『やさしさ迷惑29/100』

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学び
第29話
大丈夫です、が一番大丈夫じゃない

前話:優作は、駅前のカフェで美月の小さな迷いを見た。「相沢さんでも、迷うんですね」という一言が、美月を少し傷つけた。優作は、自分が美月を“強い人”という役割に閉じ込めていたことに気づく。そして昼、美月から届いた「大丈夫です」という言葉が、いつもとは違って見え始めていた。

雨が降っていた。

夕方から降り始めた雨は、退勤時間には少し強くなっていた。

会社のエントランスを出たところで、優作は足を止めた。

傘を開こうとした時、少し先のコンビニの前に美月が見えた。

美月は、軒下に立っていた。

片手にスマホ。

もう片方の手に、小さな紙袋。

傘は持っていない。

でも表情は、いつも通りだった。

困っているようには見えない。

焦っているようにも見えない。

ただ、雨の音の中で、静かにスマホを見ていた。

優作は一瞬、声をかけるか迷った。

昨日なら、たぶん迷わなかった。

相沢さんなら大丈夫。

そう思って、そのまま通り過ぎていたかもしれない。

でも今日は、その言葉が少し怖かった。

大丈夫そうに見える人が、本当に大丈夫とは限らない。

優作は、ゆっくり近づいた。

「相沢さん」

美月が顔を上げる。

「中村さん」

「傘、ないんですか」

「はい」

「大丈夫ですか」

美月は、いつもの速さで答えた。

「大丈夫です」

その言葉は、きれいだった。

余計な揺れがなかった。

だからこそ、優作には少し引っかかった。

「駅まで入りますか」

優作は、自分の傘を少し持ち上げた。

美月は首を横に振る。

「いえ、大丈夫です。少し待てば弱まると思うので」

「けっこう降ってますけど」

「大丈夫です」

二回目だった。

優作は、すぐに返事をしなかった。

美月はスマホをしまおうとした。

その時、手元が少しだけ乱れた。

スマホが紙袋に当たり、中からレシートが一枚落ちる。

美月はそれを拾おうとして、ほんの少し遅れた。

本当に、ほんの少し。

でも優作には見えた。

昨日のカフェと同じだった。

声は大丈夫。

表情も大丈夫。

でも、動きが少しだけ追いついていない。

優作はレシートを拾って、美月に渡した。

「ありがとうございます」

「いえ」

美月はすぐに紙袋へしまった。

その動作は丁寧だった。

いつも通りに戻すみたいに。

何もなかったことにするみたいに。

「相沢さん」

「はい」

優作は言いかけて、止まった。

何かありましたか?

そう聞こうとした。

でも、それは違う気がした。

聞けば答えてくれるかもしれない。

でも、答えさせてしまうかもしれない。

優作は、言葉を選び直した。

「大丈夫じゃないなら、僕が勝手に少しだけ隣にいます」

美月が、少しだけ止まった。

雨の音が強くなる。

車が道路の水を跳ねる。

美月は、優作を見た。

「中村さん」

「はい」

「そういう言い方、ずるいです」

優作はすぐに謝りかけた。

でも、飲み込んだ。

「ずるいですか」

「はい」

「すみません」

「謝られると、こっちが悪いみたいになります」

優作は黙った。

すぐ謝る。

すぐ引く。

すぐ自分を小さくする。

それもまた、相手に気を使わせることがある。

美月はそう言っているのだと思った。

美月は、軒下から雨を見た。

「大丈夫って言えば、だいたいの人は安心してくれるので」

優作は、その言葉を聞いて息を止めた。

軽く言ったように見えた。

でも、軽い言葉ではなかった。

「僕は、安心していいんですか」

美月が、少しだけ目をそらす。

「……そこを聞くの、ずるいです」

「二回目です」

「はい」

「じゃあ、聞き方を変えます」

美月は答えなかった。

優作は、傘の柄を握り直した。

「安心してほしいから、大丈夫って言いましたか」

美月は黙った。

沈黙が落ちた。

でも、今度の沈黙は怖くなかった。

答えを急がないための沈黙だった。

美月は、ゆっくり息を吐いた。

「たぶん、そうです」

優作は頷いた。

「そうですか」

「それ以上、聞かないんですか」

「聞いてほしいんですか」

美月は、少しだけ困った顔をした。

「そういうところです」

「すみません」

「三回目です」

「はい」

美月は小さく笑った。

でも、その笑いはすぐに消えた。

「話したいわけじゃないです」

「はい」

「でも、何もないことにされるのも、少し嫌です」

優作は、ようやく分かった気がした。

聞き出してほしいわけではない。

放っておいてほしいわけでもない。

大丈夫という言葉の奥に、矛盾した気持ちがある。

触れてほしくない。

でも、気づかれないのも苦しい。

“大丈夫です”は、安心させる言葉じゃない。

これ以上踏み込まないでください、という防御の時がある。

優作は、美月の横に立った。

傘はまだ開かなかった。

ただ、同じ雨を見た。

「何か買ってきます」

優作は言った。

美月がこちらを見る。

「え?」

「温かいお茶とか」

「いりません」

「・・ですよね」

「じゃあ、なぜ言ったんですか?」

「何かしたくなったので」

美月は、少し呆れた顔をした。

「中村さん」

「はい」

「何かしたくなる時ほど、何もしない方がいい時があります」

その言葉が刺さった。

優しさのつもりで動く。

でも、その動きが相手に返事を求める。

受け取るか。

断るか。

気を使うか。

笑うか。

何かをしようとした瞬間、相手にまた負荷を渡すことがある。

優作は、小さく頷いた。

「分かりました」

「本当に分かりました?」

「たぶん、半分くらいです」

「正直ですね」

「昨日、雑に分かった気になるなと言われたので」

美月は少しだけ口元をゆるめた。

「それは、覚えていたんですね」

「刺さったので」

「なら、よかったです」

雨はまだ止まなかった。

コンビニの自動ドアが開くたび、明るい音がした。

高校生が笑いながら出ていく。

スーツ姿の男性が傘を忘れて戻ってくる。

傘立ての中で、ビニール傘が少し揺れる。

美月は、その様子を黙って見ていた。

優作も黙っていた。

しばらくして、美月が言った。

「今日、少し疲れました」

優作は、美月を見なかった。

見すぎると、また珍しいものを見た顔になる気がした。

「はい」

「それだけです」

「はい」

「理由を聞かれるほどのことでもないです」

「分かりました」

「でも」

美月は、小さく言った。

「大丈夫って言うほど、大丈夫ではなかったです」

優作は、傘の柄を握ったまま頷いた。

「はい」

それ以上、言わなかった。

言えば、何かを壊す気がした。

大丈夫な人ほど、大丈夫と言わない。

大丈夫じゃない顔を見せられない人ほど、先に大丈夫と言う。

優作は、昨日の昼のメッセージを思い出した。

今朝の件、気にしすぎなくて大丈夫です。

あの時の美月は、本当に気にしなくてよかったのか。

それとも、優作を安心させようとしていたのか。

今でも分からない。

でも、分からなくてよかった。

分からないものを、勝手に大丈夫にしないこと。

それが、昨日より少しだけ分かった気がした。

「中村さん」

「はい」

「今、すごく考えてますよね」

「はい」

「顔に出ています」

「すみません」

「四回目です」

「今日は多いですね」

「いつも多いです」

優作は苦笑いした。

美月は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

「中村さんは、すぐ正解を探しますね」

「そうですか」

「はい」

「たぶん、怖いんだと思います」

「何がですか」

「相手が困っている時に、何もできないことが」

美月は、雨を見たまま黙った。

優作は続けた。

「何か言えば、助けた気になれるので」

言ってから、自分で少し嫌になった。

それは、美月に向けた言葉というより、自分に向けた言葉だった。

「でも、言葉を出すことで、相手の沈黙を奪う時もあるんだと思います」

美月は、静かに聞いていた。

「なので、今日は少し黙ります」

美月が小さく笑った。

「宣言するんですね」

「黙るのが苦手なので」

「知っています」

しばらく、二人は黙っていた。

雨の音だけがあった。

沈黙の中で、優作は何度も言葉を探した。

大丈夫じゃなくていいです。

話してください。

一人じゃないです。

無理しないでください。

どれも間違いではない気がした。

でも、どれも今ではない気もした。

言葉は、正しければ届くわけではない。

タイミングを間違えた正しさは、相手の逃げ場を塞ぐ。

優作は、傘を少しだけ美月側に傾けた。

美月は気づいていたと思う。

でも、何も言わなかった。

感情を出さない人は、強いんじゃない。

出したあとに何が起きるかを知っているだけかもしれない。

美月は、たぶん感情を出すのが苦手なのではない。

出した後の空気を、誰よりも先に読んでしまうのだ。

心配される。

気を使われる。

面倒だと思われる。

弱い人扱いされる。

あるいは、理由を説明しなければならなくなる。

だから先に閉じる。

大丈夫です。

その一言で、相手を安心させる。

同時に、自分を守る。

優作は、その言葉の便利さと残酷さを初めて見た気がした。

「相沢さん」

「はい」

「話さなくてもいいです」

美月は、こちらを見なかった。

「でも、帰るまでは一人にしません」

美月の指が、紙袋を少しだけ握った。

「それ、仕事ですか?」

「違います」

「じゃあ、余計に困ります」

「困らせていますか?」

「はい」

「すみません」

「五回目です」

「今日、記録更新しそうですね」

美月は、少しだけ笑った。

その笑いは、さっきより少し柔らかかった。

「でも」

「はい」

「困るけど、嫌ではないです」

優作は、返事を探した。

でも、やめた。

今度は、黙った。

美月が、小さく頷いた。

それでよかった。

雨が少しだけ弱くなった。

美月はスマホで時間を確認した。

「そろそろ行きます」

「駅まで入ります」

「大丈夫です」

優作は、その言葉にすぐ反応しなかった。

美月が少しだけこちらを見る。

優作は言った。

「その大丈夫は、一人で行きたい大丈夫ですか」

美月は、ほんの少し眉を上げた。

「今日は、聞き方を変えてきますね」

「練習中です」

「そうですか」

美月は少し考えた。

「一人で行きたい大丈夫ではないです」

優作は傘を開いた。

「じゃあ、入ります」

「はい」

二人は、同じ傘に入った。

距離は近い。

でも、近づきすぎないように、優作は少しだけ肩を外に出した。

美月がそれに気づく。

「中村さん」

「はい」

「濡れています」

「少しなので」

「そういうのも、たまに圧です」

優作は傘の位置を戻した。

「すみません」

「六回目です」

「もう数えないでください」

「検討します」

駅までの道は、思ったより短かった。

会話は少なかった。

でも、沈黙が気まずくはなかった。

改札の前で、美月が足を止めた。

「今日は、少しだけ大丈夫じゃなかったです」

優作は頷いた。

「はい」

「でも、少しだけでいいです」

「はい」

「全部話すほどではないです」

「はい」

「全部分かろうとしないでください」

その言葉が、優作の胸に残った。

全部分かろうとしない。

でも、何も見なかったことにもしない。

その間に立つこと。

それは、優作が一番苦手なことだった。

優しさは、聞き出すことじゃない。

相手が黙ったままでも崩れなくていい場所を作ることだ。

優作は、ゆっくり息を吐いた。

「分かりました」

美月が目を細める。

「それ、本当に分かっていますか」

「半分くらいです」

「それくらいでお願いします」

昨日と同じ言葉だった。

でも、今日は少し違って聞こえた。

美月は改札を通った。

優作は、その後ろ姿を見送った。

昨日より少しだけ、背中が小さく見えた。

でも、それは美月が弱くなったからではない。

優作が、ようやく美月を人として見始めたからかもしれない。

強い人。

できる人。

冷静な人。

大丈夫な人。

そういう言葉の奥に、言えない日がある。

崩れないように整える時間がある。

見せないために使っている力がある。

優作は、改札前で傘を閉じた。

手のひらに、雨の冷たさが残っていた。

夜。

優作のスマホに、美月からメッセージが届いた。

今日はありがとうございました。

優作は、すぐに返信しようとして、止まった。

また正解を探している。

そう思った。

“いつでも話してください”

違う気がした。

“無理しないでください”

それも少し違う。

“助けになれてよかったです”

もっと違う。

優作はしばらく画面を見た。

そして、短く打った。

話さないまま一緒にいられて、よかったです。

送信してから、少し後悔した。

変な文章かもしれない。

でも、美月からの返信は思ったより早かった。

それは、少し助かりました。

続けて、もう一通。

でも、次から謝罪は三回まででお願いします。

優作は笑った。

努力します。

美月から、すぐに返ってきた。

努力目標ですね。

優作はスマホをしまった。

雨は、まだ少し降っていた。

でも、さっきよりは弱くなっていた。

大丈夫です。

その言葉を、もう以前と同じようには聞けない。

安心して終わるための言葉ではない。

時には、相手が自分を守るために置いた小さな壁だ。

その壁を壊すことが優しさではない。

壁の前で、騒がずに立てるかどうか。

たぶん、そこからしか始まらない。

優作は、夜道を歩いた。

明日、美月はまたいつも通りに戻るかもしれない。

鋭くて、冷静で、少し刺す人に戻るかもしれない。

それでもいい。

ただ、優作はもう知っている。

いつも通りに見える人ほど、いつも通りでいるために、見えないところで力を使っている。

だから、次に美月が「大丈夫です」と言った時。

優作はすぐに安心しない。

すぐに踏み込まない。

ただ、その言葉の前で一度だけ立ち止まる。

その一度が、きっと必要なのだと思った。

翌朝。

佐伯が、給湯室の前で真壁に言っていた。

「大丈夫です」

優作は、通り過ぎかけて足を止めた。

真壁も、少しだけ止まっていた。

桐谷が遠くから言う。

「今の“大丈夫”、どっちの大丈夫?」

佐伯が困った顔をする。

「え、どっちって何ですか」

美月が、コーヒーを片手に通りかかった。

そして、優作を見る。

ほんの少しだけ、目が合った。

優作は何も言わなかった。

美月も何も言わなかった。

ただ、美月の口元が少しだけ動いた。

たぶん、笑った。

大丈夫という言葉の前で、チームが一瞬だけ立ち止まる。

それは小さな変化だった。

でも、小さくなかった。

第30話へ続く。


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