『やさしさ迷惑35/100』

記事
学び
第35話
優しい人は、悪者になれない

前話:佐伯にあとから声をかけても、「今言われても、あの場では言ってもらえなかったので」と届かなかった。美月にも謝罪を差し出したが、「謝られると、私がもう何も言えなくなります」と線を引かれた。優作は、傷ついた後に寄り添うことはできても、傷つけられている最中に前に立つことが苦手なのだと突きつけられた。雨はまだ土砂降りではなかったが、靴の中には少しずつ水が染みていた。

朝から、雨は降っていた。

昨日のように、降っているのか分からない雨ではなかった。

傘を差さなければ、駅までの数分で肩が濡れる。

そういう雨だった。

会社の入口には、濡れた傘が何本も立てかけられていた。

床には、小さな水の跡がいくつもできている。

誰かが急いで入ってきて、傘の先を床に当てた。

その音が、いつもより大きく聞こえた。

「傘袋って、絶対こっちの服濡らすためにありますよね」

桐谷が、ビニール傘を傘袋に入れながら言った。

いつもなら、誰かが少し笑う。

でも今日は、誰も大きく笑わなかった。

桐谷自身も、言ったあとに口元を少しだけ歪めた。

真壁がパソコンを開きながら言う。

「手、拭いとけ。キーボード濡らすぞ」

「そこは現実なんすね」

「現実だろ」

短いやり取りだった。

軽いはずなのに、空気は戻らなかった。

優作は、自分の席に鞄を置いた。

佐伯はもう来ていた。

画面を見ている。

姿勢は昨日と同じように固かった。

美月はイヤホンを外しながら、資料を開いている。

黒川は机の端に置いたハンカチで、眼鏡についた雨粒を拭いていた。

いつもの朝だった。

形だけは。

九時を少し過ぎた頃、大槻からメールが届いた。

件名は、資料リニューアル確認の件。

文面は明るかった。

ありがとうございます!

資料はかなり使いやすくなりました。

営業側でも昨日のうちに何名かで確認しました。

優作は、そこまで読んで少しだけ息を吐いた。

しかし、続きがあった。

一点だけ、今後の確認体制について相談です。

数字まわりについては、次回以降、佐伯くん単独ではなく、どなたか一名を必ず挟む形にできますか。

佐伯くんの責任という趣旨ではなく、営業側としても安心材料がほしいためです。

優作は、画面を見たまま止まった。

佐伯くんの責任という趣旨ではなく。

そう書かれている。

でも、その文の中には、佐伯の名前だけが残っていた。

安心材料。

明るくて、悪意のない言葉だった。

だからこそ、どこにも怒りをぶつけられなかった。

営業側の不安は分かる。

数字まわりに確認者を増やすのも正しい。

再発防止としても自然だった。

でも、その自然さの中で、佐伯だけが静かに固定されていた。

優作が返信を考えている間に、画面が更新された。

佐伯からだった。

承知しました。

次回以降、数字まわりは私単独で確定しない運用にします。

確認者を一名入れる形で整理します。

優作は、その返信を見つめた。

文面は丁寧だった。

早かった。

正しかった。

そして、ひどく痛かった。

佐伯は誰も責めていない。

大槻にも反発していない。

優作にも確認していない。

ただ、自分で自分を、単独では任せられない人として処理していた。

真壁がメールを見て、眉間に小さな皺を寄せた。

「一回、運用だけ合わせるか」

その声は重くなかった。

会議を開こう、ではない。

話し合おう、でもない。

ただ、業務を前に進めるための確認。

それなのに、優作の胸の奥で何かが重く沈んだ。

十時。

小会議室に集まった。

大きな会議室ではなかった。

六人で座ると、少し狭い。

窓の外では、雨がガラスに細い線を作っていた。

真壁がホワイトボードの前に立つ。

「大槻さんへの返信としては、数字まわりは二名確認にする。そこは問題ないと思う」

黒川が頷く。

「妥当です。属人化を防ぐ意味でも必要です」

美月は画面を見ていた。

桐谷はペンを指で回そうとして、やめた。

佐伯は、手元の資料を見ている。

優作は、佐伯の横顔を見た。

言葉をかけたい。

でも昨日から、その気持ちがもう信用できなかった。

「安心材料って言い方」

桐谷が、小さく言った。

全員の視線が少しだけ動く。

桐谷は口元だけで笑おうとした。

「なんか、保険のパンフみたいっすね」

沈黙が落ちた。

桐谷はすぐに目を伏せた。

「……いや、違うか」

誰も責めなかった。

責めないことが、余計に苦しかった。

桐谷は、ペンを机に置いた。

「ごめん、佐伯。今の、助けてないわ」

佐伯は首を横に振った。

「大丈夫です」

その言葉が出た瞬間、優作の喉が詰まった。

まただった。

また、佐伯が大丈夫と言った。

でも、今それを止める言葉を、優作は持っていなかった。

佐伯はメール画面を見たまま言った。

「僕を外すなら、外すでいいです」

優作は反射的に顔を上げた。

「外す話じゃない」

佐伯は、すぐには返さなかった。

画面に映る大槻のメールを見ている。

「でも、“安心材料”って、そういうことですよね」

優作は、言葉を失った。

佐伯は続けた。

「僕がいると、安心できないってことですよね」

誰も何も言わなかった。

雨の音が、窓に当たっている。

外の音のはずなのに、会議室の中に入り込んできている気がした。

「違う」

優作は言った。

言ったあと、その言葉の軽さに気づいた。

違う。

何が違うのか。

佐伯の責任ではない。

佐伯を外す話ではない。

確認体制の問題だ。

そう続けようとして、優作は止まった。

その言葉は、昨日から何度も使ってきた言葉だった。

確認体制。

全体の流れ。

佐伯だけではない。

それは間違っていない。

でも、佐伯の名前はそこに残ったままだった。

美月が静かに言った。

「悪いという話ではない、と言えば言うほど」

優作は美月を見た。

美月はメール画面を見ていた。

「佐伯さんの名前だけが、そこに残ります」

佐伯の指が、ほんの少し動いた。

美月は続けなかった。

それだけだった。

でも、その一言で、優作は何も言えなくなった。

誰も悪くない、という言葉で息ができる人がいる。
その同じ言葉で、息を止める人もいる。
傷ついた人の痛みだけが、置き場所を失う。

黒川が、少し間を置いて言った。

「責任は、罰ではありません」

全員が黒川を見た。

黒川の声はいつも通りだった。

冷たくはない。

熱くもない。

「責任は、次に同じことを起こさないための位置情報です。どこで何が起きたかを曖昧にすれば、再発防止はできません」

正しい。

誰も、それを否定できなかった。

美月が黒川を見た。

「位置を決める時に、人の痛みを見ないと」

少し間。

「そこに人が固定されます」

黒川はすぐに返さなかった。

画面に目を落とす。

眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。

「……それも、事実です」

その言葉で、会議室はさらに静かになった。

黒川の正しさが消えたわけではない。

美月の痛みが勝ったわけでもない。

どちらもそこに残った。

どちらも正しくて、だから誰も救われなかった。

桐谷が息を吐いた。

「俺、こういう時、いつもなんか言うじゃないですか」

誰も答えなかった。

桐谷は自分の手元を見ていた。

「まあまあ、とか。重いっすね、とか。雨の日って空気も湿りますね、とか」

少しだけ口元を上げた。

でも、笑いにはならなかった。

「俺が笑わせると、一回みんな助かるじゃないですか」

桐谷の声が、いつもより低くなった。

「でも、そのあと誰が助かってないか、見ないまま進むんすよ」

佐伯は、下を向いた。

桐谷はそのまま続けた。

「今日それやったら、佐伯の上に蓋する気がする」

小会議室の空気が重くなった。

桐谷の軽さが消えたわけではない。

軽くすることの怖さを、桐谷自身が初めて手で触っているようだった。

真壁がホワイトボードに向き直る。

「一回、整理するか」

そう言いかけて、ペンのキャップを閉めた。

「……いや、違うな」

優作が真壁を見る。

真壁はホワイトボードを見たまま言った。

「整理したら、また誰かを置いていく気がする」

真壁は椅子に座った。

いつもなら立って場を回す人が、座った。

それだけで、会議室の重心が落ちた。

「進めるって便利なんだよ」

真壁は言った。

「止まらなくて済むから」

誰も動かなかった。

「昨日も今日も、俺は仕事を進めた。大槻さんへの返しを決めて、スケジュールを見て、次の確認を置いた」

真壁は、指先でペンを転がした。

「仕事は進む」

少し間が空いた。

「人は置いていかれる」

優作は息を吸った。

何か言わなければいけない。

でも、どの言葉も遅かった。

真壁が、優作を見た。

責める目ではなかった。

疲れたような目だった。

「中村」

「はい」

「お前が悪者にならない分、誰かが代わりに悪者になる」

優作の喉が詰まった。

真壁は視線を落とした。

「俺も、進めることで逃げた」

少し間。

「だから、偉そうなことは言えない」

言葉はそこで止まった。

その先を、誰も引き取れなかった。

優作は、佐伯を見た。

美月を見る。

桐谷を見る。

真壁を見る。

黒川を見る。

全員が、何かを自分の中に持っていた。

そのどれも、優作が見ているつもりで、見ていなかったものだった。

「僕は」

優作は、ようやく口を開いた。

全員の視線が、少しだけ優作に向いた。

「誰かを悪者にしたいわけじゃなくて」

言った瞬間、胸の奥で何かが折れた。

まただ。

また、自分はそこに戻っている。

誰かを悪者にしたくない。

誰も傷つけたくない。

場を壊したくない。

でも、その言葉の裏で、誰かがずっと引き受けていた。

美月が、優作を見た。

責める目ではなかった。

それが余計に痛かった。

「私、強く言いたいわけじゃありません」

美月は言った。

「でも、弱く言うと、なかったことにされます」

優作は何も言えなかった。

「昨日もそうでした」

美月は、声を荒げなかった。

荒げなかったから、一つひとつが静かに沈んでいった。

「私の指摘は、“強い言い方”になりました」

優作は目を伏せた。

美月は、それ以上説明しなかった。

それだけで十分だった。

優作は、自分が美月を守ろうとしていたと思っていた。

場の中で、美月が尖って見えないように。

営業側に、強い人として扱われないように。

でも違った。

優作が角を取った分だけ、美月の言葉は、美月のものではなくなっていた。

悪者を作らないことと、責任を取ることは違う。
悪者を消したつもりでも、引き受けられなかった重さは、黙っている人の背中に残る。

佐伯が、ゆっくり口を開いた。

「僕、昨日から考えてました」

優作は佐伯を見た。

佐伯は、机の上の資料を見ていた。

「中村さんは、僕を守ろうとしてくれたんだと思います」

その言葉に、優作の胸が一瞬だけ揺れた。

救われそうになった。

その自分に、すぐ気づいた。

佐伯は続けた。

「でも、守ろうとしてくれた中村さんを、僕が守っていた気もします」

優作は意味が分からなかった。

分かりたくなかった。

「どういう」

声がかすれた。

佐伯は、顔を上げなかった。

「中村さんが悪者にならなくて済むように、僕が“大丈夫です”って言った気がします」

雨の音が、大きくなった。

優作の中で、昨日からの佐伯の言葉が一つずつ違う意味に変わっていく。

大丈夫です。

ありがとうございます。

こちらで進めます。

謝らなくて大丈夫です。

今、優しくされると、少ししんどいです。

それらは、佐伯が自分を守るための言葉だと思っていた。

違った。

佐伯は、優作を守っていた。

優作が、優しい人のままでいられるように。

優作が、悪者にならなくて済むように。

優作は、息を吸った。

「佐伯」

反射のように名前を呼んだ。

佐伯の肩が、ほんの少し動いた。

その瞬間、美月が一歩前に出た。

大げさな動きではなかった。

椅子を引く音も、小さかった。

ただ、優作と佐伯の間に、静かに立った。

「佐伯さん」

佐伯が顔を上げた。

「席に戻ってください」

優作は、美月を見た。

美月は優作を見ていなかった。

佐伯だけを見ていた。

「続きは、今じゃなくていいです」

佐伯は小さく頷いた。

「……はい」

資料を持つ手が、少し震えていた。

佐伯は立ち上がった。

優作の横を通る時も、優作を見なかった。

ドアが開く。

雨の音が、少しだけ大きく聞こえた。

ドアが閉まる。

優作は、追いかけようとした。

「佐伯、待っ」

「中村さん」

美月の声が、低く落ちた。

優作の足が止まった。

美月は、そこで初めて優作を見た。

「今は、優しくしないでください」

意味が分からなかった。

分かりたくなかった。

優しくしないでください。

その言葉は、優作の中に残っていた最後の場所を、まっすぐ切った。

「僕は、ただ」

美月は、短く言った。

「返事を、させないでください」

優作は黙った。

何の返事か、分かってしまった。

大丈夫です。

分かっています。

ありがとうございます。

謝らなくて大丈夫です。

その全部。

美月は目を逸らさなかった。

「佐伯さんの仕事じゃありません」

その一言で、優作は動けなくなった。

小会議室の中で、誰も動かなかった。

桐谷は机を見ていた。

真壁は目を閉じていた。

黒川は、何かを言おうとして、言わなかった。

美月は、優作の前に立ったままだった。

優作は、自分の手が少し震えていることに気づいた。

謝りたかった。

でも、謝れば、また誰かが受け取る側になる。

説明したかった。

でも、説明すれば、自分を守る言葉になる。

誰も悪くないと言いたかった。

それだけは、もう言えなかった。

八方に向けた優しさは、誰にも刃を向けない。
その代わり、誰の前にも立たない。
全員を守ろうとした人が、最後に誰の側にもいなかったことだけが残る。

雨は、窓を叩いていた。

朝から降っていた雨は、いつの間にか音を変えていた。

細い雨ではない。

傘で防げる雨でもない。

窓の向こうの景色が、白く霞んでいた。

美月は、佐伯が出ていったドアを一度だけ見た。

それから、優作を見る。

「今日は、ここまでにしましょう」

その声は、冷たくなかった。

でも、優しくもなかった。

誰も反対しなかった。

桐谷が立ち上がる。

椅子の脚が床をこする音がした。

黒川がノートパソコンを閉じる。

真壁がホワイトボードに書いた「確認体制」という文字を見た。

消そうとして、やめた。

美月は最後まで、優作の近くにいた。

佐伯を追わせないための距離だった。

優作は、その距離の意味を理解してしまった。

今の自分は、誰かを守るために近づく人ではない。

守るために、近づけてはいけない人になっている。

一人ずつ、会議室を出ていった。

桐谷は何も言わなかった。

真壁も何も言わなかった。

黒川も何も言わなかった。

美月はドアの前で一度だけ振り返った。

「中村さん」

「はい」

美月は、少しだけ間を置いた。

「佐伯さんに、返事をさせないでください」

それだけ言って、出ていった。

ドアが閉まった。

優作だけが残った。

ホワイトボードには、真壁が書いた文字がまだ残っている。

確認体制。

安心材料。

二名確認。

佐伯単独ではなく。

優作は、その文字を見ていた。

雨の音が、会議室の壁を越えてくる。

昨日までは、まだ歩けた。

まだ前が見えた。

まだ、濡れているだけだと思えた。

でも今は違った。

どこへ進めばいいのか分からなかった。

優作は、佐伯を守れなかったのだと思っていた。

でも、違った。

佐伯は、優作を守っていた。

優作が、優しい人のままでいられるように。

美月は、その場所から優作を静かに外した。

優作はその時、誰かを守るために黙っていたのではなく、誰かに自分を守らせていたのだと思った。

第36話へ続く。
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