第9話
「それは、できません」と言えますか?
朝から、真壁の声は少し大きかった。
「いや、だから今日中に一回出したいんだよ」
電話越しの相手に、真壁は笑いながら言っている。
笑っているのに、少しだけ圧がある。
中村優作は、自分の席で資料を見ながら、その声を聞いていた。
嫌な予感がする時の真壁は、たいてい語尾が軽い。
「ちょっとだけ」
「ざっくりで」
「一回だけ」
その軽さの中に、だいたい重たいものが入っている。
電話を終えた真壁が、優作の席にやってきた。
「中村くん、悪い」
きた。
優作は心の中で小さく身構える。
「何ですか」
「今日の夕方までに、例の提案資料、軽く整えられる?」
「例の、ってどの件ですか」
「昨日話した新規開拓のやつ」
優作は画面の予定表を見る。
午前は社内会議。
午後は佐伯の資料確認。
夕方には別件の提出。
軽く整える余白は、たぶんない。
「今日中、ですか」
「うん。そんなに重くなくていいから。見た目だけ」
“見た目だけ”
その言葉が、また少し危ない匂いを出す。
優作は一度、口を開きかけた。
分かりました。
いつもの言葉が、喉まで来た。
でも、そこで止まった。
最近の自分は、これで何度も仕事を増やしてきた。
曖昧に受けて、
あとから膨らんで、
勝手に苦しくなって、
それでも相手には「大丈夫です」と言ってしまう。
真壁は悪気なく待っている。
「どう?」
優作は少しだけ息を吸った。
「すみません。今日中にはできません」
言った瞬間、周りの音が少しだけ遠くなった気がした。
真壁の眉が上がる。
「え、無理?」
「はい。今日の予定だと、夕方までに“見た目だけ”でも整える時間は取れないです」
言いながら、優作の心臓はかなり速い。
断った。
今、断った。
でも、言い方が強すぎた気もする。
冷たく聞こえなかったか。
真壁の機嫌を悪くしなかったか。
そういう考えが、一気に頭をよぎる。
真壁は少し困った顔をした。
「そっか……でも先方に一回見せたいんだよな」
その一言で、優作の中の古い癖が動く。
じゃあ、やります。
多少遅くなっても。
そう言いそうになる。
その時、斜め前から美月の視線を感じた。
何も言わない。
ただ見ている。
その視線が、なぜか優作の背中を少しだけ支えた。
優作は言葉を選び直した。
「今日中に完成形は無理です。
ただ、今できることはあります」
真壁が顔を上げる。
「例えば?」
「先方に見せる前提なら、今日中に全部整えるより、まず構成だけ確認した方がいいと思います。
僕が今日できるのは、15分で構成の粗さを見ることです。見た目の整えは明日の午前ならできます」
真壁は黙った。
優作は続ける。
「なので、今日出すなら“完成資料”ではなく、“方向性確認用のたたき台”として出す。
それなら手伝えます。
でも、完成版として出すのは厳しいです」
言い切った。
逃げずに。
怒らずに。
でも、曖昧にもせずに。
自分の中で、少しだけ手が震えていた。
真壁は腕を組んだ。
「うーん……」
長い。
その沈黙が長い。
優作は、また不安になる。
言い過ぎたか。
冷たかったか。
真壁に嫌な顔をさせたか。
でも、美月が以前言っていた言葉が頭に浮かぶ。
細かいのと、曖昧なのは違います。
今のこれは、たぶん細かい方だ。
曖昧に逃げたわけじゃない。
やがて真壁は、ふっと息を吐いた。
「なるほどな。
じゃあ今日出すのは、方向性確認って形にするか」
優作は少しだけ肩の力を抜いた。
「はい。その方が先方も判断しやすいと思います」
「分かった。15分だけ見て」
「はい。15分ならできます」
“ならできます”
その言葉を言えたことに、自分で少し驚いた。
できません、で終わらせない。
でも、全部は背負わない。
それだけで、会話の重さが少し変わる。
真壁が去ったあと、優作は椅子に座り直した。
思った以上に疲れた。
ただ断っただけなのに。
いや、違う。
ただ断るより難しかった。
相手を否定しない。
自分も潰さない。
代わりにできることを出す。
それは、思っていたよりずっと神経を使う。
すると、美月が席から声をかけてきた。
「中村さん」
「はい」
「今の、よかったです」
優作は少しだけ顔を上げる。
「……そうですか」
「はい。断ったんじゃなくて、条件を出しました」
その言い方が、妙にしっくりきた。
断ったんじゃない。
条件を出した。
優作は小さくうなずく。
「でも、ちょっと怖かったです」
「でしょうね」
「そこは否定しないんですね」
「事実なので」
美月はいつも通りだった。
でも、少しだけ目がやわらかい気がした。
「中村さんは、“できません”を言うと、相手を傷つけると思ってるんだと思います」
優作は一瞬黙る。
たしかに、そうかもしれない。
断ることは、相手を拒むこと。
そう思っていた。
だから、無理でも受ける。
受けてから苦しくなる。
苦しくなってから、言葉が雑になる。
「でも」
美月は続けた。
「できないことを曖昧に受ける方が、あとで相手を困らせます」
優作は、胸の奥をつかまれたような気がした。
“できません”は冷たい言葉じゃない。
曖昧に受けて、あとで崩れる方がずっと相手を不安にさせる。
それは、今日いちばん痛い発見だった。
昼過ぎ。
真壁の資料を15分だけ見ることになった優作は、会議室に入った。
真壁はPCを開きながら、少し照れくさそうに言う。
「さっきは悪かったな。いつもの感じで頼んだわ」
「いえ」
「俺さ、“軽く”って言う時、たぶん軽くないんだよな」
優作は思わず笑った。
「最近、それはちょっと分かってきました」
「言うねえ」
「言えるようになってきました」
真壁は一瞬黙って、それから笑った。
「いいじゃん」
優作は資料を見る。
たしかに内容はまだ粗い。
でも、先方に出す目的を「方向性確認」にすれば、十分使える。
「ここ、先方に何を判断してほしいかを先に書いた方がいいですね」
「たとえば?」
「“本日は詳細確認ではなく、方向性の可否を確認したいです”と最初に入れるとか」
「なるほど」
「あと、未確定のところは未確定って書いた方がいいです」
「それ、弱く見えない?」
「隠すと、あとでズレます」
真壁は少しだけ口を閉じた。
それから小さくうなずく。
「……それ、最近の中村くんが言うと説得力あるな」
「褒めてます?」
「半分」
「残り半分は?」
「反省を促してる」
「それは痛いです」
二人は少しだけ笑った。
会議室を出ると、佐伯が廊下で待っていた。
「中村さん、少しいいですか」
「うん」
佐伯は手元のメモを見ながら言う。
「今日、先輩から追加作業を頼まれたんですけど、正直きつくて……でも断ると感じ悪いかなと思って」
優作は思わず苦笑した。
「今日、それ流行ってるの?」
「え?」
「いや、こっちの話」
佐伯は困ったように笑う。
「どう言えばいいですかね」
優作は少し考えた。
前なら、たぶんこう言っていた。
「頑張れ」
「無理なら言え」
「早めに相談しろ」
全部正しい。
でも、佐伯はそれを聞きたいんじゃない。
必要なのは、言い方だ。
「断るっていうより、条件を出すといいかも」
「条件?」
「うん。
“今日中に全部は難しいです。ただ、〇時までならここまでできます”って言う」
佐伯はメモを取る。
「全部無理、じゃなくて、ここまではできる」
「そう」
「それなら言えそうです」
その言葉に、優作は少しだけ嬉しくなる。
言えるかもしれない。
そう思えるだけで、人は少し動ける。
夕方。
佐伯が優作の席にやってきた。
「言えました」
「お」
「“全部は難しいですが、今日中にここまではできます”って言ったら、相手が“じゃあそこまでで大丈夫”って」
優作はうなずいた。
「よかった」
「思ったより、怒られなかったです」
「だろうな」
「でも、言う前はめちゃくちゃ怖かったです」
「分かる」
その会話を聞いていた桐谷が、横から言う。
「優作、今日ちょっと先生みたいだな」
「やめろ」
「いや、いい意味で」
「いい意味でも嫌だ」
桐谷は笑って去っていく。
少し離れた場所で、美月がこちらを見ていた。
目が合うと、すぐに画面へ戻る。
でも、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
たぶん、気のせいじゃない。
終業間際。
優作のチャットに、美月から短いメッセージが届いた。
今日の中村さん、ちゃんと線を引けてましたね
優作はその文字を見て、しばらく動けなかった。
線を引けていた。
誰かを拒むためじゃなく、
自分も相手も雑にしないための線。
優作は返信欄を開く。
まだ怖いですけど
送信。
数秒後、美月から返ってくる。
怖くても言えたなら、十分です
優作は画面を見つめる。
まただ。
美月はたまに、こっちが守っていたものを一言でほどいてくる。
優作は少しだけ笑って、返信する。
ありがとうございます
すぐに既読がついた。
でも返事はない。
それでよかった。
それくらいで、今日は十分だった。
帰り際。
優作が席を立つと、真壁がまた声をかけてきた。
「中村くん、明日の朝ちょっとだけ——」
優作は反射的に振り向く。
真壁は言いかけて、自分で止まった。
「あ、違うな」
優作が見る。
真壁は少し照れくさそうに言い直した。
「明日の朝、15分だけ相談したい。
目的は、先方への確認事項を3つに絞ること。いける?」
優作は一瞬だけ目を丸くする。
それから、笑った。
「それなら、いけます」
真壁も笑う。
「だろ?」
人は、少しずつ変わる。
自分だけじゃない。
言葉の置き方が変わると、相手の頼み方も変わることがある。
優作はバッグを肩にかけた。
今日、学んだことはたぶんシンプルだ。
我慢することが優しさじゃない。
言い返すことが強さでもない。
相手を責めずに、
自分も潰さずに、
できることとできないことを言葉にする。
それだけで、関係は少しだけ壊れにくくなる。
ただ——
その“線の引き方”は、仕事だけで終わるとは限らない。
翌日、優作は思いがけない相手から、
言いづらい相談を受けることになる。
しかもそれは、
美月にも少し関係のある話だった。
第10話へ続く。