第7話
「今の、それ反則です」
前話:優作は、ズレた提案を自分の言葉で説明し、ぎりぎりのところで信頼をつなぎ直した。美月には「今日は、最初から曖昧じゃなかったですね」と言われた。
翌週の月曜、朝。
案件の山を一つ越えたはずなのに、オフィスの空気は相変わらず落ち着かない。
電話は鳴るし、チャットは光るし、誰かの「ちょっといいですか」があちこちで飛んでいる。
中村優作は、席に座るなり佐伯からのメッセージを開いた。
中村さん、すみません。
「一回整理してから返す」と言われたんですけど、
あれ、どのくらい待っていい整理なんでしょうか
優作は画面を見たまま、少しだけ笑う。
「……また始まったな」
「何がですか」
斜め前から、美月の声が飛んでくる。
「いや、曖昧ワード案件です」
「どれですか」
優作はチャットをそのまま転送した。
数秒後、美月の返信が来る。
“一回整理”の長さが人によって違いますね
たしかにそうだ。
“ちょっとだけ”も、
“迷ったら聞いて”も、
“たぶん大丈夫”も、
だいたい人によって違う。
優作は佐伯に返した。
「整理してから」が今日中なのか、明日でもいいのか確認していいよ。
それと、何を整理するつもりかも聞いて大丈夫
送信したあとで、自分でも少しだけ不思議になる。
前なら、ここまで細かく返していなかった。
「中村さん」
美月が呼ぶ。
「はい」
「今の、悪くなかったです」
優作は手を止めた。
「……あ、どうも」
たぶん、こういう一言にまだ弱い。
というか、かなり弱い。
その様子を見ていた桐谷が、通りすがりにぼそっと言う。
「今日も機嫌いいな」
「うるさい」
「分かりやす」
「分かりやすくない」
「いや、かなり」
朝からうるさい。
でも否定しきれないのが少し悔しい。
昼前。
真壁が、また別件で優作の席にやってきた。
「中村くん、悪い。先方への返信、これでいけると思う?」
そう言って見せられたメール文面には、こうあった。
いったん社内で整理し、改めてご連絡いたします。
優作は眉をひそめる。
「……これ、“いつ”“何を”がないですね」
真壁が止まる。
「え?」
「整理する内容も、返すタイミングも分からないので、相手からすると待つしかなくなるかなと」
真壁は少し黙ってから言う。
「お前、最近そういうの細かく見るようになったな」
「細かいというか……曖昧なまま投げると、あとで面倒になるんで」
その時、美月が席を立ち上がりながら一言入れた。
「面倒になるのは、投げた側じゃなくて待たされる側ですけどね」
真壁が苦笑いする。
「相沢さん、それは痛い」
「痛いなら、先に直した方が早いです」
言い方はきつい。
でもその通りだ。
優作は真壁の文面を少し直す。
本日中に社内で確認し、遅くとも明日12時までに方向性をご連絡します。
なお、現在は〇〇の可否を整理しています。
真壁が画面を見て言う。
「うわ、こっちの方が全然いいな」
「待つ側が判断しなくて済むので」
「……なんかもう、お前がまともに見えてくるの不思議だな」
「失礼ですね」
でも少しだけ、うれしかった。
夕方。
バタついていた仕事がようやく少し落ち着いて、
優作は給湯室で紙コップにコーヒーを入れていた。
そこへ、美月が入ってくる。
「まだいたんですね」
「いますよ。相沢さんこそ」
「まだ帰れないので」
いつもの会話。
それだけのはずなのに、優作は少しだけ背筋が伸びる。
沈黙が落ちる。
コーヒーの機械が、低い音を立てる。
優作は何か言おうとして、やめる。
やめて、また何か言おうとして、やめる。
その微妙な空気を、美月の方が先に切った。
「中村さん」
「はい」
「この前の件」
「……この前?」
「田辺さんのやつ」
「ああ」
「ちゃんと自分で話したの、よかったです」
優作は少しだけ目を見開く。
「……ありがとうございます」
「でも、まだ危なっかしいです」
「はい。そこは自覚あります」
「あるならいいです」
言い方はいつも通りだ。
仕事の話だ。
なのに、なぜか少しだけ落ち着かない。
その時、美月がコーヒーを一口飲んで、前を向いたまま言った。
「でも……ちゃんとやれば、できるじゃん」
優作の思考が、そこで止まる。
何を言われたのか、すぐには入ってこなかった。
今の一言を、頭の中で遅れてもう一回再生する。
ちゃんとやれば、できるじゃん。
敬語じゃない。
仕事の指摘でもない。
でも、軽くもない。
たぶん、言おうとして言った言葉じゃない。
少し気がゆるんだところから、本音がこぼれた。
そんな響きだった。
美月も、自分で言ったあとに少しだけ間を置いた。
その間が、余計にまずかった。
いや、まずいというか、優作にはよくなかった。
仕事の話として受け取るには、少し近すぎた。
たぶん今、仕事の話の顔をしたまま、
ものすごく個人的な一言をもらった。
しかも、美月から。
優作は紙コップを持ったまま、少しだけ視線を落とした。
胸の奥が妙にうるさい。
うれしい、で片づけるには近いし、
勘違いだと思うには、ちゃんと残る。
だから余計に困る。
「……それ、結構ずるいです」
思わず口から出る。
美月が一瞬だけ目を上げる。
「何がですか」
「今の言い方です」
ほんの少し沈黙が落ちる。
美月はすぐには返さなかった。
たぶん、自分でも少し言いすぎたと思ったんだろう。
そのまま紙コップを持ち直して、小さく言う。
「……知らない」
その一言だけで、また少し空気が変わる。
仕事の話をしていたはずなのに、
今の返しはもう、仕事の言葉じゃなかった。
優作は、ぬるくなりかけたコーヒーを持ったまま、しばらく動けない。
胸の奥が、仕事で詰められた時とは違う意味で落ち着かなかった。
その時、給湯室の外から佐伯の声がした。
「中村さん、すみません」
優作が出ると、佐伯が申し訳なさそうに立っていた。
「先方に“確認して折り返します”って返したあと、
“何を確認するんですか?”って来ちゃって……」
優作は一瞬、目を閉じる。
「……なるほど」
美月も後ろから出てきて、チャット画面をのぞく。
佐伯が言う。
「確認するって返した時は、ちゃんとしてる感じがしたんですけど……」
「そうですね」
美月が言う。
「“確認します”だけだと、今度は相手が待ち方に困ります」
優作は小さく笑った。
「また別の曖昧さだな」
「はい」
佐伯は困った顔のまま聞く。
「じゃあ、どう返せばいいですか」
優作は少しだけ考えてから言う。
「何を確認して、いつ返すかまで書こうか」
「例えば?」
「“〇〇の可否を確認し、本日17時までに返します”とか」
佐伯がすぐに打ち直す。
その横で、美月が静かに言った。
「確認って、言えば丁寧に見えるんですけどね」
「はい」
「中身がないと、ただ相手を待たせる言葉になるので」
優作はその言葉に、少しだけ引っかかった。
たしかにそうだ。
“確認します”も、
“整理します”も、
“ちゃんとやります”も、
中身がなければ、ただ聞こえのいい保留になる。
人は言葉で安心したい。
でも本当に安心するのは、その言葉の中に“次の行動”が見える時だ。
佐伯が戻ったあと、給湯室の前にまた短い沈黙が落ちる。
優作は、さっきからずっと気になっていることを、結局また聞けなかった。
今の“でも”は何だったのか。
今の“……知らない”は、どこまで本気なのか。
聞きたい。
でも聞いたら、たぶん全部壊れる気もする。
その時だった。
美月が紙コップを捨てながら、前を向いたまま言った。
「中村さん」
「はい」
「確認しすぎです」
優作の思考が、またきれいに止まる。
「……え?」
美月はそのまま振り向かずに続ける。
「だから、そういう顔しなくていいです」
言葉を失う優作を残して、美月はそのまま歩き出す。
二、三歩進んだところで立ち止まり、
少しだけ首だけこちらに向けた。
「でも」
「……はい」
「仕事の時だけです」
そう言って、美月は何事もなかったみたいに戻っていった。
優作は、その場に立ち尽くす。
心臓がうるさい。
給湯室の冷蔵庫の音よりうるさい。
今の何だ。
何なんだ。
いや、分かる。
分かるけど、分からない。
桐谷が遠くからその様子を見ていて、呆れたように笑う。
「優作」
「……何」
「今のは、だいぶでかいぞ」
「うるさい」
「顔、終わってるぞ」
「終わってない」
でも、たぶん終わっていた。
いや、始まったのかもしれない。
ただ——
そういう時に限って、仕事は待ってくれない。
優作のPCに、新しいメッセージが入る。
“一回確認しておきます”って言われたんですけど、
それって進んでるってことですか?
優作は画面を見つめて、思わず小さく笑った。
恋も仕事も、
“確認”だけでは、たぶんまだ何も分からない。
第8話へ続く。