第28話
強い人ってことにされるのは、少ししんどい
前話:田辺案件が一区切りつき、優作たちは会社近くの居酒屋で、仕事を離れた会話の難しさを知った。黒川はクリームコロッケを頼み、佐伯は最後の唐揚げを取り、美月は「人は、役割だけでは分からないですね」と言った。会議室を出ても、コミュニケーションは続いていた。
翌朝。
優作は、駅前のカフェの前で足を止めた。
昨日、美月から届いた言葉がまだ残っていた。
人は、役割だけでは分からないですね。
たしかにそうだった。
黒川は、ただ冷たい人ではなかった。
真壁は、雑に見えて細かく見ていた。
桐谷は、軽口の奥に怖さを隠していた。
佐伯は、譲る癖の奥に自分の声を置き忘れていた。
そして美月は。
優作は、そこで少し考えた。
美月は、やっぱり美月だった。
鋭い。
冷静。
相手のズレを見逃さない。
必要なことを、必要なタイミングで言える人。
そう思った時点で、優作はまだ何も分かっていなかった。
カフェのガラス越しに、美月が見えた。
レジの前に立っている。
優作は一瞬、声をかけようとしてやめた。
出社前に偶然会うのは、少し気まずい。
昨日の居酒屋の余韻もある。
美月はメニューを見ていた。
店員が言う。
「ホットですか?アイスですか?」
美月は、ほんの一瞬だけ止まった。
本当に、ほんの一瞬。
でも優作には見えた。
美月の視線が、メニューと財布とスマホの間で少しだけ迷った。
次の人が後ろに並ぶ。
店員がもう一度、少しだけ声をやわらげる。
「ホットでよろしいですか?」
「……はい。ホットで」
美月はそう答えた。
いつもの声だった。
でも、少しだけ遅かった。
商品を受け取る時、スマホを落としそうになり、すぐに持ち直す。
紙袋を断ろうとして、言葉が重なり、店員と小さく会釈がかぶる。
それだけだった。
大きなミスではない。
誰も気にしない。
でも優作は、妙に見てしまった。
相沢さんでも、こんなふうに迷うんだ。
そう思った。
その瞬間、優作の中で何かが少しズレた。
「中村さん」
声をかけられて、優作は我に返った。
店を出てきた美月が、こちらを見ている。
「あ、おはようございます」
「おはようございます」
「偶然ですね」
「はい」
美月は、優作の顔を少しだけ見た。
「今、見てましたよね」
「え」
「レジのところ」
優作は言葉に詰まった。
「いや、見ていたというか……偶然見えて」
「見てましたね」
「……はい」
美月は怒っているわけではなかった。
でも、少しだけ目が冷静だった。
優作は、苦笑いでごまかそうとして、やめた。
「相沢さんでも、迷うんですね」
言った瞬間、まずいと思った。
美月の表情が、ほんの少しだけ止まった。
「私、迷わない人に見えてますか」
「いや、そういう意味では……」
「そういう意味だと思います」
優作は黙った。
朝の空気が、少しだけ重くなる。
人通りはある。
カフェのドアは開いたり閉じたりしている。
誰も二人を見ていない。
それなのに、優作にはその場だけ音が減ったように感じた。
美月は、手に持ったホットコーヒーを見た。
「中村さん、私のこと、少し“できる人”扱いしすぎです」
優作はすぐに返せなかった。
「それ……悪いことですか」
「悪くはないです」
美月は静かに言う。
「でも、たまに逃げ場がなくなります」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
逃げ場。
優作は、美月を褒めているつもりだった。
頼りにしているつもりだった。
信頼しているつもりだった。
強い人だと思っていた。
でもそれは、美月からすると逃げ場をなくすことでもあったのかもしれない。
人は相手を見ているようで、
だいたい“自分の中にある相手像”を見ている。
優作は、美月を見ていた。
つもりだった。
でも本当は、自分の中にある“相沢美月”を見ていた。
鋭い人。
冷静な人。
間違えない人。
迷わない人。
こちらのズレを見抜いてくれる人。
その像があるから、優作は安心していた。
美月が見てくれる。
美月が気づいてくれる。
美月なら、大丈夫。
そう思っていた。
それは信頼の顔をしていた。
でも、もしかしたら依存に近かった。
「すみません」
優作は言った。
美月は少しだけ眉を動かす。
「謝ることですか」
「分からないです」
正直に言った。
「でも、相沢さんを勝手に強い人にしていた気がします」
美月はすぐには答えなかった。
カフェの前を、自転車が通り過ぎる。
少し冷たい風が吹いた。
「強く見られること自体は、嫌いじゃないです」
美月は言った。
「嫌いじゃないんですね」
「はい」
「じゃあ……」
「でも」
美月は、優作を見る。
「強い人ってことにされるのは、少ししんどいです」
優作は黙った。
その言葉に、返す言葉がなかった。
美月は続ける。
「強いですね、ならいいんです」
「はい」
「でも、この人は強い人だから大丈夫、になると困ります」
優作の胸が痛くなった。
たぶん、自分はそれをしていた。
相沢さんなら大丈夫。
相沢さんなら言える。
相沢さんなら耐えられる。
相沢さんなら気づける。
そのたびに、美月の弱る場所を見ないで済ませていた。
「あの人は強い」と決めた瞬間、
その人が弱る場所を、こちらが奪っていることがある。
佐伯には、言い直す余白を渡せた。
桐谷には、軽口の奥にある怖さを少し見た。
黒川にも、冷たさ以外のものを見つけた。
なのに、美月には。
一番近くで見ているつもりの美月には、一番見たい像を押しつけていた。
「相沢さんは、迷わない人だと思っていました」
優作は言った。
「はい」
「焦らない人だとも思っていました」
「はい」
「いつも正しい距離で、ちゃんと言葉を選べる人だと」
「それは、買いかぶりです」
美月はすぐに言った。
その速さが、少し痛かった。
「私も迷います」
優作は美月を見る。
「ただ、迷っている顔を見せるのが少し下手なだけです」
その一言で、優作はようやく少し分かった。
美月は迷わないのではない。
迷っていることを、外に出すのが遅いのだ。
焦らないのではない。
焦っている顔を、見せる場所を選びすぎるのだ。
強いのではない。
強く見える形で、なんとか立っている時があるのだ。
できる人に見える人ほど、できない顔を出せなくなる。
周りが期待しているのは能力じゃなくて、“崩れない役割”だからだ。
優作は、コーヒーのカップを持つ美月の手を見た。
きちんと持っている。
いつも通りに見える。
でも、その“いつも通り”の中に、どれだけの調整があるのか。
どれだけの我慢があるのか。
今まで考えたことがなかった。
「僕は、相沢さんに安心していたんだと思います」
優作は言った。
美月は黙って聞いていた。
「相沢さんが冷静でいてくれれば、僕が焦らなくて済む」
「相沢さんが見抜いてくれれば、僕が迷わなくて済む」
「相沢さんが強くいてくれれば、僕が不安にならなくて済む」
言いながら、嫌な汗が出た。
これは謝罪というより、白状に近かった。
美月を見ていたのではなく、美月を使って、自分を落ち着かせていた。
そう思った。
美月はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ視線を外した。
「そう言われると、少し困ります」
「すみません」
「でも」
美月は、ゆっくり言った。
「そういうことに気づかれないままよりは、いいです」
優作は小さく息を吐いた。
許されたわけではない。
でも、完全に閉じられたわけでもない。
その距離が、今は一番リアルだった。
二人は駅に向かって歩き出した。
並んで歩くには、少しだけ道が狭い。
美月はコーヒーを片手に持ち、優作は少しだけ歩幅を落とした。
「中村さん」
「はい」
「強い人に見える人って、たぶんいますよね」
「はい」
「ちゃんとしている人。怒らない人。迷わない人。気づける人」
「います」
「でも、そういう人ほど、崩れた時に周りが驚くんです」
優作は頷いた。
「“あの人でも?”って」
「はい」
美月は淡々と言う。
「でも、その人からしたら“ずっと前から崩れていた”かもしれない」
優作は、何も返せなかった。
昨日までの美月を思い出す。
鋭く指摘する美月。
優作のズレを見抜く美月。
佐伯を観察する美月。
黒川にも怯まない美月。
そして今朝、ホットかアイスかで一瞬だけ止まった美月。
どちらが本当かではない。
どちらも本当だった。
美月は強い。
でも、強いだけではない。
美月は鋭い。
でも、鋭いまま傷つかないわけではない。
期待は、相手を信じることにもなる。
でも、相手が弱ることを許さない期待は、信頼じゃなくて支配に近い。
優作は、胸の中でその言葉を何度も噛んだ。
駅の改札前まで来た。
美月が足を止める。
「中村さん」
「はい」
「さっきの言い方、少し刺さりました」
優作は息を止めた。
「相沢さんでも、迷うんですね、ってやつですか」
「はい」
「すみません」
「謝罪は受け取ります」
美月はそう言った。
でも、表情は少しだけやわらかかった。
「ただ、覚えておいてください」
「はい」
「“意外”って、たまに相手を閉じ込めます」
優作は、その言葉を受け止めた。
意外ですね。
そんなことするんですね。
そういうところあるんですね。
あなたでも迷うんですね。
軽い驚きのつもりでも、相手からすると、“あなたはそういう人ではない”と言われたように聞こえることがある。
「気をつけます」
優作は言った。
美月は少しだけ頷く。
「私も、気をつけます」
「相沢さんも?」
「はい」
「何をですか」
美月は少しだけ考えた。
「中村さんは、優しい人だと思いすぎないようにします」
優作は固まった。
「それは……」
「褒めています」
「本当ですか?」
「半分くらい」
「・・半分」
美月は少しだけ笑った。
「優しい人ってことにされるのも、たぶん少ししんどいでしょう」
優作は何も言えなかった。
刺された。
でも、たしかにそうだった。
優しい人。
聞いてくれる人。
受け止める人。
怒らない人。
そう見られるほど、優しくない自分を出しづらくなる。
美月はそれを見ていた。
自分も、見られていた。
「私も、迷います」
美月は改札の前で言った。
「はい」
「ただ、迷っている顔を見せるのが少し下手なだけです」
「はい」
「だから」
美月は少しだけ目をそらした。
「見つけた時に、珍しいものを見たみたいな顔はしないでください」
優作は、胸が苦しくなった。
「そんな顔してましたか」
「してました」
「すみません」
「二回目です」
「はい」
「でも」
美月は、改札の向こうを見た。
「見てくれたこと自体は、嫌ではなかったです」
優作は、顔を上げた。
美月はすぐに視線を戻さなかった。
「ただ、見方の問題です」
その一言で、優作はようやく少しだけ息ができた。
見ないことが優しさではない。
見つけたことを騒がないこと。
勝手な像に押し込めないこと。
相手が崩れる場所を、ちゃんと残しておくこと。
たぶん、それが必要だった。
美月は改札を抜けた。
優作はその背中を見送った。
いつも通りの背筋。
いつも通りの歩き方。
いつも通り、迷いなく見える人。
でももう、同じには見えなかった。
強い人。
その言葉の奥に、迷う人、焦る人、言えない人、見せるのが下手な人がいる。
そういう美月がいる。
優作は、自分が少し怖くなった。
人は、見たいように相手を見る。
頼れる人には、頼れるままでいてほしい。
優しい人には、優しいままでいてほしい。
強い人には、強いままでいてほしい。
その方が、自分が楽だから。
でも、それは相手を見ているようで、相手に役割を着せているだけなのかもしれない。
その日の昼。
優作のスマホに、美月からメッセージが届いた。
今朝の件、気にしすぎなくて大丈夫です。
優作は、しばらくその文を見た。
大丈夫です。
その言葉が、いつもより少し違って見えた。
すぐに返信しようとして、手を止める。
“大丈夫ならよかったです”
そう打ちかけて、消した。
本当に大丈夫なのか。
それとも、これ以上気にしなくていいという合図なのか。
あるいは、いつものように相手を安心させるための言葉なのか。
分からない。
でも、分からないまま扱うしかない。
優作は、短く打った。
分かりました。
でも、勝手に大丈夫だとは思わないようにします。
少しして、既読がついた。
返信はすぐには来なかった。
五分後。
それくらいでお願いします。
優作は、その一文を見て少しだけ笑った。
それくらい。
踏み込みすぎず、離れすぎず。
強い人にしすぎず、弱い人にもしすぎず。
ただ、その人を見る。
たぶん、それが一番難しい。
夕方。
佐伯が優作の席に来た。
「中村さん、少し確認いいですか」
「うん」
佐伯は資料を持っている。
「この前の決裁者確認の言い方なんですけど……」
優作は話を聞きながら、ふと思った。
佐伯も、“不安な人”ではない。
桐谷も、“軽い人”ではない。
真壁も、“雑な人”ではない。
黒川も、“冷たい人”ではない。
そして美月も、“強い人”では終わらない。
分かった気になるのは楽だ。
でも、分かった気になった瞬間から、人は相手を見なくなる。
優作は、佐伯の話を最後まで聞いた。
そして、すぐに答えを言わずに聞いた。
「佐伯は、どう言いたい?」
佐伯は少し考える。
「僕は……相手を責めたいんじゃなくて、判断材料を合わせたいって言いたいです」
「うん」
「でも、言い方を間違えると詰めてるみたいになる気がして」
「うん」
優作は頷いた。
相手を、前より少しだけ見ようとしていた。
それはまだ、うまくはできない。
でも少なくとも、決めつけた像で見ないようにしたかった。
夜。
優作は帰り道で、今朝の美月の言葉を思い出した。
強い人ってことにされるのは、少ししんどいです。
それは、美月だけの話ではない。
できる人。
明るい人。
優しい人。
頼れる人。
怒らない人。
大丈夫な人。
そう見られることで救われることもある。
でも、その役割から降りられなくなることもある。
優作は、スマホを取り出した。
美月に送るか迷った。
迷った末に、短く打った。
今日、少し分かりました。
人を見るって、思ったより怖いです。
送信してから、少し後悔した。
重かったかもしれない。
でも、すぐに既読がついた。
しばらくして、返信が来る。
怖いくらいで、ちょうどいいと思います。
続けて、もう一通。
雑に分かった気になられるよりは。
優作は、画面を見て小さく笑った。
美月らしい。
優しいようで、少し刺す。
でも、その刺さり方が、今日は少しだけありがたかった。
優作はスマホをしまった。
人は、見たいように相手を見る。
だからこそ、何度も見直さなければいけない。
目の前の人が、昨日と同じ顔をしていても。
同じ言葉を使っていても。
同じ役割でそこにいても。
その人が本当に同じとは限らない。
強い人も迷う。
優しい人も傷つく。
大丈夫そうな人も、大丈夫じゃない日がある。
それを見落とさないこと。
そして、見つけた時に騒がないこと。
優作は、夜の駅へ向かって歩いた。
明日は、また別の顔の誰かに会う。
そしてたぶん、昨日までの見方では、もう足りない。
第29話へ続く。