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『やさしさ迷惑15/100』

第15話「自分で自分を認めろ、だけでは足りない」前話:優作は、いつも笑っている桐谷の本音を初めて聞いた。近くにいる人ほど、分かったつもりになっている。その痛みを知った翌日、佐伯から“会社を辞めたいかもしれない”という話を聞くことになる。翌朝。佐伯は、いつもより早く来ていた。でも、仕事をしているようには見えなかった。PCは開いている。資料も並んでいる。なのに、佐伯の目は画面を通り越して、どこか遠くを見ていた。優作は席に荷物を置いて、少しだけ様子を見る。声をかけるべきか。そっとしておくべきか。昨日の桐谷の言葉が頭に残っていた。“笑ってる人ほど、ちゃんと聞かれていない”佐伯は笑っていない。でも、聞かれていない顔をしていた。優作は席を立った。「佐伯」佐伯の肩が小さく揺れる。「……はい」「少し話す?」佐伯は一瞬、迷った。それから、小さくうなずいた。会議室に入っても、佐伯はすぐには話さなかった。優作も急かさなかった。沈黙がある。でも、今日はそれを埋めないようにした。しばらくして、佐伯がぽつりと言った。「中村さん」「うん」「自分、この仕事、向いてないかもしれないです」優作は息を止めた。佐伯は、机の端を見つめたまま続ける。「昨日も、その前も、結局みんなに助けてもらって。任せてもらったのにズレて。確認したつもりでも足りなくて。自分が入ると、余計に手間を増やしてる気がします」「佐伯」「辞めたい、っていうか……」そこで声が少し詰まった。「ここにいていい理由が、よく分からなくなってます」その言葉は、重かった。辞めたい。向いてない。迷惑をかけている。それは単なる弱音ではなかった。自分の居場所が、静かに崩
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『やさしさ迷惑14/100』

第14話笑ってる人ほど、ちゃんと聞かれていない前話:優作は、美月から「相手のためと言いながら、相手に聞かずに決めている」と厳しく指摘された。優しさのつもりが独断になる痛みを知り、ようやく“まず聞くこと”の重さに気づき始めていた。翌日の昼休み。中村優作は、コンビニの袋を持ったまま、休憩スペースの前で足を止めた。中から、聞き慣れた声がした。桐谷ケイ。いつものように少し軽い声で、誰かと話している。「いや、大丈夫っすよ。僕そういうの慣れてるんで」笑っている。いつもの桐谷だ。でも、その笑い方が、今日は少しだけ引っかかった。優作は中に入ろうとして、止まった。相手は真壁だった。「悪いな、桐谷。中村くん、最近田辺さんの件で手いっぱいだったからさ」「全然っす。僕、便利枠なんで」「いやいや、助かってるよ」「はいはい。助かる時だけ呼ばれるやつですね」桐谷は笑っていた。真壁も笑っていた。普通なら、軽いやり取りで終わる場面だった。でも優作は、なぜか胸の奥がざわついた。便利枠。その言葉が、冗談に聞こえなかった。昼休みが終わる頃、優作は桐谷の席に行った。「桐谷」「ん?」桐谷はいつもの顔で振り向く。「さっきの、真壁さんとの話」「さっき?」「便利枠って言ってたやつ」「ああ」桐谷は笑った。「ただの冗談だよ」いつもなら、優作もそこで流していた。そうか。ならいいか。でも、昨日の美月の声が頭に残っていた。聞いてください。優作は、少しだけ息を吸う。「本当に?」桐谷の顔が、一瞬だけ止まった。本当に短い一瞬だった。でも、止まった。「何が?」「本当に、ただの冗談?」桐谷は椅子にもたれた。「優作、最近ちょっと面倒くさくなったな」
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『やさしさ迷惑13/100』

第13話「優しい人ほど、相手を見ていない」前話:優作は、美月への負担を減らすつもりで、田辺案件の追加情報を一度自分たちだけで整理しようとした。しかしそれは、美月から見れば“助ける”ではなく“外す”行為だった。謝罪は受け取られたが、美月は「明日、もう一度話しましょう」とだけ言った。翌朝。優作は、いつもより早く会社に着いた。早く来たところで、何かが解決するわけではない。それでも、じっと家にいるよりはましだった。昨日の美月の声が、何度も頭の中で戻ってくる。「それは助けるじゃなくて、私を外しただけです」何度思い返しても、胸の奥が冷たくなる。言い返した自分の声も残っていた。「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」あれは、完全に逃げだった。分かっている。でも、分かっているのと、受け止められるのは違う。優作はデスクに座り、PCを開いた。けれど、画面の文字がほとんど入ってこなかった。少しして、美月が出社してきた。「おはようございます」いつも通りの声。「……おはようございます」優作も返す。美月は自分の席にバッグを置き、PCを開いた。それだけだった。昨日までなら、少しだけ目が合ったかもしれない。今日は、合わなかった。その方が、よほどこたえた。午前十時。美月からチャットが来た。11時、会議室Bでお願いします。一行だけ。優作は画面を見つめる。承知しました。送信したあと、手のひらが少し湿っていることに気づいた。11時までの一時間が、やけに長かった。会議室B。美月はすでに座っていた。ノートPCは開いていない。資料もない。仕事の話ではある。でも、資料で片づける話ではない。優作は向かいに座った。「昨日は、
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『やさしさ迷惑8/100』

第8話「ダメだった、で終わらせるな」翌日の午後。オフィスは静かだった。静かというより、みんなそれぞれ目の前の仕事に沈んでいて、余計な声が少ない時間帯だった。中村優作は、自分の席で資料を見直していた。昨日の佐伯の件もあって、返信文の“曖昧ワード”が前より気になるようになっている。「確認します」「整理します」「改めてご連絡します」一見ちゃんとして見える言葉ほど、中身がないと怖い。最近、ようやくそれが身にしみてきた。その時だった。少し離れた席で、何かが落ちる音がした。優作が顔を上げると、佐伯がクリアファイルを床に落としていた。拾おうとして手間取って、さらに書類を散らかしている。「佐伯、大丈夫か」「……はい、大丈夫です」大丈夫じゃない声だった。優作は席を立つ。近くまで行くと、佐伯の画面に未送信のメールが開いたままになっていた。件名:お詫びと訂正優作は一瞬だけ止まる。「何かあった?」佐伯は、散らばった紙を集めながら言った。「さっき、先方に送った確認メールなんですけど……」「うん」「日付、間違えました」優作は眉を寄せる。「日付?」「打ち合わせ候補、来週の12日って送るつもりが、今週の12日で送ってて……」「……ああ」「先方、もうその日で社内押さえちゃって。でもこっちはその日、別件入ってて」佐伯の声はどんどん小さくなる。「今、先方ちょっと怒ってて。自分、確認したつもりだったんですけど……」そこで言葉が止まる。“確認したつもり”またその言葉だ。でも今の佐伯は、それを反省材料として言っているというより、ほとんど自分を殴るために使っていた。「で、今これ書いてるの?」優作が画面を指す。佐伯は小さくう
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『やさしさ迷惑29/100』

第29話大丈夫です、が一番大丈夫じゃない前話:優作は、駅前のカフェで美月の小さな迷いを見た。「相沢さんでも、迷うんですね」という一言が、美月を少し傷つけた。優作は、自分が美月を“強い人”という役割に閉じ込めていたことに気づく。そして昼、美月から届いた「大丈夫です」という言葉が、いつもとは違って見え始めていた。雨が降っていた。夕方から降り始めた雨は、退勤時間には少し強くなっていた。会社のエントランスを出たところで、優作は足を止めた。傘を開こうとした時、少し先のコンビニの前に美月が見えた。美月は、軒下に立っていた。片手にスマホ。もう片方の手に、小さな紙袋。傘は持っていない。でも表情は、いつも通りだった。困っているようには見えない。焦っているようにも見えない。ただ、雨の音の中で、静かにスマホを見ていた。優作は一瞬、声をかけるか迷った。昨日なら、たぶん迷わなかった。相沢さんなら大丈夫。そう思って、そのまま通り過ぎていたかもしれない。でも今日は、その言葉が少し怖かった。大丈夫そうに見える人が、本当に大丈夫とは限らない。優作は、ゆっくり近づいた。「相沢さん」美月が顔を上げる。「中村さん」「傘、ないんですか」「はい」「大丈夫ですか」美月は、いつもの速さで答えた。「大丈夫です」その言葉は、きれいだった。余計な揺れがなかった。だからこそ、優作には少し引っかかった。「駅まで入りますか」優作は、自分の傘を少し持ち上げた。美月は首を横に振る。「いえ、大丈夫です。少し待てば弱まると思うので」「けっこう降ってますけど」「大丈夫です」二回目だった。優作は、すぐに返事をしなかった。美月はスマホをしまおうとした
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『やさしさ迷惑28/100』

第28話強い人ってことにされるのは、少ししんどい前話:田辺案件が一区切りつき、優作たちは会社近くの居酒屋で、仕事を離れた会話の難しさを知った。黒川はクリームコロッケを頼み、佐伯は最後の唐揚げを取り、美月は「人は、役割だけでは分からないですね」と言った。会議室を出ても、コミュニケーションは続いていた。翌朝。優作は、駅前のカフェの前で足を止めた。昨日、美月から届いた言葉がまだ残っていた。人は、役割だけでは分からないですね。たしかにそうだった。黒川は、ただ冷たい人ではなかった。真壁は、雑に見えて細かく見ていた。桐谷は、軽口の奥に怖さを隠していた。佐伯は、譲る癖の奥に自分の声を置き忘れていた。そして美月は。優作は、そこで少し考えた。美月は、やっぱり美月だった。鋭い。冷静。相手のズレを見逃さない。必要なことを、必要なタイミングで言える人。そう思った時点で、優作はまだ何も分かっていなかった。カフェのガラス越しに、美月が見えた。レジの前に立っている。優作は一瞬、声をかけようとしてやめた。出社前に偶然会うのは、少し気まずい。昨日の居酒屋の余韻もある。美月はメニューを見ていた。店員が言う。「ホットですか?アイスですか?」美月は、ほんの一瞬だけ止まった。本当に、ほんの一瞬。でも優作には見えた。美月の視線が、メニューと財布とスマホの間で少しだけ迷った。次の人が後ろに並ぶ。店員がもう一度、少しだけ声をやわらげる。「ホットでよろしいですか?」「……はい。ホットで」美月はそう答えた。いつもの声だった。でも、少しだけ遅かった。商品を受け取る時、スマホを落としそうになり、すぐに持ち直す。紙袋を断ろうとして、言
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『やさしさ迷惑27/100』

第27話会議室を出たら、話し方が分からない前話:田辺案件は一区切りついた。黒川の正しさに黙り、互いに疑い、消した違和感を戻し、役割と責任を言葉にした優作たちは、少しだけチームとして前に進んだ。美月は言った。「ちゃんとチームでいるのって、たぶん毎回やり直しです」と。「今日くらい、一杯だけ行きません?」真壁がそう言ったのは、田辺案件の一区切りがついた日の帰り際だった。オフィスには、まだ少しだけ仕事の熱が残っていた。資料は通った。次の段階にも進んだ。全員、それなりに疲れている。でも、変な達成感もあった。佐伯が一番先に反応した。「え、今日ですか」「今日でしょ。こういうのは」真壁は軽く笑った。「反省会じゃなくて、ただの飯」桐谷が椅子にもたれたまま言う。「ただの飯って言う人ほど、だいたい途中で反省会になりますよ」「しないしない。今日はしない」真壁はすぐに返す。美月は資料をしまいながら、少しだけ考えていた。優作は、それを見て言った。「無理なら大丈夫です」言ったあと、少しだけ後悔した。なんだろう。断りやすくしたつもりなのに、どこか逃げ道を先に作ったような言い方になった。美月は、優作を見る。「行かないとは言っていません」「あ、はい」「ただ、仕事の話しかしないなら帰ります」桐谷が笑う。「相沢さん、それ先に釘刺すんですね」「必要なので」その言い方に、少しだけ空気が緩んだ。黒川は、すでに鞄を持っていた。「私は失礼します」当然のように言った。真壁が声をかける。「黒川さんも、駅同じ方向ですよね。十五分だけどうですか」「結構です」即答だった。桐谷がぼそっと言った。「でしょうね」黒川が振り向く。「どういう意味
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『やさしさ迷惑26/100』

第26話前に立つ人を、一人にしない前話:田辺から「御社内で誰がこの提案を最終的に推進するのか」と問われた優作たちは、役割と責任の置き場所を言葉にした。全体推進は優作。先方調整は真壁。決裁者確認は佐伯。比較軸設計は桐谷。リスク設計は美月。品質レビューは黒川。だが黒川は言った。「本当に試されるのは、誰かが詰まった時です」と。翌朝。会議室には、いつもより早く全員が集まっていた。ホワイトボードには、昨日決めた体制図が残っている。全体推進:中村先方調整:真壁決裁者・確認項目:佐伯比較軸設計:桐谷リスク設計:相沢数字・提案品質レビュー:黒川文字だけ見れば、きれいだった。役割もある。責任もある。名前もある。でも優作は分かっていた。体制図は、人を支えない。人が詰まった時に、誰かが答えを奪うのか。それとも、横に立つのか。そこで初めて、体制が本物かどうか分かる。黒川が時計を見る。「始めましょう」いつもの声だった。「今日はリハーサルです。ただし、本番と同じつもりでやってください」佐伯の指が、資料の端を強く握った。優作はそれを見た。声をかけたい。大丈夫だと言いたい。でも、言いすぎるとまた奪う。だから、短く言った。「佐伯、詰まったら一回止めていい」佐伯が顔を上げる。「止めて、いいんですか」「いい。止まったことを隠すより、止まった場所を出した方が戻しやすい」佐伯は小さく頷いた。黒川が静かに言う。「止まること自体は問題ではありません。問題は、止まったことを隠したまま進めることです」その言葉に、佐伯の表情がほんの少し変わった。黒川の言葉は、まだ硬い。でも今日は、ただ切るだけではなかった。リハーサルが始まった。
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『やさしさ迷惑25/100』

第25話 「みんなで責任を持つ」が、一番あぶない前話:優作は、先方打ち合わせで自分の判断理由を問われた。一度は「チームで検討した結果」と逃げかけたが、言い直し、自分の言葉で説明した。判断は通ったが、田辺から次に問われたのは「御社内で誰がこの提案を最終的に推進するのか」だった。翌朝。優作は、田辺からのメールを何度も読み返していた。次回は、御社内で誰がこの提案を最終的に推進するのかも確認させてください。誰が前に立ち、誰が支え、誰が最後に説明するのか。田辺が聞いているのは、資料ではない。このチームの背骨だった。優作は、画面を見たまま動けなかった。その時、黒川が会議室のドアを開けた。「始めましょう」いつもの声だった。冷静で、無駄がない。会議室には、佐伯、真壁、桐谷、美月、黒川、そして優作がいた。黒川は田辺からのメールを画面に映す。「今日決めるのは、この一点です」画面の文字が、全員の前に出る。誰がこの提案を最終的に推進するのか。黒川は言った。「先方は、資料の中身だけではなく、御社側の推進体制を見ています」真壁が小さく頷く。「まあ、当然ですよね」桐谷は黙っている。佐伯は資料に目を落としている。美月は、全員の反応を見ていた。黒川は続けた。「曖昧な体制は、先方から見ると不安材料です。今日は、推進責任者を決めてください」推進責任者。その言葉が、会議室に落ちた。真壁が最初に口を開いた。「先方窓口は、俺が持ちます」それは自然だった。田辺とのやり取りは、ずっと真壁が担ってきた。でも黒川はすぐに聞いた。「窓口と推進責任者は同じですか」真壁の言葉が止まる。「……同じ、とは限らないですね」「では、真壁さんは
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『やさしさ迷惑21/100』

第21話合意じゃなくて、降参だった前話:黒川の正論が入ったことで、チームの日常会話は少しずつ歪み始めた。佐伯は優作に聞けなくなり、真壁は桐谷の皮肉に傷つき、桐谷はまた便利枠に戻される不安を抱えた。優作は、誰も傷つけない言葉を選ぼうとして、結局誰にも届かない言葉を選んでしまった。翌朝。佐伯と目が合ったのに、そらされた。たったそれだけのことが、優作の胸に残っていた。大きな喧嘩をしたわけじゃない。怒鳴られたわけでもない。拒絶されたわけでもない。でも、目をそらされた。その一瞬だけで、昨日まで積み上げてきたものが少し崩れた気がした。優作は席に座り、PCを開く。画面には田辺案件の資料が並んでいる。資料は進んでいる。スケジュールも守れている。黒川が入ってから、判断は明らかに速くなった。でも、優作の中にはずっとひっかかっているものがあった。速くなった代わりに、誰かの言葉が少しずつ削られている。そんな感覚だった。十時。田辺案件の進行確認が始まった。黒川は、いつものように無駄なく話し始めた。「今日は長くしません。各自の提出物を確認し、午後三時までに初版を固めます」誰も反応しない。黒川は資料を画面に映す。「佐伯さんは、確認項目を三つに絞る。真壁さんは、先方に出す前提条件を整理する。桐谷さんは、補足資料の数字を整える。相沢さんは、最後にリスク表現を見る。中村さんは全体文面をまとめる」整っている。誰が何をやるかも明確だった。以前なら、この明確さに救われていたかもしれない。でも今日は、その整い方が少し怖かった。黒川は続ける。「各自、自分の担当範囲で判断してください。細かい確認で止めないこと。迷った場合は、
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『やさしさ迷惑19/100』

第19話正しい人ほど、言葉が冷たい前話:優作は、承認が人を立ち上がらせる一方で、渡し方を間違えると期待という重荷になることを知った。佐伯、美月、真壁。それぞれの心のコップに向き合いながら、チームは少しずつ、互いを見ようとする空気を取り戻し始めていた。翌朝。オフィスには、少し穏やかな空気が流れていた。佐伯は、田辺案件の確認項目を自分で整理し、最初の段階で優作に見せに来た。「中村さん、ここだけ先に見てもらっていいですか」「もちろん」以前の佐伯なら、全部が崩れそうになるまで抱えていた。でも今は違う。止まる前に、見せる。迷ったら、言葉にする。それは小さな変化だった。でも、確かな変化だった。真壁も変わっていた。「桐谷、今日中に全部じゃなくて、先方に確認する論点だけ一緒に見てほしい。十五分でいい」桐谷が少し驚いた顔をする。「お、具体的」「うるさい。練習中だよ」真壁は照れくさそうに笑った。美月の席に集まりすぎていた確認依頼も、少しずつ分散されている。完璧ではない。それでも、前よりずっといい。優作は、その空気を見ながら思った。少しずつ、チームになってきている。そう感じた。その時だった。部長が会議室から顔を出した。「田辺案件の件で、十時から一度集まってくれ。今日から一人、入ってもらう」真壁が顔を上げる。「一人?」「黒川だ」その名前を聞いた瞬間、桐谷の眉が少しだけ動いた。「黒川さん、来るんですか」「そうだ。数字面と提案の詰めを見てもらう」美月は何も言わなかった。ただ、資料を閉じる手が、少しだけゆっくりになった。優作は、その反応に気づいた。「相沢さん、黒川さんって……?」美月は短く答えた。「仕事はで
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『やさしさ迷惑18/100』

第18話大丈夫、が怖くなる日前話:優作は、真壁の“名前の残らない仕事”に気づいた。成果の裏にある調整や焦りを見えるようにしたことで、真壁は少しだけ救われた。そして優作は、承認が人の心のコップに水を注ぐことを知り始めていた。翌朝。オフィスの空気は、少しだけ明るかった。田辺案件は大きく崩れずに進んでいる。美月に集中していた仕事も、少しずつ分散されている。真壁の依頼も、前より言葉が具体的になってきた。そして佐伯は、昨日より少しだけ背筋が伸びていた。優作は、その様子を見て少しほっとした。佐伯は最近、本当によく踏ん張っている。田辺さんへの一次対応。資料の粒度確認。想定外の質問への返し。ミスの戻し方。一つ一つは小さい。でも、少し前の佐伯なら止まっていた場面で、ちゃんと動いている。その時、真壁が佐伯の席に来た。「佐伯くん、昨日の確認項目、よかったよ」佐伯が顔を上げる。「ありがとうございます」「もう田辺さん対応、佐伯くんでもいけるんじゃない?」真壁は軽く言った。悪気はない。むしろ褒めている。桐谷も横から乗る。「たしかに。佐伯、最近かなり仕上がってきたな」佐伯は少しだけ笑った。「いや、まだ全然です」「またまた」真壁が笑う。「中村くんもそう思うだろ?」優作は佐伯を見る。佐伯の表情は、少し照れているように見えた。だから優作も、自然に言った。「うん。佐伯なら大丈夫だと思います」その瞬間、佐伯の笑顔がほんの少しだけ固まった。ほんの少し。たぶん、誰も気づかないくらい。でも、美月だけが顔を上げた。午前中。佐伯は、田辺への返信文を作っていた。いつもなら一度、優作に見せにくる。でも今日は来ない。優作は気になりな
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『やさしさ迷惑17/100』

第17話名前の残らない仕事前話:優作は、美月の心のコップが空になっていることに気づいた。頼られることと満たされることは違う。能力ではなく、その人自身を見ることの大切さを知り、チームで美月に集まりすぎていた仕事を分け始めた。翌朝。オフィスの空気は、少しだけ変わっていた。美月の席に集まっていた確認依頼は、昨日より明らかに減っている。佐伯の資料は、まず優作が見る。真壁のメールは、桐谷が一次確認する。田辺案件は、美月が最後だけ確認する。完璧ではない。でも、少しだけ分散されていた。優作は、それを見て少し安心していた。その時だった。部長の声が、フロアに響いた。「昨日の田辺さんの件、うまくまとまったな。相沢さんと中村くん、助かったよ」優作は一瞬、顔を上げた。部長は続ける。「佐伯くんも頑張ってたな。あの流れなら次もいけそうだ」佐伯が少し照れたように頭を下げる。美月も静かに会釈する。優作も「ありがとうございます」と返した。その横で、真壁が笑っていた。いつも通りの顔で。「いやー、ほんと助かりましたよ。みんな優秀で」軽い声だった。でも優作は、何かが引っかかった。真壁はその場にいた。田辺さんとの間に入り、先方からの要望を拾い、社内で投げ先を探し、資料の締切を調整していた。でも、部長の言葉の中に、真壁の名前はなかった。誰も気づいていないようだった。真壁本人も、笑って流していた。ただ、その笑い方が、昨日の桐谷に少し似ていた。昼前。真壁が桐谷の席に来た。「桐谷、悪い。これ今日中に軽く見られる?」桐谷が顔を上げる。「また“軽く”ですか」「いや、今回は本当に軽く」優作は、その言葉に反応した。真壁の手元には、先方
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『やさしさ迷惑16/100』

第16話「相沢さんなら、大丈夫」の残酷さ前話:優作は、辞めたいほど追い詰められていた佐伯に、自己承認だけでは満たせない心のコップがあることを知る。人は「あなたがいて助かった」という他者からの承認で、ようやく立ち上がれることがあると学んだ。翌朝。美月は、いつも通りだった。誰より早く出社して、誰より先に資料を開き、誰より淡々と、今日のタスクをさばいている。電話に出る。チャットに返す。佐伯の資料に赤を入れる。真壁の曖昧な依頼を一言で整える。「真壁さん、それ“軽く”ではなく、先方確認用ですよね」「……はい、そうです」「なら、目的を先に書いてください」「了解です」いつも通り。正確で、早くて、隙がない。優作は、少し離れた席からその様子を見ていた。昨日の佐伯のことが、まだ頭に残っている。心のコップ。自分で満たせるのは三割くらい。残りは、人からの言葉で少しずつ満たされる。そのことを思い出しながら、美月を見る。相沢さんは、どうなんだろう。そんなことを考えた自分に、優作は少し驚いた。相沢美月に、心のコップなんて言葉は似合わない気がした。いつも満たされているとか、強いとか、そういうことではない。ただ、あの人は自分で水を入れる側に見えた。誰かに入れてもらう人ではなく、誰かの空っぽに気づく人。そう思っていた。その時、佐伯の席から小さな声が上がった。「あ……」美月がすぐ反応する。「どうしました?」「すみません。田辺さん向けの確認資料、添付ファイル名を古いままで保存してました」佐伯は青くなる。「送る前です。まだ送ってません」「なら大丈夫です」美月はすぐに立ち上がり、佐伯の画面を確認する。「ファイル名だけ直せ
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『やさしさ迷惑12/100』

第12話「それ、優しさじゃないです」前話:優作は、佐伯に任せた仕事でズレが起きた時、佐伯だけを前に出さず、“任せた側の責任”として立った。美月からは「仕事の話です、たぶん」とメッセージが届いた。翌朝。優作は、出社してすぐに美月のメッセージを思い出していた。明日、少しだけ時間ありますか仕事の話ですたぶんたぶん。仕事では危ない言葉だ。なのに、美月が使うと、なぜか少しだけ意味が変わる。いや、変わってほしいと思っているだけかもしれない。優作は自分の席に座りながら、そんなことを考えていた。その時、チャットが鳴った。送り主は真壁。昨日の田辺さんの件、追加で先方から一点来てる。相沢さんにまだ共有しないで、先に中村くんと整理したい。優作は画面を見つめた。相沢さんにまだ共有しないで。その一文に、少し引っかかった。数分後、真壁が優作の席に来た。「悪い、ちょっといい?」「はい」真壁は小声で言った。「田辺さんから、次回資料の中で“リスク部分をもう少し強めに出してほしい”って来てて」「それ、美月さんにも共有した方がよくないですか」「いや、相沢さん、今日かなり詰まってるだろ。今入れるとまた全部見直しになるから、一回こっちで整理してからでいいと思うんだよ」優作は美月の席を見た。確かに、美月は朝から別件に追われている。電話、チャット、資料確認。ずっと手が止まっていない。真壁は続ける。「中村くん、昨日から流れ分かってるしさ。相沢さんに負担かける前に、まず俺たちで叩き台作ろう」その言い方は、少しだけ優しく聞こえた。美月に負担をかけない。一度整理してから渡す。悪くない気がした。優作は迷った。本当は、すぐ共有した方が
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『やさしさ迷惑11/100』

第11話「任せたのは、誰ですか」前話:優作は、佐伯に田辺案件の一次対応を任せた。口を出したくなる自分を抑え、佐伯が自分の言葉で立つのを見届けた。美月には「任せる側も、練習です」と言われた。翌朝。優作が出社すると、佐伯の席の周りだけ空気が重かった。佐伯は画面を見たまま固まっている。真壁は腕を組み、珍しく笑っていない。美月も、少し離れた席からこちらを見ていた。「……何かありました?」優作が声をかけると、真壁が低い声で言った。「田辺さんの件、ちょっとまずい」優作の背中が固まる。「まずい、って」佐伯が小さく口を開く。「昨日、僕が確認した内容なんですけど……」声が震えていた。「次回までに整理する資料の粒度を、“概要レベルで大丈夫”って受け取ってしまって」「うん」「でも、今朝田辺さんからメールが来て……」佐伯は画面をこちらに向けた。昨日の確認では、役員説明に使える程度の粒度でお願いした認識でした。概要のみですと社内説明に不足する可能性があります。優作はメールを読んで、息を止めた。ズレている。大きなズレではない。でも、昨日せっかく戻しかけた信頼を、また少し揺らすには十分だった。真壁が言う。「佐伯くん、そこ確認したんだよね?」佐伯の肩が小さく跳ねる。「はい……確認したつもりでした」“確認したつもり”その言葉は、もう何度も聞いてきた。でも今日は、いつもより痛い。なぜなら今回は、佐伯に任せたのは優作だからだ。真壁はため息をついた。「だから言ったんだよ。田辺さんの件はまだ佐伯くんには早いって」優作の胸に、嫌な熱が走った。言った?いつ?真壁は続ける。「中村くんが見てたんだよね?」「はい」「じゃあ、なん
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『やさしさ迷惑10/100』

第10話「任せる」は、手を離すことじゃない前話:優作は、真壁からの無理な依頼に対して、相手を責めず、自分も潰さずに「できること」と「できないこと」を伝えた。少しずつ、“優しさで飲み込む”以外の関わり方を覚え始めていた。翌朝。中村優作は、佐伯の様子がおかしいことに気づいた。いつも静かな後輩ではある。でも今日の静かさは、少し違う。画面を見ているのに、目が泳いでいる。キーボードに手を置いているのに、指が動いていない。「佐伯」「……はい」「何かあった?」佐伯は一度口を開いて、すぐ閉じた。「大丈夫です」大丈夫じゃない時の、一番分かりやすい言い方だった。優作は椅子を引いて立ち上がる。「ちょっと話すか」佐伯は小さくうなずいた。会議室に入ると、佐伯はしばらく黙っていた。「今日の午後、田辺さんの件で、追加確認があるじゃないですか」「ああ」「あれ、相沢さんから“佐伯くんが一次対応してみて”って言われました」優作は少し驚いた。田辺の案件。4話から6話にかけて、認識ズレでかなり苦い思いをした、あの案件だ。「あの件を、佐伯が?」「はい」佐伯は視線を落とす。「でも、怖いです。またズレたらどうしようって。中村さんなら流れ分かってるじゃないですか」その言葉で、優作は何を言われたいのか分かった。代わってほしい。そう言っているわけではない。でも、そういう顔だった。怖い。失敗したくない。だから、分かっている人に前に出てほしい。その気持ちは、少し前の優作にも痛いほど分かった。会議室のドアがノックされた。美月だった。「入ってもいいですか」「はい」美月は佐伯を見る。「佐伯くん。無理にやらせたいわけじゃありません」佐伯は硬
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『やさしさ迷惑9/100』

第9話「それは、できません」と言えますか?朝から、真壁の声は少し大きかった。「いや、だから今日中に一回出したいんだよ」電話越しの相手に、真壁は笑いながら言っている。笑っているのに、少しだけ圧がある。中村優作は、自分の席で資料を見ながら、その声を聞いていた。嫌な予感がする時の真壁は、たいてい語尾が軽い。「ちょっとだけ」「ざっくりで」「一回だけ」その軽さの中に、だいたい重たいものが入っている。電話を終えた真壁が、優作の席にやってきた。「中村くん、悪い」きた。優作は心の中で小さく身構える。「何ですか」「今日の夕方までに、例の提案資料、軽く整えられる?」「例の、ってどの件ですか」「昨日話した新規開拓のやつ」優作は画面の予定表を見る。午前は社内会議。午後は佐伯の資料確認。夕方には別件の提出。軽く整える余白は、たぶんない。「今日中、ですか」「うん。そんなに重くなくていいから。見た目だけ」“見た目だけ”その言葉が、また少し危ない匂いを出す。優作は一度、口を開きかけた。分かりました。いつもの言葉が、喉まで来た。でも、そこで止まった。最近の自分は、これで何度も仕事を増やしてきた。曖昧に受けて、あとから膨らんで、勝手に苦しくなって、それでも相手には「大丈夫です」と言ってしまう。真壁は悪気なく待っている。「どう?」優作は少しだけ息を吸った。「すみません。今日中にはできません」言った瞬間、周りの音が少しだけ遠くなった気がした。真壁の眉が上がる。「え、無理?」「はい。今日の予定だと、夕方までに“見た目だけ”でも整える時間は取れないです」言いながら、優作の心臓はかなり速い。断った。今、断った。でも、言い方
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『やさしさ迷惑7/100』

第7話「今の、それ反則です」翌週の月曜、朝。案件の山を一つ越えたはずなのに、オフィスの空気は相変わらず落ち着かない。電話は鳴るし、チャットは光るし、誰かの「ちょっといいですか」があちこちで飛んでいる。中村優作は、席に座るなり佐伯からのメッセージを開いた。中村さん、すみません。「一回整理してから返す」と言われたんですけど、あれ、どのくらい待っていい整理なんでしょうか優作は画面を見たまま、少しだけ笑う。「……また始まったな」「何がですか」斜め前から、美月の声が飛んでくる。「いや、曖昧ワード案件です」「どれですか」優作はチャットをそのまま転送した。数秒後、美月の返信が来る。“一回整理”の長さが人によって違いますねたしかにそうだ。“ちょっとだけ”も、“迷ったら聞いて”も、“たぶん大丈夫”も、だいたい人によって違う。優作は佐伯に返した。「整理してから」が今日中なのか、明日でもいいのか確認していいよ。それと、何を整理するつもりかも聞いて大丈夫送信したあとで、自分でも少しだけ不思議になる。前なら、ここまで細かく返していなかった。「中村さん」美月が呼ぶ。「はい」「今の、悪くなかったです」優作は手を止めた。「……あ、どうも」たぶん、こういう一言にまだ弱い。というか、かなり弱い。その様子を見ていた桐谷が、通りすがりにぼそっと言う。「今日も機嫌いいな」「うるさい」「分かりやす」「分かりやすくない」「いや、かなり」朝からうるさい。でも否定しきれないのが少し悔しい。昼前。真壁が、また別件で優作の席にやってきた。「中村くん、悪い。先方への返信、これでいけると思う?」そう言って見せられたメール文面には、こう
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『やさしさ迷惑6/100』

第6話「確認します」と言える人14時の五分前。会議室の空気は、静かなのに落ち着かなかった。資料は一応そろった。新規案、比較表、社内説明用の要約、参考事例一枚。そろっただけだ。完璧とは、とても言えない。中村優作はノートPCの画面を見ながら、指先を一度だけ握る。隣では美月が最後のページを確認していた。真壁はいつもより口数が少ない。後ろから、桐谷が低い声で言う。「優作」「……ん?」「完璧にやるより、今日は逃げない方が大事だぞ」優作は少しだけ息を止めたあと、苦笑した。「そういう時だけ、いいこと言うな」「そういう時しか言わないからな」冗談のはずなのに、少しだけ救われた。モニターに、田辺の顔が映る。その横に、役員らしい男性が一人。画面越しでも、空気が少し固い。「本日はお時間ありがとうございます」優作が頭を下げる。田辺は短く会釈したあと、淡々と口を開いた。『こちらこそ、再提案のご準備ありがとうございます。今日は内容を見る前に、一点だけ先に確認したいと思っています』会議室の空気が張る。『昨日から今日にかけて認識のズレがありました。その点について、御社としてはどの段階でズレたと見ていらっしゃるか、先に伺えますか』責める声ではなかった。でも、逃がす声でもなかった。真壁が口を開きかける。その前に、優作が言った。「……すみません。そこは僕から話します」自分の声が、少し乾いて聞こえた。田辺がこちらを見る。美月は何も言わない。でも、横で資料を閉じる音がした。優作は一度だけ息を吸った。「今回ズレたのは、資料の作り方より前でした。最初に、“新規リリース起点の提案”なのか、“既存施策の延長整理”なのか、そこを確
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『やさしさ迷惑20/100』

第20話誰も悪くないのに、信じられなくなる前話:黒川恒一郎が田辺案件に加わった。彼の言葉は正しく、的確だった。しかし、その正しさの後にチームの会話は少しずつ細くなった。佐伯は聞きに来なくなり、真壁は軽口を失い、優作は自分たちのやり方が甘かったのかもしれないと揺れ始めていた。翌朝。オフィスは、いつも通りに見えた。佐伯は自分の席で資料を開いている。真壁は先方との調整メモを見ている。桐谷はコーヒーを片手に画面を眺めている。美月は、誰より早く今日のタスクを整理していた。音だけ聞けば、昨日までと変わらない。キーボードの音。電話の呼び出し音。椅子を引く音。でも、何かが違った。誰も、雑談をしない。真壁の「ちょっとだけ」がない。桐谷の軽口がない。佐伯の「中村さん、少し見てもらっていいですか」がない。優作は、その静けさを見ていた。集中しているようにも見える。でも、違う。これは、たぶん集中じゃない。言葉を出す前に、みんなが一度飲み込んでいる。そんな静けさだった。十時。田辺案件の確認会議が始まった。黒川も同席している。黒川は前回と同じように、淡々としていた。「今日は、役割と責任範囲を明確にしましょう」誰も反対しなかった。黒川はホワイトボードに書いた。・先方調整・資料構成・確認項目・リスク整理・最終判断「このチームは、確認は丁寧です。そこは強みだと思います」一瞬、空気が少しだけ緩みかけた。だが黒川は続けた。「ただ、誰が最終責任を持つのかが曖昧です」その一言で、空気がまた固まった。黒川は責めていない。怒ってもいない。ただ、事実を言っている。でもその事実は、それぞれの胸に違う形で刺さった。佐伯は、うつむい
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コミュニケーション研修『あるある通信⑧』~やさしさ迷惑8/100より~

『ダメだった、で終わらせるな』佐伯:「日付、間違えました……」優作:「うん。それはそう」佐伯:「自分、確認したつもりだったんですけど……」気づきミスした時、人はまず“自分がダメだった”で止まりやすい。でも、そこで止まると見えるのは自分の失敗だけで、相手の混乱をどう戻すかが見えなくなる。優作:「今お前、自分のミスをどうにかしようとしてるんじゃなくて、自分を罰しようとしてるだろ」佐伯:「……」優作:「今必要なのは、お前が落ち込むことじゃなくて、相手の混乱を減らすことだろ」あるある本当に終わるのは、ミスした時じゃない。“自分がダメだった”しか見えなくなった時。謝るのは必要。でも、その次に必要なのは✔ 何が起きたか✔ どう戻すか✔ 次にどう動くかここまで言葉にすること。美月:「“ミスしました”だけじゃなくて、“だからこうします”が入ったので」学び人は、正しいことを言われても、追い詰められている時は入らない。でも、失敗の見方が変わると、次の行動が見える。
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『やさしさ迷惑4/100』

第4話「たぶん大丈夫」が、いちばん危ない翌朝のオフィスは、いつもより少しだけ張っていた。空気が静かなわけじゃない。むしろ電話は鳴っているし、誰かが急ぎ足で会議室を行き来している。でもその慌ただしさの中に、まだ言葉になっていない“嫌な予感”みたいなものが混ざっていた。中村優作は、朝一番のコーヒーを机に置きながら、自分の受信トレイを開いた。未読が12件。そのうち一番上にあったメールの件名で、手が止まる。【至急確認】本日14時ご提案資料について差出人は、昨日話していた先方企業の担当者だった。優作はメールを開く。昨日お送りいただいたたたき台を社内共有したところ、想定していた提案内容と少し認識の違いがあるようでした。本日14時のお打ち合わせ前に、一度認識合わせのお時間をいただけますでしょうか。優作は、二回読んだ。“少し認識の違いがあるようでした。”この言い方の時は、だいたい“少し”じゃない。「……うわ」思わず声が漏れた。「何」斜め前から、美月の声が飛んできた。優作が顔を上げると、相沢美月はすでにPCを開いていた。まだ朝なのに、もう一日の半分くらい終えていそうな顔をしている。「先方からです。昨日送った資料、認識ズレてるっぽくて」美月は椅子を少しだけ引いて、手を止めた。「どの案件ですか」「東洋メディアさんの件です」その瞬間、美月の視線が少しだけ鋭くなる。「昨日、真壁さん経由で来たやつですか」「……はい」「誰が最終確認したんですか」優作は答える前に、一瞬だけ考えた。昨日の夕方。真壁から電話が来て、“ざっくりでいいから方向性だけ合わせたい”と言われた。その場で話して、優作がメモして、夜のうちに軽
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やさしさ迷惑2/100

第2話「ちょっとだけ」が、一番長い午後のオフィスは、少しだけ慌ただしかった。キーボードの音が増えて、電話の声も少しだけ大きくなる。中村優作は、画面のチャットを見つめていた。『中村くん、悪い。例の案件、ちょっとだけ見といてもらっていい?』『たぶんすぐ終わるから!』優作はさっき送った自分の返信を見返す。了解です(……まあ、すぐ終わるって言ってたし)そう思って、資料を開いた。──10分後。(……いや、これ“ちょっと”じゃないだろ)スライドは30枚近くある。しかも、内容はほぼ初見だ。「優作」後ろから声が飛んできた。振り向くと、桐谷ケイ(同期)が腕を組んで立っている。「それ、“ちょっとだけ”じゃない顔してるぞ」「……いや、まあ」優作は苦笑いした。「でも、頼まれたし」桐谷はため息をつく。「お前さ、“頼まれたし”で全部受けるの、そろそろやめろよ」「いやでも、先輩だし」「それ、断れない理由になってないからな」優作は何も言えなかった。30分後。優作はまだその資料を見ていた。自分の仕事は、止まったままだ。そこへ、美月(1つ先輩)が通りかかる。「中村さん」「……はい」「さっきの件、終わりました?」優作は一瞬言葉に詰まる。「……まだです」美月は、優作の画面をちらっと見る。「それ、別件ですよね」「……はい」「“ちょっとだけ”ですか?」優作は苦笑いした。「まあ……そんな感じで」美月は少しだけ沈黙してから言った。「それ、“ちょっとだけ”って言った人は、どこまでやってほしいか言ってます?」「いや……そこまでは」「じゃあ、それ中村さんが勝手に膨らませてます」優作は固まる。「え?」「“見といて”って、どこまでです
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『やさしさ迷惑3/100』

第3話「迷ったら聞いて」は、だいたい聞けない午後四時を少し過ぎたころだった。オフィスの空気は、朝より少しだけ重い。集中している人と、疲れている人が半々くらいの時間帯。中村優作の画面に、佐伯からのチャットが残っていた。『中村さん、すみません。さっきの資料、“迷ったら聞いて”って言われたんですけど……どのタイミングで聞いていいか、迷ってます』優作はその文章を、二回読んだ。(……たしかに)言った。自分で言った。“迷ったら聞いて”その時は、ちゃんとフォローしたつもりだった。でも今こうして見ると、それは答えになっていない気がした。“迷ったら”って、いつだ。“聞いて”って、どこまでだ。優作は椅子の背にもたれたまま、少し考える。その様子を、向かいの席から桐谷ケイが見ていた。「また止まってんな」「……いや」優作は苦笑いした。「佐伯に“迷ったら聞いて”って言ったんだけどさ」「うん」「その“迷ったら”が曖昧だったっぽい」桐谷は一瞬だけ黙って、それから笑った。「そりゃそうだろ」「そんな即答ある?」「あるよ。だって“相談していいよ”って、言われた側はだいたい困るもん」優作は眉を寄せる。「なんで?」「聞いて怒られないか、邪魔じゃないか、今じゃないか、そこまで自分で考えろって意味じゃないか」桐谷は指を折りながら言った。「聞く側って、そのへん全部考えてるぞ」優作は何も言えなかった。その時、美月が会議室から戻ってきた。資料の束を机に置いて、優作の顔を見る。「どうしました」「いや、佐伯に“迷ったら聞いて”って言ったんですけど」「はい」「どのタイミングで聞いていいかわからないって言われて」美月は一拍置いた。「それ
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コミュニケーション研修『あるある通信⑤』 ~やさしさ迷惑第2話より~

真壁:「ちょっとだけ見といてもらっていい?」優作:「了解です」──30分後優作:(……これ“ちょっと”じゃないだろ)気づきこれはやさしさと遠慮が生む“膨張ゾーン”。美月:「“見といて”って、どこまでですか?」桐谷:「“頼まれたし”で全部受けるのやめろよ」人は✔ 頼まれると断りにくい✔ 範囲が曖昧だと広めにやる✔ 迷うくらいなら“やりすぎる”結果、👉頼んだ側の「ちょっと」👉受けた側の「全部」ここにズレが生まれる。あるある“ちょっとだけ”は、だいたい長い。任せるなら✔ どこまでやるか(範囲)✔ 何を見るか(視点)✔ どこで止めるか(終点)これを渡さないと、仕事は勝手に膨らむ。それではいってらっしゃい(^^♪
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