『優しさ迷惑33/100』

記事
学び
第33話
誰の責任?

前話:夜のコインランドリーで、優作は知らない人たちの小さな怒りを見た。勝手にされたことへの怒り。大丈夫にはできるけれど嫌だったという言葉。怒っていると伝えても壊れない関係。優作は、怒りを消すのではなく、自分の中に置くことを少しだけ覚えた。

翌朝は、よく晴れていた。

窓際の席に、白い光が落ちている。

コピー機の音。

キーボードを打つ音。

桐谷の、少し大きなあくび。

いつも通りの朝だった。

「佐伯、昨日の修正版見た?」

真壁が言った。

「はい。反映しました」

佐伯はそう言って、ノートパソコンを少しこちらに向けた。

声は落ち着いていた。

昨日より、少しだけ目も上がっている。

優作は資料を見ながら頷いた。

「うん。ここ、分かりやすくなった」

佐伯の肩が、ほんの少し下がる。

「ありがとうございます」

桐谷が横から覗き込んだ。

「佐伯、最近ちゃんと資料の顔してるな」

「資料の顔って何ですか」

「昔は“僕、まだ途中です”って顔してた」

「資料に顔あります?」

「あるよ。中村さんの資料はだいたい考えすぎて眉間にシワ寄ってる」

優作は思わず笑った。

美月が、画面を見ながら言う。

「桐谷さんの資料は、時々笑ってごまかそうとしてます」

「資料までバレてる」

真壁が軽く笑った。

黒川だけは、いつも通り画面を見ていた。

「冗談はいいですが、最終版は午前中に共有してください」

「黒川さん、晴れの日にも傘さしてそうですね」

桐谷が言う。

黒川は顔を上げずに答えた。

「天気ではなく、降水確率で判断します」

「うわ、似合う」

誰かが少し笑った。

優作も笑った。

いつも通りだった。

少しだけ軽くて。

少しだけ慌ただしくて。

優作は、その空気を悪くないと思った。

少なくとも、昨日よりは少し前に進んでいる気がした。

今回進めているのは、全社で使う営業資料のリニューアル案件だった。

営業部、人事部、現場管理職向けに共通で使う説明資料を整えるプロジェクト。

優作たちのチームは、構成と表現の整理を担当している。

黒川は品質レビュー。

実際にその資料を使う側として、営業部の大槻慎也も確認に入っていた。

大槻は、営業部でよく名前を聞く人だった。

声が大きく、よく笑う。

廊下ですれ違えば、相手の部署も役職も関係なく声をかける。

優作も、話しやすい人だと思っていた。

優作は佐伯の資料に赤を入れながら、昨日の朝のことを思い出した。

大丈夫にはできる。

でも、少し困ったのは本当。

そう言えた。

佐伯は、受け取ってくれた。

関係は壊れなかった。

優作は、自分の中に小さな手応えを感じていた。

怒りを、少しだけ扱えた気がしていた。

美月が、優作の手元を見た。

「赤、少し減りましたね」

「そうですか」

「はい」

美月は、画面から目を離さずに言った。

「前より、相手に直させる赤になってます」

優作は少し笑った。

「褒められてます?」

「半分くらいは」

「残り半分は」

「まだ考えすぎです」

桐谷が、すかさず言った。

「中村さん、褒められた時も反省するからなあ」

真壁が頷く。

「褒められて反省するのは、もはや才能だな」

佐伯が小さく笑った。

優作も笑った。

その時、優作のパソコンに通知が出た。

営業部の大槻からのメールだった。

件名は、今日の午後の確認会について。

本文は短かった。

本日の確認会ですが、営業側の使用確認として私も同席します。
役員説明前に、進捗と最終確認の流れだけ整理させてください。

優作は、画面を見た。

最終確認の流れ。

その言葉だけが、少しだけ黒く見えた。

午後二時。

会議室には、まだ午前中の明るさが少し残っていた。

窓の外は晴れている。

遠くの空だけが、少し鈍い色をしていた。

大槻は、入ってくるなり明るく頭を下げた。

「すみません、急に入っちゃって」

声はいつも通りだった。

「いや、こちらこそ確認ありがとうございます」

優作が言うと、大槻は笑った。

「いやいや、僕ら実際に使う側なんで。むしろ早めに見ときたいなと思って」

桐谷が小さく言った。

「営業エース直々に」

大槻が笑う。

「エースとかやめてよ。そういうの、すぐ仕事増えるから」

少しだけ場がゆるんだ。

優作も笑った。

まだ、大丈夫だった。

大槻は椅子に座ると、資料を開いた。

「じゃあ、軽く確認させてください」

軽く。

その言葉通り、最初の十分は本当に軽かった。

営業現場で使う時に、どのページが説明しやすいか。

お客さんから聞かれやすいポイントはどこか。

役員説明で、どの数字が突っ込まれそうか。

大槻の指摘は、現場感があった。

「ここ、すごくいいですね。営業でも使いやすいです」

佐伯がまとめたページだった。

佐伯の顔が少し明るくなる。

「ありがとうございます」

「いや、ほんとに。前の資料より全然いい」

桐谷が佐伯を見る。

「佐伯、褒められて資料の顔が誇らしげだぞ」

「だから資料に顔ないです」

小さな笑いが起きた。

優作は、胸の中で少し息をついた。

やっぱり、少しずつ良くなっている。

そう思った。

その時、大槻がページを一枚戻した。

「ただ」

声の温度は変わらなかった。

「ここ、数字が前の版のままですね」

佐伯の指が止まった。

優作も画面を見た。

確かに、そこだけ修正前の数字が残っていた。

外に出た資料ではない。

まだ、直せる。

そう思った。

佐伯がすぐに口を開いた。

「すみません。そこは僕が差し替え前のものを参照してしまって」

声は小さかった。

でも、言い切ろうとしていた。

優作は、少し安心した。

佐伯が自分で言えた。

そう思った。

その一瞬の安心が、後から何度も優作を苦しめることになる。

大槻は佐伯を見た。

表情は笑っていた。

でも、目は少しだけ細くなっていた。

「いや、責めたいわけじゃないんだけどね」

その言い方が、すでに少しだけ責めていた。

「これ、お客さんの前で出すの、僕らなんですよね」

会議室の空気が、少し変わった。

怒鳴る人はいない。

強い言葉もない。

ただ、明るくて話しやすい営業のエースが、困ったような顔でそこにいる。

それだけなのに、佐伯の肩は小さくなった。

「はい。確認が不足していました」

大槻は頷いた。

「うん。そこは分かる」

そして、少しだけ首を傾げた。

「佐伯くんが悪いって話じゃなくて、こういう数字まわりは最初から誰か噛ませた方が安心だったかもね」

大槻の声は柔らかかった。

優作は、言わなければと思った。

佐伯だけの問題ではありません。

確認プロセス全体の問題です。

責任者は私です。

今ここで個人の能力に寄せる話にはしません。

そのどれかを、言えばよかった。

けれど、優作の口から出たのは、少し違う言葉だった。

「一旦、個人の責任というより、全体の確認フローとして整理できればと思います」

言った瞬間、優作は自分の声が遠く聞こえた。

悪い言葉ではない。

間違ってもいない。

でも、何かが足りなかった。

大槻は、優作を見た。

「うん。全体の確認フローは大事ですよね」

そして、もう一度佐伯を見た。

「ただ、最終的にこの数字を拾ったのは佐伯くんですよね」

佐伯は、目線を落とした。

「はい」

優作は、もう一度口を開こうとした。

でも、その前に頭の中でいくつもの声が走った。

ここで強く止めたら、大槻の現場感を否定することになる。

営業部との関係が悪くなるかもしれない。

佐伯を守るために言った言葉が、逆に佐伯を目立たせるかもしれない。

美月が何か言いたそうだ。

黒川も事実を切り分けたいはずだ。

真壁は場を戻そうとしている。

桐谷は今、笑えない。

誰を立てる。

誰を守る。

どこまで言う。

どの言葉なら、誰も傷つかない。

誰も傷つけない言葉を探している間に、誰かはもう傷ついている。

「佐伯だけの問題ではないと思っています」

優作は、やっとそう言った。

その言葉も、やはり弱かった。

大槻は困ったように笑った。

「だけ、ではない。ということは、佐伯くんにも問題はあるという認識ですよね」

優作は息を止めた。

言葉が、捕まった。

優作の言葉は、佐伯を守るために出したはずだった。

でも、その言葉の中にある「だけ」が、佐伯の首元に残った。

佐伯が、静かに頷いた。

「はい。僕に問題があります」

「佐伯」

優作は名前を呼んだ。

佐伯は、優作を見なかった。

「すみません。僕の確認不足です」

桐谷が小さく椅子を引いた。

「いや、佐伯だけじゃ」

「桐谷さん」

佐伯が遮った。

その声は強くなかった。

でも、止める力だけはあった。

「大丈夫です」

その一言で、桐谷は黙った。

優作の胸が、嫌な音を立てた。

大丈夫。

その言葉が、大丈夫ではないことを、優作はもう知っている。

知っているはずだった。

なのに、今この場では、何もできなかった。

美月が、ゆっくり口を開いた。

「確認フローの話をするなら、私からも補足があります」

大槻が美月を見る。

「お願いします」

「今回、修正前の数字が残った原因は、佐伯さんの確認漏れだけではありません。レビューのタイミング、修正指示の伝達、最終確認の責任範囲が曖昧でした」

美月の声は、静かだった。

静かすぎるほど、はっきりしていた。

「誰か一人の確認不足として処理すると、同じことが起きます」

大槻は頷いた。

「相沢さんの言っていることは分かります。たぶん正しいです」

たぶん。

その一言が、ほんの少しだけ引っかかった。

大槻は続けた。

「ただ、正しい資料って、現場で使いやすい資料とはちょっと違うんですよね」

美月の指が、キーボードの上で止まった。

「営業側からすると、ちょっと固いというか」

大槻は笑った。

「突き放されてる感じがあるんです」

空気が止まった。

真壁が顔を上げる。

桐谷の口元から、表情が消える。

佐伯が、美月を見る。

黒川が画面から目を離した。

優作は、今度こそ言わなければと思った。

その言い方は違います。

相沢の指摘は、必要な指摘です。

現場で使いやすいことと、個人の言い方の問題を混ぜないでください。

言え。

今言え。

優作は、喉の奥に言葉を集めた。

でも、出てきたのはまた、柔らかい言葉だった。

「相沢の意図としては、責めるというより、再発防止の観点で」

美月の横顔が、ほんの少しだけ固まった。

優作はそれに気づいた。

気づいたのに、もう止まれなかった。

「もちろん、現場で使いづらい印象があるなら、こちらも表現を含めて調整します」

言い終わった瞬間、優作は分かった。

今の言葉は、美月を守っていない。

大槻も否定しないようにして、美月も悪者にしないようにして、場を丸くしようとした。

でも結果として、美月の言葉を薄めた。

正しさを、角のない言葉に変えてしまった。

美月が、ゆっくり優作を見た。

その目には、怒りよりも先に、静かな落胆があった。

優柔不断は、優しさに見えることがある。
でも、決めるべき場面で決めないことは、誰かを守らない選択になる。

会議はその後も続いた。

黒川がレビュー工程の問題を整理した。

真壁が営業側への再提示スケジュールを引き取った。

桐谷が不足資料をその場で確認した。

美月は必要最低限だけ話した。

佐伯は、ほとんど話さなかった。

優作は、場を壊さないように言葉を選び続けた。

選び続けるほど、誰かの顔が遠くなっていった。

窓の外を見ると、さっきまで明るかった空の端に、灰色の雲が増えていた。

雨は、まだ降っていない。

けれど、光の色が少し変わっていた。

確認会が終わった時、外は夕方になっていた。

大槻は立ち上がり、明るく頭を下げた。

「じゃあ、修正版待ってます」

それから、少し申し訳なさそうに笑った。

「細かくてすみません。でも、これ使ってお客さんの前に立つの、うちなんで」

その言葉に、誰も何も言えなかった。

大槻が出ていく。

ドアが閉まる。

会議室には、プロジェクターのファンの音だけが残った。

誰もすぐには立たなかった。

真壁が、資料を閉じる。

桐谷は、机の上のペンを指で転がしていた。

美月は画面を見たまま動かない。

黒川は、何か言いかけて、やめたように見えた。

優作は、佐伯を見た。

佐伯は、資料の端を揃えていた。

丁寧に。

丁寧すぎるくらいに。

「佐伯」

優作は、ようやく声を出した。

「今日の件は、佐伯だけの責任じゃない」

佐伯は、少し遅れて顔を上げた。

「はい」

「本当に、佐伯だけの責任じゃない。僕の判断も遅かったし、確認の形も曖昧だった」

「はい」

佐伯の返事は、丁寧だった。

丁寧すぎた。

優作は続けた。

「だから、あまり背負いすぎないでほしい」

佐伯は、ほんの少しだけ笑った。

笑ったように見えた。

「ありがとうございます」

その声で、優作は分かった。

届いていない。

佐伯は受け取っていない。

ただ、受け取った形をしているだけだった。

「中村さん」

佐伯が言った。

「はい」

「中村さんが、佐伯だけじゃないって言ってくれたのは分かってます」

優作は、佐伯を見た。

佐伯は、資料の端を見ていた。

「でも、あの場では、僕だけでした」

会議室の中が、静かになった。

桐谷が目を伏せた。

真壁は何も言わなかった。

美月も動かなかった。

黒川は、画面を閉じる手を止めていた。

優作は、何か言おうとした。

違う。

そんなつもりじゃない。

佐伯だけに背負わせるつもりじゃなかった。

でも、どの言葉も遅かった。

曖昧な言葉は、その場を少しだけやわらげる。
でも、誰も引き受けなかった重さは、最後にいちばん断れない人のところへ落ちていく。

「僕、大丈夫です」

佐伯が言った。

優作の胸の奥が、また鳴った。

大丈夫。

また、その言葉だった。

「明日の修正版、僕が対応します」

「いや、今日は」

「やらせてください」

佐伯の声が、初めて少しだけ強くなった。

その強さが、前向きなものではないことを、優作は分かっていた。

でも、止められなかった。

止める言葉を探している間に、佐伯は資料をまとめ始めた。

紙の端が揃えられる。

パソコンが閉じられる。

椅子が引かれる。

「お疲れさまでした」

佐伯は、誰よりも先に会議室を出た。

ドアは静かに閉まった。

強く閉められたわけではない。

それが、余計に怖かった。

桐谷が、小さく息を吐いた。

「……きつ」

それだけ言って、椅子にもたれた。

真壁は何も言わなかった。

美月は、優作を見なかった。

黒川も、まだ何も言わなかった。

しばらくして、全員が少しずつ会議室を出ていった。

優作だけが残った。

プロジェクターの画面には、まだ赤いセルが映っている。

遅延。

確認漏れ。

再提示。

そのどれよりも赤く見えたのは、自分が言えなかった言葉だった。

優作は椅子に座った。

誰もいない会議室で、両手を膝の上に置いた。

頭の中で、何度も会議の場面が戻ってくる。

佐伯が見ていた資料。

美月の固まった横顔。

桐谷の笑えない顔。

真壁の仕事の声。

黒川の止まった手。

大槻の困ったような笑顔。

そして、自分の声。

一旦、整理しましょう。

全体の確認フローとして。

佐伯だけの問題ではない。

相沢の意図としては。

どれも間違いではなかった。

どれも、誰かを傷つけないために選んだ言葉だった。

なのに、誰も守れていなかった。

スマホが震えた。

佐伯からだった。

本文は短かった。

明日の修正版、対応します。
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
大丈夫です。

優作は、その三行を見つめた。

大丈夫です。

その言葉の奥に、何があるのか。

優作は知ろうとした。

でも、今さら知ろうとする自分が、ひどく遅く見えた。

窓の外を見る。

雨は、まだ降っていなかった。

ただ、遠くの空だけが暗かった。

朝はあんなに晴れていたのに。

優作の顔が、黒い画面に映った。

優しい人の顔をしていた。

でも、その顔が今日は、ひどく頼りなく見えた。

第34話へ続く。




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