いつでも幸せになれた私たち

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 こうやって文章を書いていると、私が必要としている私にとっての適切な言葉を、私は知らないという事実、そして死ぬまで知ることはできないだろうという予感に何度も襲われてとてもとても腹が立ちます。もう激おこぷんぷん丸です(古い)。

 私はなにがやりたいんだろう、なんでこんなにやる気がないんだろうってもうずっと悩んでいて、今もそうだし、でもバイトはしているからとりあえずそれを淡々とやるしかないのだけれど。毎日のように求人情報のサイトを開き、スクロール。スクロール。スクロール。なにか一つくらいは「お!これはどうだろう!」って具合に私の新たな好奇心を生み出してくれるものがあるのではなかろうかと、その期待を胸にページをひたすらめくり続ける私は25歳。生まれて四半世紀が過ぎました。改めてこの数字を見ると、なんだかしょぼいですねえ。体感的には2500歳くらいなんだけどナ。

 話を戻します。もう疲れました。仕事を探すことに、です。たっくさんありすぎて、この中からたった一つを選び出すなんて無理!選ばれるの待ってないでそっちから出向いてきたらどうなのよ!って思ってしまいますねん(エセ関西弁)。やりたいことが一向に見つからない。いやもう見つける気もないです正直。たぶんそのうち探すこともしなくなるでしょう。そんなこんなでずっとモヤモヤした毎日を送っていて、ブログで収益を得られたらいいよなとか、プログラミング勉強しようかなとか考えたりするけど、ただ、今の時代稼ぐならこれでしょって世の中で言われてるから思いついただけで、別にそんなに興味はないし、なによりめんどくさい。興味があったり、好きだったらもうとっくにやってるんですよ。やりたくないことをやろうとするのがもう間違いなのかもしれない。そんなの当たり前だけど、それでも人生、割り切らなければいけない状況になったら自分と闘わなければいけないのかなって思ったりもするんだけど、そもそも、好きではないのにやろうとしたって苦しいだけなのですよ。

 もやもやして悩んでるって前述したくせになにを言ってるんだって思われるでしょうけど、最近は以前とは比べ物にならないくらい穏やかに過ごせるようになりました。心境の転換のきっかけになったのが、金欠になったことでした。私は実家に置いてもらっているので、食事に困ることはないし、体を清潔に保つこともできる。自分の部屋があって、布団があって、安心して眠ることができる。だから、本当の意味での貧困を経験したわけではありません。でも、手持ちのお金が無くなってくると、買えるものが限られてくる。なにが今必要でなにが必要でないかを取捨選択することを毎日迫られる。当然今までしていた娯楽はすべてできなくなりました。私が自らこの生活を選んだのだから仕方がない、とは思いつつ、たった100円ぽっちの好きなアイスですら買えなくなったら、きっと心穏やかではいられないだろうなと予見はしていました。でも驚いたことに、そこまで心が荒れることはありませんでした。そりゃ少しは、「おいしいもの食べに行きたいなー」とか、「コーヒー豆買いたいなー」とか思いましたし、イライラもしたし、悲しくもなりましたけど、なぜか虚しさみたいなものはなかった。お金がなくなったことで見えた一つの気づきが、私をそうさせなかったんだと思います。

 この金欠の期間中は、私が本当に欲しいものってなんだろうか、とずっと考えていました。でも結局、喉から手が出るほど欲しくてたまらないものなんて私にはないわっていうことに気づいてしまって。それは逆に言えば、自分に必要なものはすべて持っているっていうことなんですよね。私たちって常にないものをねだる生き物ですし、私もあれが食べたい、これが欲しいから始まり、こんな場所に住みたい、旅行に行きたい、犬を飼いたい、もっとお金が欲しい、もっと自由になりたい、ってずっと思って生きてきました。でもこのキリのない欲って、大きい買い物したときに金銭感覚がおかしくなるのと一緒だと思うんですよね。ついでにあれも買っちゃえ、オプションでこれもつけちゃえ、みたいな。もう欲望感覚のバグですよ。思考の奴隷ですよ。なんなんでしょうね、欲しいものが手に入っても、理想が叶っても、次から次へと「今の自分」が手に入れられないものを見つけてくる自分なんなんだよ、この世界にあるものすべてに目を向けたら、持っていないものばかりなのは当たり前だろ、持ってないものばかり探して、勝手に虚しくなる。もはや立派な趣味になっている。その集中力とエネルギーをもっとほかのところで発揮してほしいものですわねまったく。

 そんな生き方をしていた私が、金欠になって、今まで一度もしたことがなかったような究極の選択を毎日するようになると、好きだと思っていたものとか、これのために生きてるんだって思っていたものが、本当はそこまで私にとって重要なものではなかったんだって思い知らされたんです。それに気づいたときは、少しショックだったかもしれない。でもなんだか、気が楽になって笑えてきました。なんだよ、私っていい加減な生き物だな!って。好きなものがある、私の人生を請け負ってくれるものが私以外にある、そういう人生にうぬぼれていたんですかね。私がなにかを必要とすることが、そのなにかが私を必要としてくれているんだと都合よく解釈をして、信じてしまっていたんだと思う。

 空腹を満たせて、毎日お風呂に入れて、体が健康で、五体満足で、五感がすべて正常に機能していて、家族がいて、雨風をしのげる家があって、自分の部屋があって、ゆっくり眠ることができる。そしてなにより、わたしがここにいること。生きていること。今は、そのすべてにありがとうって思うんです。綺麗ごとだって思う人がたくさんいるだろうし、私もそう思っていたからそういう気持ちもわかるけど、そうやって一言で片づけられる人生を生きているなら、私たちはいつでも幸せになれたんだって、私一人だけがそれに気づいて、信じられたらそれでいいって思えるようになったから、すべてにありがとうって思うんです。

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