知らない、という安心

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コラム
 小学校高学年から学校に復帰してからは、それなりに勉強したり、誰かを好きになったり、さぼったり、泣いたり、絶縁したり、傷ついたり傷つけたりと、些細なことから個人的には大きなことまで経験したけど、そんなことなんて軽々と流されていくような強く大きな力の流れに抗うことなどできるはずもなく、気づけば中学、高校を卒業し、大学に進学した。でもいつからか、心には漠然とした孤独感が居座って空洞をつくり、楽しいことも、幸せなことも、そこに飲み込まれて、結局はすべて孤独の材料になっていった。気を抜けば足を掬われる、そんな怖さがいつも、冬の朝焼けのように鋭く、日常に澄み渡っていたように思います。

 自分が知らない人がいる、ということを長い間知らないで過ごしていた。それが、当時の私のすべての悩みの根源だったかもしれません。知っている、それがすべてだった。クラスや学年全体の恋愛事情、人間模様、噂、流行っている音楽、ファッション、芸能情報など、どれも期限付きで、その場所でしか通用しない偏ったものだったけれど、それらを収集するためのアンテナや人脈がどれだけあるか、それを誰に伝えて誰に伝えないか、会話の文脈に浮かんでこない人名や言葉や意図をどれだけ正確に感知し、汲み取ることができるか。そういう人間に価値や魅力があるように見えていたし、かっこいいなとも思っていた。私はことごとく、どれに対しても鈍感で、思考は停止し、今、私が友達の輪の中で、目の前で繰り広げられる光景を部屋で一人テレビの画面越しから見ているような感覚の中、私だけがみんなにとっての知らない人であるような気がして、孤独だった。知らない人が誰一人いない世界は、私にとって安心できるものではなかった。同じ教室で授業を受けようが、放課後、おいしいものを一緒に食べに行こうが、私たちが同じ世界に住んでいるようには思えなかった。「あなたって悩みなさそうだよね、いいな」と、私に向かって、そう無邪気に言う子がいた。私は、私にとって重大な悩みであればあるほど、それを誰かに話したりするということをしませんでした。その代わりと言ったらいいのかわからないけれど、いつも笑っていたから、彼女はそう思ったのかもしれない。でも彼女は、本当は私が笑っている自分が好きではないことを、一生知らない。知ってほしいとも思わなかった。私たちはお互いのことをなにも知らない。知ったふりをし、知られているふりをしていただけだった。私ははやくこのとに気づきたかった。

今、私が思うことは、個人にとっての悩み事や孤独感、不安、寂しさに完全に寄り添うことができる人はきっといないけど、誰よりも近くまで手を届けることができるのは、もしかしたら、すぐ近くにいる親兄弟や友達や恋人のような、はっきりとした存在や素性のない、自分の知らない人間なのではないかと思っています。もちろん、これがすべての人に言えるなんて思ってはいません。でも、いつも顔を合わせている人にはない優しさや、言葉や、世界を、そんなものがあるとは知らずに、必要としている人が、どこかにはいるというのは確かなことだと思います。

私なんかよりもずっとずっと経験豊富で、お話上手で、たくさんの人を癒したり、安心させることができる方たちがたくさんいらっしゃる中で、もしかしたら誰からも私のサービスが必要とされることはないかもしれません。それでも、今日はじめて好きになるものがある。あるいは、好きだったのに、そうではなくなってしまう。どうでもよかったものが、大切だったことを知る。そして私たちは、また忘れていく。本人が思ってもみなかったことが起こる人生を私たちは生きているからこそ、想像していなかった先で私に出会ってくれる人が一人くらいはいる気がする。それがいったいいつになるのかはわからないけれど、もう既にその誰かのことをとてつもなく愛おしく思っているのです。いつになるのかはわからないのですけれど。

はあーねむいなー。そろそろ寝る準備します。
おやすみなさい。


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