『やさしさ迷惑32/100』

記事
学び
第32話
優しい人ほど、怒る場所を失っていく

前話:真壁は、場を回す人だった。誰かが言いづらそうなら拾い、重くなったら軽くし、ズレたら戻す。その一方で、自分の話をする順番は後ろへ下がっていた。優作は、場を回す人にも「真壁さんはどうですか」と聞かれる場所が必要なのだと知った。

夜のコインランドリーは、思ったより明るかった。

白い蛍光灯。

回り続ける洗濯機。

乾燥機の中で、服が何度も持ち上がっては落ちる。

低い機械音が、店内にずっと響いている。

優作は、洗濯機の前のベンチに座っていた。

膝の上には、読みかけの本。

でも、ページはほとんど進んでいない。

最近、人のことばかり見ている気がした。

美月の、強い人にされるしんどさ。

美月の、大丈夫ですの奥。

桐谷の、冗談に包まれた痛み。

真壁の、場を回す人の孤独。

見ようとするたびに、見えていなかったものが増えていく。

そして、増えるたびに少し怖くなる。

では、自分はどうなのか。

優作は、本を閉じた。

洗濯機の丸い窓の中で、自分のシャツがぐるぐる回っていた。

まるで、考えがずっと同じ場所を回っているみたいだった。

自動ドアが開いた。

若い男女が入ってきた。

二十代前半くらいだろうか。

彼氏らしき男性が、大きな袋を片手に持っている。

彼女らしき女性は、その後ろを少し不機嫌そうに歩いていた。

「だから、乾燥までやっといたって」

男性が言う。

「やっといたって言い方しないで」

女性の声は低かった。

「いや、助かるかなと思って」

「助かってない」

男性は袋の中から、小さくなったニットを取り出した。

「でも、着れるじゃん」

女性が固まった。

優作も、思わずそちらを見た。

「着れるかどうかじゃない」

女性は、ニットを受け取って言った。

「これ、気に入ってたの」

「だからごめんって」

「ごめんの前に、“でも着れるじゃん”って言った」

「いや、だって捨てるほどじゃないし」

「そういう話じゃない」

男性は少し困った顔をした。

「じゃあ、どういう話?」

女性はしばらく黙った。

それから、小さく言った。

「勝手にされたのが嫌だったの」

店内の機械音が、急に大きく聞こえた。

優作は、膝の上の本に視線を落とした。

勝手にされたのが嫌だった。

結果の話ではない。

着れるかどうかでもない。

正しいかどうかでもない。

大きな損失かどうかでもない。

雑に扱われた。

そこに、怒りが生まれている。

怒りは、結果への反応だけじゃない。

“雑に扱われた”と感じた時にも生まれる。

優作は、自分の中に小さな引っかかりを覚えた。

午前中のことを思い出す。

佐伯が、確認資料の一部を抜かしていた。

大きな問題ではなかった。

すぐ直せた。

佐伯は青い顔で謝った。

優作は言った。

「大丈夫。次、気をつけよう」

その言葉は嘘ではない。

本当に大きな問題にはならなかった。

佐伯を責めたいわけでもなかった。

でも。

その瞬間、胸の奥で小さく動いたものがあった。

またか。

そう思った。

すぐに、その自分を消した。

そんな言い方はよくない。

佐伯は成長している。

責める場面じゃない。

優作は、そうやって自分を整えた。

そして笑った。

大丈夫。

次、気をつけよう。

正しい言葉だった。

でも、全部ではなかった。

自動ドアがまた開いた。

今度は、小学生くらいの男の子と、母親らしき女性が入ってきた。

男の子は洗濯カゴを両手で持っていた。

「重い」

「持てるって言ったでしょ」

「持てるけど重い」

「それはそう」

母親は少し笑っていた。

男の子は、洗濯カゴを台の上に置こうとして、少し失敗した。

たたんであったタオルが、ばさっと床に落ちる。

「あ」

男の子が固まる。

母親も一瞬、固まった。

次の瞬間、母親は笑った。

「いいよ、大丈夫」

声は優しかった。

でも、顔は全然大丈夫ではなかった。

男の子は、それを見て言った。

「大丈夫って言ってない顔してる」

優作は、思わず顔を上げた。

母親は一瞬、困った顔をした。

「そう?」

「うん。眉毛が怒ってる」

「眉毛か」

「あと、口も」

「全部じゃん」

男の子は、床に落ちたタオルを拾い始めた。

「ごめん」

母親は、小さく息を吐いた。

「うん。ちょっとだけ嫌だった」

「大丈夫じゃない?」

「大丈夫にはできる。でも、落ちたのは嫌だった」

男の子は頷いた。

「じゃあ、拾う」

「うん。拾って」

それだけだった。

大きな叱責はない。

感動的な会話でもない。

ただ、母親は「嫌だった」と言った。

男の子は、それを受け取った。

優作は、そのやり取りを見ながら、胸の奥が少し苦しくなった。

“大丈夫”を先に出す人ほど、自分の中の“嫌だった”を後回しにしている。

優作は、自分の口癖を思い出した。

大丈夫です。

大丈夫。

問題ないです。

こちらでやっておきます。

気にしないでください。

それは、相手を安心させるための言葉だった。

場を壊さないための言葉だった。

責めないための言葉だった。

でもそのたびに、自分の中の「嫌だった」はどこへ行っていたのだろう。

桐谷に軽く茶化された時。

真壁に話を流された時。

美月に鋭く刺された時。

佐伯のミスを受け取った時。

自分は、すぐに大丈夫を出していた。

本当は少し痛かった。

本当は少し嫌だった。

本当は少し腹が立っていた。

でも、そう思った瞬間に、別の声が出てくる。

そんなことで怒るな。

器が小さい。

相手も悪気があったわけじゃない。

自分が受け止めれば済む。

そうやって、怒りが形になる前に、自分で踏みつぶしていた。

洗濯機の残り時間は、あと十二分だった。

優作は、スマホを見た。

特に通知はない。

画面を閉じる。

その時、店の外で電話をしている男性の声が聞こえた。

作業着姿の中年男性だった。

片手に缶コーヒー。

もう片方の手でスマホを耳に当てている。

「いや、いいよ。俺が悪いってことで」

少し間が空く。

「うん。もうそれで終わるなら、それでいい」

声は穏やかだった。

怒鳴っていない。

責めていない。

でも、優作には何かが引っかかった。

男性は、コインランドリーの中に入ってきた。

電話は続いている。

「分かった。明日、俺から言う」

また間。

「いや、いいって。俺が言えば早いから」

男性は、乾燥機の前に立った。

表情は変わらない。

でも、電話を切った瞬間、小さく舌打ちした。

本当に小さな音だった。

たぶん、誰にも聞かせるつもりはなかった。

男性は缶コーヒーを一口飲み、乾燥機の中を見た。

それから、誰に言うでもなく小さく呟いた。

「なんで俺なんだよ」

優作は、その言葉を聞いてしまった。

胸の奥に、何かが落ちた。

怒りを出さない人は、感情が薄いんじゃない。

出した後に関係が壊れる怖さを、先に想像してしまうだけだ。

優作は、自分が何度も言ってきた言葉を思い出した。

僕の確認不足です。

こちらで持ちます。

僕がやります。

大丈夫です。

それは責任感の時もあった。

逃げたくない時もあった。

でも、全部がそうだったわけではない。

早く終わらせたい時もあった。

相手に嫌な顔をされたくない時もあった。

揉めるくらいなら、自分が悪いことにした方が楽な時もあった。

その場は収まる。

相手は安心する。

空気は壊れない。

でも、自分の中には何かが残る。

誰にも渡されなかった怒り。

誰にも見せなかった違和感。

自分で飲み込んだはずなのに、あとから胸の奥でずっと残っているもの。

優作は、洗濯機の中で回るシャツを見た。

洗っているのに、落ちていないものがある気がした。

自動ドアが開いた。

今度は老夫婦だった。

夫らしき男性が、大きな袋を持っている。

妻らしき女性は、洗剤を手にしていた。

「こっちでいいのか」

「それは柔軟剤」

「ああ、こっちか」

「それも違う」

「全部似てるな」

「似てない」

妻の声は静かだった。

でも、少し怒っているのが分かった。

夫は洗剤を手に取ると、機械の投入口に入れようとした。

「ちょっと」

妻が止める。

「多い」

「きれいになるだろ」

「そういうことじゃないの」

その言い方に、優作は少しだけ笑いそうになった。

さっきの若いカップルと似ている。

乾けばいい。

きれいになればいい。

結果だけを見れば、そうかもしれない。

でも、そういうことじゃない。

夫は、妻の顔を見た。

「怒ってる?」

妻は、すぐに答えた。

「怒ってる」

優作は、その速さに驚いた。

夫は少し黙った。

それから、申し訳なさそうに笑った。

「言ってくれて助かる」

妻は、少しだけ眉をひそめた。

「助かる?」

「黙られる方が困る」

夫は洗剤を戻した。

「怒ってるって言われた方が、まだ直せる」

妻は、何も言わなかった。

でも、洗剤の量を少し減らして、夫に渡した。

夫はそれを受け取る。

「これくらい?」

「それくらい」

「なるほどな」

「前も言った」

「それはすまん」

「前も謝った」

「それもすまん」

妻は呆れた顔をした。

でも、夫の横に立ったままだった。

二人の間に、怒りはあった。

でも、関係が壊れているようには見えなかった。

むしろ、怒りがそこに置かれたまま、二人は同じ洗濯機の前に立っていた。

怒りは、関係を壊すためだけにあるんじゃない。

本当は、これ以上雑に扱われたくないと知らせるための感情でもある。

優作は、その二人を見ながら、しばらく動けなかった。

怒ってる。

そう言ってもいいのか。

怒っている人がいても、関係はすぐに終わらないのか。

怒りは、ぶつけるものだと思っていた。

怒ったら、相手を責めることになる。

怒ったら、空気が悪くなる。

怒ったら、今までの優しさが嘘になる。

そう思っていた。

でも、もしかしたら違う。

怒りを認めることと、怒りをぶつけることは違う。

怒っていると伝えることと、相手を壊すことは違う。

嫌だったと言うことと、相手を否定することは違う。

優作は、ゆっくり息を吐いた。

胸の奥にあったものが、少しだけ形を持った気がした。

洗濯機が止まった。

低い音が消える。

店内が一瞬、静かになったように感じた。

優作は立ち上がり、洗濯物を取り出した。

シャツは重かった。

まだ少し湿っている。

完全には乾いていない。

それが、妙に今の自分みたいだった。

きれいに片づいたわけではない。

すっきりしたわけでもない。

怒りの扱い方が、急に分かったわけでもない。

でも、そこにあることは分かった。

優作は乾燥機に服を移した。

コインを入れる。

機械が動き出す。

また服が回り始めた。

優作はベンチに戻り、スマホを開いた。

誰かに送るわけではない。

メモアプリを開く。

白い画面に、カーソルが点滅している。

優作は、しばらく指を止めた。

そして、一行だけ打った。

少し、嫌だった。

それだけだった。

佐伯に対して。

桐谷に対して。

真壁に対して。

美月に対して。

自分に対して。

全部がその一文に入っているわけではない。

でも、今はそれでよかった。

少し、嫌だった。

その言葉を見た時、優作の胸が少しだけ緩んだ。

誰かにぶつけなくてもいい。

今すぐ説明しなくてもいい。

正当化しなくてもいい。

ただ、自分の中にあったものを、自分でなかったことにしない。

それだけで、少し息ができた。

優しい人は、怒らない人じゃない。

怒った自分を許せなくなった人かもしれない。

優作は、その言葉を胸の中で繰り返した。

自分は、優しい人になりたかった。

人を責めない人。

受け止められる人。

話を聞ける人。

怒らない人。

でも、怒らないことと、優しいことは同じではない。

怒りを消すことと、相手を大事にすることも同じではない。

自分の「嫌だった」を全部捨ててまで守る関係は、本当に優しい関係なのだろうか。

優作には、まだ分からなかった。

でも、少なくとも。

怒った自分をすぐに責めなくてもいい。

それだけは、今夜少し分かった気がした。

乾燥機の残り時間は、まだ二十分あった。

若いカップルは、縮んだニットを袋にしまいながら、まだ少し揉めていた。

でも、男性はさっきより小さな声で言った。

「次から聞く」

女性はすぐには答えなかった。

でも、少しして言った。

「それならいい」

母親と男の子は、落ちたタオルをたたみ直していた。

男の子が言う。

「眉毛、まだ怒ってる?」

母親が答える。

「今は少しだけ」

「少しならいい?」

「よくはない。でも拾ってくれたから減った」

男の子は納得したように頷いた。

作業着の男性は、乾燥機の前で缶コーヒーを飲んでいた。

さっきより表情は柔らかい。

でも、完全に晴れているわけではない。

老夫婦は、洗濯機が回るのを二人で眺めていた。

夫が言う。

「今度から線引いといてくれ」

妻が言う。

「自分で覚えて」

「厳しいな」

「怒ってるから」

「はい」

夫は、少し笑っていた。

妻も、ほんの少しだけ笑っていた。

優作は、その光景をぼんやり見ていた。

知らない人たちの、知らない生活。

それぞれに小さな怒りがあって。

小さな謝罪があって。

小さな折り合いがある。

誰も完璧ではない。

誰もきれいに話せているわけではない。

それでも、言葉を出したり、飲み込んだり、少し戻したりしながら、どうにか同じ空間にいる。

それが、妙に人間らしく見えた。

優しさが役割になると、怒りは裏切りみたいに感じてしまう。

優作は、自分の中の「優しい中村」を思った。

人にそう見られることは、嫌ではなかった。

むしろ、安心していた。

優しい人だと思われていれば、嫌われにくい。

怒らない人だと思われていれば、場が荒れにくい。

受け止める人だと思われていれば、自分の居場所がある気がする。

でもその役割の中では、怒りが出せない。

怒った瞬間に、裏切ったような気がする。

今までの自分が嘘になるような気がする。

だから優作は、怒りの前に謝る。

怒りの前に笑う。

怒りの前に、大丈夫と言う。

そしてあとから、一人で疲れる。

優作は、スマホのメモをもう一度見た。

少し、嫌だった。

その一文は、まだ頼りなかった。

でも、消さなかった。

乾燥が終わった。

優作は服を取り出し、ゆっくり畳んだ。

少し温かい。

その温かさが、手のひらに残る。

店を出ると、夜の空気は冷たかった。

コインランドリーの明るさが、背中の後ろに残っている。

優作は歩き出した。

怒りをどう伝えればいいのか、まだ分からない。

明日になれば、また「大丈夫」と言ってしまうかもしれない。

また先に謝ってしまうかもしれない。

それでも、今日よりは少しだけ立ち止まれる気がした。

大丈夫と言う前に。

謝る前に。

笑う前に。

自分の中に、小さく聞く。

今、少し嫌だったのか。

その一度だけで、何かが変わるかもしれない。

翌朝。

佐伯が、優作の席に来た。

「中村さん、少し確認いいですか」

「うん」

佐伯は資料を持っていた。

「昨日の修正版なんですけど、一箇所、反映漏れがありました」

佐伯の顔が少し固い。

「すみません。すぐ直します」

優作は、いつものように言いかけた。

大丈夫。

でも、止まった。

ほんの一瞬。

本当に、ほんの一瞬。

佐伯が不安そうに優作を見る。

優作は、自分の胸の奥を見た。

大きな怒りではない。

責めたいわけでもない。

でも、少し困った。

少し、嫌だった。

その気持ちはあった。

優作は、ゆっくり言った。

「大丈夫にはできる」

佐伯が、少しだけ目を上げる。

優作は続けた。

「でも、少し困ったのは本当」

佐伯は固まった。

優作も少し怖かった。

言った瞬間、空気が重くなる気がした。

佐伯が傷つくかもしれない。

言わない方がよかったかもしれない。

でも、優作は続けた。

「責めたいわけじゃない」

「はい」

「ただ、昨日の段階で見えていたら、もう少し余裕があったと思う」

「……はい」

「だから次は、反映したところに印をつける形に変えよう」

佐伯は、少し黙った。

それから、頷いた。

「分かりました」

声は小さかった。

でも、閉じた声ではなかった。

「すみませんでした」

優作は首を横に振った。

「謝って終わりにしなくていい」

佐伯が顔を上げる。

優作は言った。

「一緒に、漏れない形にしたい」

佐伯は、少しだけ息を吐いた。

「はい」

その返事を聞いて、優作の肩の力が抜けた。

関係は壊れていなかった。

空気は少しだけ重くなった。

でも、重くなったまま、続いていた。

それでよかった。

軽くするだけが、優しさではないのかもしれない。

昼前。

優作はスマホのメモを開いた。

昨日の夜に打った一文が残っている。

少し、嫌だった。

優作は、その下にもう一行足した。

でも、伝えても終わらなかった。

それだけ書いて、スマホを閉じた。

窓の外は、晴れていた。

昨日の夜、コインランドリーで見た知らない人たちは、もうどこにもいない。

縮んだニットのカップルも。

眉毛が怒っていた母親も。

「俺が悪い」で終わらせようとした作業着の男性も。

洗剤を入れすぎた老夫婦も。

それぞれの生活に戻っている。

もう二度と会わないかもしれない。

でも、優作の中には少し残っていた。

怒ってる。

ちょっと嫌だった。

言ってくれて助かる。

大丈夫にはできる。

それらの小さな言葉が、洗い終わった服の温かさみたいに、まだ手のひらに残っている。

優作は、席に戻った。

今日もきっと、うまく話せないことがある。

大丈夫と言いすぎることもある。

怒りを飲み込むこともある。

でも、もう完全になかったことにはしない。

怒りは、優しさの敵ではない。

自分を大事にしたいと知らせる、小さな合図なのかもしれない。

優作は、佐伯の資料をもう一度開いた。

資料に赤を入れる手は、前より少しだけ落ち着いていた。

怒りを消したからではない。

怒りを、ようやく自分の中に置けたからだった。

第33話へ続く。
サービス数40万件のスキルマーケット、あなたにぴったりのサービスを探す ココナラコンテンツマーケット ノウハウ記事・テンプレート・デザイン素材はこちら