第36話
聞くことしかできなかった
前話:大槻からの明るいメールは、佐伯の名前だけを「安心材料が必要な人」として残した。優作は誰も悪者にしない言葉を探したが、その優しさの裏で、佐伯は「中村さんが悪者にならなくて済むように、僕が“大丈夫です”って言った気がします」と告げた。追おうとした優作を、美月は静かに止めた。「今は、優しくしないでください」「佐伯さんに、返事をさせないでください」。優作は初めて、自分が誰かを守っていたのではなく、誰かに自分を守らせていたのだと思った。
雨は、午後になっても弱まらなかった。
窓の外は白く霞んでいた。
遠くのビルの輪郭が、雨に削られている。
さっきまで小会議室にいたはずなのに、優作は自分がどうやって席まで戻ってきたのか、うまく思い出せなかった。
机の上には、開いたままのパソコンがある。
画面には、未読のチャットが並んでいる。
営業資料。
確認体制。
数字まわり。
最終反映。
全部、仕事の言葉だった。
仕事の言葉だけが、淡々と動いていた。
優作は椅子に座った。
隣の島では、桐谷が誰かの資料を確認している。
真壁は電話で短く返事をしている。
黒川は変更履歴を見ている。
美月は佐伯の席の横に立ち、画面を指差して何かを確認していた。
佐伯は小さく頷いていた。
優作は、その輪の外にいた。
誰も、優作を責めなかった。
それが、一番きつかった。
責められたら、謝れた。
怒られたら、頭を下げられた。
失望されたと言われたら、受け止める顔くらいは作れた。
でも誰も、優作に役割を渡さなかった。
そこにいてもいい。
でも、近づかないでほしい。
そんな場所に、自分が立っている気がした。
佐伯の席に目を向ける。
声をかけたいと思った。
大丈夫か。
無理していないか。
何かできることはあるか。
いつもなら、そう言えた。
それが優しさだと思っていた。
優作は付箋を一枚取った。
ペンを持つ。
佐伯へ。
昨日のこと、少し話したい。
無理しなくていい。
そこまで書いて、手が止まった。
無理しなくていい。
その言葉を見た瞬間、佐伯が「大丈夫です」と返す顔が浮かんだ。
違う。
また言わせる。
また受け取らせる。
また、佐伯にこちらの優しさを処理させる。
優作は付箋を剥がした。
丸めようとして、できなかった。
捨てることもできず、引き出しの奥に入れた。
引き出しを閉める音が、やけに大きく聞こえた。
優しさを渡したつもりだった。
けれど本当は、相手に「あなたは悪くない」と言わせる場所を作っていた。
チャットが鳴った。
佐伯からだった。
修正版、格納しました。
確認お願いします。
優作は返信欄を開いた。
確認します。ありがとう。
打って、止まる。
ありがとう。
それは、いつもの言葉だった。
でも今は、佐伯に何かを受け取らせる言葉に見えた。
消す。
確認します。
それだけが残った。
冷たい。
でも、これ以上何かを足すのが怖かった。
優作は送信した。
すぐに既読がついた。
少し遅れて、佐伯から返事が来た。
承知しました。
はい、ではなかった。
大丈夫です、でもなかった。
承知しました。
業務の言葉だった。
必要な距離の言葉だった。
優作は画面を見たまま、指先を動かせなかった。
昼前、桐谷がコンビニの袋を持って戻ってきた。
袋の中で缶コーヒーが小さく鳴る。
いつもなら、何か言う。
「中村さん、顔が月曜の会議資料みたいっすよ」
そんな雑な冗談で、少しだけ空気を逃がす。
でも桐谷は何も言わなかった。
優作の机の横を通りかけて、一度止まる。
袋から缶コーヒーを一本出した。
「これ」
机に置きかけて、止めた。
桐谷は、缶を持ったまま視線を落とした。
「……いや」
小さく笑おうとして、できなかった。
「自分で飲みます」
そう言って、自分の席に戻った。
優作は、何も言えなかった。
もらってもいない缶コーヒーが、胸の前に置かれたままのような気がした。
桐谷にまで、迷わせている。
軽くする人から、軽さを奪っている。
それでも、優作には何もできなかった。
午後一時。
真壁が全体に声をかけた。
「大槻さんへの返信、十五時までに一本化する。数字確認は黒川さんと相沢で見る。表現は桐谷、営業寄せの文言だけ拾ってくれ」
全員が短く返事をした。
優作は、自分の名前が呼ばれないことに気づいた。
呼ばれなかったのではない。
外されたのでもない。
今、呼べないのだ。
その方が痛かった。
真壁は一度だけ優作を見た。
「中村」
「はい」
「今日は、俺に預けるなよ」
優作は何も返せなかった。
真壁は、それ以上言わなかった。
優作を責めるでもなく、励ますでもなく、ただ仕事に戻った。
その距離が、胸に残った。
助けないことが、今の真壁の助けなのだと分かってしまった。
分かってしまうことが、苦しかった。
美月が、資料を持って優作の席の近くを通った。
優作は反射的に立ち上がった。
「相沢さん」
美月は足を止めた。
「はい」
その一音だけで、優作は何も言えなくなった。
謝りたい。
昨日のことも、さっきのことも、自分が何もできなかったことも。
でも謝れば、美月はそれを受け取るか、拒むかを選ばされる。
受け取れば、美月が優しい人になる。
拒めば、美月が冷たい人になる。
どちらにしても、また美月に何かを持たせる。
「……すみま」
言いかけた瞬間、美月の目が少しだけ細くなった。
怒りではなかった。
疲れでもなかった。
もう一度、渡されるのだと分かった人の目だった。
優作は言葉を飲み込んだ。
美月は、少しだけ待った。
その沈黙が、優しさではなく、確認のように感じた。
「中村さん」
「はい」
「今の顔で、来ないでください」
優作は、息を止めた。
美月は続けなかった。
たったそれだけだった。
でも、その短さが一番痛かった。
言い訳も、謝罪も、反省も、まだ形になる前に止められた。
美月は資料を胸の前に持ち直した。
「必要な確認なら、チャットでください」
そう言って、歩いていった。
優作は立ったまま、何もできなかった。
相手を傷つけないために黙ったのではない。
嫌われる場所に立てない自分を、配慮という名前で隠していた。
雷が鳴った。
遠くではなかった。
窓が一瞬、白く光った。
誰かが小さく肩を動かした。
オフィスの中は変わらず仕事をしている。
それなのに、優作だけが音の中に取り残されているようだった。
黒川が近づいてきた。
手には資料を持っている。
「中村さん」
「はい」
「この箇所、中村さんの確認待ちです」
優作は画面を見た。
資料の一部にコメントが残っている。
最終的にどちらの表現で先方に返すか。
判断が必要な箇所だった。
優作は口を開きかけた。
「すみま」
黒川が遮った。
「謝罪は不要です。判断してください」
その声は冷静だった。
冷たくはない。
でも、逃がさなかった。
優作は資料を見る。
A案は営業側の使いやすさを優先している。
B案は数字の正確性と誤解防止を優先している。
どちらも間違いではない。
どちらも、誰かの痛みに触れる。
A案にすれば、美月と黒川が気にした再発防止が薄くなる。
B案にすれば、営業側の不安が残る。
どちらを選んでも、誰かに重さが落ちる。
優作は、何も言えなかった。
黒川は、資料を持ったまま待っていた。
優作は、その待つ姿勢にさえ耐えられなくなった。
「少し、考えます」
ようやく言えたのは、それだけだった。
黒川は頷いた。
「十五時までです」
そして、少しだけ間を置いた。
「判断しない場合も、判断として残ります」
優作は顔を上げた。
黒川はそれ以上言わず、席に戻った。
判断しないことも、判断。
その言葉は、オフィスの音に紛れなかった。
優作の中に、まっすぐ残った。
優作は、ずっと選ばないことで誰かを傷つけないと思っていた。
でも、選ばない間にも、誰かが代わりに選んでいた。
誰かが言葉を飲み込んでいた。
誰かが大丈夫と言っていた。
誰かが場を進めていた。
誰かが笑おうとしていた。
誰かが正しさを引き受けていた。
自分は、何をしていたのだろう。
聞いていた。
寄り添っていた。
言葉を選んでいた。
怒らないようにしていた。
傷つけないようにしていた。
その全部が、急に別の形に見えた。
聞く人でいれば、決めなくてよかった。
寄り添う人でいれば、前に立たなくてよかった。
怒らない人でいれば、嫌われる場所に立たなくてよかった。
優作は、画面の文字が滲んで見えるのを感じた。
泣いてはいなかった。
ただ、目の前のものに焦点が合わなかった。
僕は、優しかったんじゃない。
怒るのが怖かっただけだ。
誰かを守っていたんじゃない。
自分が嫌われない場所を探していただけだ。
聞いていたんじゃない。
決めなくていい場所に座っていた。
寄り添っていたんじゃない。
前に立たなくて済む場所に、いた。
午後三時。
大槻への返信は、真壁がまとめた。
佐伯は数字確認の修正履歴を添付した。
美月は補足文を短く整えた。
黒川はチェック欄を追加した。
桐谷は営業向けの表現を少し柔らかくした。
優作は、最終確認の欄に名前を入れた。
入れただけだった。
送信ボタンを押したのは真壁だった。
「送ります」
誰も何も言わなかった。
送信音だけが、小さく鳴った。
仕事は進んだ。
人は置いていかれた。
その中に、優作もいた。
夕方になるにつれて、雨はさらに強くなった。
ビルの窓が風で鳴る。
外を歩く人の傘が、何度もひっくり返っていた。
エントランスでは、帰る人たちが足を止めている。
少し待とうか。
今出たら濡れるよ。
そんな声が聞こえた。
優作は、机の前で鞄を持ったまま立っていた。
佐伯はすでに帰っていた。
美月もいない。
桐谷は誰かと短く話している。
真壁は電話中だった。
黒川はまだ席にいる。
声をかける相手は、どこにもいなかった。
いや、いた。
でも、かけられなかった。
優作は会社を出た。
傘を開いた瞬間、風に持っていかれそうになった。
雨が横から吹きつける。
靴の中に水が入る。
ズボンの裾が重くなる。
駅までの道が、いつもより長かった。
信号待ちで、スマホが震えた。
大槻からだった。
本日はご対応ありがとうございました。
明日の朝、少しだけ最終確認のお時間いただけますか?
優作は画面を見た。
返信欄を開く。
承知しました。
打てない。
大丈夫です。
打てない。
確認します。
打てない。
どの言葉も、誰かの顔を連れてくる。
佐伯が大丈夫と言う顔。
美月が止める顔。
真壁が黙って頷く顔。
桐谷が笑えなくなる顔。
黒川が判断を待つ顔。
優作はスマホを閉じた。
駅のホームに着いた時、電車が来ていた。
人が乗っていく。
ドアの閉まる音がする。
優作は乗らなかった。
次の電車が来た。
それにも乗らなかった。
雨はホームの屋根を叩いていた。
風に押された雨粒が、屋根の下まで入り込んでくる。
誰かの濡れた傘が、優作の靴に触れた。
その人は小さく謝った。
優作は、首を横に振った。
大丈夫です、と言いかけて、言えなかった。
言えなかった言葉が、喉の奥に残った。
聞く人でいれば、決める人にならずに済んだ。
寄り添う人でいれば、前に立たなかった自分を許せた。
優作は、ベンチに座った。
スマホの画面は暗い。
暗い画面に、自分の顔が映っている。
優しい人の顔には見えなかった。
かといって、悪い人の顔にも見えなかった。
ただ、何も決められなかった人の顔があった。
雨の音が強くなる。
雷が、空の奥で低く鳴った。
優作はその夜、自分が誰かの声を聞けなかったのではなく、誰にも自分の声を渡せなくなっていたのだと思った。
第37話へ続く