第30話
笑ってる人ほど、雑に扱われる
前話:雨の日のコンビニ前で、優作は美月の「大丈夫です」をそのまま受け取らなかった。聞き出すのではなく、ただ隣にいること。大丈夫という言葉の前で一度立ち止まることを、優作は少しだけ覚えた。
昼休み。
休憩スペースには、いつもより人が多かった。
雨上がりのせいか、外に出る人が少ない。
電子レンジの前には列ができていて、誰かの弁当の匂いと、コンビニのコーヒーの匂いが混ざっていた。
桐谷は、テーブルの端に座っていた。
片手にカップ麺。
もう片方の手でスマホを見ている。
「桐谷さん、それお昼ですか」
佐伯が聞いた。
桐谷は顔を上げずに答える。
「そう。三分でできる高級ランチ」
「高級ですか」
「心の持ちようだよ、佐伯くん」
真壁が弁当を置きながら笑った。
「桐谷、またそんなの食ってんのか。体壊すぞ」
「大丈夫っす。俺、雑に扱われる担当なんで」
桐谷は軽く笑った。
その場も少し笑った。
いつもの桐谷だった。
優作も、少し笑いかけた。
でも、途中で止まった。
大丈夫。
雑に扱われる担当。
その言葉が、昨日までとは少し違って聞こえた。
「じゃあ桐谷、これついでに見といて」
真壁が資料を一枚置いた。
「え、俺っすか」
「お前、こういうの早いだろ」
「まあ、便利に使ってくださいよ」
桐谷は笑って受け取った。
佐伯が少し申し訳なさそうに言う。
「すみません。僕が見た方がいいやつですよね」
「いいっていいって」
桐谷は手を振った。
「俺、こういう“誰がやるか微妙なやつ”に吸い寄せられる体質だから」
真壁が笑う。
「それ、才能だな」
「でしょ。履歴書に書けますよ」
桐谷はカップ麺の蓋を押さえながら言った。
「特技、微妙な仕事を拾うこと」
佐伯が笑う。
真壁も笑う。
優作は、笑えなかった。
桐谷はたしかに笑っている。
でも、その笑い方は、少しだけ早かった。
誰かに言われる前に、自分で先に言っているように見えた。
美月が、飲み物を持って休憩スペースに入ってきた。
一瞬、テーブルの空気を見る。
桐谷の前に置かれた資料。
開けられていないカップ麺。
笑っている桐谷。
美月は何も言わず、少し離れた席に座った。
桐谷が言う。
「相沢さん、今なら俺、資料チェック無料キャンペーン中ですよ」
「頼んでません」
「冷たい」
「温度管理は自分でしてください」
佐伯が少し笑う。
桐谷も笑った。
「ほら、こういう扱いなんですよ。俺の存在、社内の緩衝材」
真壁が言う。
「助かってるよ、実際」
「ですよね。便利な男、桐谷です」
その瞬間、優作は少しだけ胸が引っかかった。
助かっている。
便利。
緩衝材。
どれも悪い言葉ではない。
でも、重なると少し違うものになる。
笑いにできる人が、傷ついていないとは限らない。
ただ、傷ついた顔を見せる前に、自分で先に笑っているだけのことがある。
優作は、桐谷を見た。
桐谷はカップ麺の蓋を開けた。
湯気が上がる。
「うわ、やわらか」
「三分以上置きましたね」
佐伯が言う。
「資料チェック係に任命されたからだよ」
桐谷はまた笑う。
「俺の麺、チームのために犠牲になりました」
真壁が言う。
「悪い悪い」
「軽いなあ。麺より軽い謝罪」
場がまた少し笑った。
でも、桐谷は一口も食べなかった。
資料に目を落としている。
笑いながら、もう仕事を始めていた。
優作は言った。
「桐谷」
「はい?」
「それ、今じゃなくていいよ」
桐谷が顔を上げる。
「え?」
「昼休みだから」
「いや、すぐ終わるんで」
「でも、麺のびてる」
「もう手遅れっす」
「じゃあ、なおさら今やらなくていい」
桐谷は少しだけ目を細めた。
「中村、今日どうしたの」
「いや」
優作は少し迷った。
「今の、普通に頼まれすぎな気がした」
休憩スペースの空気が、ほんの少し止まった。
真壁が資料を見る。
「悪い。俺、軽く頼んだわ」
「いやいや」
桐谷がすぐに笑う。
「重くしないでくださいよ。俺が軽くしてるんで」
その言葉が、逆に重かった。
美月が静かに言った。
「軽くしている人に、重さがないとは限りません」
桐谷が一瞬、黙った。
でもすぐに笑う。
「相沢さん、昼から名言出しますね」
「名言じゃないです」
「じゃあ何ですか」
「観察です」
「それが怖いんですよ」
桐谷は笑った。
でも、さっきより少しだけ小さかった。
佐伯が資料に手を伸ばす。
「僕、見ます。元々僕の範囲なので」
桐谷が止める。
「いいって。佐伯くん、午後の準備あるでしょ」
「ありますけど」
「じゃあ俺がやる」
優作は言った。
「それ、桐谷がやりたいから?」
桐谷の手が止まった。
「え?」
「それとも、断る方が面倒だから?」
桐谷は、笑いかけた。
でも、笑いきれなかった。
少しの沈黙があった。
電子レンジの音が鳴る。
誰かが「すみません」と言いながら弁当を取り出す。
日常の音だけが、変に大きく聞こえた。
桐谷は箸を割った。
でも、麺には触れなかった。
「いや、まあ」
桐谷は軽い声を出そうとした。
「断るほどのことでもないじゃん」
優作は頷いた。
「うん」
「別に嫌ってわけじゃないし」
「うん」
「俺、こういうのやった方が場が回るし」
「うん」
「……ほら」
桐谷は笑った。
「便利じゃん」
誰も笑わなかった。
桐谷の笑いだけが、少し浮いた。
自分を雑に扱う冗談は、場を軽くする。
でも、繰り返すほど周りに“雑に扱っていい人”として覚えられてしまう。
桐谷は、箸を置いた。
「なんか、やりづら」
真壁が頭を下げる。
「悪かった。俺、ほんとに軽く投げた」
「いや、だから謝られると重いんですって」
桐谷は笑おうとする。
でも、今度は美月が言った。
「重くしたのは、謝罪じゃないと思います」
桐谷が見る。
美月は続けない。
言いすぎない。
ただ、そこに言葉を置いた。
桐谷はしばらく黙った。
それから、少し息を吐いた。
「俺が、先に軽くしたんですよ」
優作は桐谷を見た。
桐谷は、カップ麺の湯気を見ていた。
「重くされたくないから」
佐伯が小さく言う。
「重くされたくない?」
「うん」
桐谷は、やっと麺を一口食べた。
「何か言われる前に、自分で言っとく方が楽なんだよ」
「雑に扱われる担当、とかですか」
「そう」
桐谷は笑った。
でも、さっきとは違う笑い方だった。
「先に自分で言えば、誰かに言われても痛くない気がするじゃん」
優作は黙っていた。
痛くない気がする。
その言い方が、痛かった。
「でも」
桐谷は、少しだけ箸を止めた。
「続けてると、ほんとにそういう扱いになるんだよな」
誰も口を挟まなかった。
桐谷は、少しだけ視線を落とした。
「俺が言ってるから、みんなも言いやすくなる」
「うん」
優作は頷いた。
「で、俺もまた笑う」
「うん」
「そしたら、もう分かんなくなる」
「何が?」
桐谷は、少しだけ笑った。
「本当に平気なのか、平気なフリがうまくなっただけなのか」
その場が静かになった。
明るい人は、強い人じゃない。
沈黙にされるくらいなら、自分で笑いに変えているだけかもしれない。
優作は、桐谷のことを軽い人だと思っていた。
実際、桐谷は軽い。
よく笑う。
冗談も言う。
空気を変えるのがうまい。
でも、それは痛みがないという意味ではなかった。
痛みを見せる前に、笑いに包んで出しているだけかもしれない。
そうすれば、相手も困らない。
自分も深く聞かれない。
場も止まらない。
でも、その代わりに、自分の痛みがどこにあったのかも分からなくなる。
真壁が、資料を自分の方に戻した。
「これは俺が見る」
桐谷がすぐに言う。
「いや、だから別に」
「俺が軽く投げたから、俺が見る」
「真壁さん、急にちゃんとしないでくださいよ」
「いつもちゃんとしてるだろ」
「それは議論の余地あります」
少しだけ空気が戻った。
佐伯も笑った。
美月も、ほんの少し口元を動かした。
桐谷はカップ麺を食べ始めた。
のびた麺を見て、また笑う。
「これ、もううどんですね」
優作が言う。
「ラーメンじゃなくて?」
「気持ちはラーメンです」
「気持ちは大事だな」
「中村、そういう雑な返し下手ですね」
「今の雑だった?」
「雑です。でも、悪くないです」
桐谷はそう言って、また一口食べた。
昼休みが終わる少し前。
桐谷が紙コップを捨てに行った。
優作も、少し遅れて立ち上がった。
ゴミ箱の前で、二人だけになる。
桐谷が言う。
「中村」
「うん」
「さっきの、あんま気にしないで」
優作は答えなかった。
桐谷が笑う。
「いや、そこは気にしないって言うところでしょ」
「気にしないようにはしない」
桐谷の顔から、少しだけ笑いが消えた。
優作は続けた。
「でも、重くしすぎないようにはする」
桐谷は、少しだけ目を伏せた。
「それ、むずいっすよ」
「うん」
「俺も、たぶん面倒くさいっすよ」
「うん」
「笑って流したい時もあるし、拾われると困る時もあるし」
「うん」
「でも、全部流されると、それはそれで腹立つ」
優作は頷いた。
「じゃあ、笑ってる時の桐谷だけじゃなくて」
桐谷が顔を上げる。
優作は少し迷ってから言った。
「笑ってない時の桐谷も、ちゃんと見る」
桐谷は、一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ顔をしかめる。
「重いっすよ」
「だよな」
「あと、言い方がちょっと青春です」
「それは悪かった」
桐谷は笑った。
でも、その笑い方はさっきより少しだけ遅かった。
急いで笑った感じがしなかった。
冗談は、痛みを消すための言葉じゃない。
痛みを見つからないように包むための言葉になることがある。
優作は、桐谷の背中を見ながら思った。
人には、それぞれの守り方がある。
美月は、大丈夫ですと言う。
桐谷は、冗談にする。
佐伯は、先に譲る。
真壁は、場を回す。
黒川は、正しさで距離を取る。
そして自分は、優しさの顔をして迷う。
どれも、その人が身につけた守り方だ。
でも、守るための言葉が、いつの間にか役割になる。
強い人。
大丈夫な人。
軽い人。
便利な人。
正しい人。
優しい人。
その役割が便利だから、周りはつい使ってしまう。
本人も、それで場が回るならと差し出してしまう。
けれど、差し出し続けたものは、いつか当然になる。
午後。
桐谷は、いつも通りだった。
会議前に軽口を言い、佐伯を少し笑わせ、真壁に雑に突っ込んだ。
でも、優作には少しだけ違って見えた。
笑っている。
でも、笑っているから平気とは限らない。
軽く言う。
でも、軽く扱ってほしいとは限らない。
その違いを、忘れたくなかった。
会議が始まる直前。
桐谷が優作の横を通り過ぎる時、小さく言った。
「中村」
「うん」
「さっきの、まあまあ助かった」
優作が見ると、桐谷はもう前を向いていた。
「まあまあ?」
「かなり、って言うと重いんで」
優作は少し笑った。
「じゃあ、まあまあ受け取る」
「それで」
桐谷は軽く手を上げた。
いつもの桐谷だった。
でも、もうそれだけではなかった。
夜。
優作は帰り道で、スマホを開いた。
美月からメッセージが来ていた。
今日の桐谷さん、見ていましたね。
優作は少し考えて返信した。
見ていたつもりです。
でも、まだ分かった気にはならないようにします。
美月から、すぐに返ってきた。
それくらいでお願いします。
優作は笑った。
最近、その言葉が少し増えた気がする。
それくらい。
踏み込みすぎず。
離れすぎず。
決めつけず。
でも、見なかったことにもしない。
優作はスマホをしまった。
笑っている人ほど、雑に扱われることがある。
笑ってくれるから。
流してくれるから。
空気を軽くしてくれるから。
でも、その笑いに甘え続けたら、いつかその人は、自分の痛みまで笑いにしなければいけなくなる。
優作は、夜道を歩いた。
明日も桐谷はたぶん笑う。
軽口も言う。
いつも通り、場を少し明るくする。
でも次に桐谷が自分を雑に扱う冗談を言った時。
その場で笑う前に、一度だけ立ち止まりたいと思った。
その冗談は、本当に笑っていいものなのか。
それとも、見つからないように包まれた痛みなのか。
それを、少しだけ見分けられる人になりたかった。
第31話へ続く。