第31話
場を回す人ほど、自分の話をする場所がない
前話:桐谷は、自分を雑に扱う冗談で場を軽くしていた。でもその冗談は、周りに“雑に扱っていい人”として覚えられていく。優作は、笑っている人が本当に平気とは限らないことを知った。
仕事帰り。
駅前の立ち食いそば屋から、温かい湯気が上がっていた。
優作は、通り過ぎようとして足を止めた。
店の中に、真壁がいた。
カウンターの端。
ネクタイを少し緩めて、かき揚げそばを食べている。
ひとりだった。
真壁は、ひとりでも真壁らしかった。
店員に軽く会釈をして、隣の客が水をこぼしそうになると、さっと紙ナプキンを渡す。
それから何事もなかったように、そばをすする。
優作は、少し迷ってから店に入った。
「真壁さん」
真壁が顔を上げる。
「お、中村」
真壁はすぐ笑った。
「珍しいな。食ってく?」
「いや、僕は」
「悩んでる顔してる時は、温かいもん入れた方がいいぞ」
優作は苦笑いした。
「顔に出てますか」
「出てる」
「そんなにですか」
「中村は、考えてる時だいたい眉間に会議室できてる」
「会議室」
「しかも長引くタイプの」
優作は少し笑った。
真壁は、いつも通りだった。
人を緩める。
空気を軽くする。
相手が話しやすいように、最初の一言を置く。
優作は券売機でかけそばを買い、真壁の隣に立った。
「で」
真壁は、そばをすすりながら言った。
「何に引っかかってんの」
優作は箸を持ったまま止まった。
いつもの真壁だった。
こちらが何かを抱えていそうだと、先に聞く。
聞き方も重くない。
逃げ道もある。
でも、ちゃんと入口を作ってくれる。
優作は、少しだけ考えた。
30話の桐谷を思い出した。
笑っている人ほど、雑に扱われることがある。
じゃあ、真壁はどうだろう。
場を回す人は、何を見えなくしているんだろう。
優作は言った。
「今日は、僕の話じゃなくていいです」
真壁の箸が止まった。
「何それ」
「はい」
「怖い怖い。面談?」
「真壁さんの話を聞きたいです」
真壁は、一瞬だけ黙った。
それから、すぐ笑った。
「俺の話なんか聞いても、出汁くらいしか出ないぞ」
「じゃあ、出汁でもいいです」
「中村、お前たまに変な方向にまっすぐ行くよな」
「すみません」
「いや、褒めてる」
「本当ですか」
「半分くらい」
優作は苦笑いした。
誰かも同じようなことを言っていた気がした。
真壁は、七味を少し振った。
「俺は普通だよ」
「普通ですか」
「普通」
「最近どうですか」
「だから普通だって」
真壁は軽く笑った。
「仕事して、飯食って、たまにお前らの顔色見て、また仕事してる」
「顔色見てるんですね」
「見えるんだよ」
「自然にですか」
「自然に」
真壁は、そばを少し混ぜた。
「佐伯が詰まってる時とか、桐谷がふざけすぎてる時とか、美月が刺しにいきそうな時とか」
「相沢さんが刺しにいきそうな時」
「あるだろ」
「あります」
「で、お前が考えすぎて固まってる時とか」
優作は返せなかった。
真壁は笑った。
「ほら、今も」
「すみません」
「謝るなって」
真壁は、軽く言った。
「謝られると、こっちが悪いみたいになる」
優作は少し固まった。
美月と同じようなことを言われた。
場を回す人は、話すのが得意なんじゃない。
自分の話をしなくて済む場所を作るのが、うまくなっただけかもしれない。
優作は、真壁を見た。
真壁は、いつも誰かの話を拾っている。
誰かが言いづらそうなら、先に軽くする。
誰かが傷つきそうなら、言葉をやわらげる。
誰かが黙ったら、空気をつなぐ。
それは優しさにも見える。
能力にも見える。
でも、その人自身の話はどこに行くのだろう。
優作は言った。
「真壁さんは、誰かの顔色を見るの、疲れませんか」
真壁は、すぐには答えなかった。
店員が「ありがとうございました」と声を出す。
客が一人、店を出ていく。
真壁は、その背中をちらっと見てから言った。
「疲れるってほどじゃない」
「はい」
「見えるから、見るだけ」
「はい」
「で、見えたら、放っておきづらい」
優作は頷いた。
真壁は少し笑った。
「面倒くさいだろ」
「いえ」
「いや、面倒くさいんだよ」
真壁はそう言って、そばをすすった。
「場を回してるとさ」
真壁が、ぽつりと言った。
「自分の話をするタイミング、なくなるんだよ」
優作は黙った。
真壁は続けた。
「誰かが言いづらそうなら拾う」
「はい」
「重くなったら軽くする」
「はい」
「ズレたら戻す」
「はい」
「で、気づいたら、自分が何を言いたかったか忘れてる」
優作は、箸を止めた。
真壁は笑っていなかった。
でも、暗い顔でもなかった。
ただ、事実を言っている顔だった。
「真壁さん」
「ん?」
「それ、けっこう大きい話じゃないですか」
「そうか?」
「はい」
真壁は少し考えた。
「そう言われると、大きくなるから嫌なんだよ」
「すみません」
「謝るなって」
真壁は笑った。
でもその笑いは、いつもより少しだけ遅かった。
聞き役が黙っている時、何も抱えていないとは限らない。
ただ、自分の話を始めるタイミングを、誰にも渡されていないだけだ。
優作は、真壁がいつもどれだけ自然にタイミングを渡してくれていたのかを思った。
「どう思う?」
「佐伯は?」
「桐谷は?」
「相沢は?」
「中村は?」
真壁は、よくそうやって人に渡す。
でも、そのあとに誰かが、
「真壁さんは?」
と聞くことは、少なかった気がする。
真壁はそれを責めない。
責めないから、余計に見えない。
優作は言った。
「真壁さんは、聞かれたいですか」
真壁は、すぐに答えなかった。
「難しいこと聞くな」
「すみません」
「だから謝るな」
「はい」
真壁は、少しだけ天井を見た。
「聞かれたい、とは違うんだよな」
「はい」
「俺、別に話したがりじゃないし」
「はい」
「毎回聞かれたら、それはそれで面倒くさい」
「真壁さんらしいです」
「らしいで片づけるな」
優作は少し笑った。
真壁も少し笑った。
でも、真壁は続けた。
「でも」
「はい」
「誰も聞かないのが当たり前になると、ちょっとだけ疲れる」
優作は、その言葉を静かに受け取った。
ちょっとだけ。
真壁はそう言った。
でも、その“ちょっとだけ”は、たぶん長い時間の中で積み重なっている。
大きな不満ではない。
明確な怒りでもない。
ただ、少しずつ置き去りになる感じ。
誰かの話を聞くたびに、自分の言葉を後ろへ下げる。
誰かの空気を整えるたびに、自分の感情を脇へ置く。
それが当たり前になる。
そしていつか、自分でも何を話したかったのか分からなくなる。
調整役は、誰かの感情を拾うたびに、自分の感情を少し脇に置いている。
それが積み重なると、自分でも何を感じていたのか分からなくなる。
優作は、そばを一口食べた。
だいぶ伸びていた。
真壁がそれに気づいて笑う。
「中村、そば伸びてるぞ」
「真壁さんの話を聞いていたので」
「俺のせいにするな」
「すみません」
「また謝った」
「もう癖です」
「知ってる」
真壁は少しだけ笑った。
その笑いは、さっきより自然だった。
優作は言った。
「たまに聞きます」
「何を」
「真壁さんはどうですか、って」
真壁は、そばの器を見た。
「たまにでいい」
「はい」
「毎回聞かれたら、ほんとに面倒くさい」
「分かりました」
「あと、聞いたからって、毎回答えるとは限らない」
「はい」
「出汁だけの日もある」
「出汁でもいいです」
真壁は吹き出した。
「お前、それ気に入ったのか」
「はい」
「変なやつだな」
「よく言われます」
「誰に」
優作は少し考えた。
「相沢さんに」
「だろうな」
二人は少しだけ笑った。
店を出ると、外の空気は冷たかった。
雨は降っていない。
でも、道路にはまだ水の跡が残っていた。
真壁はネクタイを締め直した。
「中村」
「はい」
「今日のやつ、職場で急にやるなよ」
「真壁さんはどうですか、ってやつですか」
「そう」
「だめですか」
「だめじゃないけど、タイミング間違えると俺が変な汗かく」
「分かりました」
「あと、みんなの前でやるな」
「二人の時にします」
真壁は少しだけ目を細めた。
「それはそれで重いな」
「難しいですね」
「人の話を聞くって、だいたい難しいんだよ」
真壁はそう言って、駅の方へ歩き出した。
優作も並んで歩いた。
“うまく回った場”の裏には、話さなかった人の言葉が残っている。
優作は、真壁の横顔を見た。
真壁は、いつも通りに見えた。
少し軽くて。
少し雑で。
でも、ちゃんと見ている人。
ただその“ちゃんと見ている”の奥に、見られていない寂しさが少しだけあった。
真壁は、自分の話を聞いてほしい人ではないのかもしれない。
でも、自分だけが聞く側に固定されるのは、少し疲れる。
それは、美月の「強い人」と似ていた。
桐谷の「軽い人」とも似ていた。
真壁は、「場を回す人」だった。
そしてその役割は、とても便利だった。
便利だから、周りは甘える。
本人も差し出す。
するといつの間にか、役割から降りるタイミングがなくなる。
駅の改札前で、真壁が足を止めた。
「じゃあな」
「はい」
「今日は、そば代は自分持ちで」
「もちろんです」
「相談料は取らないでおく」
「僕、相談してましたか」
「してたよ」
真壁は笑った。
「俺の話を聞きたいって言いながら、結局お前も何か考えてただろ」
優作は少し黙った。
「はい」
「まあ、いいけど」
真壁は改札に向かいかけて、少しだけ振り返った。
「中村」
「はい」
「さっきの」
「はい」
「たまになら、助かる」
優作は、すぐに返事をしなかった。
ちゃんと受け取りたかった。
「はい」
真壁は軽く手を上げた。
「たまにな」
「はい」
「毎回は面倒くさいからな」
「分かってます」
「本当か?」
「半分くらいです」
真壁は笑った。
「それくらいでお願いします、ってやつだな」
優作も笑った。
最近、その言葉がいろんな人の間に広がっている気がした。
夜。
優作は帰り道で、美月にメッセージを送るか迷った。
今日、真壁さんの話を少し聞きました。
そう打ちかけて、消した。
報告することではない気がした。
真壁の話を、誰かにすぐ共有するのは違う。
聞いた言葉を、すぐ材料にしない。
それも大事なのかもしれない。
優作はスマホをしまった。
場を回す人ほど、自分の話をする場所がない。
話せないのではない。
話すのが下手なわけでもない。
ただ、いつも誰かに順番を渡しているうちに、自分の順番を後ろへ置いてしまう。
そして周りも、その人に順番が必要なことを忘れてしまう。
明日、真壁はまたいつも通りに場を回すだろう。
佐伯を拾い、桐谷を軽く止め、美月の言葉を少しやわらげ、優作の迷いに気づく。
それでも優作は、忘れないようにしたかった。
場を回している人がいる時。
その場には、まだ話されていない言葉が残っているかもしれない。
そしてたまには、その人に順番を返してもいい。
「真壁さんは、どうですか」
たったそれだけの言葉で。
役割から少し降りられる人がいるのかもしれない。
翌朝。
会議前の小さな打ち合わせで、真壁はいつものように言った。
「じゃあ、佐伯は確認項目。桐谷は比較軸。相沢はリスクまわり。中村は全体見て」
優作は頷いた。
そして、少しだけ間を置いて聞いた。
「真壁さんは、どうしますか」
真壁の動きが一瞬止まった。
佐伯も桐谷も美月も、少しだけ真壁を見た。
真壁は、優作を見る。
そして、小さく笑った。
「俺は、今日は最初から口出す」
桐谷が言う。
「いつも出してますよ」
「今日は自覚的に出す」
佐伯が笑った。
美月も少しだけ口元を動かした。
真壁は、いつもの調子で資料を持ち直す。
でもその声は、少しだけ違った。
場を回すためだけではなく。
自分もその場にいる人として、話し始める声だった。
第32話へ続く。