあった。通っていたオフィスのすぐ前の地下道にEvening Standardを配っ
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ラプソディー・イン・ロンドン  ~パブにて~

パブでは毎週末常連さんたちとワイワイやって、時にはギター持参のお兄さんたちの歌に飛び入り参加したりして、遅くまで楽しませてもらった。週中は、たまにサロンに寄って一杯やってから帰宅したりもした。ある日、初老のご夫婦から声をかけて頂いた。「何処から来たんだい?」「日本です。」「あぁ日本かい。私のラグビーチームにも日本人が来ていたよ。優秀なプレイヤーだったよ。」ちょっと心当たりがあったので聞いてみた。「リッチモンド・クラブですか?」「えっ、なんでわかるんだい?」「Mr.Seiji Hiraoですよね?日本代表のプレイヤーです。」「ほぅそうなんだ。上手だったからねぇ~。」このパブはリッチモンドの隣町の小さなパブで、日本代表の平尾誠二選手がリッチモンド・クラブに留学していたことを知っていたので繋がった話だ。その後ラグビー話しで盛り上がった。帰り際、初老の紳士がつけていたネクタイを外して「これプレゼントするよ。リッチモンドクラブのチーム・タイだよ。」感激!!私もつけていたタイをお返しに贈呈した。「これ、僕のご贔屓の日本のラグビーチームのタイです。宜しかったらどうぞ。」片田舎のパブのサロンで国際親善タイ交換の瞬間だ。偶然だったけどラグビーチームのネクタイ着けててよかった!ラグビーのネクタイについては、もう一つエピソード。南アフリカ共和国へ出張に行くチャンスがあった。言わずと知れたラグビー最強国の一つだ。当時はまだアパルトヘイト政策下だったものの、既にアパルトヘイト政策の撤廃を宣言していたので非常に興味があった。またアパルトヘイトへの世界からの抗議制裁として、長年海外チームとの交流を停止されて
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ラプソディー・イン・ロンドン ~表と横~

イギリスでは、何が無くてもこれだけは欠かせないというものがある。パブだ。どんなに小さな町にも必ず1軒は存在する。夜の帳が下りると町の人々が三々五々パブに集まってくる。パブに入るとき、日本ではまずお目に掛かれない光景を目にする。通りに面したところに入り口がある。が、ぐるりと建物の角を曲がった脇に、もう一つ入り口がある。外で眺めていると正面から入る人がいれば脇から入る人もいる。不思議だ。まず比較的大きな扉の正面から入る。中は広々としていて、少しくすんだ赤い大きなソファーが並んでいる。仕切りを隔てた奥の部屋にはスヌーカーがあって、なんともかっこいいおじさんたちが静かにゲームを楽しんでいる。私も地場のラガーをパイントグラスで頂く。ゆったりした時間が流れている。一杯飲み終えたところで入ってきた扉から出て、今度は脇の扉から入ってみる。こちらの扉は正面よりやや小さい。扉を開けた途端、先ほどとは違って四角いテーブルに丸椅子に座ったお客さんたちがワイワイガヤガヤやっている。正面から入った時には全く感じなかったお客さんたちの強い視線を感じる。一直線にカウンターに向かって、もう一度ラガーをワンパインと注文する。あれ?さっき向こうで継いでくれた兄ちゃんだ。「向こうにいたよね?」「そうだよ。同じ店だから。」へ~。「あれ?同じもの頼んだけど、さっきより安い。間違ってない?」「間違ってないよ。こっちだから。」へぇ~~。この兄ちゃんが教えてくれた。「パブはどこもこうなっているよ。あっちがサロンでこっちがパブ。」階級社会イギリスがパブにもある。だからと言ってこっちは入っても良いけどあっちはダメという事はない。だ
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ラプソディー・イン・ロンドン ~表と裏~

ハロッズと言えば超高級デパートだ。買い物をする用事もないが話のネタにと覗いたことがある。日本のそれとは違って、小部屋形式で重厚感ある売り場に、ジーンズで参上したことにちょっと気後れした記憶がある(現在もそうなのかは定かではない)。ナイツブリッジ駅からプロンプトン・ロードに面した”正面入り口”から入って、小部屋の連続で迷いながらも入り口にあった店内地図片手にあちこち見てまわった。そのうち自分が何処にいるのか分からなくなり適当に歩いたら”裏口”に出た。そこで見た光景に唖然とした。店舗に面した道路に黒塗りの超高級車がずらっと並んでいた。ロールスロイス、ベントレー・・・。暫く眺めていたら買い物を終えた(恐らくアラブ系の)ご婦人が、しこたま荷物を持った人を引き連れて出てきて、黒塗りの一台に乗り込んで出ていった。なるほど、プロンプトン・ロードの”正面入り口”は”一般の”お客で、上得意のお客は”裏口”を使うんだと納得したが、ハロッズにしたらどちらが”正面”なのだろう?日本でもドラマなどで、超上得意のお客を裏口から入れて個室で対応するなんてシーンがあるが、ド派手に堂々と、しかもたまたま迷った私のような一般人でも普通に見れてしまう。というか、裏から回れば普通にここを横目に歩くことになる。まあ、あまりお目に掛かれない光景を見れて良かったものの、こういう所にもいわゆる階級社会ゆえのシステムが残存しているのだろうなと思った次第だ。
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ラプソディー・イン・ロンドン ~慣習~

ロンドンと言えば「ダブルデッカー」と呼ばれる赤い2階建てバスが有名だ。最初の頃は物珍しさで行き先関係なく乗っていた。いざ乗ってみれば、あまり乗り心地が良い乗り物ではなく、張り出した街路樹の枝をバキバキ蹴散らしながら走っていくことに驚かされた。2階の先頭に座れば、分かってはいても迫ってくる枝にのけぞったことも何度かあった。ロンドンのバスも、別にダブルデッカーだけでなく普通に路線バスもある。今の日本と同じバスなのだけれど、当時はまだ古いバスが残っていて、これもまたスリリングで便利だった。バスの最後尾がぽっかり空いていて、そこから乗り降りするのだが、キチッと止まってくれるわけじゃない。小走りに飛び乗る感じだ。(ご年配の方が居ればきちんと止まってくれるのだが。)そこに車掌がいて料金を払う。降りるときは車掌に降りたい旨伝えると、運転席まで張ってある紐を引っ張って、運転席の上についているベルを鳴らして止まる地点を叫ぶ。そうするとその付近でスピードが落ちてサッと降りる。慣れると心地よい便利さを感じた。鉄道も古いものが残っていて、こちらも一興だ。乗降口がすべての座席についている。乗るときは自分で取っ手を引いて開けて直接座席に座る。驚きは降りるとき。外にあった取っ手が内側にはない。訳が分からず近くの乗客を観察すると、やおら窓を開け、外に手を出して外の取っ手でガチっと開けて颯爽と降りていく。何これ?と思ったが、そもそも鉄道は富裕層が使う乗り物で、扉の開け閉めは執事の仕事なので内側には取っ手は要らなかったという習慣が、庶民の足になっっても変わらず残った。そういえばバスも、元々は2階建てではなく普通の
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ラプソディー・イン・ロンドン ~固有名詞と普通名詞~

この本は、ロンドンでお勉強していた頃のお話しだったので、面白く読んだ。「そうそう。懐かしいな。」なんて感覚で。今思えば、私ってなんで英語出来ないんだろう?あの時は普通に暮らしていたのに・・・。本の中から、私も気になっていた事、思っていた事をメモ。私が毎日通っていたオフィスの最寄り駅は「モニュメント」。えっ、普通名詞?と最初は思った。しかも隣は「バンク」銀行???。まあバンクは金融街のど真ん中だからそうなのかな?などと思っていた。そういえば金融街も「シティー」だな~、確かに「テンプル」「タワー」もある。これは英国人の特徴なのかもしれない。モニュメントは「ロンドン大火記念塔」の事で、バンクはテムズ川が大きく曲がった「岸辺」などなど。それを普通名詞で言っちゃうことが大英帝国時代からの彼らの誇りなのかもしれない。彼らにとっては「当たり前」。グローバルな時代にも関わらず、英国の切手には国名がない。「郵便発祥国の私たちの切手に何故わざわざ国名を記載する必要があるの?」「モニュメントと言えばロンドン大火記念塔、タワーはロンドン塔でしょ?」みたいな。
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オラファー・エリアソンの夕日

ロンドンに暮らしていた頃、たくさんのアートギャラリーや劇場を訪れました。その頃は作品の感想を記録に残していなかったので、思い出すことは正確ではないかもしれないけれど、今も心に残っている感動を、少しずつ書いていけたらいいなと思っています。 ロンドンに着いて、初めて出かけたテート・モダン。天井が吹き抜けの広いタービン・ホールの展示は、オラファー・エリアソンの夕日の作品でした。ドライアイスのスモークがうっすらと立ち込めた空間は一面オレンジ色で、丸い太陽が力強く輝いていました。訪れた人たちは、床に座り込んだり寝転んだり、とても自由にゆったりと時間をかけて、作品を楽しんでいました。美術館の床に寝転ぶ???いいの?ありなの?と、最初は驚きましたが、その後ロンドンでの生活の中で、そういうゆるさをとても心地よく感じるようになっていきました。 ロンドンの人たちがアートを楽しむ姿は、肩の力が抜けていて、自由で自然でとても好きでした。でもそれだけではなくて、例えば劇場で公演の内容の質が良くなければ、途中で席を立って帰っていく人が続出したりして、厳しく真摯に作品と向き合う姿勢も感じました。 そんなロンドンの人たちの姿に触れることで、私の中にもアートを自由に楽しむ方法や、アートを好きな気持ちが育っていったのかもしれません。
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昔のジョーク

30年前、短期間だがロンドンにいた時代のエッセイに懐かしいジョークを見つけた。アフリカで象の研究プロジェクトがあり、イタリア人、フランス人、日本人、そしてイギリス人の4人の研究者が参加して1年間の生態研究を行った。1年後、それぞれが研究レポートを発行した。イタリア人「象の料理方法に関する考察」フランス人「象の性生活に関する考察」日本人  「アフリカ象は日本をどう思っているかに関する考察」イギリス人「象と哲学、及び産業革命との関係性に関する考察」個人的にはフランス人がうけた。
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