第13話
「優しい人ほど、相手を見ていない」
前話:優作は、美月への負担を減らすつもりで、田辺案件の追加情報を一度自分たちだけで整理しようとした。しかしそれは、美月から見れば“助ける”ではなく“外す”行為だった。謝罪は受け取られたが、美月は「明日、もう一度話しましょう」とだけ言った。
翌朝。
優作は、いつもより早く会社に着いた。
早く来たところで、何かが解決するわけではない。
それでも、じっと家にいるよりはましだった。
昨日の美月の声が、何度も頭の中で戻ってくる。
「それは助けるじゃなくて、私を外しただけです」
何度思い返しても、胸の奥が冷たくなる。
言い返した自分の声も残っていた。
「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」
あれは、完全に逃げだった。
分かっている。
でも、分かっているのと、受け止められるのは違う。
優作はデスクに座り、PCを開いた。
けれど、画面の文字がほとんど入ってこなかった。
少しして、美月が出社してきた。
「おはようございます」
いつも通りの声。
「……おはようございます」
優作も返す。
美月は自分の席にバッグを置き、PCを開いた。
それだけだった。
昨日までなら、少しだけ目が合ったかもしれない。
今日は、合わなかった。
その方が、よほどこたえた。
午前十時。
美月からチャットが来た。
11時、会議室Bでお願いします。
一行だけ。
優作は画面を見つめる。
承知しました。
送信したあと、手のひらが少し湿っていることに気づいた。
11時までの一時間が、やけに長かった。
会議室B。
美月はすでに座っていた。
ノートPCは開いていない。
資料もない。
仕事の話ではある。
でも、資料で片づける話ではない。
優作は向かいに座った。
「昨日は、すみませんでした」
美月はすぐには返さなかった。
数秒置いてから、静かに言う。
「謝ってほしいだけではないです」
「……はい」
「中村さんが何をしたかは、昨日分かりました。
今日は、なぜそれをしたのかを話したいです」
優作は、喉がつまるような感覚になった。
なぜ。
そこを聞かれるのが、一番きつい。
「負担をかけたくなかったからです」
言いながら、自分でも薄いと思った。
美月はまっすぐ見ていた。
「それ、本当に私のためだけでしたか」
優作は答えられなかった。
美月は続ける。
「私に言ったら、厳しく返されると思ったんじゃないですか」
胸の奥を、何かで突かれた。
「……それは」
「私が忙しそうだったから。
負担をかけたくなかったから。
整理してから渡したかったから」
美月は昨日と同じ言葉を並べた。
「たぶん全部、本当だと思います」
優作は少しだけ顔を上げる。
「でも、それだけじゃないですよね」
息が止まる。
美月の声は、怒っているというより、冷静だった。
だから余計に逃げ場がなかった。
「私に言って、詰められるのが嫌だった。
“それ、確認しましたか?”って聞かれるのが嫌だった。
自分たちで先に形にしてから出せば、少しは楽だと思った」
優作の指先が、膝の上で動いた。
言われたくないことほど、正確だった。
「……はい」
ようやく声が出た。
「それも、ありました」
美月は目を伏せない。
「そこを言わないまま“助けたかった”にすると、相手を悪者にします」
その一言は、昨日より深く刺さった。
優作は何も言えない。
美月は少しだけ息を吐いた。
「中村さんは、優しいです」
その言葉に、優作は一瞬だけ固まった。
褒められたわけではないと、すぐに分かった。
「でも、その優しさは時々、相手を見ていないです」
会議室が、急に狭く感じた。
「相手が何を望んでいるかより、
自分がどう見られたくないかを優先している時があります」
優作は、視線を落とした。
逃げたい。
でも、逃げたらまた同じになる。
美月は続けた。
「相手を傷つけたくない。
負担をかけたくない。
怒らせたくない。
嫌われたくない」
一つずつ、ゆっくり言う。
「その全部が混ざった時、優しさはすごく曖昧になります」
優作の胸の中で、何かが崩れていく。
優しさが危ないのは、相手を思っている時じゃない。
相手を思っている顔で、自分を守っている時だ。
それは、聞きたくなかった。
でも、たぶん今の自分に一番必要な言葉だった。
「相沢さん」
「はい」
「僕は……相沢さんに嫌われたくなかったんだと思います」
言ってから、心臓が跳ねた。
仕事の話の中に、仕事ではないものが少しだけ混ざった。
でも、もう取り消せない。
美月の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
優作は続けた。
「厳しく言われるのも怖かったです。
また曖昧だって思われるのも嫌でした。
だから、先に何とかしようとした。
でもそれは、相沢さんを助けたんじゃなくて、自分を守っただけでした」
言い切ったあと、会議室は静かだった。
美月は、すぐには何も言わなかった。
その沈黙は、昨日のものとは少し違った。
冷たいというより、受け取るための沈黙だった。
「……そこまで言うなら」
美月が口を開く。
「私は、もう一つ言います」
優作は背筋を伸ばした。
「はい」
「中村さんのそういうところ、見ていて苦しくなる時があります」
優作は息を止めた。
「優しいのに、肝心なところで相手に聞かない。
相手のためと言いながら、勝手に背負って、勝手に苦しくなって、最後に“分かってほしかった”みたいな顔をする」
一言ごとに、胸が締めつけられた。
「それを見ていると、こっちまで苦しくなります」
美月の声が、少しだけ揺れた。
それは怒りより、ずっと近い感情だった。
「だから昨日、腹が立ちました」
優作は顔を上げる。
「腹が立ったんです。
外されたことにも。
でも、それ以上に」
美月は少しだけ言葉を切った。
「また中村さんが、自分を悪者にしないために、優しさを使ったことに」
優作は、何も言えなかった。
冷や汗が背中を流れる。
美月にここまで言わせたことが、痛かった。
それでも、美月は席を立たなかった。
逃げ道を閉ざすためではない。
たぶん、まだ話を終わらせないために。
「昨日、謝ってくれたのは受け取りました」
「はい」
「でも、次に必要なのは、謝ることじゃないです」
「……何ですか」
「聞くことです」
美月はまっすぐ言った。
「相手のために何かをする前に、聞いてください。
“今共有していいですか”
“先に情報だけ渡しますか”
“整理してからの方がいいですか”
それだけでよかったんです」
優作は小さくうなずいた。
本当に、それだけだった。
自分は、相手を思う前に、相手に聞くことを飛ばした。
本当に相手を大事にする人は、勝手に背負わない。
相手が選べる余地を、ちゃんと残す。
その言葉が、優作の中に深く沈んだ。
「相沢さん」
「はい」
「次から、聞きます」
美月はすぐには頷かなかった。
「“次から”は、少し信用していません」
優作は苦笑もできなかった。
「はい」
「なので、今ここで一つ聞いてください」
「え?」
「私に」
優作は、言葉に詰まった。
今ここで。
何を聞く?
美月は待っている。
怒っている顔ではない。
でも、試している顔でもない。
ただ、優作が自分で言葉を選ぶのを待っている。
優作は息を吸った。
「昨日の件、相沢さんは……僕にどうしてほしかったですか」
美月の表情が、少しだけ変わった。
やっと聞いた。
そんな顔に見えた。
「最初に、共有だけしてほしかったです」
「はい」
「“今、田辺さんからこう来ています。真壁さんと整理しますが、先に共有します”
それだけでよかったです」
「……はい」
「私は、全部背負ってほしかったわけじゃないです」
美月は静かに言う。
「外さないでほしかっただけです」
優作は、その言葉を受け止めた。
外さないでほしかっただけ。
たぶんそれが、昨日の全部だった。
会議室を出る頃には、昼前になっていた。
仲直り、という感じではない。
でも、昨日よりは少しだけ息ができた。
優作が席に戻ると、桐谷が横目で見た。
「生きてるか」
「ぎりぎり」
「何言われた?」
優作は椅子に座りながら答える。
「優しい人ほど、相手を見てない時があるって」
桐谷は少しだけ黙った。
「……それ、刺さるな」
「かなり」
「お前、今日はその“かなり”使っていいわ」
優作は小さく笑った。
笑えたことに、自分で少し驚いた。
午後。
田辺案件の続きで、美月が優作に声をかけた。
「中村さん」
「はい」
「さっきの追加要望、整理したものを見ますか」
優作は一瞬だけ迷い、すぐに言った。
「見たいです。
ただ、今見ていいか、相沢さんの都合を聞いてからにします」
美月は少しだけ目を細めた。
「今なら大丈夫です」
それだけ。
でも、その一言で優作は少し救われた。
関係は、元に戻ったわけじゃない。
でも、完全に切れたわけでもない。
言葉を雑にしなければ、
少しずつ戻せる場所は残っている。
夕方。
優作のチャットに、美月から一件届いた。
今日の話、言いすぎた部分はありました
優作は画面を見つめる。
すぐに返信する。
でも、必要でした
少し間があって、既読がつく。
なら、よかったです
その後、もう一通。
ただ、次に同じことをしたら、今度はもっと怒ります
優作は少しだけ笑った。
それは怖いです
すぐに返ってくる。
聞けば防げます
優作は、その文を見て、また少しだけ笑った。
美月らしい。
厳しい。
でも、ちゃんと戻る道を残してくれる。
優作は短く返す。
聞きます
送信してから、少しだけ考えて、もう一文足した。
外さないようにします
既読はついた。
返事は、しばらく来なかった。
でも、数分後。
それなら、いいです
それだけ返ってきた。
優作はスマホを伏せる。
胸の奥に、まだ痛みは残っている。
でもその痛みは、昨日のように冷たくはなかった。
たぶん、これは必要な痛みだ。
帰り際。
美月が席を立つ。
優作も少し遅れて立ち上がる。
オフィスの出口で、たまたま並んだ。
何か言うべきか迷っていると、美月が前を向いたまま言った。
「中村さん」
「はい」
「今日、ちゃんと聞けましたね」
優作は少しだけ息を止める。
「……はい」
美月は続ける。
「でも、まだ半分です」
「半分」
「聞いたあと、ちゃんと覚えているところまでで一セットです」
優作は思わず笑った。
「厳しいですね」
「必要なので」
いつもの言い方だった。
でも、昨日より少しだけ近かった。
ビルの外に出ると、夜の空気が冷たかった。
優作は、今日の会話を思い返す。
優しさは、言葉にしないと独断になる。
気遣いは、聞かなければ押しつけになる。
相手のために動くなら、まず相手に聞く。
簡単なことなのに、ずっとできていなかった。
そして、優作はまだ知らない。
この“聞く”という小さな一歩が、
次に、彼が一番聞きたくなかった本音を引き出すことになる。
相手は、美月ではない。
ずっと近くで笑っていた、
あの同期だった。
第14話へ続く。