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中学時代の後悔!!!

こんばんはー!!! 書くことないのに2日もブログを休んでソワソワしていました(笑)harupaniです(*´з`)今回は中学時代のお話したいと思います(笑)誰が聞きたいんですかその話?( 一一)まあそう言わず聞いてやってください(*´з`)僕が通ってた中学校は全部で5校くらいが集まってきていました。 小学校の時は1クラスしかなかったし、学年で20人位しかいなかったので喧嘩とかはあったけど特に人間関係で悩まされる事はありませんでした。harupaniは中学生活で初めて人間関係に悩まされる事になるんです。。。中学1年生の時は特に人間関係の問題などはなく、 色んな子と仲良くしていました!! 中学2年に上がってすぐの事です。 ヤンチャリーダーにいきなり声をかけられます。 そしてharupaniコンビニ前うんこ座りキティちゃんサンダル小僧に生まれ変わりました(-。-)y-゜゜゜そしてこのリーダーとの出会いが、中学生活を大きく変えていきます。僕は仲間に入り遊ぶようになってからわかったんです。 このリーダー独占欲の塊みたいな人だと。。。因みに僕も彼女とかには独占欲剥き出しタイプです(笑) きっと今も独占欲の被害者が一人。。。いつもごめん(笑)あ、、、話を戻してーと(笑) 気に入らない子がいれば、その子をイジメる。リーダーの場合は自分の仲間が他の人と仲良くしてるのを見るとその仲良くしてた人を嫌い始めるみたいな事もよくありました。とにかく独占欲と嫉妬で生きてるようなリーダーでした(笑) この時僕はそのグループにいる事も好きだったし、居心地もよかったんです。ある日悲しい事が起こるんです(´;ω;`
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【コミュニケーションの魔法】心のつながりを深める方法

今日は、私たちの人間関係と心の健康において重要な要素であるコミュニケーションについて語りたいと思います。コミュニケーションは、私たちの生活において魔法のような存在で、心のつながりを深めるために不可欠です。コミュニケーションの重要性コミュニケーションは、言葉だけでなく、非言語的な手法が用いられることもあります。コミュニケーションツールを使用することで、次のような利点を得ることができます。理解と共感: コミュニケーションを通じて、他人の視点を理解し、共感する能力が高まります。これにより、より深い人間関係を築くことができます。 ストレスの軽減: 感情や考えを他人と共有することで、内部のストレスを軽減できます。言葉にすることで問題をクリアにし、解決策を見つけやすくなります。 問題解決と協力: コミュニケーションは問題解決と協力に不可欠です。他人との対話を通じて、協力して課題に取り組むことができます。効果的なコミュニケーションの要素聴く力: 良いコミュニケーションは、聴くことから始まります。他人の話に注意を向け、感情や考えを理解しましょう。 感情の表現: 感情を適切に表現することは、健全なコミュニケーションの一部です。率直で誠実な感情表現は、信頼感を築くのに役立ちます。 非言語コミュニケーション: 言葉以外の要素も重要です。身振り手振り、表情、姿勢などの非言語コミュニケーションも意識的に活用しましょう。 共感: 他人の視点を理解し、共感することで、より深いつながりを築くことができます。相手の感情に寄り添うことが重要です。コミュニケーションの実践アクティブリスニング: 相手の話に注意を向け
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小学校生活6

そんな中、5年生のPTAがあった。授業参観日、という嫌な日。その日は父は参観日には来ないことになっていた。時間になると続々くる母親たち授業が始まったその先生は何を思ったのか「自分の席に立って自分の名前とお母さんの名前と趣味をいいなさい」といった。もちろん、私には母親がいないことはわかりきっていることである。どうしよう…頭が真っ白になった…他の親もいる…なんて言おう…母親の名前…他の人は張り切って自分の名前と母親の名前と好きなことを言って座った…。やばい…自分の順番がくる…とうとう自分の順番になった自分の名前をいい…その後、なにを言ったらいいのか、なんて言ったらいいのかわからなくなった。ただ悔しくて、苦しくて、辛くて、涙がでた。その光景を先生は、ニヤリと笑いながら見ていた。数分後…「もう座りなさい」と言われて座った。周りからはクスクスと笑い声が聞こえた。その日の授業参観は、なにをしたのか、もう覚えていない。多分、記憶から消したかった。けれど、それだけは今でも消えない。私に対するイジメはもう、誰も助けてはくれない。その傍らで、母親が毎日のように電話をしてくるそして、私は誰かに聞いてほしくて母親にいじめられていることを話した。母親は、「お母さんがいないせいでイジメられたんだね、辛かったね、ごめんんね、学校なんて行かなくていいよ」と言った。学校に行かないのは「負け」のような気がしたから、学校に行かない選択肢はなかった。父に学校に行かない、なんて言えるはずがない。そうして12月がきた12月と言えばクリスマス。クリスマスは私にとっては、そんなにうれしいものではなかった。頼んだものを買っても
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私の今までを書いていきます…

某ブログサイトにも載せていますが、私がなぜ、「メンタルケア心理士」になったか…それは必然だったのだと思います。最初の虐待今、考えると「あれがが虐待だったのか…」と、思うことを、つらつら書いていきます。私が物心ついた時には、もう母親は一緒には住んでいませんでした。なんで自分には「母親」がいないのか…3歳から育ててくれていた「おじいちゃん・おばあちゃん・お父さん」には聞けませんでした。聞いた話では私が3歳のころに「いなくなった、どこにいったんだろうね~」と、おばあちゃんは毎日、私に謝ったり、おばあちゃん自身を責めていました。私は「お母さん」がいないことに、そんなに気にしたことはなかったので、なんとなく子供心に申し訳なさがありました。私が保育園に通い始めてから、おじいちゃんが「がん」で亡くなりました。私の全てを理解してくれていたのは、おじいちゃんだったのを今になって思い出します。今日はここまでにします。
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中学校生活7

中学校でも相変わらず、イジメにあっていた。中学ともなれば、いろんな小学校から入学してきて、新しいスタートを切れると思っていたが、入学当初は、そうでもなかったが、そもそも小学校からの持ち上げありの生徒も方が圧倒的に多かったから、イジメが再発するのも簡単だった。中学のころは、母親の家と自分の家を行き来していた。中学二年生くらいには、ほとんど学校に行かないようになっていた。学校に行く日は父の家から登校するときくらいだった。その頃くらいに父に彼女ができたらしい。その彼女にも子供がいて、一個上の年だという、そして同じ学校…私がイジメられていることはバレていた。廊下ですれ違うと、すぐに嫌や顔をした。それは仕方のないことだと思った。その彼女さんの子供はとても頭もよく、スポーツが万能で…私とは天と地の差があった。当然のごとく、比べられた。「〇〇ちゃんは、こんなに頭いいのに、お前はなんだ!恥をかかせるな!」と、口癖のようにいうようになった。彼女さんは、父に「なんでそういうことをいうの!」と叱っていたが、私は、父には私がいないことで幸せになるなら、私はいなくなってもいい、と思っていた。男手1つで、今まで関わったこともない実の子とは言え、私が全部をダメにしている。そう思った。母親は、なぜか優しい言葉をかけるようになってきていたせいもあってか、ほぼ母親の家に住み着くようになった。子供たちも幼いせいか、とても慕ってくれた。私は母親の家にいてもいいのか…と考えるようになった。そんな朝、母親の家から学校に行こうとしたとき、「学校には行くな!」「家から出るな!」と言われた。え?!どういうことだろう。「お前は学
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小学校生活7

母親に言った「お父さんになんて説明すればいいの」そしたら、「もう隠すことないじゃない、話してしまえば?」と…なんて簡単に物事を言うんだろう。けれど、クリスマスプレゼントを受け取るまで、この人は引かない…仕方なくプレゼントを受け取りに行った。そしたら、さっきの罵声とは考えられないような笑顔で玄関に立っていた。「ほら!みて!ジャンパー!あなたの好きな色!」と…。紫だった。よく男性が着ている、ダボダボの…スカジャン?あれでした。背中にはなぜか龍の絵柄…私の意見など誰も聞いてはくれない。気持ちも…「着てみて!絶対似合うから!」と興奮している。私は素直に従った…そうしなければ、また怒鳴られる。そして長い説教…着てみた。母親だけが嬉しそうだった。そして、そのジャンパーを持ち帰ることに…帰り道、お父さんにどうやって話そう、そればかり考えていた。ジャンパーなんて別に欲しくない。捨ててしまうか。色々考えた。けれど、ジャンパーを着ないとまた怒鳴られることになる家に着いてしまった…あれこれ悩んでいるうちに父が帰ってきた…これは言うしかない…「お父さん、あのね、実はお母さんと会っているんだ、クリスマスプレゼントもらった」ボソッと…父はピクっとしたと思う。あ、怒られると思ったが「ほう」しか言わなかった、否定肯定もしなかった。なんだか、逆に不安になった。父を傷つけたのではないか、本当は会ってほしくはないよな…。父に会っていることを伝えた辺りから、母親の態度がエスカレートしていった。泊まりにくればいいと…。そして、自分の家族を紹介すると。さすがに泊まるのは約束というか、ルール違反だと思った。そうしている日々
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小学校生活5

このころになると、イジメもエスカレートしてきた。「〇〇菌」「近づくな」「触るな」「くさい」など…。この言葉は、私が近づく度に言われた。 先生も注意どころか笑っていた。 朝、教室に行くと「あれ、机がない…」 みんなクスクス笑っていた 探しているとチャイムが鳴り 私は茫然としたまま… 先生が教室に入ってきても、私を見ないフリをしていた そこにはまるで私が「いない」ようだった。 ふと ふと、外をみた瞬間 「あった…」 私の机はベランダに放り投げられていた。 教科書も中身も全部グチャグチャだった。 使えるものは自分が持っているものだけ。 その時間はただ黙って教室の隅で立っていた。 授業が終わり、私は黙って自分の机を元に戻した。 もちろん、手伝ってくれる人なんていない。 ゴチャゴチャした机や教科書を泣くこともできず ただ無言で直した 先生は当然のように目にも留めない もとの場所に戻そうとしていると、どこからか 「教室にいるな!空気が汚れる!」 …私はどこへ行けばいいんだろう 私は「元の位置」ではなく教室の廊下の隅に置いた… また誰かが 「汚くて通れないだろ!」 私は教室から机を出した。 そしたら何も言われなくなったから、もう、ここでいいや… と思う事にした そうするしかなかった そう思うしかなかった 次に授業が始まった 先生はいきなり私に大声で怒鳴りつけた 「なんでそこに机があるんだよ!周りを見ろ!俺の立場も考えろよ!」 静かな教室の隅に机を置いた 決して「元の場所」ではない。 それでも先生は何も言わなかった。 そうか、周りの先生の目が怖かっただけか…そう理解した。 教室に入ると」、みん
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中学校生活8

中学3年ともなると、高校進学の話で学校も盛り上がっていた。私はそもそも勉強はあまり得意な方ではなく、むしろ成績は下の方だった。小学校時代から、わからない所があって先生に聞いても無視されるような状態、父にいうと怒られる、塾でも先生には無視されていた。今のように気軽に調べられるようなものはなく、自分でも勉強は諦めていた。けれど、父は高校は「〇〇高校にいけ」と言われていた。そこの高校は、この辺の高校では結構レベルが高い高校だった。それ以外の高校は認めない、という考えの人だった。父は、仕事を点々としていた。祖母が亡くなってからは仕事はせず、ビジネス専門学校に通っていた。それからは、縫製工場、重機会社など。そんな中、先生が〇〇高校の体験入学に連れて行ってくれた。家からは、すごく離れた高校だった。当時はボロボロの校舎だったが、なんだか楽しそうだった。一緒に体験入学に行った生徒は私に話しかけてもくれた。同じ学校に話かけてくるのは、先生がいたからだと思う。同じ高校から私を含めても3人くらいしかいなかった。体験入学が終わり、母親の家に帰った。その数分後…電話がなった。私「もしもし…」母「あ、今帰ったの、急いであんたの家に来て!お父さん死んだ」????!!!え…死んだ?なぜ…どうして私は急いで自転車に乗った。どうか無事でありますように…もうこれ以上、だれも死なないで。私が家に着いた頃には、警察や近所の人でいっぱいだった。そこに父はいなかった。病院にいったのだと思った…が、誰の声か覚えていないが「縁側で首を吊った」と…。自殺…私は、「一人になっちゃった」とどこか冷静に現実を見ていた気がする。私は、家
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小学校生活3

…おばあちゃんが死んだ…呆然としました。なんであの時無理にでも一緒に行かなかったのか…怒られても一緒に行けばよかった…これからどうすればいい…色々考えてみたけど、私にできることも、もうしてあげれることもない。おばあちゃんの葬儀が行われた。そこには、父の兄がいた…父の兄は、結婚して県外に行ったきり、一度も家に来たことはない、私は初めて会った。夜になり、怒鳴り声がしてきたどうやら「遺産」で揉めているようだった。よくドラマでみる、あの喧嘩。子供ながら、すぐに遺産争いだ、ということはわかった。怒鳴り声とたまに聞こえてくる何かをたたく音…それにおびえながら夜を越した…。朝になると兄はもういなかった。葬儀がまだ完全に終わっていないのに、だ。それ以来、私もその兄のことが憎くなった。そして、父と二人の生活が始まった…。そもそも「父」という存在は私の中では、私の生活の中にあまり存在しない人だった。その父との生活想像もできなかった父は、祖母の死後、職を辞め、私の生活リズムに合わせれるような仕事についた。それから、毎朝、顔を合わせるようになったが、お互いがぎこちなかった。父は、私が食物に対して「苦手だ」とわかると、毎朝苦手な食べ物を出してきた。それを食べ終わるまで学校には行かなくていい、とまで言われた。ごはんが苦痛になっていったそして父は、私に対して冷たく当たるようになった。テレビも見せてもらえない夜ごはんが済んだらすぐ勉強漫画は読むななど、規則ができた。そして、父が趣味でやっているマラソンなどに強制的に連れていかれた。結果を見て怒鳴る。もちろん、学校での出来事など聞いてもらえるはずもなくだんだん自
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小学生活2

そういえば、書き忘れていました…私が保育園児のころ、祖父はガンにより逝去しました…葬儀は親戚や知らない人で溢れかえっていました。祖父は、私を「無条件」で愛してくれたと思います。葬儀やさまざまな儀式が終わり普段の生活にに戻っていきました…私と祖母と父の3人。私は小学3年生になりました。その当時、「給食袋」というのもが存在して、巾着の中に「箸、おしぼり」を各自で持ってくる制度でした。その箸を忘れてきた女の子が私に「箸忘れてきたから、だれかから借りてきて!」と頼まれたのです。うん、とは言いましたが…私に箸を貸してくれる人なんているんだろうか…そう思いながらも必死で声をかけて歩きました。なかなか見つかりません…とうとう給食時間開始のチャイムが鳴り、私は職員室に行き、担任ではない先生から箸を借りることにしたのです。借りる箸は「来客用」の箸でしたが、返す時は、給食室に返し、先生に「割りばし」を返すシステムでした。私はもちろん給食なんて食べてません…給食時間も半分過ぎていたので、走ってその子に箸を渡そう………!!…食べてる…その子は友達と笑いながら給食を食べていました。その子に箸を渡すと「遅いよ!箸をあんたが返しておいて、箸は他の人に借りたからもういらない!」と吐き捨てられました。担任の先生には「今まで何やってたの!!」と怒鳴られ私は何も言えず、自分の席に座り給食を食べ始めましたが…時間がない…急いでも食べれたのは半分以下でした…。それから何度も何度も、「命令」をされるようになりました。なぜ断れなかったのか…その理由は1つしかありせんでした嫌われたくなかったその頃には、遊んでくれる友達おろか
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国語講師のひとり言「ややこしいことを説明しよう」

『個別の授業で面と向かっては言いにくい話をコラムにしています。言いにくいワケは、生徒さんは1人1人状況が異なり、一般論のアドバイスがつねに当てはまるとは限らないからです。 ですのでタイトルも「ひとり言」。本コラムの内容に有効性があるかと問われれば、私自身の中学受験や長年の指導で実践を心がけ、結果を出してきた事実を挙げるのみです。』国語の力を上げるのに、何が一番大切でしょうか?…と書き出して、「この問題提起はオカシイ」と我ながら考えさせられた次第。なぜなら「大切」なことは1つではなく、複数あるからです。それはさておき、もう一度冒頭の問いに戻りますが、国語の力を上げるには読書も役立てば音読も役立ち、問題演習も漢字練習も知識の暗記も大切です。しかし多くのみなさんが、意外と見落としていることがあると常々考えています。それは、ふだんあれこれ考えて、その結果を言葉で伝える作業です。小学生と言えど、生活していて心にわだかまりを感じることはよくあります。舞台はおもに学校です。クラスメートあるいは先生との関係で不満や反発、物足りなさやすれ違いを感じることなど日常茶飯事でしょう。たとえば先生に注意されたとき。その場はおとなしくお説教に耳を傾けたものの、自分にだって言いぶんはある。たしかに僕も悪いけど、でも…みたいなやつですね。「今日学校で先生に叱られちゃった。でも先生の言ってること、7割は正しくて僕も反省したけど、あとの3割は違うんだ。どういうことかと言うとね…」心のわだかまりを解きほぐすには、だれかに話を聞いてもらうのが一番。しかも「本当はこうなんだ」とわかってもらうには、現場の状況を知らない聞
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社会人12

おばさんの家をでてから初めて家に帰った。その日はおばさんのみんなも優しかった。私がいなくなって、本当によかったなと感じた。そして、次の日には帰ることにした。寮の門限が夜の10時だったので、片道1時間はかかる距離だった。あまり長居をしない方がいいとも思った。そうして、私は寮に帰り、また十数人との生活が始まった。けれど、今までの生活からしたら、全然楽しかった。先輩に気を使うのは仕方のないことだ。その月だったか、いつだったか、私の通帳を管理している先輩に「お金を引き出してください」と言った。おばさんの家に帰ったり、ピザやらで出費が重なったためだ…そうしたらものすごい剣幕で「なんのために私が管理しているのよ!!」とまた、みんなの前で怒鳴られた…。いかにも、私が人のお金を取っているような雰囲気だった。「すみません…」と小声で言うしかなかった…。私は、先輩から五千円だけを受け取り、部屋に戻った。それから、仕事は順調のように感じた。ところが、先生の態度が一変する出来事が起こった。理容さんや美容さんだと、新人が直接施術できるのは、「シャンプー」だと思う。今はどうかわからないけど。私は「中卒」というコンプレックスから、シャンプーを人一倍頑張っていた。そして、いわゆる「指名」をしてくれるお客さんができたのである。私を指名してくれるお客さんは日に日に増えていき、他の同期の人達を追い抜いていった。だからといって、私にはなんの気持ちの変化や態度の変化はなかったと思う。変化の仕方が分からなかったのだ。今まで無視はされても「指名」はされたことがなかったからだ。忙しくシャンプーをする私を見て先生が、お客さんの
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小学校生活4

小学校生活は、楽しい思い出というものは存在しなかった。運動会はビリになった私を責める父お弁当は二人…車の中で食べた。それでも唯一、父の自慢できるところは、お弁当、毎日のご飯は全て手作りだった。カップラーメンなど食べたことがなかった。家では無言か怒鳴られているか…学校では無視されてバイキン扱い。そんな小学校生活に転機が訪れた。突然の「母親」と名乗る女性から電話がきたのだ。「もしもし?誰かわかる?」と…私は、聞いたことのない声だった。「お母さんだよ」……。私はなぜか、「お母さんはもういらない」と思った。その直感を無視しなければよかったと今でも思う。私は「会いたくない」といったが、母親と名乗るその人は食い下がった。「お母さんに会いたくないの?寂しいでしょ?なんで?お母さんはこんなに会いたいのに!」と…それでも、その時の私には塾があった。それを言い訳にしたが、「5分だけでいいから」とあきらめない…。そんなやり取りをして結局会うことになった。近くのパチンコ屋さんで会うことになった、そこで母親という人は私に会うなり、抱き着いてきて号泣した。私は、ただ茫然と立っていた。感動などありえなかった。会いたいと思っていなかったからだ。それから、母親と名乗る人は毎日のように電話をしてきた。私が小学5年生のころだった…。ある日、「家にこないか」と言われた。もちろん私は断った。しかし、それで終わる相手ではない、行く、というまで電話をかけてきた。「なんで来ないの?」「お母さんが住んでるところを知りたくないの?」「来いって言ってるんだから来い!」だんだん口調も荒くなってきた。当時まだナンバーディスプレイという
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11月2日今日頑張ったあなたへ

いよいよ11月になりあと少しで1年が終わろうとしてます。どおでしたかこの1年 満足してますか?やり残したことはないですか?悔いはないですか?私はまだまだやり残したことがたくさんあります。あっという間の1年でした現在コロナ禍というのが一番の理由だと思います、皆さんもそうだと思います。コロナ禍でいろいろなことが制限されており思うようにいかずストレスなどが溜まるのが現在だと思います。私事ですが文化祭、体育祭、芋煮会、その他多くの学校行事がなくなりました。それは私だけではないと思います。皆さん同じ気持ちです。 それは社会に出た人たちでもいえることだと思います。家族旅行、お友達との旅行、いろいろな計画があったことだと思います。いつ終息するかわからないこのご時世皆さん不安や劣等感で溢れているかと思います。それは私も同じです。皆さんは一人じゃないです。一人で抱え込まないでください。私でよければいつでもお力になります!一人でも多く笑顔になれる世界を私は目指しています。
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センスのないクラス替え

気に食わない人がいても、別のクラスだから多少のことは目を瞑っていられる。気を揉むことは最小で済む。しかし、ひとたび同じクラスになったら、そうはいかない。最低1年間くらいはそのまま走り続けるというのがクラス替え。学生はこの日を楽しみにしつつも、不安も抱えている。その心境はまさにカオスだ。中2の頃、同じ苗字の男子が自分以外にふたりいた。当時はそのクラス替えの事実に、まったくセンスが無いなと感じた。「え!こんなことある?」とクラスメイトはざわつき、ロンブーが世に出始めた頃だったので、田村淳、田村亮よろしく、「1号、2号、3号と呼ぼう!」と2週間ほど話題になった。魔法使いサリーに出てくる三つ子「トン吉、チン平、カン太」じゃあるまいし。GWが明けでもまだ葛藤が残っている。自分の色を出したい年頃に、こんな酷なことをしやがってと、クラス替えを担当しそうな教師を頭に浮かべてみた。実際聞いてみたところ、はぐらかされたのだからいわゆるこども扱いだ。思いもよらぬこの展開は厨二病で化膿しちゃった感じ。A〜Eまで5クラスあるのだから、クラスごとにひとりいれば十分。ましてや、鈴木、佐藤のような日本を代表するツートップの苗字でもないのだから、その押し付けがましさはクドさを含んでいる。その2人とは特に仲がいいわけではなかったので互いのシマを譲らぬ気持ちでいたのだろう。自分中心に回っていた世の中が、そうではないとクラス替えにより思い知らされた。今だったら「あ、同じ苗字じゃん!よろしく!」とスマートに笑顔で挨拶を交わせる余裕はある。「同じクラスで出会ったことに縁を感じる。ネプチューンみたいなトリオ芸人にならないか
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小さなステップで、歩いても、意外にたどり着いたよ

今日は、子どもの話です。何かしらの、発達障害をもつお子様は、生活の中で、あれはいや、という事が良く発生するように見えます。これは、失敗を恐れていたり、周りの行動が難しそうに見えたり、様々な理由があると思いますし、臨床の方々のそのような話を聞くこともありましたし、本に書かれていたりもします。そこで、そのお子様に出来る事から、少しずつ進めていくというのが大事になるのかと思います。本人が出来る事だけやるというのは、わがままを許すようにも見えますが、僕は、出来る事や出来そうなことを行いながら、成功体験を積んでいく事が大切に思っていまます。これは、臨床の研究で、同じようなことも言われていますし、認知行動療法いわれるシェイピングという技法にもなっています。なので、少しずつ、積み重ねていく事が大切だと考えています。それが、自信に繋がっていきますし。望むなら、どこへでも飛べる人ならいいのですが、少しずつ進んでいくのも大切という話でした。それが、何かの夢に繋がるといいですね。
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中学校生活10

思い出したことがあったので、書き留めたいと思います。私がまだ小学生のころ…あれは何年生だったかな、5年生くらいだったと思う。ある女子生徒数人に「話があるから体育館のステージ下にきてよ」と言われた。その小学校はステージの下が倉庫のようになっており、暗い物置のようになっていた。そこに呼び出されたのだ。私はなんだろう、と言われた時間にステージの下に行った。そこには呼び出した女子生徒と他に数人がいて私がくると、サッと私を取り囲んだ。そして「お前さぁ、邪魔だし目障りだから、死んでくれない?屋上から今すぐ」と、唐突に言われた。私は、その辺りには多分「感情」というものを無くしていたのか「わかったよ、今から屋上いくから着いてきてよ」と言った。そしたら、一瞬ビクっとして「……、目の前で死なれたら、こっちが迷惑だからいいよ、ストレス発散にはなるからな」とだけいって、どこかに行ってしまった。私は、悲しいとか辛いとかそういう感情を失ってしまったと思う。話しを前回までのに戻そうと思う。おばさんの家から中学校に通うことになって、今までの自分はもう捨てよう!と思っていた。もう半年だけど、地域も違うし知り合いもいないし、今度こそはイジメられることはない!と…。それと同時進行で、父の財産の話も進んでいた。財産関係でどうしても父の兄と話しをしなければならない。そして、家庭裁判所にもいかなければならなかった。家庭裁判所では、いろいろな話を聞いた。私が「財産を放棄することで家もなにもなくなる」こと「財産を引きつぐと負債も引き継ぐことになる」など…。私は、これだけの人(親戚や兄、母親など)が、財産を欲しいと思っているけ
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中学校生活9

父の七回忌も終わり、まず、最初の争点が「私をどうするか」だった。もちろん、誰一人手を挙げなかった。施設に行かせる話もあった。大人というものは勝手なもので、「施設」というと、人目が悪いだの、と文句を言い始める、けれど自分たちは引き取りたくない。そんな話し合いが行われた。私は、それを聞いている自分がすごく惨めに感じてきて「お母さんのところにいくよ」と心にもないことを言ってしまった。そして、その話は解決したのである。相続の件は、まだ猶予があったのだと思う。細かいことはあまり覚えていないが、解決するまでにいろんなことがあったので、それまでを書いていこうと思う。私は、母親のところで生活をするようになったのだが、「学校には行くな」「財産をよこせ」「家の掃除をしろ」「弟妹の面倒をみろ」と、押し付けてくるようになった。母親は何をしているかというと「パチンコ」だった。千円持ってはパチンコ…そして、テーブルの上には、300円が置いてある。それで子供らにご飯を食べさせろというのだ酷いときには100円や50円の時もあった。米もない…パンもロクに買えない金額だった。今のように100均があった時代ではないから食料で100円は到底できなかった。ご飯も買えず、豆腐のみで暮らした日もあった。インスタントラーメン1袋を2人で分けて食べさせたりした。私は、スープだけをもらい、気を紛らわした。それでも母親はパチンコはやめなかったそして、私が出かけるというと人が変わったように暴力を振るう。学校にも行けず、高校もどうなるかわからない…私は、母親がパチンコに行っている隙を見て唯一の友達に電話した。「助けて、家からでられない
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いじめ

以下のXの投稿に描かせてもらいました。例のいじめ動画が炎上してるけど、 私は小中高とずっとああいう世界の中にいた。 ・教師は見て見ぬふり ・「冗談」「仲良いだけ」で処理 ・被害者だけが転校・不登校・後遺症 動画は“氷山の一角”。 学校という場所は、今も普通に壊れてる。
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教育に関するご相談

最近増えてきているのが、お子様の教育に関するご相談それも、「不登校」に関するご相談本当に、多いです特に今年は以前は、「いじめ」から、不登校と行ったケースが多かったのですが、最近は、いじめではなく「単に不登校」というケースも多くなってきております厚労省の統計では、24万人以上だとか非常に悩ましいこの場合は、現在の状況を詳しく伺ったあと、お子様の運勢と今後について、命術と卜占で未来を占いその後に、オススメの改善方法などをお伝えしています内容が深刻だったり、不登校の時間が長引くようでしたら、その場合、原因が全く違うところにあったりしますので、その場合も対処法をお伝えさせてたいただいておりますお一人で悩まず、一度、ご相談にいらしてくださいませ
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僕の子どものころのお話4

中学のときのおはなし。小学校も幼稚園もそうだけど、中学も嫌いで、入学してからも中学へ行きたくなかった。部活も最初、科学部に入ったんだけど、1日でやめた笑たまたま、科学部の顧問の先生がクラス担任だったので、話しやすいっていうこともあって、先生に「部活に入らなくても高校に行けますか?」と聞くと、「いけるよ」と言われたので、僕はすぐに部活をやめた。何か月かしたあとに、別の友だちから、「どうやって部活やめたの?やめたいんだけどどうしたらいいの?」と聞かれたので、「先生に部活入らなくても高校に行けるか?って聞いたら行けるって言われたから、じゃあやめるって感じでいったよ」って話をして、「そうなんだ」と言って、たぶんその子もやめたと思う。部活に入りたくなかった本当の理由は・・・【単純に遅くまで学校にいたくないし、早く家に帰りたかったから】授業が終わったら、僕はすぐに帰り支度をして家に帰った。たまに放課後に委員会の集まりとか、学園祭シーズンの練習とかがあったけど、もぉ~最悪だった笑(学園祭の練習はたまに土曜日に少しだけやるとかあって、ガチで学校に行きたくなかったし、学祭が大っ嫌いだった笑)でも数か月経つころには、学校に慣れてきて、小学校のときの友だちもいるので、少しずつ学校生活も良くなってきた。休み時間に友だちと話をするようになって、授業がイヤでもなんとか頑張れた。たまに短縮授業の日があって、僕の中学は、通常の短縮授業とスーパー短縮授業があった。通常の授業    → 1コマ 50分授業通常の短縮授業  → 1コマ 45分授業スーパー短縮授業 → 1コマ 40分授業通常の短縮授業だけでもうれしい
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学校で、先生と生徒の関わりで、大切といわれる3つのこと

これは、アメリカでの研究報告からになります。教室での環境づくりの1つに自律性、有能感、関係性が大切と言われました。これは、何かといいますと。自律性は、生徒が自分で選んで、自分で行動していると思える事です。有能感は、生徒の能力の少し上の課題に挑戦することです。関係性は、生徒が教師から好感をもたれる事。価値を認められたり、尊重される事。これらは、モチベーションを上げるために大切なことという研究がされていました。
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