第34話
あとから優しくされても、戻らない
前話:全社で使う営業資料の確認会で、営業部の大槻から修正前の数字が残っていることを指摘された。佐伯に責任が向きかけた時、優作は止めるべき言葉を探しながら、結局、曖昧な言葉で場をやわらげようとした。美月の指摘も薄めてしまった。会議後、佐伯は「でも、あの場では、僕だけでした」と言い、「大丈夫です」と残して会議室を出ていった。
雨は、夜になってから降り始めた。
最初は、窓に小さな点がつく程度だった。
降っているのか、まだ降っていないのか分からないくらいの雨。
優作は会社のビルを出たところで、傘を持っていないことに気づいた。
朝は、あんなに晴れていた。
折りたたみ傘を鞄に入れる理由なんて、なかった。
ビルの入口の屋根の下で、優作は立ち止まった。
目の前の歩道が、少しずつ黒く濡れていく。
車のライトが、濡れたアスファルトに伸びていた。
スマホを開く。
佐伯からのメッセージは、まだ画面の上に残っていた。
明日の修正版、対応します。
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。
大丈夫です。
何度読んでも、同じ三行だった。
でも読むたびに、違う重さになった。
大丈夫です。
それは、優作がずっと気にしてきた言葉だった。
本当は大丈夫じゃない時ほど、人は大丈夫と言う。
それを、優作はもう知っている。
知っているはずだった。
それなのに、今日の会議室で、その言葉を止められなかった。
優作は返信欄を開いた。
佐伯、ごめん。
今日の件、話したい。
一人で抱えなくていい。
打って、消した。
ごめん、は違う気がした。
話したい、も違う気がした。
一人で抱えなくていい、は、今さらすぎる気がした。
佐伯はもう、一人で抱えたあとだった。
優作が何かを差し出そうとした時には、佐伯はもう、自分で抱える形を作ってしまっていた。
しばらく画面を見たあと、優作は短く打った。
今日はすみません。
明日の修正、僕も見ます。
無理しないでください。
送信した。
すぐに既読はつかなかった。
雨の音が、少しだけ大きくなった。
優作は傘のないまま、駅まで歩き出した。
冷たい雨が、髪に落ちる。
肩に落ちる。
コートの表面に、小さな点が増えていく。
駅に着く頃には、スマホが震えた。
佐伯からだった。
ありがとうございます。
大丈夫です。
こちらで進めます。
優作は、駅の改札前で立ち止まった。
短い。
丁寧。
拒絶ではない。
でも、入る隙間がなかった。
こちらで進めます。
その一文の中に、扉が閉まる音がした。
翌朝、優作はいつもより早く出社した。
佐伯は、すでに席にいた。
デスクには、資料が開かれている。
画面には、修正版のスライド。
数字の差し替え。
注釈の追加。
表現の修正。
佐伯は、キーボードを打っていた。
いつもより姿勢が固い。
背中が、昨日より少し小さく見えた。
「佐伯」
優作が声をかけると、佐伯はすぐに顔を上げた。
「おはようございます」
声は普通だった。
普通にしようとしている声だった。
「早いね」
「はい。昨日のうちに少し進めていたので」
「見てもいい?」
「はい」
佐伯は画面を少しこちらに向けた。
資料は、よく直っていた。
数字のミスは消えている。
大槻が気にしていた営業現場向けの言い回しも、いくつか調整されている。
美月が指摘した責任範囲の整理も、工程ごとに分けられていた。
佐伯が、一人でやったのだと分かった。
一人で、かなりのところまで。
「かなり直ってるね」
「ありがとうございます」
「昨日、無理した?」
「大丈夫です」
その返事が早かった。
早すぎた。
優作は息を吸った。
今度こそ、止めなければと思った。
「佐伯」
「はい」
「大丈夫って言わなくてもいい」
佐伯の指が、マウスの上で止まった。
「昨日、あの場で佐伯に寄ってしまったこと、本当に」
「中村さん」
佐伯が静かに遮った。
「謝らなくて大丈夫です」
優作は、言葉を失った。
佐伯は画面を見たまま続けた。
「中村さんが、僕だけの責任じゃないって言ってくれたのは分かっています」
昨日と同じ言葉だった。
でも、昨日より少し硬かった。
「ただ、もう修正は進めています」
正しいことだった。
仕事としては、何も間違っていない。
でも、その正しさが、優作の入る場所を消していく。
「僕は、佐伯を一人にしたかったわけじゃない」
佐伯は、少しだけ黙った。
それから、優作を見た。
「分かってます」
優作は、その目を見た。
分かってます。
その言葉は、優しかった。
でも、許してはいなかった。
「分かってますけど」
佐伯は、そこで一度言葉を切った。
小さく息を吐く。
「今言われても、あの場では言ってもらえなかったので」
優作は、返せなかった。
佐伯はすぐに目を伏せた。
「すみません。言い方、よくなかったです」
「いや」
「修正、十時までには一度共有します」
話が閉じた。
閉じられてしまった。
優作は、そこから先に入れなかった。
佐伯は、もう資料に戻っていた。
キーボードの音が、少しだけ速い。
優作は自分の席に戻った。
画面を開いたが、文字が頭に入らなかった。
佐伯の言葉だけが、耳に残っていた。
今言われても。
あの場では。
言ってもらえなかったので。
傷ついた人の隣に座ることは、優しさになる。
でも、傷つける言葉の前に立てない優しさは、時にただの傍観になる。
午前十時。
佐伯から修正版が共有された。
資料は、よく整っていた。
丁寧で、抜けも少ない。
むしろ、昨日より分かりやすくなっている。
優作は、それを見て少し苦しくなった。
佐伯がちゃんと直したことが、嬉しいはずだった。
成長したと思えるはずだった。
でも、今日は違った。
この資料の整い方は、佐伯が自分で痛みを畳んだ跡に見えた。
綺麗に畳まれている。
だから、余計に触れられない。
真壁が画面を見ながら言った。
「かなり戻したな」
桐谷が低い声で答える。
「佐伯、寝たのかな」
佐伯は笑った。
「寝ましたよ」
「何時間」
「普通に」
桐谷はそれ以上聞かなかった。
普通に、という答えを信じていない顔だった。
黒川が資料をスクロールする。
「数字は直っています。注釈も追加されています」
美月が静かに言った。
「表現も、少し営業寄りになりましたね」
その声には、何かが含まれていた。
佐伯が少しだけ身を固くする。
「大槻さんの指摘を反映しました」
美月は、すぐには返さなかった。
「そうですか」
それだけだった。
優作は、美月の横顔を見た。
昨日、優作が薄めた言葉。
大槻に「突き放されている感じがある」と言われた時、美月は何かを飲み込んだ。
その飲み込んだものが、まだ喉の奥に残っているように見えた。
昼休み。
美月は休憩スペースの窓際にいた。
紙コップのコーヒーを手にして、外を見ている。
雨は朝から降ったり止んだりしていた。
今は、細い雨が斜めに流れている。
人が傘を開くほどではない。
でも、傘を閉じるほどでもない。
優作は少し迷ってから、声をかけた。
「相沢さん」
美月は振り返った。
「はい」
いつもの声だった。
でも、少しだけ距離があった。
「昨日のこと、少し話せますか」
美月は、紙コップを持ったまま優作を見た。
「佐伯さんとは、話しましたか」
優作は、答えに詰まった。
「少しだけ」
「どうでしたか」
「届いていないと思います」
美月は、視線を外に戻した。
「そうですか」
その言い方に、責める響きはなかった。
ただ、分かっていたことを確認したような声だった。
優作は言った。
「昨日、相沢さんの言葉を薄めました」
美月は何も言わなかった。
「大槻さんの言い方を止めるべきでした。相沢さんの指摘は必要だったのに、僕は、場を丸くする言い方にしてしまいました」
「はい」
「すみません」
美月は、ゆっくり紙コップをテーブルに置いた。
その音が、小さく響いた。
「中村さん」
「はい」
「謝られると、私がもう何も言えなくなります」
優作は黙った。
昨日、言われなかった言葉。
でも、きっと昨日からそこにあった言葉。
美月は続けた。
「謝られると、こちらが受け取る側になります」
「はい」
「受け取らなかったら、私が冷たい人になる」
優作は、胸の奥を掴まれたような気がした。
「そういうつもりじゃ」
「分かっています」
美月は静かに言った。
「中村さんが、そういうつもりじゃないことは分かっています」
その言葉は、佐伯の「分かってます」とよく似ていた。
分かっている。
でも、戻らない。
美月は窓の外を見た。
「昨日、私が言ったことは、佐伯さんを責めるためではありませんでした」
「はい」
「でも、中村さんが私の言葉をやわらかくしたことで、私の指摘は“言い方の強い意見”になりました」
優作は何も言えなかった。
「大槻さんが悪い人だとは思っていません」
「はい」
「現場の困り感も分かります」
「はい」
「でも、だからこそ、誰かが線を引く必要がありました」
美月が、優作を見た。
「中村さんが、引く場所でした」
その一言で、優作は昨日の会議室に戻された。
大槻の笑顔。
佐伯の伏せた目。
美月の止まった指。
自分の柔らかい声。
相沢の意図としては。
その言葉が、今さら耳の奥で響いた。
「僕は」
言いかけて、止まった。
言い訳になりそうだった。
大槻は悪い人ではない。
現場の声も分かる。
だから迷った。
そう言えば言うほど、昨日の自分を守る言葉になる気がした。
美月は、優作の沈黙を見ていた。
「中村さん」
「はい」
「今も、言葉を選んでますね」
優作は、何も言えなかった。
「言葉を選ぶのが悪いとは思いません」
美月の声は、静かだった。
「でも、昨日は、選んでいる間に終わりました」
雨が、窓に細く当たっていた。
優作は、その音を聞いていた。
「私、怒っているというより」
美月は少しだけ言葉を探した。
「たぶん、がっかりしています」
その方が、痛かった。
怒られる方が、まだよかった。
美月が怒ってくれたら、謝ることもできた。
受け止めることもできた。
でも、がっかりされたものは、簡単には戻らない。
「すみません」
また言ってしまった。
美月は、目を伏せた。
「だから」
優作は口を閉じた。
美月は、小さく息を吐いた。
「今日は、それくらいでお願いします」
それは、以前にも聞いた言い方だった。
でも、あの時と違っていた。
あの時は、少しだけ逃げ場を残してくれる言葉だった。
今日は、これ以上入ってこないでほしいという線に聞こえた。
美月は紙コップを手に取り、休憩スペースを出ていった。
優作は、窓際に残った。
雨は、まだ細かった。
でも、いつの間にか地面は濡れていた。
あとから差し出された優しさが、救いになる時もある。
でも、その場で守られなかった記憶は、あとからの言葉では戻らないことがある。
午後、大槻への再提示資料を送る前に、チームで最終確認をした。
真壁が進行する。
「十五時に大槻さんへ共有。十六時にコメントが返ってきたら、今日中に直せるところだけ直す」
黒川が言う。
「今回の版では、変更履歴を残してください。誰がどこを修正したか見えるように」
桐谷が小さく言った。
「それ、今言われるとちょっと刺さるっすね」
黒川は表情を変えなかった。
「刺さることと、必要なことは別です」
桐谷が笑おうとして、笑わなかった。
「ですよね」
佐伯は画面を見ている。
美月は必要なところだけ指摘する。
真壁は淡々と進める。
優作は、その全員を見ていた。
いつものチームだった。
形だけは。
でも、音が違った。
桐谷の軽さが少ない。
美月の言葉が短い。
佐伯の返事が早い。
真壁の進行が硬い。
黒川の正しさが、いつもより冷たく響く。
優作は、何か言わなければと思った。
でも、何を言っても、今は場を戻すための言葉に聞こえる気がした。
場を戻そうとしている。
それ自体が、もう違う気がした。
十五時。
資料は大槻へ送られた。
大槻からは、すぐに返信が来た。
ありがとうございます!
かなり使いやすくなりました。
営業側でも一度確認します。
明るい文面だった。
絵文字こそないが、大槻の声が聞こえるようだった。
佐伯は、その返信を見ても表情を変えなかった。
桐谷が言った。
「一旦、通ったっぽいな」
真壁が言う。
「まだ一旦な」
黒川が言う。
「営業側確認後に追加修正が来る可能性があります」
美月は何も言わなかった。
優作は、佐伯に声をかけようとした。
「佐伯」
「はい」
「少し、休憩しようか」
佐伯は画面から目を離した。
「大丈夫です」
まただった。
優作は、今度はすぐに言った。
「大丈夫じゃなくてもいい」
佐伯は、少し困ったように笑った。
「本当に大丈夫です」
優作は、その笑い方を知っていた。
笑って、話を終わらせる顔。
自分が何度もしてきた顔だった。
「中村さん」
佐伯が言った。
「はい」
「今、優しくされると」
優作は息を止めた。
佐伯は、言葉を選んでいた。
優作に似た選び方だった。
相手を傷つけないように。
でも、自分もこれ以上傷つかないようにする言葉の選び方。
「少し、しんどいです」
優作は、何も言えなかった。
佐伯はすぐに頭を下げた。
「すみません」
「謝らなくていい」
「でも」
「謝らなくていい」
優作は、少しだけ強く言った。
佐伯は黙った。
その沈黙の中で、優作は初めて、自分の言葉が少し届いたのか、また何かを止めてしまったのか、分からなかった。
「今日は、資料を終わらせます」
佐伯はそう言った。
「そのあとで、必要なら話します」
必要なら。
優作は、その言葉に頷くしかなかった。
「分かった」
佐伯は画面に戻った。
優作は、自分の席に戻れなかった。
会議室の外の廊下に出る。
窓の外を見る。
雨は、さっきより少し強くなっていた。
傘を差す人が増えている。
まだ大雨ではない。
でも、もう誰も、降っていないとは言えない。
夕方になって、追加修正がいくつか返ってきた。
大きなものではなかった。
言い回し。
順番。
営業現場での説明補足。
佐伯は黙って対応した。
美月が一部を巻き取った。
桐谷が表現を整えた。
黒川が数字を確認した。
真壁が大槻に返信した。
優作は、全体を見ながら何度も声をかけようとした。
でも、言葉が少なくなっていった。
何かを言うたびに、誰かの上に余計なものを置きそうだった。
定時を少し過ぎた頃、資料は再提出された。
「今日はここまでにしよう」
真壁が言った。
佐伯はすぐに頷いた。
「はい」
「明日の朝、大槻さんの反応見てからだな」
「はい」
桐谷が佐伯を見た。
「帰れよ、今日は」
佐伯は笑った。
「帰ります」
「ほんとかよ」
「帰ります」
短いやり取りだった。
でも、前みたいな軽さは戻らなかった。
美月は荷物をまとめ、優作の方を見ずに席を立った。
優作は、思わず追いかけた。
エレベーターホールで、美月に追いつく。
「相沢さん」
美月は足を止めた。
「はい」
「もう少しだけ、話せますか」
美月はエレベーターの階数表示を見た。
それから、優作を見た。
「何を話しますか」
その問いに、優作は詰まった。
何を話すのか。
謝りたい。
違う。
説明したい。
違う。
分かってほしい。
それは、もっと違う。
「昨日、僕は」
そこまで言って、止まった。
美月は待っていた。
怒らずに。
急かさずに。
でも、助けてもくれなかった。
「僕は、あの場で、大槻さんにも佐伯にも相沢さんにも、嫌な思いをさせない言葉を探していました」
「はい」
「でも、それは結局、誰の側にも立たない言葉だったと思います」
美月は、すぐには返さなかった。
エレベーターが下から上がってくる音がした。
「中村さん」
「はい」
「分かっています」
また、その言葉だった。
分かっています。
優作は、その言葉が怖くなっていた。
美月は続けた。
「中村さんが、何も考えていなかったわけじゃないことは分かっています」
少し間が空いた。
「でも、分かっていたなら、なおさらです」
エレベーターが到着した。
扉が開く。
中には誰もいなかった。
美月は乗らなかった。
優作も乗らなかった。
扉が、しばらく開いたまま止まっている。
「分かっていたのに、動かなかった」
美月はそう言った。
その声は、責めるよりも静かだった。
だから、深く入ってきた。
「それが、一番しんどいです」
扉が閉まり始めた。
誰も乗らないまま、エレベーターは下へ降りていった。
「分かっていた」は、間に合った人の言葉だ。
間に合わなかった人にとっては、分かっていたのに動かなかった、という痛みに変わる。
優作は、言葉を探した。
また探している。
自分でそう思った。
美月も、それを見ていた。
「中村さんは」
美月は、少しだけ目を伏せた。
「傷ついた後に来るのは、上手いです」
優作は何も言えなかった。
「大丈夫じゃない人の“大丈夫”に気づくことも、前よりできるようになったと思います」
その言葉は、褒めているようで、褒めていなかった。
「でも」
美月は、優作を見た。
「傷つけられている最中に、前に立つのは苦手なんですね」
廊下の奥で、誰かの足音がした。
遠くで電話の音が鳴っている。
窓の外では、雨がさっきよりはっきりと降っていた。
優作は、頷くこともできなかった。
否定することもできなかった。
美月は小さく息を吐いた。
「今日は、ここまでにしてください」
そう言って、次に来たエレベーターに乗った。
扉が閉まる直前、美月はもう一度だけ言った。
「佐伯さんにも、今は追いかけすぎない方がいいと思います」
扉が閉まった。
優作は、エレベーターホールに一人で残った。
雨の音は、ここまでは届かない。
でも、窓の向こうの道路は、もう完全に濡れていた。
会社を出ると、雨は傘が必要なくらいにはなっていた。
優作は、今度はコンビニで傘を買った。
透明なビニール傘。
開くと、雨粒がすぐに音を立てた。
駅までの道を歩きながら、優作はスマホを見た。
佐伯からの新しいメッセージはない。
美月からもない。
桐谷からも。
真壁からも。
黒川からも。
通知のない画面に、自分の顔がぼんやり映っていた。
昨日より、少し濡れて見えた。
優作は歩きながら、何度も思い出していた。
今言われても、あの場では言ってもらえなかったので。
謝られると、私がもう何も言えなくなります。
今、優しくされると、少ししんどいです。
分かっていたのに、動かなかった。
傷ついた後に来るのは、上手いです。
でも、傷つけられている最中に、前に立つのは苦手なんですね。
雨は、ビニール傘を細かく叩いていた。
まだ、土砂降りではない。
まだ、前は見える。
まだ、歩ける。
でも、靴の中に少しずつ水が染みていた。
優作は、その冷たさに気づきながら、何もできなかった。
第35話へ続く。