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親子

こんにちは~~~タカ3@です。 ここ数日の仕事の忙しさに追われ、ブログを書けていませんでした。仕事から帰り、寝る前のヨガ(次の日の体調が全然違います)をして爆睡zzz そんな日々を過ごしていたのでした・・・。今日の本題です。父子家庭として、子供との二人暮らしをしてきた経験の中で今思うことを書き留めておきますね。その当時、僕が考え思っていた事とは、もちろん子供の幸せにつながる事はなんだろう~~って思いながら手探りで子供と向き合っていました。子育てって、自分が親に言ってもらった事やしてもらったこと、親からの影響って本当にすごい事ですよね。「ご飯を食べながら、テレビを見るんじゃない」「玄関の靴は、ちゃんと並べなさい」「ご飯を食べるときは、音を立てない」などなど・・・お袋に教わったことをそのまま子供にも言ってました。 まぁ、当たり前の事だとは思いますが・・・。ですが、みなさま! ここで問題が発生。そうやって育ったはずの僕を横目に、お袋は孫には甘く、↑ 言っていた事と真逆のことをしているのでした。孫と一緒にテレビを見ながらご飯を食べ、玄関の靴はぐちゃぐちゃとは言わないですが、きちんと並べてない。「お袋~~~俺たち兄弟に言ってたじゃないか!!」と言うも、「あれ~そうだったかい?!」みたいな・・・子育てという責任感から解放され、孫は可愛いらしく甘やかしている、ばぁちゃん。。。 まぁ、仕方ないのですが。僕はというと、結構厳しく育てたつもりです。なぜなら、娘の幸せを願い親としての責任を感じていたからですね。娘には、「お父さんで育ったから、だらしない」そう思われるのは本当にイヤだったので。父親と幼
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14-手続きとか連絡とか

一番心配したのが、やはり学校でした。教員や保護者など、全て子どもを介しての付き合いですから、子どもが辛くないようにしないといけないですよね。ただこの頃の自分は、そこまでケア出来てなかったな。自分の事と、子ども達の世話(外側の)で精一杯で、子ども達の心の中まで思いやる事は出来ていなかった気がする。子ども達は何を思って学校に通っていたのかな。さて、まずは教員に言わなければならない。まあこれは全然、個別に話をすればよいので簡単でした。驚かれると思ったがそんな事もなく。まあ学校の先生はそう言うのには慣れているんでしょう。そこまで突っ込んで心配する訳でもなく、家庭の事はそちらでどうぞ、みたいな感じの反応でしたね。まあ当たり前なんですけど。普通に、子も親も学校に迷惑をかけなければ何も言われないし、迷惑をかければ怒られるし。二親いようがいまいが関係ないですね。問題は保護者ですよね。私、ママ友と言うものは情報伝達が速くて、あっという間に広がるんだろうなと思っていたのですね。次回の授業参観では、みんな、わざわざ言わなくても知っているんだろうと。でも意外とそうでもありませんでした。うすうす気がついていても、最後まで詳しくは知らなかった人もいたかも?さてさて。離婚するまでは殆ど行った事がない授業参観ですが、離婚後は毎回参加する事にしました。ママ友パパ友に認知してもらう事、学校行事に参加して教員と話しやすい環境を作る事になると思ったからです。授業参観後のクラス会?も毎回出て、今後は母親の代りに父親が来ますとアピールしました。一番最初のときに、「親のわがままで子どもに迷惑をかけています」的な表現で、離婚
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腹を空かしてやってきた男の子を追い返すこども食堂

なんというか信じられない、というか、信じたくないニュースをネットで見つけました。あるブログに関するニュースです。件のブログを以下に引用します(出典:Nero Report)。赤の他人の男が損をするのを願うのが女という性か諸事情あっていわゆる子ども食堂のスタッフをしている。訪れる子どもの大半が、軽度から重度のネグレクトを受けている様な子ども達だ。お世辞にも子どもが好きそうなメニューを提供しているとは言えないので、食費を浮かせたいだけの馬鹿共からもあまり人気が無く(もっともそういった輩は見れば大概分かるので追い返しているが)リピーターは自ずと本当に困っている子ども(と一部の親)が中心となる。文字通り、お腹に入ってお腹いっぱいになれれば何でも良い。もし自分達の様な活動が無ければ、飢える一方の子ども達だ。ある種の社会的使命を持って手伝ってきたが、ある時から、妙なクレームが入る様になった。端的に言うと「男子(男児)や父子家庭の子に食事を提供するのは如何なものか、控えて欲しい」というものだ。要するに、男子は女子よりも食事量は多いし、父子家庭なら母子家庭よりも豊かだろうと。それよりも女子や母子家庭への提供を優先すべきだと。彼女らへの支援が不足しては困るのだと。クレームを言ってきた人間については、概ね見当がついていた。30代後半~40代半ばか後半ぐらいの、女性達だ。ベテランの女性スタッフは、クレームに影響されていった。彼女と、彼女を支持する他の女性スタッフ達が中心のシフトの時は、「レディースデー」などと称して、男子や父子家庭への提供をカットする様になってしまった。ある日、よく訪れてたまに話す様
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社会人15

私は、滴る血を、そこらへんにあったタオルで抑えながら、下に降りた。母親は、笑いながら「あはははは!自分で働いて歯、直せよ!」と言った。なにを言っているんだ、この人は。これが、人の言う言葉なのかと思った。本当に…。うがいをして鏡をみると…前歯がほぼない…。これはどうしたらいいんだろう…。死ぬとか生きるとかそんなレベルではなかった。何も考えられなかった。その日は、マスクをして過ごした。もちろんご飯など食べられるわけがない。その晩、近所の秋おばさんがきた。母親のいる時に…秋おばさんは、私を見て「どうした?風邪でもひいたのか?」とガサガサした声で聞いてきた。私が俯いて、なにも話せずにいるとすかさず「あはははは!これねー私が蹴ったら歯が折れたのよ!バカだよねー」と母親は言った。そしたら秋おばさんは母親に「お前何してんの!!誰が自分の子を蹴って歯を折らして笑ってる親がどこにいるんだよ!歯をちゃんと治してやれ!」と一喝。母親は秋おばさんには敵わないようで、私を睨みつけながら「明日、歯医者にいってこい」と言った。私は次の日、歯医者にいった。歯医者に来たのはいいけど、なんて言おう…と思いながら順番を待った。そして、順番になり、歯医者さんの先生が「今日はどうしました?はい、口を開けてー」と言った。私は無言で勇気を出して口を開けた…「ええええぇぇlあはははは!」と先生…近くにいた助手の女性も笑っていた…私は泣きそうになった。そんな私をみてか「どうすればそういう歯になるの」と半ば笑いながら聞かれたが答える気もしなかった。どうせ、言っても信じてもらえない…。そうして、施術が進み、型を取り、その日は終わっ
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社会人14

それからの生活はひどいものだった。家に食べ物などない。子供も学校にいかない男性に給与が入ると飲み屋かパチンコだった。そうしているうちに、私にも「働け」というようになった。私は、よし!これでまた離れられる!と思った。しかし私は中卒、簡単に仕事などあるわけがない、そうしていると、先日きた近所のおばさんの旦那さんの行きつけの床屋さんが、住み込みで募集をしているという話が舞い込んできた。私は、どこでもいいから離れて生活し、できれば床屋さんをしてきたのだから同じ仕事がよかった。おばさんの旦那さんの好意で、その床屋さんに住み込みで働けるようになった、そこは小さな床屋さんだった。お店には、働いている女性が二人いた。そして、ある程度、生活の説明や仕事の内容などを聞いた。与えられた部屋は、なにかお店の人の個人のものも置いてある、「物置」のような薄暗い部屋だった。それでも何とかして、自分のスペースを作った。給与は「手渡し」だというのだ。まぁ…小さい個人の店ならあり得るのかな、とあまり深く考えないでいた。そうして、日々の仕事や生活にも慣れてきた日。そう…給料日。茶色い封筒を渡された。もちろん、寮費などが引かれての金額だろうというのは覚悟していた。封筒を手にしたとき「あれ?」と違和感が…。最初「給料明細」だけが入っているのだと思った。そしたら、お店の奥さんが…「あなたの給料ね、お母さんに渡せって言われてるの」と…。!!!!そこまでするか!とも思ったが、するだろうな…と、なぜか腑に落ちてしまった。私は、それでもあの家にいるよりはマシに思えてきたから「そうですか」とだけ言った。封筒には「1万円」が一枚入っ
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社会人13

「探したわよ!!」と、笑顔で玄関に立っている母親を見たときには、ゾッとした…。どうやって見つけたんだ…誰がいったんだ…もう逃げられないのか…私は呆然と玄関に立っていたが、裏に回ってくる同僚などの目が気になり、とりあえず、店を出た…。母親は「家に帰るよ!」といい、そそくさと寮に入り、私の荷物を詰め込み始めた。傍らには、あの男性がいた。男性の車に乗せてきてもらったのだろう…。私の荷物も車にドンドン詰められ…。私はあぁ…私の人生終わったと思った。それくらいショックだった。嫌がらせを受けていても、仕事がハードでも、仕事が楽しかったし、やっと、やりがいや、自分の存在価値などを見いだせていたのに…。またこの人に全部ダメにされた…。私の地元からは、車でも片道1時間はかかる…その中で、一体どうやって探したんだろう…けれど、父親の彼女の時もそうだった。彼女の家や仕事場を今でいう「特定」をするのが、早かった。どういう手段を使ったのかはわからないが、見つかって今、車で母親の家に連れて返させられている…。おばさんがチクったのか…まさかそんなことはないだろう。おばさんも関わりたくないと言っていた。これから先、私は奴隷のように生きていくのかもう私には何もできないのか車の中で色々考えていた。母親は、気分がいいようでずっと話していたが、聞いていなかったと思う。着いたところは、前の団地ではなく新築の家だった。どうやら家を買ったらしい。けれど、家の中は、ものすごく汚かった。玄関を入ってすぐ、下駄箱の上は何かの物で山になっていた。「お母さんたち、家を建てたの!すごいでしょ!入って入って!」と、満面の笑みで言ってくる
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社会人12

おばさんの家をでてから初めて家に帰った。その日はおばさんのみんなも優しかった。私がいなくなって、本当によかったなと感じた。そして、次の日には帰ることにした。寮の門限が夜の10時だったので、片道1時間はかかる距離だった。あまり長居をしない方がいいとも思った。そうして、私は寮に帰り、また十数人との生活が始まった。けれど、今までの生活からしたら、全然楽しかった。先輩に気を使うのは仕方のないことだ。その月だったか、いつだったか、私の通帳を管理している先輩に「お金を引き出してください」と言った。おばさんの家に帰ったり、ピザやらで出費が重なったためだ…そうしたらものすごい剣幕で「なんのために私が管理しているのよ!!」とまた、みんなの前で怒鳴られた…。いかにも、私が人のお金を取っているような雰囲気だった。「すみません…」と小声で言うしかなかった…。私は、先輩から五千円だけを受け取り、部屋に戻った。それから、仕事は順調のように感じた。ところが、先生の態度が一変する出来事が起こった。理容さんや美容さんだと、新人が直接施術できるのは、「シャンプー」だと思う。今はどうかわからないけど。私は「中卒」というコンプレックスから、シャンプーを人一倍頑張っていた。そして、いわゆる「指名」をしてくれるお客さんができたのである。私を指名してくれるお客さんは日に日に増えていき、他の同期の人達を追い抜いていった。だからといって、私にはなんの気持ちの変化や態度の変化はなかったと思う。変化の仕方が分からなかったのだ。今まで無視はされても「指名」はされたことがなかったからだ。忙しくシャンプーをする私を見て先生が、お客さんの
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中学校生活11

私は、おばさんに、今の学校でイジメられているとは、到底言えなかった。自分で決めてココにきたんだ文句もなにも言わないし言えない。おばさんの家には、息子と娘二人が一緒に住んでいたが、よくは思われていないのは、知っていた。もう車を持っていたから18歳にはなっていたと思う。それでも私とはあまり顔を合せなかった。ご飯の時も別々に食べていたと思う。一緒に食べた記憶はない。どこにいっても「自分は嫌われ者」だった。好かれようとして、話しかけたりももちろんした。みんなの持っているものは持てなかったけど話にはついていこうとネットのない時代に必死についていこうともした。身なりは制服だったからさほど変わりはないと思う。髪型だけは、変えられなかったが…。それから高校進学の話がでたが、私はこれ以上迷惑は掛けられないと思った。私が高校に行くという選択肢はなかった。おばさんもあからさまに嫌な顔をしたものある。だから私は「就職」を選んだ。出来れば「寮」のある仕事がよかった。そして県外に行きたかった。学校の先生は、ここぞとばかりに就職の資料を持たせた。おばさんと話し合うように、と私は県外の寮付きの仕事をなんでもいいから探した。そうしたら。おばさんが「県外はだめだ」と言ってきた。あんまり離れるとさすがに心配なのかな、と思って、秋田市内の寮がある美容院に決めた。そして、卒業式を終え、私は当然のごとく空気のような存在で、流れるように式が終わり、感動もなにもないまま、ただ就職したら「別の世界があるはず!」という希望だけが私を支えていた。就職の面接が終わり、美容師になりたいと告げると、その店長さんは「美容師、もう埋まってし
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中学校生活10

思い出したことがあったので、書き留めたいと思います。私がまだ小学生のころ…あれは何年生だったかな、5年生くらいだったと思う。ある女子生徒数人に「話があるから体育館のステージ下にきてよ」と言われた。その小学校はステージの下が倉庫のようになっており、暗い物置のようになっていた。そこに呼び出されたのだ。私はなんだろう、と言われた時間にステージの下に行った。そこには呼び出した女子生徒と他に数人がいて私がくると、サッと私を取り囲んだ。そして「お前さぁ、邪魔だし目障りだから、死んでくれない?屋上から今すぐ」と、唐突に言われた。私は、その辺りには多分「感情」というものを無くしていたのか「わかったよ、今から屋上いくから着いてきてよ」と言った。そしたら、一瞬ビクっとして「……、目の前で死なれたら、こっちが迷惑だからいいよ、ストレス発散にはなるからな」とだけいって、どこかに行ってしまった。私は、悲しいとか辛いとかそういう感情を失ってしまったと思う。話しを前回までのに戻そうと思う。おばさんの家から中学校に通うことになって、今までの自分はもう捨てよう!と思っていた。もう半年だけど、地域も違うし知り合いもいないし、今度こそはイジメられることはない!と…。それと同時進行で、父の財産の話も進んでいた。財産関係でどうしても父の兄と話しをしなければならない。そして、家庭裁判所にもいかなければならなかった。家庭裁判所では、いろいろな話を聞いた。私が「財産を放棄することで家もなにもなくなる」こと「財産を引きつぐと負債も引き継ぐことになる」など…。私は、これだけの人(親戚や兄、母親など)が、財産を欲しいと思っているけ
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中学校生活9

父の七回忌も終わり、まず、最初の争点が「私をどうするか」だった。もちろん、誰一人手を挙げなかった。施設に行かせる話もあった。大人というものは勝手なもので、「施設」というと、人目が悪いだの、と文句を言い始める、けれど自分たちは引き取りたくない。そんな話し合いが行われた。私は、それを聞いている自分がすごく惨めに感じてきて「お母さんのところにいくよ」と心にもないことを言ってしまった。そして、その話は解決したのである。相続の件は、まだ猶予があったのだと思う。細かいことはあまり覚えていないが、解決するまでにいろんなことがあったので、それまでを書いていこうと思う。私は、母親のところで生活をするようになったのだが、「学校には行くな」「財産をよこせ」「家の掃除をしろ」「弟妹の面倒をみろ」と、押し付けてくるようになった。母親は何をしているかというと「パチンコ」だった。千円持ってはパチンコ…そして、テーブルの上には、300円が置いてある。それで子供らにご飯を食べさせろというのだ酷いときには100円や50円の時もあった。米もない…パンもロクに買えない金額だった。今のように100均があった時代ではないから食料で100円は到底できなかった。ご飯も買えず、豆腐のみで暮らした日もあった。インスタントラーメン1袋を2人で分けて食べさせたりした。私は、スープだけをもらい、気を紛らわした。それでも母親はパチンコはやめなかったそして、私が出かけるというと人が変わったように暴力を振るう。学校にも行けず、高校もどうなるかわからない…私は、母親がパチンコに行っている隙を見て唯一の友達に電話した。「助けて、家からでられない
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中学校生活8

中学3年ともなると、高校進学の話で学校も盛り上がっていた。私はそもそも勉強はあまり得意な方ではなく、むしろ成績は下の方だった。小学校時代から、わからない所があって先生に聞いても無視されるような状態、父にいうと怒られる、塾でも先生には無視されていた。今のように気軽に調べられるようなものはなく、自分でも勉強は諦めていた。けれど、父は高校は「〇〇高校にいけ」と言われていた。そこの高校は、この辺の高校では結構レベルが高い高校だった。それ以外の高校は認めない、という考えの人だった。父は、仕事を点々としていた。祖母が亡くなってからは仕事はせず、ビジネス専門学校に通っていた。それからは、縫製工場、重機会社など。そんな中、先生が〇〇高校の体験入学に連れて行ってくれた。家からは、すごく離れた高校だった。当時はボロボロの校舎だったが、なんだか楽しそうだった。一緒に体験入学に行った生徒は私に話しかけてもくれた。同じ学校に話かけてくるのは、先生がいたからだと思う。同じ高校から私を含めても3人くらいしかいなかった。体験入学が終わり、母親の家に帰った。その数分後…電話がなった。私「もしもし…」母「あ、今帰ったの、急いであんたの家に来て!お父さん死んだ」????!!!え…死んだ?なぜ…どうして私は急いで自転車に乗った。どうか無事でありますように…もうこれ以上、だれも死なないで。私が家に着いた頃には、警察や近所の人でいっぱいだった。そこに父はいなかった。病院にいったのだと思った…が、誰の声か覚えていないが「縁側で首を吊った」と…。自殺…私は、「一人になっちゃった」とどこか冷静に現実を見ていた気がする。私は、家
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中学校生活7

中学校でも相変わらず、イジメにあっていた。中学ともなれば、いろんな小学校から入学してきて、新しいスタートを切れると思っていたが、入学当初は、そうでもなかったが、そもそも小学校からの持ち上げありの生徒も方が圧倒的に多かったから、イジメが再発するのも簡単だった。中学のころは、母親の家と自分の家を行き来していた。中学二年生くらいには、ほとんど学校に行かないようになっていた。学校に行く日は父の家から登校するときくらいだった。その頃くらいに父に彼女ができたらしい。その彼女にも子供がいて、一個上の年だという、そして同じ学校…私がイジメられていることはバレていた。廊下ですれ違うと、すぐに嫌や顔をした。それは仕方のないことだと思った。その彼女さんの子供はとても頭もよく、スポーツが万能で…私とは天と地の差があった。当然のごとく、比べられた。「〇〇ちゃんは、こんなに頭いいのに、お前はなんだ!恥をかかせるな!」と、口癖のようにいうようになった。彼女さんは、父に「なんでそういうことをいうの!」と叱っていたが、私は、父には私がいないことで幸せになるなら、私はいなくなってもいい、と思っていた。男手1つで、今まで関わったこともない実の子とは言え、私が全部をダメにしている。そう思った。母親は、なぜか優しい言葉をかけるようになってきていたせいもあってか、ほぼ母親の家に住み着くようになった。子供たちも幼いせいか、とても慕ってくれた。私は母親の家にいてもいいのか…と考えるようになった。そんな朝、母親の家から学校に行こうとしたとき、「学校には行くな!」「家から出るな!」と言われた。え?!どういうことだろう。「お前は学
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小学校生活7

母親に言った「お父さんになんて説明すればいいの」そしたら、「もう隠すことないじゃない、話してしまえば?」と…なんて簡単に物事を言うんだろう。けれど、クリスマスプレゼントを受け取るまで、この人は引かない…仕方なくプレゼントを受け取りに行った。そしたら、さっきの罵声とは考えられないような笑顔で玄関に立っていた。「ほら!みて!ジャンパー!あなたの好きな色!」と…。紫だった。よく男性が着ている、ダボダボの…スカジャン?あれでした。背中にはなぜか龍の絵柄…私の意見など誰も聞いてはくれない。気持ちも…「着てみて!絶対似合うから!」と興奮している。私は素直に従った…そうしなければ、また怒鳴られる。そして長い説教…着てみた。母親だけが嬉しそうだった。そして、そのジャンパーを持ち帰ることに…帰り道、お父さんにどうやって話そう、そればかり考えていた。ジャンパーなんて別に欲しくない。捨ててしまうか。色々考えた。けれど、ジャンパーを着ないとまた怒鳴られることになる家に着いてしまった…あれこれ悩んでいるうちに父が帰ってきた…これは言うしかない…「お父さん、あのね、実はお母さんと会っているんだ、クリスマスプレゼントもらった」ボソッと…父はピクっとしたと思う。あ、怒られると思ったが「ほう」しか言わなかった、否定肯定もしなかった。なんだか、逆に不安になった。父を傷つけたのではないか、本当は会ってほしくはないよな…。父に会っていることを伝えた辺りから、母親の態度がエスカレートしていった。泊まりにくればいいと…。そして、自分の家族を紹介すると。さすがに泊まるのは約束というか、ルール違反だと思った。そうしている日々
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小学校生活6

そんな中、5年生のPTAがあった。授業参観日、という嫌な日。その日は父は参観日には来ないことになっていた。時間になると続々くる母親たち授業が始まったその先生は何を思ったのか「自分の席に立って自分の名前とお母さんの名前と趣味をいいなさい」といった。もちろん、私には母親がいないことはわかりきっていることである。どうしよう…頭が真っ白になった…他の親もいる…なんて言おう…母親の名前…他の人は張り切って自分の名前と母親の名前と好きなことを言って座った…。やばい…自分の順番がくる…とうとう自分の順番になった自分の名前をいい…その後、なにを言ったらいいのか、なんて言ったらいいのかわからなくなった。ただ悔しくて、苦しくて、辛くて、涙がでた。その光景を先生は、ニヤリと笑いながら見ていた。数分後…「もう座りなさい」と言われて座った。周りからはクスクスと笑い声が聞こえた。その日の授業参観は、なにをしたのか、もう覚えていない。多分、記憶から消したかった。けれど、それだけは今でも消えない。私に対するイジメはもう、誰も助けてはくれない。その傍らで、母親が毎日のように電話をしてくるそして、私は誰かに聞いてほしくて母親にいじめられていることを話した。母親は、「お母さんがいないせいでイジメられたんだね、辛かったね、ごめんんね、学校なんて行かなくていいよ」と言った。学校に行かないのは「負け」のような気がしたから、学校に行かない選択肢はなかった。父に学校に行かない、なんて言えるはずがない。そうして12月がきた12月と言えばクリスマス。クリスマスは私にとっては、そんなにうれしいものではなかった。頼んだものを買っても
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小学校生活5

このころになると、イジメもエスカレートしてきた。「〇〇菌」「近づくな」「触るな」「くさい」など…。この言葉は、私が近づく度に言われた。 先生も注意どころか笑っていた。 朝、教室に行くと「あれ、机がない…」 みんなクスクス笑っていた 探しているとチャイムが鳴り 私は茫然としたまま… 先生が教室に入ってきても、私を見ないフリをしていた そこにはまるで私が「いない」ようだった。 ふと ふと、外をみた瞬間 「あった…」 私の机はベランダに放り投げられていた。 教科書も中身も全部グチャグチャだった。 使えるものは自分が持っているものだけ。 その時間はただ黙って教室の隅で立っていた。 授業が終わり、私は黙って自分の机を元に戻した。 もちろん、手伝ってくれる人なんていない。 ゴチャゴチャした机や教科書を泣くこともできず ただ無言で直した 先生は当然のように目にも留めない もとの場所に戻そうとしていると、どこからか 「教室にいるな!空気が汚れる!」 …私はどこへ行けばいいんだろう 私は「元の位置」ではなく教室の廊下の隅に置いた… また誰かが 「汚くて通れないだろ!」 私は教室から机を出した。 そしたら何も言われなくなったから、もう、ここでいいや… と思う事にした そうするしかなかった そう思うしかなかった 次に授業が始まった 先生はいきなり私に大声で怒鳴りつけた 「なんでそこに机があるんだよ!周りを見ろ!俺の立場も考えろよ!」 静かな教室の隅に机を置いた 決して「元の場所」ではない。 それでも先生は何も言わなかった。 そうか、周りの先生の目が怖かっただけか…そう理解した。 教室に入ると」、みん
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小学校生活4

小学校生活は、楽しい思い出というものは存在しなかった。運動会はビリになった私を責める父お弁当は二人…車の中で食べた。それでも唯一、父の自慢できるところは、お弁当、毎日のご飯は全て手作りだった。カップラーメンなど食べたことがなかった。家では無言か怒鳴られているか…学校では無視されてバイキン扱い。そんな小学校生活に転機が訪れた。突然の「母親」と名乗る女性から電話がきたのだ。「もしもし?誰かわかる?」と…私は、聞いたことのない声だった。「お母さんだよ」……。私はなぜか、「お母さんはもういらない」と思った。その直感を無視しなければよかったと今でも思う。私は「会いたくない」といったが、母親と名乗るその人は食い下がった。「お母さんに会いたくないの?寂しいでしょ?なんで?お母さんはこんなに会いたいのに!」と…それでも、その時の私には塾があった。それを言い訳にしたが、「5分だけでいいから」とあきらめない…。そんなやり取りをして結局会うことになった。近くのパチンコ屋さんで会うことになった、そこで母親という人は私に会うなり、抱き着いてきて号泣した。私は、ただ茫然と立っていた。感動などありえなかった。会いたいと思っていなかったからだ。それから、母親と名乗る人は毎日のように電話をしてきた。私が小学5年生のころだった…。ある日、「家にこないか」と言われた。もちろん私は断った。しかし、それで終わる相手ではない、行く、というまで電話をかけてきた。「なんで来ないの?」「お母さんが住んでるところを知りたくないの?」「来いって言ってるんだから来い!」だんだん口調も荒くなってきた。当時まだナンバーディスプレイという
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小学校生活3

…おばあちゃんが死んだ…呆然としました。なんであの時無理にでも一緒に行かなかったのか…怒られても一緒に行けばよかった…これからどうすればいい…色々考えてみたけど、私にできることも、もうしてあげれることもない。おばあちゃんの葬儀が行われた。そこには、父の兄がいた…父の兄は、結婚して県外に行ったきり、一度も家に来たことはない、私は初めて会った。夜になり、怒鳴り声がしてきたどうやら「遺産」で揉めているようだった。よくドラマでみる、あの喧嘩。子供ながら、すぐに遺産争いだ、ということはわかった。怒鳴り声とたまに聞こえてくる何かをたたく音…それにおびえながら夜を越した…。朝になると兄はもういなかった。葬儀がまだ完全に終わっていないのに、だ。それ以来、私もその兄のことが憎くなった。そして、父と二人の生活が始まった…。そもそも「父」という存在は私の中では、私の生活の中にあまり存在しない人だった。その父との生活想像もできなかった父は、祖母の死後、職を辞め、私の生活リズムに合わせれるような仕事についた。それから、毎朝、顔を合わせるようになったが、お互いがぎこちなかった。父は、私が食物に対して「苦手だ」とわかると、毎朝苦手な食べ物を出してきた。それを食べ終わるまで学校には行かなくていい、とまで言われた。ごはんが苦痛になっていったそして父は、私に対して冷たく当たるようになった。テレビも見せてもらえない夜ごはんが済んだらすぐ勉強漫画は読むななど、規則ができた。そして、父が趣味でやっているマラソンなどに強制的に連れていかれた。結果を見て怒鳴る。もちろん、学校での出来事など聞いてもらえるはずもなくだんだん自
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小学生活2

そういえば、書き忘れていました…私が保育園児のころ、祖父はガンにより逝去しました…葬儀は親戚や知らない人で溢れかえっていました。祖父は、私を「無条件」で愛してくれたと思います。葬儀やさまざまな儀式が終わり普段の生活にに戻っていきました…私と祖母と父の3人。私は小学3年生になりました。その当時、「給食袋」というのもが存在して、巾着の中に「箸、おしぼり」を各自で持ってくる制度でした。その箸を忘れてきた女の子が私に「箸忘れてきたから、だれかから借りてきて!」と頼まれたのです。うん、とは言いましたが…私に箸を貸してくれる人なんているんだろうか…そう思いながらも必死で声をかけて歩きました。なかなか見つかりません…とうとう給食時間開始のチャイムが鳴り、私は職員室に行き、担任ではない先生から箸を借りることにしたのです。借りる箸は「来客用」の箸でしたが、返す時は、給食室に返し、先生に「割りばし」を返すシステムでした。私はもちろん給食なんて食べてません…給食時間も半分過ぎていたので、走ってその子に箸を渡そう………!!…食べてる…その子は友達と笑いながら給食を食べていました。その子に箸を渡すと「遅いよ!箸をあんたが返しておいて、箸は他の人に借りたからもういらない!」と吐き捨てられました。担任の先生には「今まで何やってたの!!」と怒鳴られ私は何も言えず、自分の席に座り給食を食べ始めましたが…時間がない…急いでも食べれたのは半分以下でした…。それから何度も何度も、「命令」をされるようになりました。なぜ断れなかったのか…その理由は1つしかありせんでした嫌われたくなかったその頃には、遊んでくれる友達おろか
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小学校時代

小学校に入学する前、ランドセルやいろんなモノをそろえますよね♪ それが楽しみだったり…。 祖母は前回も話した通り、現役時代に仕事中の事故で「右手の腕」から下が切断されて義手をしていました。でも裁縫をしたり、料理はもちろん、ゲートボールに行ったり(笑) フットワークの軽い人でした。おばあちゃんが私が入学の準備をしてくれて、「給食袋」などの巾着袋を手作りしてくれました。 入学式当日… みんなは「キャラクター」がついたかわいい巾着でした。 私のは…「着物の切れ端」の巾着でした。 愕然としました。「お母さんがいないということは、こういうことなのか…」 と、茫然としている私に、ある女の子が「え!手づくり?い~な~」と言ってくれたのです。 私は「??」と思いましたが、すぐに嬉しくなりました。 もちろん帰ってから早速おばあちゃんに報告したのはいうまでもありません。 しかし、入学式を終え、学校生活に慣れてきたころ「それ」は始まりました。最初のきっかけは、今でも思い出せません。「じゃれあい」だったのかもしれません。最初は「文房具」を盗まれるとか、小さいことだった。次は…「自由時間に仲間に入れてもらえない」私は、その頃から校庭で一人で遊ぶようになった。それから徐々に…「〇〇菌」と、呼ばれるようになった。「それ」が始まるのに時間は掛からなかった。原因は、髪の毛だったかもしれない…巾着だったかもしれないけれど、それを祖母に言うことは私にはできなかった。
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保育園時代

母の代わりは、祖母が全部やってくれた。けれど、祖母には「右手」がなかった…。若いころに仕事で失ってしまったらしい…。肘から先は「義手」だった。それでも、祖母は、裁縫をしたり、料理を作ったり、普通の人と何も変わらない生活をしていた。けれど、私の髪の毛は、いつも「刈り上げ」だった。天パのせいもあると思うけど、片手じゃ髪の毛…結えませんもんね…。当時は、まだそんな気持ちまで把握することができずにいたけど。それでも祖母を私は小さいながら尊敬していた。祖父は、「ガン」で入院していた。お見舞いも、ほぼ毎日行っていたように思う。よくバスに揺られながら病院にいったことが思い出される。祖父は、私がお見舞いに行くと、すごく喜んでくれた。私は、あの時が一番幸せだったのだと思う。父は、仕事なのか、ほぼ顔を合わせることはなかった。その当時、今ではあまり見かけないけど、「ピアノ」のチラシがよく入ってきた。私は、何の気なしに「ピアノほしい!」といってみた。保育園児の無茶ぶりですね(笑)数日後…私が保育園から帰ってきた時には客間にピアノ…「あれ?これ…もしかしてピアノ習うの?」と父に聞いたところ「当たり前だろ!!」と怒鳴られてしまった。別に習うまではしたくはなかったのです。安易に買う、とかの代物ではないことはわかっていたけど…。祖母は戦後を生き抜いてきたせいか、ものすごく「ケチ」…んー…物を大切にする人だった。「食」も質素だった。保育園時代はお菓子は、せんべい🍘、バナナ🍌…飲み物は、玄米茶、麦茶、牛乳くらいしかなかった。他の同い年の話を聞いているとポテトチップスとか、駄菓子とか…オレンジジュースとか…羨ましか
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私の今までを書いていきます…

某ブログサイトにも載せていますが、私がなぜ、「メンタルケア心理士」になったか…それは必然だったのだと思います。最初の虐待今、考えると「あれがが虐待だったのか…」と、思うことを、つらつら書いていきます。私が物心ついた時には、もう母親は一緒には住んでいませんでした。なんで自分には「母親」がいないのか…3歳から育ててくれていた「おじいちゃん・おばあちゃん・お父さん」には聞けませんでした。聞いた話では私が3歳のころに「いなくなった、どこにいったんだろうね~」と、おばあちゃんは毎日、私に謝ったり、おばあちゃん自身を責めていました。私は「お母さん」がいないことに、そんなに気にしたことはなかったので、なんとなく子供心に申し訳なさがありました。私が保育園に通い始めてから、おじいちゃんが「がん」で亡くなりました。私の全てを理解してくれていたのは、おじいちゃんだったのを今になって思い出します。今日はここまでにします。
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