第2話
「ちょっとだけ」が、一番長い
午後のオフィスは、少しだけ慌ただしかった。
キーボードの音が増えて、
電話の声も少しだけ大きくなる。
中村優作は、画面のチャットを見つめていた。
『中村くん、悪い。例の案件、ちょっとだけ見といてもらっていい?』
『たぶんすぐ終わるから!』
優作はさっき送った自分の返信を見返す。
了解です
(……まあ、すぐ終わるって言ってたし)
そう思って、資料を開いた。
──10分後。
(……いや、これ“ちょっと”じゃないだろ)
スライドは30枚近くある。
しかも、内容はほぼ初見だ。
「優作」
後ろから声が飛んできた。
振り向くと、桐谷ケイ(同期)が腕を組んで立っている。
「それ、“ちょっとだけ”じゃない顔してるぞ」
「……いや、まあ」
優作は苦笑いした。
「でも、頼まれたし」
桐谷はため息をつく。
「お前さ、“頼まれたし”で全部受けるの、そろそろやめろよ」
「いやでも、先輩だし」
「それ、断れない理由になってないからな」
優作は何も言えなかった。
30分後。
優作はまだその資料を見ていた。
自分の仕事は、止まったままだ。
そこへ、美月(1つ先輩)が通りかかる。
「中村さん」
「……はい」
「さっきの件、終わりました?」
優作は一瞬言葉に詰まる。
「……まだです」
美月は、優作の画面をちらっと見る。
「それ、別件ですよね」
「……はい」
「“ちょっとだけ”ですか?」
優作は苦笑いした。
「まあ……そんな感じで」
美月は少しだけ沈黙してから言った。
「それ、“ちょっとだけ”って言った人は、どこまでやってほしいか言ってます?」
「いや……そこまでは」
「じゃあ、それ中村さんが勝手に膨らませてます」
優作は固まる。
「え?」
「“見といて”って、どこまでですか?」
「……」
「コメント?修正?構成見直し?」
「……たしかに」
「曖昧な依頼を、そのまま全部受けると、仕事は増えます」
美月は淡々と言った。
「しかも、“やってくれる人”扱いされます」
その言葉が、少しだけ刺さった。
そのときだった。
優作のチャットがまた光る。
真壁からだ。
『どう?ざっと見てもらえた?』
優作は画面を見つめる。
(……ざっと、ってどこまでだ)
指が止まる。
さっきまでなら、こう返していた。
「大丈夫です、全部見ます」
でも今日は、少し違った。
優作はキーボードを打つ。
『確認なんですが、“ざっと”ってどこまで見ればいいですか?
構成だけでいいですか?それとも内容までチェックした方がいいですか?』
送信ボタンを押す。
少しだけ、怖い。
(細かいって思われないかな)
そのとき、後ろから桐谷の声がした。
「お、聞いたな」
「……まあ」
「それだけで、だいぶマシだぞ」
優作は画面を見たまま、小さく息を吐いた。
数秒後。
真壁(4つ先輩)から返信が来る。
『あ、構成だけでいい!細かいとこはこっちでやるわ!』
優作は一瞬、動きを止めた。
(……え、そこだけでよかったのか)
さっきまで、自分がやろうとしていた作業の大半が、消えた。
「……」
優作は椅子にもたれた。
美月が横で小さく言う。
「ね」
「……はい」
「“ちょっとだけ”って、だいたい広いんです」
優作は苦笑した。
「今日、やっとわかりました」
「遅いです」
でも、その声は少しだけ柔らかかった。
優作は自分の仕事に戻る。
止まっていた資料を開く。
さっきより、少しだけ頭がクリアだ。
でも——
画面の端に、未読のチャットがもう一つ光っていた。
送り主は、佐伯(6つ後輩)。
『中村さん、すみません。
さっきの資料、“迷ったら聞いて”って言われたんですけど……
どのタイミングで聞いていいか、迷ってます』
優作は一瞬、固まった。
(……あ)
“迷ったら聞いて”
それも、曖昧だ。
優作は、ゆっくりキーボードに手を置く。
さっき覚えたばかりのことを、
今度は自分が使えるかどうか。
その一文を、どう言い換えるか。
優作はまだ、その途中にいる。
第3話へ続く。